どこもかしこも触られていない部分などないような気がするのに、キスだけをした記憶がないというのも変な話だ。だから何故かと疑問を口に出したのは、なにもおかしな事はない筈で。
けれど当のヴァッシュはひどく驚いたように目を丸くして、それから小さく、いいの?とウルフウッドに問うた。
「していいの?」
本当に?幾度も確認するヴァッシュの碧い目が、期待を込めてウルフウッドを見上げている。
こんなふうに目に見えて分かるほど喜ばれるとは思っていなかった。キスなんて口と口がくっつくだけだろう。ウルフウッドが持つ認識は所詮その程度なのだが、反応を見るにヴァッシュにとってはどうやら違うようだった。大したことない。分かっているのに、きらきらと瞳を輝かせるヴァッシュを目の前にするとなにやら大層なことをするような気持ちになってくる。自ら言い出したことなのだが、ウルフウッドは少しばかり尻込みしそうになっていた。
「もう一度聞くけど、本当にいいの?」
「しつこいわ!えぇ言うとるやろ!気ぃ変わらんうちにさっさとせえ!」
半ばやけくそに叫んだ口がそっと塞がれる。それは少しかさついていて、思っていたよりも随分と柔らかかった。ちゅ、と可愛らしい音を立てて唇を啄まれる。触れて離れて、繰り返されるたびにヴァッシュの髪が顔に触れた。胸の奥がほのかに温かくなるようなふわふわとした触れ合いに、強張っていた肩の力も自然と抜ける。こんなものか、ウルフウッドが少し胸を撫で下ろした時だった。
「…ん、ぅ、んん、っん!?」
濡れたものが唇を割る。驚きに目を開くと(ウルフウッドはここで初めて目を閉じていたことに気がついた)碧い目とばちりと視線がかち合った。先ほどよりもっと柔らかくて温かいものが侵入してくる。ゆるりと口腔を舐められて、探るように粘膜を擦り合わされる。
ゆったりとした触れ合いも束の間、後頭部を引き寄せられるとキスはさらに深くなった。奥に縮こまった舌を、ヴァッシュの舌は器用に絡めとって吸い上げる。舌を食べられるように甘噛みされる。飲み下せない唾液が溢れて、顎を濡らすことに不快感を感じている余裕などなかった。呼吸をするのが精一杯で目の前が滲む。
「ん、ぅあ…まて、とんが、りっ、ぅ」
「っは……ん、もっと口あけて、ウルフウッド」
粘度のある水音が響き、背筋を覚えのある感覚が這い上がる。濡れた顎を舐め上げられ、引き攣るような声を漏らしたウルフウッドの耳をヴァッシュの少しささくれだった指先が擦れば、それはより明確なものになった。
これは駄目だ。流されてしまう。
欲を隠さない碧い目がウルフウッドを捉える。うっとりとした声でヴァッシュは言った。
「キス、気持ちいいね」
「で?」
掠れた低い声が、機嫌の悪さを顕著に表している。倦怠感の残る身体をベッドに投げ出すウルフウッドは、肺一杯に吸い込んだ煙を溜め息と共に吐き出した。いつもなら危ないよと咎められる寝煙草もいまは何も言われない。無理をさせたという自覚はあるのだろう、隣でウルフウッドの様子を伺うヴァッシュは肩を落として縮こまっている。
「何であないにテンション上がってんねん」
「ごめん、嬉しくてつい」
たかがキスだ。それでぐずぐずにされてしまったわけだが、それについては置いておいて。
「君、そういうの嫌なんだと思ってたから」
「…は?」
「キスするの。初めての時に嫌がったでしょ?そういうのは恋人としろって」
そんなこと言ったか?いや、言ったのかもしれない。
なにせ最初の頃の記憶はほぼ無いのだ。身体の隅々まで触れられて、与えられるままに鳴いて、泣いて、自分が何を口走ったのか、また言わされたのか。ウルフウッドが覚えているのは、骨の髄まで溶けてしまいそうな快楽と、普段の柔和さを微塵も感じさせない、燃えるような碧い目だけだったから。ただそれを、ヴァッシュが知っているわけもなく。
ウルフウッドは咥えていた煙草をうっかり落としてしまったが、幸いシーツを焦がす前に作り物の左手が受け止めた。握ったそれを消し潰して、ヴァッシュは照れたようにはにかむ。
「だから僕としたいって、君がそう思ってくれたのが嬉しくて」
つまり、恋人としろと言ったそれをウルフウッドがしたい(厳密には"したい"とは言っていないが)と言ってきたことが嬉しかったと、それであんなに喜んだと、そういうことだろうか。
「またしたいんだけど、いい?」
眉を下げ伺いを立てるヴァッシュを、ウルフウッドは唖然と見つめた。
なるほど、ワイが自分で蒔いた種やったわけか。
そうだとしても好き勝手された気がするが、嬉しそうに笑うヴァッシュを見ていると何も言えなくなってしまったので、ウルフウッドは諦める事にした。返事の代わりに目を閉じる。近づいてくる気配に、触るだけのやつにせぇよと念を押すのだけは忘れずに。