天才カーヴェの唯一の失敗 天才カーヴェには唯一失敗したと自認する事象がある。この話をルームメイトのアルハイゼンにしようものなら「君は日々失敗しているというのに失敗が唯一とは、ものの数え方から学び直したほうがいいのではないか?」と言うだろう。しかしカーヴェはそれらの事象は挽回出来ると考えている。多大な借金も、悪い酒癖もいつかは解決出来ると考えているのだ。じゃあ挽回出来ない事象とは。それはアルハイゼンを好きになってしまったことだった。
「君はどうしてこんなところで管を巻いているんだ」
酒場で酔っていたカーヴェは隣に座った男を見る。視界はぐにゃぐにゃと歪んでいてその姿は判然としない。実を言うと男はカーヴェを連れ帰りに来たアルハイゼンだったのだが、泥酔したカーヴェには知る由もなかった。カーヴェはただただ、酒の勢いに任せて口を開く。
「……失敗したんだ」
「ほう」
アルハイゼンはその話を聞くことにした。ただ単に、この能天気な男がここまで打ちひしがれる事象に興味が湧いたのだ。続きを促すと、カーヴェは一口(といってもグラスの半分は減ったくらい大きい一口だ)酒を飲んでから話を始めた。
「アイツに惚れてしまったことだ」
ぐすぐすとベソをかくカーヴェを横目に、アルハイゼンは腕を組んだ。眉根を寄せて、口を挟まず聞いていた。カーヴェの話はぽつりぽつりと続く。
「だってアイツは絶対振り向いてくれない」
情報も論拠も乏しい言葉だった。子供が幽霊はいると言い張るような稚拙な頑なさだ。アルハイゼンはそう思ったが黙っておいた。ここで話の腰を折るべきではない、そう判断したのだ。
「きっと女の子が好きだし、多分僕なんて路傍の石でしかない」
推測が多すぎる。アルハイゼンはこれが研究費の申請文に書かれていたらすぐに蹴っていただろうな、と想像する。しかし、恋は人を妄想に堕とすものだ。それくらいはアルハイゼンだって承知している。
「ずっとそう思っていた!しかも最近は旅人の女の子と親しくしていたんだ……」
酔っ払い特有の情緒不安定さでカーヴェは言葉を連ねる。どかんと空になったグラスが置かれた。その手は震えている。アルハイゼンはカーヴェがグラスを割ってしまわないように遠ざけた。そんなことには露も気づかずカーヴェはおいおいと泣き始めた。その様子を見て、アルハイゼンはとてもつまらない気持ちになった。
「では、俺から解決策を提示しよう」
アルハイゼンは言う。有無を言わせぬ、聞かないという選択肢を選ばせない言い方だった。その甲斐あって、カーヴェはよくわからずも頷いた。一呼吸おいて、アルハイゼンは口を開いた。
「そんな男はやめて、俺にしたらいい」
アルハイゼンはカーヴェのことを好いていた。考えてみてほしい、個人主義と罵られ人から距離を置くアルハイゼンが借金まみれのところを掬い上げ、さらに家に置いているのだ。加えて、酔い潰れたところを迎えにだってくる。これはカーヴェの根拠のよくわからない推論よりずっと好きという感情の根拠になるだろう。
アルハイゼンの告白にカーヴェは目を見開く。そして、くしゃりと破顔した。その表情はいくつもの言語を修得したアルハイゼンでも言葉に出来ない美しさだった。しかし、同時に言いようのない悲しみにも満ちていた。
「……ごめん」
謝罪の言葉が宙を漂う。カーヴェは一瞬目を伏せて、しかししっかりと目を見て再度口を開く。その様子は本当は酔っていないのではないかと思うくらい気高く、しかし儚い。
「やっぱり僕はアルハイゼンじゃなきゃいやだ」
酔っているくせに、目の前に誰がいるのかわかっていないくせにはっきりと言い切った。アルハイゼンはその言葉が空気に消えてしまう前に、カーヴェの唇を奪った。
こうしてカーヴェは失敗など経験のない瑕疵ない男になったかと聞かれると、それは違う。何故なら、カーヴェは酔ってこの夜のことを忘れるであろう。想像に易い。しかし寝こけるカーヴェを背負ってほくそ笑む男の手にかかればカーヴェが瑕疵ない男になるのもそう遠くはない話だろう。