損なう カーヴェはガラスの花だ。アルハイゼンは常々そう考えている。つるりと滑らかな表面の、曇りなく透き通ったガラスが繊細に形作る花。しかし自然には決して存在しない不自然な花だ。
極端な利他的行動は自然で生き残ることを困難にする。それを知っていてもカーヴェは変えることが出来ない。人間が進化で削ぎ落としたものを背負って生きている。美しい精神性と言えば聞こえはいいが破滅願望者と何ら変わりはない。だからアルハイゼンはそれをあえてうつくしいと評した。
ガラスの花は透き通ってうつくしい。それだけならいい。そのうつくしさを求めて人々は手を伸ばす。カーヴェの許容量も気にせず、極めて利己的にだ。しかしカーヴェはその手を拒まず、請われるがままにうつくしさを振りまく。そうして彼は人々に触れられ、損なわれる。
その気があろうがなかろうが、触れるとは損なうか損なわれるかだ。ふたつのものが接触するとき、不変を保っていられるわけがない。触れれば何かしらが損なわれる。
大体の人間は損なわれることに対して防衛の手段を持っている。それは平易なものであれば断るという行為で、難しいものであればアルハイゼンの行う自他の隔絶だ。そうやって人々は大なり小なり大切なものを損なわれないように守っている。
しかし、防衛手段――花で言うところの棘を持たない、自分を守る術を知らないカーヴェは損なわれる一方だ。騙され破産し、路頭に迷ったときでさえカーヴェはそのうつくしさを振りまいていた。自分を損なって笑っていた。
それが我慢ならず、アルハイゼンはカーヴェを囲った。カーヴェのためではなかった。放っておくと損なわれる一方のカーヴェを見ていたくなかったのだ。望んで不変を貫いている人生の特異点、自分からは見えないもう半分の世界を覗くための鏡。それがひび割れていくのは我慢ならなかった。なら自分が管理してしまえばいい。うつくしいものはケースに入れて飾っておけばいいのだ。その道理に気づいたのは割に最近だった。
そういう意図で作った箱庭にカーヴェは案外大人しく収まっていた。もっと抵抗されるかと思っていた。カーヴェは気安く見えてプライドが高い。後輩の、さらに喧嘩別れした男に飼い殺されるなど望まないと思っていた。しかし、蓋を開けてみれば人馴れした鳥が指に止まるようにカーヴェはアルハイゼンの家で暮らしていた。
しょっちゅう喧嘩はするが元の鞘に戻ってふたりで暮らす。それがいつのまにかアルハイゼンの守る損なわれたくないものになっていた。
そんなある日、夢を見た。カーヴェが出ていく夢だ。
それはまばゆい昼の夢だった。絵に描いたような昼下がりで、苛立ちすら覚えるほどだった。がらんどうになった部屋の真ん中で荷物をまとめて背負ったカーヴェが笑っている。ほんの小さな荷物だった。
「世話になったな」
喧嘩をして熱されたカーヴェが出ていくことは現実でも何度かあった。そのときは結局酒場で酔い潰れるカーヴェを回収して戻るところに戻るのだ。ふたりとも戻ることに疑問を抱きすらしなかった。しかしこの夢は違っていて、カーヴェが背負った借金を完済し、円満に出ていくことになったようだ。
カーヴェに貸している部屋はすっかり綺麗になって、彼の痕跡など何ひとつとして残っていない。書き散らした設計図の一枚も落ちていない。零したインクの染みすら綺麗に掃除されていた。それは日々が無に帰ったようで心地が悪い。夢という一種の幻想であるはずの空っぽの部屋が嫌に脳裏に焼きついている。夢の中のアルハイゼンは目を逸らすように扉を閉じた。
ふたりはリビングを抜けて玄関にたどり着く。カーヴェは挨拶もそこそこに玄関の扉に手をかけた。くるりと振り返ると太陽のように笑った。その向こうには君を損なうものしかいないよ、夢を見るアルハイゼンの脳裏で声がする。
「またな!」
ぶんぶんと手を振って玄関を出ていく。明るい街道へと飛び出していったカーヴェは振り返りもせず、損なうもので溢れるスメールシティの喧騒に消えていく。ふたりの隔絶を示すかのように玄関の扉が閉じた。なんでもない昼下がり、意味を為さなくなった箱庭の中でアルハイゼンだけが立ち尽くしていた。
自立はカーヴェにとって良いことのはずなのにひたすら気が重く、アルハイゼンの心情は陰鬱なはずなのにひたすら明るい色の夢だった。最悪のひと言で片づけられてしまうほどに不快な夢だ。アルハイゼンは自分が夢を見ようが見まいがどうでもいいと思っている。しかしこのような感傷的な夢は望んでいない。
なにより、一番気に食わなかったのは、夢の中の自分が何も言わなかったことだ。外界はカーヴェを損なうものばかり、そう考えているのにいざ彼にそれを告げることはしない。
しかし、夢の中の自分に物言う権利はない。アルハイゼンはいつか来るであろう別離に対する答えをまだ持っていないからだ。
ベッドの上で目覚めたアルハイゼンは深い溜め息をついた。
冷水で顔を洗った頃には陰鬱な気分はいくらかマシになっていた。鏡には平時よりは浮かない顔の自分が映っている。血の通らない機械のようだと言われるアルハイゼンだが、夢見がよくないことだって気分が落ち込むことだってある。
しかし一点人と違うのは徹底的に気分の波を抑え込めることだ。常に自分を俯瞰視し、瑕疵を潰す。そうすれば冷徹とも言える書記官の完成だ。
朝食を摂ってから同居人の様子を見に行く。顔が見たいなどという殊勝な理由ではなく、死んでいたら面倒だからだ。そう理論で武装してカーヴェの部屋の扉を開けた。
部屋には製図用紙が散乱していた。秩序だった建築を発想するカーヴェの部屋は混沌で満ちている。机の脇にはアルハイゼンには到底理解できないセンスの置物が置いてあるし、ベッドの上には鍵のキーホルダーと同じ獅子のぬいぐるみが置いてある。
カーヴェはぐっすりと寝こけていた。口は開いているし、大の字になっている。しかし寝汚くしていても不思議と綺麗だった。これはそういう男だ。天賦の才と共に人を誑かす才も持っている。たとえ二日酔いで苦しんでいても人の目には美しく映る。
くうくうと眠るカーヴェに布団をかける。昨日は深酒をしていたからしばらく起きることはないだろう。朝食を用意しなくてよかった、と内心アルハイゼンは思いながらカーヴェを見る。そうやって自由を代償に、箱庭でのうのうと生きていればいい。
その日、アルハイゼンは鍵をふたつ持って出かけた。理由なんてこの箱庭を損なわれたくないからに他ならない。