「あっ……アッシュ……!」
グレイが呼ぶのに構わず、アッシュは乱暴に開けた扉の向こうに行ってしまう。
どうしよう。追いかけるべきだろうか。でも、追いかけたところで何が出来ると言うのだろう。グレイだってまだ混乱しているし、かける言葉も思いつかない。そもそも、そういう間柄じゃない。グレイがアッシュを宥めて慰めるなんて、天地がひっくり返ったってありえないだろう。
立ち上がることすらできず、入口を見つめるばかりのグレイの後ろで、あちらの二人が揃ってため息を履いた。
「アッシュ、任せてもいいかな?」
「ああ」
静かに言ったあちらのグレイに、あちらのアッシュは短く返事をして、出て行ったアッシュの後を追っていく。
未来の自分と二人で残されたグレイは、目を合わせることもできずに俯いた。あんな光景を見せつけられたあとでは、とてもじゃないがまともに顔を合わせることはできない。
あちらのグレイも同じなのだろう。時計の秒針が動く音が、やけに大きく響いた。
「……少し話をしてもいいかな?」
沈黙を破ったのは、あちらのグレイだった。
びくりと肩を震わせたグレイは、そろそろと顔を上げて、目の前で苦笑いをする自分と同じ顔の男と見た。
気まずそうではあるが、グレイほどのショックは受けていないようだ。どこまでも落ち着いていて、これが本当に自分と同じ存在なのか、と疑いたくなる。自分で言うのもなんだが、こんなに落ち着き払った性格ではない。たった数年で、ここまで変われるものなのか。
とにかく、話しかけられれば無視をするのもはばかられて、グレイはおずおずと顔を上げて頷き返した。
あちらのグレイは苦笑して、ゆっくりとグレイの正面に腰を下ろす。少し考えるように瞳を揺らして、所在なさげに座っているグレイを見て、口を開く。
「きっと、今はまだ信じられないと思う。それに、今の僕だって、僕たちだって、理解し合えないことも、喧嘩をすることもある……許せていないことだって、ある」
ぽつぽつとこぼすような言葉に、グレイは頷くことも相槌を打つこともできない。正直、あのアッシュとの関係についての話なんか聞きたくなくて、耳を塞いでしまいたいけれど、それもできなかった。
「それでもね、僕はアッシュを選んで、アッシュも僕を選んだんだ」
グレイの心境を知ってか知らずか、知っていて気づかないふりをしているのか。あちらのグレイは話し続ける。
「君たちが同じ選択をするのかどうか、僕にはわからない。僕たちの姿に流されなくてもいい。ただ、自分の気持ちには、素直になってほしい……かな」
やや頼りない締めの言葉に、グレイは曖昧に首を傾けることで反応を返した。
「僕の……気持ち……」
突然こんな世界に飛ばされて、あんな光景を見せられて。感情も思考もぐちゃぐちゃで、自分の気持ちなんてわかりようもない。今が一番混乱しているくらいだ。ただでさえ、アッシュを前にするとうるさいくらいに感情が入り乱れるのに。
結局それ以上言葉を発することができないグレイに、同じ顔をした男は静かに口を開く。
「昔、アッシュに憧れていたでしょう?」
「っ……」
切り出された言葉に、グレイは奥歯を噛んで体の震えを抑え込んだ。聞きたくない。言わないで。そう叫びそうになるのを堪える。反応をすれば、それが真実だと認めてしまうような気がして。
ジェットもグレイの核心を突くようなことを言って揺さぶりをかけてくることがあるが、それに似たようないたたまれない気分だ。誤魔化したくても、自分相手では意味がない。いや、この男が本当に自分なのか、まだ信じられない――信じたくない気持ちが強いけれど。
「強くて、自信にあふれていて、絶対に意思を曲げないまっすぐさに。だから、わけもわからずいじめられて、余計にショックだった」
ぎゅっと唇を結ぶグレイに構わず、男はまっすぐグレイを見て言葉を続ける。
「僕たちも、すごくすごく遠回りをしたんだ。平坦でも簡単でもない道のりだった。だから、今は幸せだから大丈夫、とは言ってあげられない」
だからせめて、と、男は言う。
「自分に素直になって、自分の気持ちで、選んでほしい。今の僕が言えるのは、それだけだよ」
「……」
「ん?」
黙りこくっていたグレイは、突然声を上げて首を傾げる男の反応に、おっかなびっくり顔を上げる。自分と同じ顔をした男は、目を閉じて瞑想するように静かになっていた。
なんだ、と思う前に、あちらのグレイがぱちりと目を開く。困ったように眉を下げて、こてりと首を傾げた。
「ごめん。なんか、ジェットが少し話したいみたいなんだけど、いいかな?」
「えっ?」
唐突な申し出に、グレイはひっくり返った声を上げる。
なんとなく予想はしていたけれど、やはりこの男もジェットを身の内に宿しているらしい。グレイの中にいるジェットと同じ人格かどうかはわからないけれど。ちょっと変化があるようにも思う。だって、今のグレイが知っているジェットは、伺いなんて立てずに勝手に表に出てしまうのだ。本体――と言っていいのかわからないが――に断りを入れるなんて、想像もできない。
けれど、申し出を断る理由も見当たらない。ただでさえ混乱しているところにさらに新しい登場人物が出てくるのは正直困るが、その程度で突っぱねるのも難しい。
「あ、えっと……うん……大丈夫、です」
顎を引くように頷くと、あちらのグレイは再び目を閉じて深く俯く。数秒そのままで動かず、おもむろに右手を上げて前髪をかき上げるのと同時に顔を上げた。
そこにいたのは、先ほどまでの気弱そうな男ではなく、痛々しい傷を晒して鋭い眼光を湛えた、もう一つの人格だった。
「……ったく、また面倒なことになってんな」
唸るような声も、凄みのある苦々しいもので、同じ声帯から発せられているとは思えないくらいだ。呼吸のテンポも話し方も、自分とはまったく違う。
「あ……ジェット……?」
「ああ。お前んとこのは?」
「え?」
確認するように言えば、あっさりと頷かれる。顎を上げて問われて、グレイは慌てて自分の中を探った。そっと呼びかけてみても、返事はない。まあこれはいつものことなのだけれど。
「えっと……たぶん、出てこないと思う。特に、さっきの見たから……」
「ああ、あの悪趣味な見世物か」
「……」
否定もできず、肯定するのもなんだかなと思って、グレイはぐっと押し黙る。というよりも、あちらのジェットにとってもあれは悪趣味な見世物扱いなのが意外だった。グレイの知るジェットの性格なら、あのアッシュとグレイが付き合うなんて天地がひっくり返ってもありえないことに、断固として反対しそうなのに。
その疑問が顔に出ていたのか、ジェットは、ふん、と鼻を鳴らして、行儀悪く足を組んでソファに背を預ける。グレイを見る目に敵意はないが、苦々しい顔だ。
「俺としちゃ、今のお前には絶対この状態にならねえように釘を刺しときたいんだがな」
自分と同じ色の目がすっと細められる。探るような視線を向けられて、グレイはそっと目を逸らした。自分が生み出した人格とはいえ、そして、グレイがかつて演じていた性格とはいえ、鋭く睨むようにして見られるとどうしても臆してしまう。こんなに臆病でヒーローが務まるのか、とは、誰に言われるまでもなく、自分が一番わかっていることだ。
目は合わせられないまま、グレイはとりあえず口を開いた。黙っていても逃がしてくれる性格じゃないし、正直、自分の中のジェットとはあまり違いが見られず、あの二人の関係をよく思っていないだろう相手とならば、あのグレイよりは話しやすい。
「……今の僕と、ア……ッシュ、が、同じになるとは、限らないよ」
「そうだな。その方がいい」
素直な気持ちを吐露するグレイに、ジェットはあっさりと頷く。拍子抜けするくらいで、思わず顔を上げて目を合わせてしまった。
少し考えてから、グレイはおずおずと、あの、と声をかける。
「えっと、君は……」
「普通に呼べよ」
「……ジェット、は……今のこの状態を、どう思ってるの……?」
恐る恐る聞くグレイに、ジェットは見ればわかるだろと言わんばかりに呆れ顔をした。
「まだ信じられねえし信じたくねえし、さっさと終わればいいと思ってるぜ」
お前もそうだろ、と言われて、グレイは曖昧に首をひねった。言葉を借りるなら、まだ信じられない、の部分で止まってしまうので、全肯定ができない。
「……止めなかったの?」
「決めるのはグレイだからな。それに、お前も自分で自分の頑固さはわかってんだろ」
「……」
ちょっと咎めるように言ってみると、これまたばっさり叩き落されて、グレイはぐうの音も出せずに押し黙った。頑固じゃない、と主張したいところだが、自分自身であるジェットにそう言われれば否定しづらい。否定するだけ無駄だとも言える。大抵言い負かされてしまうのだし。
これ以上グレイからの言葉はないと判じたのか、とにかく、とジェットは吐き捨てるように言う。
「俺が言いたいのはグレイと同じだ。こっちのこいつらに流される必要はねえ。テメェらのことはテメェらで決めろ。別の道を選んでもいいんだ」
決して優しくはないが、聞きようによってはグレイを気遣うような言葉。なぜだか、あのグレイに言われるよりも、すっと心に入ってきた。
「今のあいつが言っても説得力がねえから、念押ししとく。それだけだ」
そんなグレイの内情を読んだかのように言って、ジェットは何の前触れもなくすっと目を閉じる。
「じゃあな」
「あっ……!」
短く言って、ジェットの手が前髪に伸びた。くしゃりと握り潰すのと同時に、次に目を開けた時にはあちらのグレイへと早変わり。はたから見るとこうなのか、と、意外な発見をしたが、ざわつく心の慰めにはならない。
むずがるように眉を顰めたあちらのグレイは、ちょっとぼんやりとした顔でグレイを見る。
「ん……終わった、かな?」
「あ、う、うん」
「ジェットはあんまり変わってなかったかな?」
「……そう、だね」
「じゃあ、アッシュたちが戻ってくるまでゆっくりしていようか。コーヒー淹れるね」
何事もなかったかのように微笑む男は、やっぱり自分と同じ顔をしていて、奇妙なのに慣れつつあるのが少し不安なくらいだ。
とりあえず、二人ともアッシュなのに、アッシュたち、という言い方は変だな、と思ったけれど、言っても意味のないことだから、黙っておくことにした。