牽制仕切りのカーテンの合間を縫って誰かが入ってきた気配がする。続けてギシ、とベッドが軋む音がしてルークは目を開いた。寝ぼけまなこで視線を巡らせれば、そこにはベッドに片膝を突いてこちらを見下ろすガイの姿があった。
「ガイ……?どした、?」
眠たい目をこすりながら起き上がろうとするが、その前にガイの手が伸びてきて肩を押さえつけられてしまった。ルークの身体はまたシーツの上に逆戻り、馬乗りになった親友の姿が徐々に近付いてくる。暗くてよく見えなかった彼の瞳は間近で見るとどこか虚ろで、そこでようやくルークは今の状況に危機感を覚えた。
(まさか、操られて……ッ?!)
「ガイッ?」
もう一度、しっかりと目を見て名前を呼ぶ。けれど親友からの返答は無く、頸動脈をなぞり上げるその指先がルークの不安を一気に煽った。
(まさかまた俺を殺そうと……っ?)
その考えにずきりと心臓が痛んだ。
ガイが、ルークのことを殺したいほど憎んでいるから──。
本人の意志が無い限り、ガイがルークに刃を向けることは無いのだと皆が言っていた。
なぜ。
どうして。
使用人だなんて思ったことなんか一度も無い。
何もかもを俺に与えてくれた親友。
ずっと隣りにいてくれた家族同然の存在。
そう思っていたのは、俺だけだったのか……?
ぐ、と力を込めて気道を塞いでくる手をきつく握り締め、ルークは叫ぼうとした。
「どうし……っ、……?!」
だが、言葉は途中で途切れた。ルークの唇が塞がれてしまったからだ。
ガイの唇によって。
(──な、ななな、?!?!?!)
動揺のあまり目一杯見開かれた翡翠色の瞳にもガイの双眸は揺らがない。探るように何度か触れるだけの口付けをしてから、ガイの舌が引き結ばれたルークの唇の狭間をなぞった。
(なっ舐められた?!?!?!は!!!!まさか毒?!毒を口移しで飲ませようと?!)
それじゃあ絶対に口は開けてはならないとルークは頑なに口を閉じた。ぶんぶんと首を振って必死にガイの身体を押し返そうとするが腕力的にも態勢的にも分が悪い。今度は片腕でがっちり頭までホールドされてしまい、却って状況を悪化させただけのような気さえする。
「う、」
ルークを押さえつけその首を絞めようとしてくる力は抗えないほど強いのに、重ねられる唇は壊れ物にでも触れるかのように優しい。
(ガイ、何の目的でこんな……ッ、息をさせないため?……だったら鼻も塞がれるはず……じゃあ、なんで、だって、……だってこれじゃまるで、)
キス、みたいじゃ──。
「あ、」
どくん、と心臓に熱い血液が流れ込む。
その瞬間、薄く開いたルークの唇の隙間にガイの舌がするりと侵入を果たした。
「待……っ、」
その感触に驚き思わず服を掴んでルークが拒絶の意思を示すと、あっけなくガイは唇を解放してくれた。それにまた動揺してルークはうろうろと視線を彷徨わせる。拒絶されたことでガイがどことなく傷付いた表情をしたように見えてしまったから。
「あっ、や、……イヤ、とかじゃ……なくて、その、……どうして、……んんっ、」
しどろもどろで取り繕おうとするルークの口をやんわりと塞いで、今度こそガイの舌が口内に触れる。最初こそ身を固くして警戒していたルークだったが、ガイは戯れるように舌先を触れ合わせてくるだけでそれ以上のことはしてこない。身構えているのも馬鹿らしくなってきてもうなるようになれと力を抜いた途端、ぬるりと口の奥まで舌が入ってきた。
「あっ、ん、ぅ……っ」
ルークを押さえつけていたはずの両手はいつの間にか愛おしげにその髪を撫で上げ耳朶をやわやわと揉んでいる。決して強引ではないのに絡み付いてくるその舌には逆らえなくて、気付いたらガイの背中に縋るように腕を回してしまっていた。
(だって、これじゃまるで、ガイが心の奥底から、俺と……キスしたいって思ってるみたいじゃないか、)
「ガイ、っふ、……んぁ、」
口蓋を丁寧になぞられるとゾクゾクする。舌の裏側をぐりぐりされると変な声が出る。舌と舌を絡められると胸がいっぱいになって、ちゅ、ちゅく、と音が立つたび頭に靄がかかっていくようだ。
(あ、あ、けど、ここ、カーテンで仕切られてるだけで、みんな同じ部屋で寝てるのに、全部聞かれちまう、)
上擦った声も、濡れた音も。
「ぅ、……んん、……ゃ、もぉ……ッ」
そう思うと余計に感覚が過敏になってしまって、ルークの瞳が情欲に潤み出した。
(髪、掻き混ぜないで、頭ン中までぐちゃぐちゃになる、)
ルークがいくら目で訴えても伏しがちのガイの瞳と視線は合わない。音を立てて唇を啄まれ優しく口内を掻き回されて、交ざり合った二人分の唾液を注ぎ込まれればもうルークは親鳥から餌をもらう雛のようにそれをこくこくと飲み干すことしかできなくなっていた。
(もっと、)
もっと欲しいと、とうとうルークのほうから舌を伸ばしたその時。
「そこまでです!」
と、唐突に仕切りのカーテンが勢いよく開かれた。
「うわああああ!!!!!」
驚いたルークは思わずガイの身体を力の限り突き飛ばしていた。吹き飛んだガイは壁にガツンと頭をぶつけてずるずるとベッドの上に倒れ込む。
「大丈夫ですか、ルーク」
ガイからルークを隠すように片腕を広げてそう聞いたのはジェイドだった。その深紅の眼差しは倒れたガイを見据えたままだ。
「大丈夫、べ、別に何も、」
口元を腕で隠しながらそう誤魔化すルークにジェイドはやれやれと眼鏡を押し上げた。
「いっててぇー、」
頭を押さえながらガイが起き上がった。警戒する二人を余所にガイはぱちぱちと何度か瞬きをする。今の状況がよく飲み込めていないらしい。キョロキョロと辺りを見回し、不穏な気配のジェイドと心配げなルーク、それから騒ぎを聞き付けてカーテンからこちらを覗く仲間達の顔を見てやっとガイは気まずそうな表情を浮かべた。
「もしかして俺……」
「操られていたんでしょうねえ。術士の捜索にはアニスを向かわせました。もうこの近くにはいないでしょう」
「……悪い、迷惑かけた」
「全くです。周囲の警戒は怠らぬよう注意しますが大丈夫だと言ったのは貴方自身ですからね。しっかりしてください」
ジェイドにあからさまな溜め息をつかれて大人しくなってしまったガイに助け船を出したのはイオンだった。
「操られてのことですから仕方ありません。なるべく早めにまとまった時間をとって解呪を行えるようにしましょう」
「……済まない。イオンに負担をかけちまうな……」
「いえ、僕で力になれることなら何でもします」
にっこりと笑うイオンに『さっすがイオン様ー♡』とアニスが黄色い声を上げた。
「おや、アニス。お帰りなさい。お務めご苦労様でした」
「ただいまだよ大佐~!アニスちゃんがんばっちゃったんだよ聞いて聞いて~♡」
ジェイドに向けてアニスが報告を始めたところで、やっとガイはルークのほうへと顔を向けた。
「済まなかったなルーク」
「別に、ガイが謝ることじゃねーし、」
「……俺、おまえに何をした?」
「へっ……?!な、なななっ、何って?!何も?!?!何もしてねーけど?!?!?!」
ぶんぶんと手を振りあさっての方向を見ながらそう答えるルークにガイはがっくりと肩を落とした。誤魔化し方があまりにも下手過ぎる。
「何もしてないわけ無いだろ。……おまえ、何か顔赤くないか?熱でも、」
ルークの顔を覗き込み額に手を当てようとしたガイだったが、「うわああ!」と素っ頓狂な叫び声を上げてルークがベッドから飛び降りたのでその手の行き着く先は失われてしまった。
「布団掛けすぎて寝てたのかもな!そーいやなんかあっちィな!お、俺顔でも洗ってくる!」
そう言うや否やルークは部屋から飛び出して行ってしまい、引き留める暇も無かった。心配して声を掛けてくれたナタリアやティアとの会話も疎かに、ガイはドアのほうばかり見つめている。
「さあ皆さん、明日も早いです。騒ぎは収まったのですからもう寝ましょう」
終わりの合図をするかのようにジェイドがぱん、と手を叩いた。
「はーい!おやすみなさい大佐ぁ!」
アニスがさっさとベッドに走っていったのを皮切りに皆各々のベッドに戻っていった。だがガイだけはドアを見つめたまま難しい顔をしている。そうして重たい一歩をやっと踏み出したガイの肩に、ぽん、と手を置いた人物がいた。
あくまで軽く、大して力も入っていないというのに、背中に感じるプレッシャーにガイの足が止まる。
「何だよ、ジェイド」
振り向かないままガイは聞いた。カツ、コツ、と軍靴の音が近付いてきて息がかかりそうな距離で止まる。
(コイツ寝てる時も靴履いてんのか?)
などとどうでもいいことが頭を過った。
「いやあ、アニスは本当に優秀でしてねえ。術士をすぐに追っ払ったそうですよ。……途中から意識があったはずでは?」
ひそひそ話でもするかのように声を潜めて話すその声は楽しげで、背中越しでもジェイドがニコニコと笑っているのが分かる。内心で溜め息を吐きつつガイは両手をホールドアップさせて背後のジェイドに笑い掛けた。
「さあて、何のことかな」
「あ~~~~~~~う~~~~~ばばばばばばばば」
蛇口を思いきり捻って頭から水を被っているルークは、先程からずっと意味不明な呻き声を上げ続けていた。
ガイとキスできて嬉しい気持ちと、ガイが心の奥底から自分にキスしたいと思ってくれていて驚いた気持ちと、操られていてなにも覚えていないようでがっかりした気持ちとで感情がぐるぐるしていた。
(ああ……でも、)
思いのほか柔らかかった唇の感触や温もり、優しかった指先のことを思い出すとどうしてだか胸がほんわかする。カースロットが解けたらもう二度としてもらえないのだろうかと考えるとどこか寂しく感じてしまい、ルークはぶんぶんと首を振った。
(残念とか、思ってない──)
「全く貴方は何をしているのですが、風邪を引きますよ」
「うわああああ!おっどろかすなよ!!」
突然後ろから掛けられた声にルークの口から心臓が飛び出しそうになった。早鐘を打つ心臓を押さえながら恐る恐る振り返ると、その頭にばさりとバスタオルが乗っかった。
「わっ、なに、わ、ぷっ」
犬でも拭くかのようにわしゃわしゃと乱暴に髪を拭かれる。無言のジェイドの怒りを感じてルークは大人しく拭かれることにした。
「……なんかわかんないけど、ごめん」
髪を拭いていた時とは打って変わって優しく頬を拭われる。睫毛の水滴までも丁寧にタオルに吸わせていくジェイドにとりあえず謝ってみた。反応は無い。けれど濡れた唇を辿った親指にはっとしてジェイドを見上げた時にはもう、至極当たり前のように上向かされていた。
「っ、」
ガイと違う体温が唇に乗る。
ひとつぶん呼吸を忘れてから、ルークは思いきりジェイドの身体を突き飛ばした。
「おおおおおまえも操られて?!?!?!」
瞬間湯沸かし器みたいに一瞬で真っ赤になったルークは震える手でジェイドを指差した。一方疑いの眼差しを向けられたジェイドのほうは眉一つ動かさない。
「操られてなどいませんよ。これは私の意志です。どこかの誰かさんと違ってね」
「は、はあ???言ってる意味が分かんねー」
「操られていないか全身をくまなく調べてもらっても私はかまいませんよ?」
「しねーし!だー!もー!なんなんだよどいつもこいつも!!」
ぷりぷりと怒りながらルークは洗面所を出て行った。すれ違いざまに「タオルありがとな!」と濡れたタオルを返していく律儀さにジェイドは深く深く溜め息をつく。
「全く……もう少し警戒心を持って欲しいものです」
私にも、あの食えない使用人にも、ね。