世界の80%の音キィーンという耳鳴りがして目が覚めた。
耳の奥があまりに痛くて耳を塞ぐ。
自分の手がびっくりするくらい冷えていた。
町の宿屋。
あれ、どこの町だっけ。
頭が回らない。
辺りはまだ暗い。
テーブルランプの優しい橙色が枕元をぼんやりと照らしていた。
いま何時だろう。
時計が見当たらない。
なんだろう、胸騒ぎがする。
この耳鳴りは乖離の前兆なんだろうか。
また指先が透けてたりしないよな。
おそるおそる指で耳たぶを叩いてみる。
ひとつひとつ順番に。
……おやゆび、
ひとさしゆび、
なかゆび、
くすりゆび、
それから、
いちばんちいさなこゆび。
ぜんぶある。
少しほっとする。
安心したせいか耳鳴りも収まってきて、ようやくルークは耳から手を離した。鼓膜をぼおっと揺らしていた音が止む。室内に静寂が降りた。
静かだ、とても。
不安になるくらい。
世界中に自分だけ取り残されたような。
いや。
自分が立てる音すら吸い込まれていくようで、もしかしたら世界から切り離されたのは自分のほうかもしれない。
「ジェイド?」
ぽつん、と部屋に落ちた気弱な声。橙色の中に白い息が上がってまた消えた。
となりのベッドにいたはずのジェイドがいない。寝具は綺麗に整えられていてまるでさいしょから誰もいなかったかようだ。ますます不安が募り、起き上がって部屋中を見回した。
書斎机の小難しそうな専門書、
走り書きのメモ、
ふたり分のマグカップ、
並んでかかっていたはずのコート、ひとつ無くなっている。
(外に行ったのか、)
閉めるとキイと高く鳴る扉に目を遣る。
眠れずに飲みに行ったのか、
何か思い立って調べ事をしに行ったのか、
それとも誰かに会いに行ったのか。
音を立てるのが憚られるようで知らず詰めていた息を吐く。
そうだ。
静か過ぎるんだ。
不自然なくらい。
だから耳鳴りがして、
だからこんなに不安になる。
なにか。
なにかまた世界に良くないことが起きてしまったのか。自分が眠っているうちに、何かが変わってしまったのか。それでジェイドは出て行った?
そう考えたら居ても立っても居られなくなり、コートを掴んで扉へと駆け出していた。室内に響くルークの忙しない靴音が静寂をかき消す。ドアノブに触れた瞬間、ガチャリ、とノブが下りた。
「う、わっぷ、」
誰かの力で外側へと開けられたドア。
突然のことにバランスを崩したルークはそのままの勢いで部屋の外にいた人物とぶつかった。冬の匂いと、それからよく知る香水に包み込まれる。
「おっと、」
「ジェイド!どこ行ってたんだよ!」
成り行きで抱き合うような形になり、照れ隠しについ咎めるような言い方をしてしまった。
冷えきったコートに埋もれた顔を引き剝がしキッと相手を睨みつけたルークだったが、見上げたジェイドに予想外の事態が起きていて次の言葉が出てこなくなってしまった。
一方のジェイドは急にぽかんと大口を開けたまま固まったルークに二度、三度と瞬きを繰り返していた。まっすぐ見つめられるとどうも対処に困る。特にこのぶれない碧色には。
受け止めた手を離すタイミングを失わせてしまうほどに。
ふたりの間にしばらく沈黙が続いた。
静寂がまた戻ってくる。
「あたま、」
先に口を開いたのはルークだった。何かに気を取られたままのような口調だ。現にルークの視線は、ジェイドの頭に釘付けになっている。
「に、ゆき、のってる」
「……ああ、」
そう言われてやっと自分の状態異常を知った。
一通り払ってから来たつもりだったが、頭の上をすっかり失念していたらしい。
「教えていただきありがとうございます」
「わ、わわ、こっちに落とすな!」
ルークの上にはらはらと雪が舞う。
赤い髪に、払いのけようとする手のひらに落ちた白は、触れた途端溶けて透明な雫になった。
「ああこれは失礼」
「絶対わざとだろ!」
わざとらしくホールドアップしてみせるジェイドに腕組みをしてむくれたルークだったが、んん?と首を捻ってからぐいっと彼のコートを引っ張った。
「まだ雪ついてる」
こちらに向かって伸ばされた指先が、髪の上をふわりふわりと撫でる。眼鏡の奥の瞳が僅かに揺れた。
まだ幼かった頃に親が触れてくれた手はこんな柔らかさだったかもしれない。
そんなことを考えた自分が可笑しくて、緩んだ口の端を隠すためにジェイドは頭を垂れた。
「あ、わ、けっこうついてるじゃん。あ、待って。溶けてる。溶けてきてる!どうしよう!あ、タオル持ってきたほうが良いか?!」
にわかに慌て出したルークを思わず腕の中に閉じ込めたらゃっ、というよく分からない鳴き声を上げた。
「な、なん、た、タオル、」
しばらくじたばたしていたルークだったが拘束から逃れられないことを悟ったのか大人しくなった。それどころかおずおずと背中に腕を回してくる。
甘っちょろい、と思った。
ルークじゃない。ジェイド自身が、だ。
「あのさ、このまま聞いて欲しいんだけど」
「何ですか」
「耳鳴りで目が覚めて、なんか胸騒ぎがして、その、症状が、進行したのかなって不安になって……」
「続けてください」
「すげぇ静かで、そしたらジェイドもいなくて、何かあったんじゃねえかって心配になって、それで、」
「探そうとしてくれたんですね」
返事の代わりにルークはコートへぐりぐりと頭をこすりつけた。
「雪は音を吸うんですよ」
「音を……吸う?」
「この前あなたは雪の結晶の造形にいたく感動していたでしょう。あの複雑な文様の隙間に振動が閉じこめられてしまうんです。空気が振動することによって音が伝わることは教えたばかりでしたね。今夜のように積雪が多いと地面に反射して普段は耳に届くはずの音も吸収されてしまいますし、平時の八割減、といったところでしょうか」
頭を撫でる手が優しすぎてジェイドの言葉が上手く頭に入ってこない。ゆっくりと言葉を噛み締めてからようやく、ルークはひとつ頷いた。
「そっか。雪のせいだったのか。よかった」
ぽ、と胸が暖かくなる。
ようやく不安の種が消えたらしいルークをやっとジェイドは解放した。
「やあ、すっかり冷えてしまいました。何か淹れましょうか」
「俺やる!ジェイドはコーヒー?」
コートを脱ぎながらそう提案したジェイドの後ろでぱっとルークが手を挙げる。
部屋を歩き回る元気な足音、茶器の立てる音、珍しい北方のお菓子だなんだと言ってピオニーに押し付けられた焼き菓子を探す音。
「八割減った音は、ここにありましたか」
「え、なに?」
「いいえ、なんでもありません」
にわかにぱたぱたと慌ただしくなった室内は鮮やかな音で溢れていた。