無題髪の長い女が部屋の窓から月を見ていた。
寝る前の、およそ人前に出る装いではなかったが、人ならぬ白い影がほうきに乗って近付いていた。
「随分呑気だね
これから戦う厄災に見惚れて」
「オーエン…」
「ふふ、何を考えてるの?帰れるかわからない異世界の事?」
「可哀想な賢者様。
異世界の為に命まで賭けるのに、全部終わったら都合よく忘れ去られて…………」
窓枠にもたれていた女は、慣れたように微笑んでみせる。
「……………はぁ、いいや」
女が少し身を引くと、ほうきに乗っていた男は自然な仕草で窓枠に足をかけた。
そのままひょいと縁に座り込んで、帽子を外して寛ぎだす。
「1年もこんなところに詰め込まれて疲れた
やっと終わる」
「ふふ、沢山手伝ってくれて、ありがとうございました!困ったこともいっぱいありましたけど、オーエンと居られて嬉しかったです」
「はは、困ったことね…菓子を作らされるのは?」
「楽しかったですよ!机いっぱい並べた時は混ぜすぎて腱鞘炎になりましたけど…」
「嫌がらせされるのは?」
「お話は嬉しいですけど…嫌がらせって言ってるしな…」
「部屋が壊れるのは?」
「困るに決まってますが…」
「じゃぁ、こうして押しかけられるのは?」
「あはは、最近は嬉しい寄りです!」
「寄りってなんだよ」
「昔は驚きとか(警戒とか…)が勝ってたので……でもずっと、ちょっと嬉しいなとは思ってましたよ」
「……はは、馬鹿馬鹿しい」
「おまえの事は全部忘れるって言ってるだろ
僕もあいつらも、人間共も」
「賢者の存在は消耗品だ。おまえの意思も、成した事も、 絶望も、情も」
「あとには何も残らない」
「……オーエン
心配してくれてありがとうございます。」
「は?誰が…」
女は男の手の小指側をそっと掴んだ。
手袋に包まれた手は一瞬小さく跳ねて、振り払い損ねて宙に固まった。
「昔を覚えていなくても、あなたがあなたであるように。私がいなかった世界になるわけじゃありません」
「とても、さみしいけど…でもずっと、変わりません」
「私は居たし、みんなが大好き。ずっとです」
「は……………よく言う。すぐに骨だか灰だかになる癖に」
女は眉を下げて笑った
男は掴まれた手を見ている
「……最後に呪ってあげようか。思い出が欲しいでしょう」
「え、のろ…呪いはちょっと……」
「嫌?」
「わ、わたし人間なりに長生きはしたくて…!気持ちは嬉しい(?)のですが……!?」
「ふぅん、知らない。聞けよ」
男はネグリジェの掴みにくそうな胸ぐらを掴まえて、思い切り引いた。
「うっわぁ!」
*
恐ろしいものでも見たかのような表情の男が勢いよく部屋に押し入る。
白い装いも相まって紙のような顔色で、ひどく動揺して部屋を見渡し立ち尽くしている、賢者の部屋だ。
「オ、オーエン…!?」
背後の開け放たれたままのドアから声がする。
この声じゃない。
「ど、どうして俺の部屋に?」
何か御用でしたか?と尋ねる穏やかな青年の声は、彼の奥を見る男には届かない。
「……うるさい、黙れ出ていけ」
「え、」
「出ていけ!」
「は、はいっ…!?」
(ぱたぱた…
「は…」
男は片手で頭を抱えて呆然と閉じたドアを見る。
違うのはわかる
でももうどう違うのかわからない、声も忘れたようだった。
昨日まで記憶にあった確かな面影は、日が昇るごとに砂のように崩れかけていた。
ふと視界の端にある本が掠めた。
“今回”のじゃない、覚えている。
何故ここにあるのか分からないけど、いつもあいつが持っていたから。
頭を置いていた手を離し、本に向けた。
*
「僕を忘れたら死ね」
胸ぐらを掴まれて無様に傾いだ人間は目を大きく見開いて
口を歪めて、へたくそに笑った。
*
気付いたら見知らぬ本を持っていた。
読めもしない文字の、およそ自分に関わりがあるとは思えない、手書きの本。
「……なんだっけ」
『忘れませんよ 骨でも灰でも』
「何が…」
『なんにもなくなっても』
「何があんなに、嫌なんだっけ……」
窓から陽光が差していた。
この部屋で月光を見ることはきっともう無い。
『あなたの分まで覚えています』
*
「あ!オーエン」
「よかった、まだおやつも残ってますよ」
「そう、残念。なければ君をおやつにしたのに」
「エッ…」
100年先か1000年先か
いつか大きな花火が上がる
「これ…おはぎ、お好きなんですよね?賢者の書に書いてあって…」
「さぁ?忘れた」
僕はそこに帰る
「ほら、全部寄越しなよ」
「えっこれは俺の……」
「早く」
「えっえっ…!」
今はそれだけ
覚えている
end.