死にたがり電車 狐は駅のプラットホームで電車を待っていた。
素行調査の帰りが夕方の帰宅ラッシュの時間と重なってしまい、駅にはサラリーマンから学生までたくさんの人で混雑している。狐はこの景色が嫌いではなかった。たくさんの人間が存在しながらも、それぞれにスマホの世界に入り浸っていたり、イヤホンで音楽の世界に入り込んでしまっている。
足音だけが言葉のように響く。俯いて歩く人の姿はなぜか狐の心を慰めた。
すっと狐の視界に赤がよぎる。赤い髪色のロングヘアの女性だった。しかし髪色より人目を引くのはその容姿の美しさだろう。整った顔立ちと、意思の強さを感じさせる真一文字に結ばれた唇。この辺では滅多に見ないタイプの美人だった。しなやかな肢体は猫のように油断なく艶めかしいが、同時にこの駅には似つかわしいものではなかった。何よりそこだけ張り詰めたような迫力がある。
観光客には見えない。狐がそっと美人を観察する。鞄を持っているが、とても旅行者といった雰囲気ではない。
変わった人だ。きっとモデルか何かだろう。そう判断すると同時に人混みが動いた。狐の体が押される。ホームに電車が入ってきたのだ。電車のライトが眩しい。
前列へ押し出された狐の耳元に、いつかどこかで聞いた甘く優しい、楽しそうな声が聞こえた。とんっと背中を押される。
「命は粗末にするものではありませんよ」
吐息すら耳に感じた。くらりとするような酩酊感、足がもつれる。いや、足元に何も無い。先程まで踏みしめていた地面がなくなっている。線路に投げ出されたのだ。
けたたましい警笛が鳴る。近付いてくる電車のライト。危ない、怖いと考える間もなく、光の洪水に飲み込まれるように狐の意識は遠のいた。
母親と手を繋いだ記憶がない。父親に抱き上げられた記憶がない。自分は手を繋いではいけないのだと思った。他の子とは違うのだ。
一度伯父の烏に抱き上げられた時は驚いた。知らない人に触られるのが怖かった。泣き出した狐に何度も烏は謝った。どうして謝られたのかわからないが、きっと何か自分が変な事をしたからなのではないかと思った。ごめんなさいは、悪い子が使う言葉、狐が使う言葉だからだ。
烏の手は怖かった。でも今は怖くない。伯父さんは何も怖くない。少なくとも、お父さんとお母さんよりは怖くない。
ふいに狐の手に柔らかな子どもの手が触れた。
「お兄ちゃん、どこに行くの?私、お母さんの所に行きたい」
お母さん?駄目だよ、僕が行くとお母さんは嫌な顔をするから、駄目なんだよ。行っちゃ駄目。
心地よい振動の中で狐は目が覚めた。音から察するに電車の中で眠ってしまったのだろう。のろのろと目を開け、狐はぎょっと向かいの乗客を凝視した。
頭が潰れている。ピンク色の脳髄をジャムか何かのように顔に垂らしていた。信じられないとばかりに隣の客を見ると、こちらは喉笛を切り裂かれ絶命したスーツの男性だった。飛び退くように狐が席を立つ。
途端に血生臭さが鼻を刺す。ようやく辺りを見回すと、そこは死者を箱詰めにした電車内だった。古くなった赤黒い血、まだ新しい赤い血。それらを浴びるように座る乗客、横たわる乗客。車窓、壁と至る所に血が飛び散っている。
ぐぅっと狐が喉を鳴らした。胃がせり上がる。堪えきれずに焼けつく胃酸混じりの内容物を吐き出した。
何度か嘔吐を繰り返し、狐はもう一度電車内を見渡した。窓の外は真っ暗で何も見えない。しかし何かが車両を取り囲んでいる。姿こそ見えないが、足音がひしめき合っていた。
死んだ?僕は死んだのか?これから死ぬのか?
狐が呆然としていると電車内のスピーカーから無機質な声が聞こえてきた。
「本日は当列車をご利用くださいまして、誠にありがとうございます。途中、終点までに、3駅を通過致します。お乗り間違えのお客様がいらっしゃいましたら、至急、乗務員にその旨をお伝えくださいますよう、お願いいたします」
最後にザザっとノイズのような音が混ざる。狐が注意深く聞き耳を立てると「ごゆっくりどうぞ、死にたがり様」と先程と同じ無機質な声が聞こえた。
ペタペタ、と窓から音がする。狐がそちらを見ると外に白いヒキガエルのような生き物が見えた。四つん這いになって天井へと登っていく。
何なんだ、これは?
狐が金縛りにあったかのようにヒキガエルを目で追う。その背後でガラガラと扉が開く音がした。
振り返ると、先程駅のホームで見た赤毛の美女が立っていた。
その白く美しい手にショットガンを携えて。