「bad blood buddy」In Paris, our lives are one masked ball
(パリでの人生は仮面舞踏会 オペラ座の怪人より引用)
ガチャンと重い音がして手錠が甲板に落ちた。ようやく解放された右手首に触れながら、夜鷹は周囲を見回した。
甲板に降りてくる機動隊。欄干をよじ登って突入してくる警察官。スポットライトのように浴びせかけられる光。夜空に響くヘリの音。
…制圧されんのも時間の問題だな。
どうやって逃げるか思案していると、何機もの警察のヘリに混ざって情報屋のカラスのヘリがあった。操縦席からカラスがニコニコと手を振っているのが見える。夜鷹はニィっと笑った。
「今日はこれでお別れだね、早乙女さん」
今の今まで共に手錠に繋がれていた早乙女を見る。
「俺の言った通り、警察の応援が来たでしょ?」
「あぁ、さすが探偵の血筋だな。名推理だ」
「どーいたしまして」
気障っぽく胸に手を当ててお辞儀をすると、早乙女が少し笑った。夜鷹もふっと表情を崩す。
視線を隣に立つルチアに移した。何をどう気に入ったのか、ルチアは夜鷹の近くにいる。最初に見せていた無力感も、これから自分がどうなるのかという不安もその顔に浮かんでいない。その目がしっかりと力強く煌めいている。ルチアの意思。奪えない宝石。
…今夜のターゲット、奇跡の少女か。
躊躇う必要はない。どうするかはもう決めていた。
「おいで、ルチア」
片膝を付いて夜鷹が両腕を広げる。おいで、と微笑むとルチアは素直に腕の中に飛び込んできた。小さな体を抱き上げ、夜鷹はよしよしと背中を叩いた。
「良く頑張ったな、すっげー助かった。ありがとな」
ルチアを抱きしめたまま早乙女を見る。警察と怪盗の顔に戻った二人に緊張が走った。
早乙女の目的はルチアの保護。夜鷹の目的はルチアの強奪。ルチアは今、夜鷹の手に渡っている。
警察の声、売人の声。怒声と銃声が飛び交う張り詰めた空気の中、夜鷹はゆっくり早乙女に近付く。視線を逸らさずに、腕に抱いたルチアを早乙女に差し出した。
「いいのか?」
ルチアを抱きとめ、早乙女が言う。
「うん。先方には警察に乗り込まれてダメでしたぁ、って言っとく」
「そんなんで大丈夫か?」
「まぁ、何とかなるって」
フフンと首を傾げて笑ってみせた後、早乙女の脇腹を見る。血こそ止まっているが、赤黒い染みは決して軽い怪我ではなかったことを物語っていた。
「ねぇ、後でちゃんと病院に行ってよ?大怪我だったんだから」
「わかってる。今回もあんたに助けられたな」
「そういうの、いらないって…」
恥ずかしい…と照れ隠しのように吐き捨てると、ひらりと片手を上げ、夜鷹はカラスが甲板後方に下ろしたロープへと走り出した。
「おい、夜鷹」
呼び止められて振り返る。喧騒に不似合いな穏やかさで早乙女とルチアが夜鷹を見ていた。二人の姿はライトに照らされ、その表情がはっきりと見えている。
「仮面の下の素顔が泣いていたらどうするんだって言っていたな」
よく覚えてんな、と夜鷹が驚いて頷く。
「泣いていたって俺は良いと思うぞ」
夜鷹がはっと息を飲む。早乙女の言葉は夜鷹の一番触れて欲しい、けれど触れるにはまだ痛む場所に届いた。ジリジリと胸の底から込み上げてくる何かを飲み込む。しかしそれは逃げ場を求め、涙となって夜鷹の頬を濡らした。幸いにも逆光だった。泣いている事を悟られないように、夜鷹はいつも通りに笑う。
「長い間仮面を被っているとね、素顔を見せるのが怖くなるんだよ」
必死になって嗚咽を堪える。声が震えないように喉の筋肉をグッと締めて俯いた。
早乙女が穏やかな声で呼びかけてくる。
「いつか素顔を見せられる相手が出来ると良いな」
顔を上げた。その声と同じように、早乙女の表情はひたすら穏やかだった。警察としてではなく、早乙女智雪としての素顔で夜鷹に向き合っている、少なくとも夜鷹にはそう思えた。
何か、何かを伝えたくて口を開く。ギュウッと締め上げるように登ってくる痛みを伴う思いは、掠れた吐息となって漏れ出ただけだった。
「…またね、早乙女さん」
これ以上、早乙女の顔を見れなかった。
今度こそ甲板後方に走り、垂れ下がっているロープに掴まった。目線でカラスに合図を送ると、ヘリは高度を上げる。
遠ざかっていくアントワネット号。夜鷹を見送るように、早乙女とルチアが欄干から身を乗り出していた。