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    阿助/

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    阿助/

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    脱走した元実験体の話 1話目

     実験体NO.8は脱走し、ハチとして普通の生活を送っていた。
     脱走から7年、ある日ハチは登校中に”センセー”らしき人を見かける。センセーはハチの恩人だが、数年前に失踪していて……。

    ##empty_novel

    empty 1話1.
     
     緑色のベチャベチャが全身にまとわりつく。というより自分自身から湧き出したそれに覆われ、丸ごとスライムになっているかのようだった。ベチャベチャにまみれた自分の手を見つめる。こどもの小さな手。
     これは夢だな。
     一番に思ったことはそれだった。これは何度も見る夢だ。
     研究所にいるいつもの光景で、研究所は失敗して、NO.8が脱走する夢。
     でもまあ、確かに研究所にいた頃は常に得体の知れないものにまみれていたけれど、それにしたっていくらなんでもこんなスライムみたいにはなってはいなかった。きっと夢がこの場所での出来事と感情とを一緒くたにして、めちゃくちゃにかき混ぜてこの光景を見せている。
     緑色で、蛍光灯が妙に明るく見えたあの日。

      NO.8は外を知っていた。それは文字通り知識として知っていただけで、実際は研究所から出たことはなかった。そこに不自由を感じたことはない。
     なぜなら。
     バランスの取れた完璧な食事も、清潔な服も、ベッドも、シャワーも、教育も、本も、ほんのちょっとの娯楽も、揃っていたから。足りないのは人間の種類。
     ここは基本的に研究者と実験体だけの世界。あっちを見てもこっちを見ても白衣の大人と白いワンピースのこどもたち。
     それでも時々それ以外の人間と会うこともあった。
     たとえばNO.8の世話を担当している研究者の子供。自分と同じくらいの歳の男の子で、時々連れてこられているようだった。その度一緒に遊ぼうとボール遊びに誘われる。別にお互いボール遊びが特別好みというわけではない。単に遊具のない運動用の広場で遊ぼうと思うと選択肢がほぼそれしかないから、ただそれだけ。
    「ねぇ、ドッジボールしない?」
     最初に話しかけられたのはそんな言葉だった。日光浴と運動のため広場に出されたNO.8の元へ男の子は駆け寄って、にっと笑いながらピンクのビニールボールを見せてくる。ボールと同じく彩度も明度も高いTシャツとズボン。実験体たちは皆揃いの白いワンピースだからこの子は外の子だとすぐにわかる。
    「ドッジボール、知らない」
    「ふうん。えっとね」男の子は拾った棒っきれで地面に線を引きながら説明を始める。
     
     そんななんでもない会話も夢は律儀に再現してみせる。
     
     ドッジボール。ようは2つのチームに分かれてボールを投げ合い、より多く相手にボールを当て、相手をコートから減らせば勝ち。
     
     なんて危ない遊びだろうか。予定のない怪我はあってはならないというのに。
     他の子はやるだろうか。周りを見るとそもそも人数がいない。今日は時間割が合わないのだ。ほとんどの子が部屋に連れて行かれている。
     他の実験体たちも歳が近いし、というよりこどもしかいないわけで。一緒に遊んだりもするし遊びを知らないわけじゃない。むしろ適度に遊ぶことはこどもである実験体たちにとっては必要な行為。研究所からしたら、大事な実験体たちがストレスを溜めるなんてことは困るので、今思えばここでの『遊び』というのは娯楽というよりは品質管理の一環だったのだろう。
     『実験体たちは適度に放牧されており、良い環境良い食事のおかげでストレスもなく、肉質も柔らかでたいへん美味しく育ち……』、だなんて流石に冗談だけれど。
     実験体は一定の基準の下、その環境も口に入る水も食べ物も、自身の爪の先に至るまで厳しい管理で品質を維持されている。
     NO.8たちもなんとなく心得ていたので、遊ぶ際には楽しむ気持ちと同じかそれ以上に自分たちの管理のつもりがあった。
     その点研究者の子供、実験体でもなんでもなくて、連れて来られてるだけの男の子は遊びを遊びとして心得ていた。
     とはいえやることは他の子たちと変わらないし大抵毎回ボール遊びだった。NO.8はその時間を大事なものとして記憶している。こうして夢に見るくらいには。

    「NO.8、時間だ」
     そう言われ場面が変わる。男の子もボールも消え、いつもの研究所の廊下。研究員の後を大人しくついていく。本来の記憶では蛍光灯で明るく照らされ、壁の真っ白と灰色でいっぱいだったはずの視界はひどく黒さを持っていて、壁も天井もぐにゃぐにゃと踊り続けてる。途中にあるガラス張りの待機部屋には誰もいない。
     夢はいつでもめちゃくちゃ。夢だとわかっているのに抜け出すこともできないで、NO.8は緑のスライムの塊をまとい、べちゃべちゃのそのそと歩き続ける。
     ぐちゃりぐちゃり。
     廊下は笑ってしまうほど長く、足音と蛍光灯のちらつく音だけがそこにある。ようやく端まで辿り着き、研究員に促されるまま扉を開く。
     これはあの日の夢だ。この後何が起きるかなんて知っている。

     「 」 

     ほら、実験体たちの叫び声が響く。
     夢はあの日をなぞっている。実験失敗。血と薬と何かわからないものが飛び交う。
     べちゃり。壁が赤と緑で埋まっていく。
    「どこに行く、戻ってこいNO.8」
     夢なのだから平気なはずなのに、気がつくとあの日と全く同じように逃げ出していた。スライムがべちゃべちゃと体から剥がれ落ちていく。研究員が叫んで追ってこようとするが、研究所内はすでにパニック状態で他の研究員に動きを阻まれている。
     これが夢だとちゃんと認識していたはずの頭は、すっかりそれを忘れてここは現実だと思い込む。
     白、灰色、赤。緑。緑。緑。緑……。
     走る。走る。走る。
     ふと視界に小さな手が入る。顔を上げるとその子はにこっと笑顔でこちらを見つめ、手を差し出している。ボール遊びの男の子だ。惚けたままその手を取ると、握り返してNO.8を連れていく。
     2人で走るその先には『センセー』がいた。センセーは眼鏡を直してぎこちなく、でも優しく2人を抱え上げる。NO.8はようやく安心して力が抜け、逆光でよく見えないセンセーの顔にすり寄る。タバコのにおい。ちょっぴりくさい。
     ああでも、そうだ、ここは現実ではない。これは夢だった。そして、今日も夢が終わる。光量が増す空、消えていくタバコのにおい。
    「……せんせぇ」
     夢から覚める瞬間までぎゅっとセンセーに抱きついていた。


     夢が終わる。つまり現実、朝。
     NO.8改めハチは汗で張り付いたベッドシーツの上にいた。冷房のタイマーはとっくに切れており、大きく開けられた窓からさわやかさなんて微塵もない生温い風が来る。
     「……センセー」
     時計を見る。なるほど、早く支度をしなければ遅刻する。起き上がって横のもう1つのベットに目をやると、どうやらルゥは先に降りていったようだった。
     ルゥ。この家での同室者、いまや家族で同級生で親友、あのボール遊びの男の子その人だ。

     
     外の世界を知らない、世間知らずな実験体から普通の男の子へ。
     "完璧"な食事から家庭料理へ。
     白いワンピースから学ランへ。
     管理部屋から子供部屋へ。
     実験体教育から中学校へ。
     
     7年前めでたく大脱走を遂げた実験体NO.8は、どこにでもいる普通の男の子のハチになった。
     だから遅刻しないように、寝坊分を取り返す早さで支度をしなければいけない。
     かげった洗面台で汗を落とし、いくらかさっぱりとしてタオルに顔を埋める。それから、包帯を取り出し丁寧に首元に巻いていく。
     首元にあるポート、そして番号。
     何もかもが変わってもこれだけは残ってしまった、実験体の証。
     妙にSF感のあるこれは、ちょっとワイシャツのボタンを緩めようものなら見えてしまう。だから外では包帯をきっちりと巻いて隠す。もう7年使われてないポートは包帯に覆われ消えた。

     

    2.

    「ハチおはよう。時間ないけど朝ごはんはどうする?」
     シワのないランチクロスで包まれたお弁当を差し出しながら、ヨヌさんが聞く。お礼を言いながら、パン持っていく、とパンカゴを漁って返事をする。ヨヌさんのカフェで出しきれなかった余り物だが、一日経ってもふんわりとした生地からは香ばしくて美味しそうな香りが漂う。
     横で同じように丸パンを選んでいるルゥが申し訳なさそうに眉をハの字にしている。
    「ごめんね、起こさなくて」
     珍しく良く寝てたから、と謝る彼も彼でゆっくりしすぎたらしく、結局準備がギリギリになっている。のんびりと朝ごはんを食べた上にパンを3つもかばんにしまうルゥを見て、本当によく食べるなと感心する。が、そんなこと考えてる場合ではない。これ以上は遅刻だ。
     二人してバタバタしているのが可笑しいのか、ヨヌさんはタレ目をくっと細めてくすくすと笑いながら玄関まで急かす。ほら早くしないと、ハルはとっくに学校へ行ったよ。ハルはルゥの兄だ。ハルの高校の方が近いのに、まだ家にいるおれたちはいよいよ遅刻だろう。
     二人で全く揃わない「いってきます」を口にして外に出ようとする。と、ヨヌさんは一瞬おれを引き留め、ほんの少し心配そうにしながら迷った末にぽんぽんと軽く肩を叩いてくる。一応は所謂思春期真っ只中にあるおれにはほんの少しこそばゆい。
     多分、無理するなよ、とかそんな感じ。今朝の夢が顔色に出ていたのだろうか。少し夢見が悪かっただけなのに、ヨヌさんは心配性だ。
    「うん、うん。わかってるよ。じゃ、いってくるから」
     おれは駆け足で玄関を出ていく。塀の前でしゃがんで待っていたルゥがよいしょ、と立ち上がって、それじゃあ急ごうか、なんてにこにこ笑う。そんなことを言って彼の歩くスピードは普段と変わらない。まあ、もしかしたら時間的にギリギリ遅刻は免れるかもしれないし、仮に遅刻したとしてもまぁクラスメイトにちょっと揶揄われるくらいのものだ。

    「早く涼しくなってほしいよねぇ」
     ぼく暑いの苦手、とルゥは手でパタパタ顔を扇ぐ。そんなんじゃ大して風も起きないだろう。「そうね、おれも苦手」おれは自分を扇いでいた下敷きをルゥに向けてやる。
    「どう?」
    「うん、生ぬるくてもったりしてるかなぁ」おれは肩をすくめて下敷きをしまう。
     ルゥは襟元をパタパタし始める。ボタンをきっちり締めている上に、薄手のカーディガンまで羽織っていてはあまり意味もないだろう。真似しておれも襟をばたつかせてみる。
    「どう……?」
    「……もったりしてる」

     走っていなくてもだんだんじっとりと汗をかく。大して吹いていない風と蝉の声が余計に暑さを実感させる。まだ朝だというのにアスファルトは熱を持ってぬらりと照らつき、靴の底から伝わって焼けるのではないかと思うほどだ。
     
     あの場所に暑さはなかった。研究所はいわば小さな天国。世界。そこは暑いだとか寒いとか、湿っぽいだとかそういうものはほとんど完全に取り払われていた。
     あらゆる不快を取り払う。
     実験体たちが過ごす保管部屋も、待機部屋も廊下もトイレもどこもかしこも、隅々まで。実験体たちにとって快適な温度と湿度に保たれている。
     食事も大切。管理のためだからと効率重視の不味い食事だなんてとんでもない。適度に、まあまあ美味しく、多分栄養だのカロリーだのよく考えられていて。いろんなものを少しずつ。足りないものは、“Green”と一緒にポートから流し込まれる。
     まだまだ幼い実験体たちはそれはそれは丁寧に扱われていて、外の人達が想像するフィクションの実験体のようなひどい扱いを受けるなんてことはない。ひどい扱いというものが一体どういうものなのか知ることもない。
     そもそも実験体たちの数はそう多くなく、出来が悪くてもそうすぐに替えが効く物でもない。
     というより出来の悪い実験体なんて存在しない。たとえ“Green”の効果が著しくない実験体であっても、『“Green”の効果が著しくない』という結果を得ることができる貴重なサンプル。
     そうでなくても貴重品。研究所のリソースである実験体たちにひどい扱いをするなんてことは許されない。それが実験体たちの産みの親、育ての親たる研究者たちでも。
     だから適切な環境に保たねばならない、食事は一定の美味しさがなければならない。
     大事に。大事に。
     その為にとにかく何もかもから不快を取り除いた、そんな世界。

     そこから逃げ出して始まったのは『センセー』の元での生活。ルゥが脱走したハチを連れていってくれたのはセンセーのところで、センセーはハチを迎え入れてくれた。
     センセーとハル・ルゥ兄弟たちとの暮らし。色褪せた本棚に積もった埃とそこかしこの書類のインク、センセーに染み込んだタバコの匂い。何も取り除かれず少し足りてなくて、そこには研究所でいう『不快』なものが溢れていたけれど、天国よりよほど天国のような場所だった。

     そしてセンセーは失踪した。おれたちを置いて。
     
     どうしてセンセーがいなくなったのか、どこへ行ったのか、そもそも生きているのか死んでいるのか。なにもわからない。
     それからはハチ、ルゥ、ハルの3人揃って、センセーの幼馴染であるヨヌさんのお世話になっている。
     
     外には『不快』がたくさんある。でもそれで死ぬことはなかった。研究所に連れ戻されることを恐れていたが、それもなかった。
     研究所から脱走して7年。もうすぐ外での、本当の世界で過ごした時間の方が長くなる。

    「あ」
     ルゥの声に足を止める。いつの間にか実験体時代のことを考えていた。ぼんやりとする頭を振る。やっぱりヨヌさんが見抜いたように調子が良くないのかもしれない。
    「どうかした」
     たずねるとルゥは先程まで見ていた携帯をポケットにつっこみ、今来た道を走り出す。
    「忘れ物、したかも。ぼく戻るからハチは先行ってて」
     言い終わる頃にはルゥの姿は小さくなっている。今日何か授業でいるものあったかな。
    「体育もないのに……」
     しばらく背中を見送り、あれじゃあ遅刻だ、と呟く。
     
     生暖かい空気が全身にまとわりつく。手は汗でしっとりと。蝉の声はあっちでもこっちでもどんどん大きくなって、それが響いていく空は馬鹿みたいに広い。大音量は暑さに溶けていく。
     だめだ、本当に遅刻する。しばらく空を見上げっぱなしだった顔を下げた時。
     
     走っていく人たちを見た。
     
     足が止まる。心臓が地響きのように鳴り響き、体は凍る。
     振り返るがもうその人たちの姿が見えない。
     
     ほんの少しくすんだ白いワンピースのような服。
     今一瞬目にした人は昔のおれと同じ格好をしていた。
     7年前に消えたとばかり思っていた実験体たちの格好。
     そしてその後ろを追いかける男性。その姿は

    「セン、セー……」

     気がつくと駆け出していた。

     大通りから外れて、田舎道を駆ける。脇に逸れ藪の中を進む。
     ただでさえ生い茂って人が入るのを拒んでいる薮は、夏の暑さでより青々として、一面鎖のように絡みついてくる。それをちぎるようにただ走る。
     ようやく追いつき息を整える。
     ワンピースを着たその人は道をそれた藪の中、奥も奥の方にいた。木の根元へ倒れるようにうずくまっていて動かない。センセーらしき人の姿はなくこの人1人だ。ゆっくりと近づく。
    「きみ、NO.8だな」
     その人は動かないままおれを呼ぶ。NO.8。もうずっと呼ばれていない、ハチの名前。落ち着き始めた心臓がまた暴れ始める。
     かつておれはNO.8だった。
    「お前、NO.7……」
     かつて……、いや、たかだか数年前まで。
    「久し、ぶりだね……」
     ゆっくりと上半身を起こしたNO.7の首にはポートがついている。
    「NO.8、きみが脱走して以来かな」
     ポートの横には登録管理番号。おれと同じ。
     
    「Greenを入れる必要はない」
     センセーは人差し指で自分の首元をコツコツと指す。NO.8のポートのある位置だ。
    「だからそれも使う必要はない」
     NO.8はつられてポートをさする。これは研究所にいるこどもたち、実験体全員についている。もちろんNO.8にも物心がつく前から。
     実験体たちはみんな毎日のようにここに"Green"を流し入れる。それは魔法の薬で、人と呼ぶにはまだ不完全なNO.8達を生かし、大人にするためのもので、人として正しく機能させるものだと。欠かすことはできないと、そう教わってきた。
     研究所から逃げ出してきて、ボールの男の子 ─ルゥと名乗った─ がNO.8を連れていったのは“センセー”の所。少し前に事故で両親を亡くしたハルとルゥの兄弟は、共にこの人の元で暮らしていると言う。センセーは急にやってきたNO.8を何も言わずに迎え入れ、軽い食事まで用意してくれた。暖かい汁物とふかふかの座布団に、疲れた体は溶けていき気がつけば眠っていた。
     それからまだ数日しか経っていない。
     つい先日研究所を逃げ出したばかりのNO.8にとってGreenを入れないということはとてもおかしくて怖いことだった。
    「必要ない……なぜ、ほんとうに……?」
     実験のあの光景が怖くてたまらなくなったから逃げ出してきたくせに、それが必要ないと言われると不安で仕方がない。
    「あれは君の思っているような万能で素晴らしいモノなんかじゃない」
     あんなものを打つ方がおかしくなる、とセンセーは眼鏡を直しながら言う。
     センセーは実験にとても詳しい。
     だってセンセーは研究者なのだから。
     
     あれ以来おれのポートは使われることもなく、飾りになった。実験体NO.8であることを証明する、テカテカと光る飾り。
     でも多分今目の前にいるこの人の、NO.7のポートはきっと今も使われ続けている。

    「NO.8、生きていたのか。……いや、そうか」
     彼はNO.7、おれと同じ実験体。番号が近いので同じ行動日程を組まれることが多く、他の実験体たちに比べると一緒にいる時間が長かった。当時の幼い顔立ちしか知らないためすぐにはわからなかったが、言われてみればなんとなく面影がある。
     生きていたのか、だなんて。むしろあの日、逃げ出してから初めて生きている人間になれたようなものだった。センセーやルゥとハル、それにヨヌさんが教えてくれた幸福。
     そして脱走した日を境におれの中では研究所も、実験も、実験体たちの記憶は薄れ、消えてしまっていた。だからおれがNO.7に対して真っ先に思ったのも『生きていたのか』だった。
    「お前は今も研究所に……」
    「そう、そうだよ」
     NO.7はゆっくりと体勢を整えて座り直す。
    「きみがいなくなった後、驚くくらい皆冷静だった。それで、私は、それで……」
     NO.7は言葉を詰まらせる。しばらく無言の時間が続いたが、様子がおかしい。
     空気が変わる。おれは染み出した異様な雰囲気に後ずさる。その足首をNO.7がぎりぎりと締めるように掴む。
    「い、痛い……」
    「たすけてよNO.8」
     足首の痛みだけを残し、また時間が止まった。
    「もうずっとなんだ」
     NO.7はハチの脚から手を離し、頭を抱えながら縮こまる。おれもNO.8と呼ばれて、NO.7と呼んで、あの頃へ連れ戻されたような奇妙な感覚に頭がぐらぐらとする。
    「ずっと、ずっと…………」
     NO.7はがりがりと頭を掻きむしっている。ぶちぶちと毛を抜いている。
     ぐらぐら。
    「…………」
     髪の毛が音を立てて抜けるほど掻きむしっていたNO.7はぴたりと動きを止める。そして急にふらっと立ち上がり突進してくる。
     反射的になんとか避けるが、その後もNO.7はこちらに向かってくる。青白くなった顔は生気も何もかもを失っている。
     NO.7のそれほど伸びていない爪がおれの腕に赤い線を作る。痣ができる。髪を掴まれる。
     だんだんと避けることもままならなくなり、ふらついて体を戻せない。
     拳が目の前に迫る。避けられない。体勢を整えることも目を瞑ることもできずに、拳がこちらに向かうのを待つ。
     
     その瞬間、誰かがおれの前に立ち塞がった。

     その人はNO.7の腕をぐっと掴み引き寄せたかと思うと、一瞬でなにかをポートに刺し流し込む。NO.7はおかしな挙動で体を強ばらせ呻き声をあげたが、すぐに全身の力が抜けぐったりと地面に転がった。
     呆気に取られていたおれは、ハッとして距離を取り身構える。
    「大丈夫、死んでないよ」
     ほらね、ちゃんと息をしてる、と言いながらNO.7を抱え、胸が呼吸で動いているのを見せてくる。
     白い靴、白いズボン、白いパーカー。全身白尽くめ。フードを深くかぶっていて表情が読めない。
     よいしょ、とNO.7を肩に抱えてこちらをじっと見てくる。NO.7と同じようにおれのことも”回収”でもするのかと思ったが、何もせずただただこちらを見つめている。何を考えている……。
    「お前は何者……?NO.7は」
    「ハチくん」
     遮るようにその人は口を開く。
    「こちら側に関わらない方がいい、特にキミは」
     含みのある言い方の真意を聞こうと一歩乗り出した瞬間、

    「おや」

     背後から首に手がかけられる。男性の大きな手。頭の上から声がする。見上げると、眼鏡をかけた男がいつの間にか真後ろに立っていた。
    「こんなところで何をしているのかな、NO.8」
     首をぎりぎりと締め付けられ、息ができない。
     おかしな音の空気しか出ず、だが口を閉じることもできず、声を出す代わりに涎がだらりと垂れる。
     おれはそのまま意識を失った。



    「さ、いこう」
     恐怖のあまり実験室を飛び出したNO.8の前に、突然現れたボールの男の子はそう言って手をぐっと掴み走り出した。状況が理解できず、惚けたままのNO.8は引っ張られるまま研究所内で逃げ回る。もう何が何だかわからない。頬に飛び散ったベタベタした何かを拭いながら必死に走る。そうしていつのまにか建物を出て運動用広場の端まで出ていた。気がつけば追いかけてくる研究員もいなくなった。
    「ま、まって……」
     引っ張られるままだったNO.8は掠れた声でなんとか静止する。これだけ走るのも、大きな声を出すのも慣れていない。
     NO.8は振り返って研究所の建物を見る。静かに佇んでいるが実際、中ではひどい騒ぎが続いているだろう。他の実験体たちはどうなっている……。薬を打たれておかしくなった子たち。飛び交っていた赤色と緑色……。
     今度は向かっていく方向に目を向ける。この広場を抜け、高いフェンスを超えて森を出れば外だ。フェンスはこどものNO.8たちがよじ登るには高すぎる。しかしそのフェンスも角のところに子供が通れるくらいの大きさに捲れる部分がひとつある。完璧な世界の完璧な管理は案外杜撰だ。研究員たちは知らないだろうけれど。前にこの男の子が教えてくれたから知っている。あの時はほら、ここ見た目じゃわかんないけどこうしたら捲れちゃうね。と男の子がにっと笑い、NO.8もほんとだ、捲れちゃう。と笑ってしまった。
    「いかないの……?」
     男の子は聞く。NO.8はしばらく決心がつかずにいたが、
    「……うん、うんいくよ」
     それを聞いて男の子はにこっとして駆けていく。
     フェンスの穴を教えてもらった時はもちろん潜ることなんてもちろん、考えることすらしなかったけど、今回はできてしまうのだ。2人だけの秘密。逃げ出している最中で怖くてたまらないのに、今NO.8には高揚感さえあった。
     だが男の子は別の方向へ行く。
    「……角から出るんじゃないの?」
     尋ねても男の子はこちらを見るだけ。
    「ううん、なんでもない」
     命からがら逃げ出してる時に、遊びみたいにわくわくしてしまったことが恥ずかしくなって、NO.8は今度は何も言わずに男の子に引っ張られていった。

     これが7年前にNO.8がボールの男の子、ルゥに助けられハチとして生きていくようになった始まり。
     研究所、実験体も研究もハチの中ではここで終わり消えていった。
     ハチにとっての世界が『研究所』から『外』に変わり、今の今まで夢以外では考えることも、思い出すこともしなかった。
     
     消えていたのに。

     目を開くと白と灰色の視界。壁の色。また夢でも見ているのかと思いたかったが、肌に伝わるコンクリートのひんやりとした温度がそれを否定する。もたれかかっている壁を見上げると、随分上の方には格子のついた細長くて小さな窓。
     つかまってしまった?、NO.7はどうなった、あの人たちは研究所の人だろうか。とりあえずまずい。
     しかしなぜか拘束具などはなく、ただ一応部屋に放ったという感じでいまいち緊迫感もない。正面を見ると格子がついてはいるものの大きな窓があり、開いているのか薄汚れたカーテンがバサバサと靡いている。
     そこにあの白ずくめの人が座っている。やはりフードで目元は見えないがこちらをじっと見つめているようで、こちらもじっと見つめ返してしまう。
    「逃してあげる」
     長いこと見つめ合ったあと、彼はそう言って窓からふわりと降りてくる。
    「ボク、シロ」
     手を差し伸べてきた。そもそもお前は誰なんだとか、お前がここに連れてきたのではないのかとか思うが、何を考えているのか全くわからず反射的に手を握り返してしまう。するとシロもぎゅっと強く握り返してくる。
     信用はできない。が、どういう状況なのかもわからぬ今他に選択肢も思いつかない。
    「ハチ……です」
     すらりとした白い手は随分ひんやりとしていた。

     
     ドアに鍵もかかっておらず、特に苦労もなく廊下へ出る。すたすたと前を歩くシロに置いていかれないように着いていく。こんなに堂々と出て良いものなのか疑問だが、誰にもすれ違うことはない。むしろ人の気配が一切ない。ここは使われてない研究所のようだった。
     首を絞めてまでわざわざ連れてきたわりに、拘束もせず逃すだなんてどんなおかしい工程だろう。そういえばおれの首を絞めた男はどこへ行ったのだろうか。
     
     シロはドアを開き部屋に入っていく。警戒して一瞬入るのを躊躇するが、シロについていく。
     放棄されて時間が経っているのかうっすら埃が積もっている。処分したのかほとんど何も残っていないが、ところどころ道具や書類がそのままだ。
     部屋から別の部屋に何個も連なっているらしく、幾つも扉を潜って部屋を移動する。
     
     首を絞めてきた男はセンセーではなかった。似ているのは眼鏡をかけているという点のみで全くの別人。ではあの時センセーだと思ったのは夢のせいで見た幻、もしくは単に見間違えたのか。
     首絞め男には見覚えがある。恐らくおれが研究所にいた頃もいた研究員。でもなぜ今になって現れた。研究所があんなふうになったのも、おれが脱走したのももう7年前だ。センセーが消えたのももう随分前。
     ……。
     
     バサリ。

     机の脇を通ろうとして残されていた書類が落ちる。
     元に戻そうと拾い上げ、なんとなくパラパラと中身を見る。読めないようになっているところが多いが、実験体について書かれているようだった。どこか見覚えのある字だ。
    「あ」
     NO.7など知っている顔の中に自分の、NO.8のものもあった。これを書いた人物の名前を確認する。
    「センセー……」
     間違いない。載っている名前も、このクセのある文字もセンセーのものだ。
     
     センセーはおれたちを置いて突然姿を消した。
     センセーは実験に詳しかった。それはセンセーがかつては研究者だったから。センセーが元々研究者だったことはおれも知ってはいるが……。
     NO.7は今でも実験体。つまり実験は続いている。
     実験が、研究が続いているというなら、そこに今センセーが関わっている可能性はあるのだろうか。
     なぜ今まで考えもしなかったのだろうか。可能性は低くても、おれとセンセーを繋いでくれる手がかりは研究所があったじゃないか。
     もしセンセーが姿を消したことが研究と関係あるのなら、もしかしてセンセーもそこにいるのではないか。あれは見間違いなんかじゃない。
     実験を、研究所を追えば。
     そうしたら。

    「センセーに会える……。」

    「その人はここにいない」
     
     声に出ていたのか、シロが振り返ってそう制す。
    「お前、センセーを知ってるの」
     シロは答えない。
     シロはおれを知っていて、研究を知っていて、それにきっとセンセーを知っている。
    「ハチくん、ここまでだ」
     誰かがおれの後ろにいる。シロの言葉に夢中になっていたおれは背後の気配に気がつくのが遅れた。またか、と思った時には気を失っていた。

     誰かの話す声が聞こえて意識が浮上する。ぼんやりと開いた目を横に向けると、ルゥが電話をしている。
    「ルゥ……」
    「ハチ、あぁ良かった。平気?」
     ルゥが慌てて顔を覗き込む。また眉が八の字になっている。
    「平気、みたい」
     乾いた喉がなんとか返事をする。背中が草でちくちくする他はなにもない。ここは家の近所の丘だ。なんだってこんなところに転がされてるのか。
     ルゥの顔は夕陽で逆光気味になっていて、あれから随分と時間が経っているようだった。
     体を起こしあれこれ黙考しようとするがうまくまとまらず、ただぼんやりと遠くを眺める。
     
     シロはたぶん研究所と何かしら関わりがあって、センセーを知っている。
     
     ルゥは困ったようにこちらを見ている。
    「ルゥ、センセーに会えるかもしれないよ」
     夕陽はほとんど落ち切って夜がやってこようとしていた。
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