未熟な正義と歪んだ正義 特撮にもそこそこグロいシーンはあるし、それなりにグロ耐性も持っているつもりだった。
昨日は見るだけで意識が飛びそうな、ヒトの常識の境をぶち壊すようなアブノーマリティが収容された。アイツが危険度の最も高いALEPHクラスだと知ったのは業務が始まってすぐのこと。脱走したアイツを鎮圧するときに、実際、意識が飛んだ。
今までも意識が飛んで色々とやらかしたことはあったが、大抵の原因は作業中のミスだった。昨日収容されたアイツは見るだけで正気を失いかねない。ヒトの言語で表せるようなモンじゃない。それだけはなんとか解った。
脱走されたときはそりゃぁもう大惨事だった……らしい。鎮圧しようと真っ先に駆けつけ、『それらしきもの』に向かって目一杯撃った。次の瞬間には業務開始前に戻っていた。後で聞いた話だと、あのとき鎮圧に参加した職員がほとんどパニックを起こしたとか。
ヤバいってことだけは解っていたのに。解っていたつもりだった。まだまだ頭のどこかで俺はアブノーマリティを舐めてたのか。
これじゃぁ、まだ『彼女』には会えやしない。
今日は未観測のツール型アブノーマリティの観測を終えたら、『いつも通り』の業務の予定。まぁツール型だし、観測もすぐ終わるだろう。そうしたら後は少々きついけど『いつも通り』。そう思っていた。
やっぱり俺はまだまだアブノーマリティを舐めていた。
いま目の前で起きていることが現実であることを脳が否定したがっている。
作業を終えて休憩してたら突然ダフネ先輩が呻いて、振り返ったときには既に先輩の身体の半分くらいが溶けてて……声を出そうとしても、液体の泡立つようなゴボゴボという篭った音しか出せなくて。思わず駆け寄ったけど、たどり着いたときにはもう頭の半分くらいしか、残って、なくて、
最後に虚空を見上げるような眼球が溶けて、滅茶苦茶な色のマーブル模様に白と黒と、赤が混ざって。
「……あ、……あ、あ、跡形もなく……溶けてるっす……」
見たまんまをなんとかして伝えようとしたその声は、掠れて震えて上ずって、それが自分の喉から出た音だと信じられなくて、それと認識するのに僅かな時間を要した。
一帯に漂う古い絵具のような臭いと、じわじわ床に広がるさっきまで先輩だった形容できない色の液体。一歩踏み出した靴に触れて、べちゃ、と生々しい音を立てる。たじろいで思わず後ずさった。
ただただ床に広がり続ける先輩だった液体。どろりとして、今までに見たことのないおぞましい色。ヒトを構成する色を無造作にかき混ぜたらこうなるのだろうか。
まるで俺に縋るように液体はなおも床を這うように流れてくる。喉の奥から声にならない悲鳴が漏れる。
ほとんど無意識的にその場から離れようとして、それでも先輩だった液体からは目が離せない。目を離したら、アレが先輩だったという事実ごと、押し流されてしまいそうな気がして。
合成でも、CGでもない。ましてや特撮とは比べるべくもない。先輩が、ダフネ先輩が、全身溶けてぶちまけた絵具みたいになって。その瞬間を、その過程を、確かにこの目で見て。溶け切った先輩だったものを踏みつけてしまったときの、ねっとりとした嫌な感触が、まだ爪先に残っていて……。
背中が壁にぶつかる。
その衝撃を契機に、胃のあたりが握りつぶされるような、かき回されるような、瞬間、一気に喉までこみ上げてきて、ついに先輩だった液体から目を背けてしまった。
必死に口枷の合間に指を突っ込み、隙間を作る。吐き出したものが、先輩だった液体と混ざった。先輩を汚してしまった。冒涜的な事実を認識した途端、こみ上げる罪悪感。結局、胃液が枯れそうな程に吐いた。
……ごめん、君から抽出した服、少しだけ汚しちまった。
TT2プロトコル発動のアナウンスが流れる。震える脚に精一杯の力を込めて立ち上がった。まだ、胃も頭もぐちゃぐちゃで……さっきの先輩みたいに……溶けてしまいそうな感覚が残っている。ぐっと堪えて口内に残る酸っぱいものを無理やり飲み込む。
手の甲で口を拭おうとして、『彼女』のリストバンドが汚れてしまう事に気づいて。手を翻し、手のひらの側であらためて口を拭う。これ以上『彼女』の正義の証を汚したくなかった。
俺はまだ、君に会う資格がない。覚悟に見合った力も、精神も、全然足りない。
覚悟だけじゃぁ、駄目なんだ。強くならないと。強く在らないと。力だけじゃない。心も。
TT2プロトコルで1日が巻き戻る。何度巻き戻ろうが、この覚悟と想いは維持し続ける。君に胸を張って会いに行けるように。
俺はアイツの収容室へ入る。昨日、施設に初めて収容された、最高危険度ALEPHクラス。
正直、見るたびに意識が飛びそうになる。耐えてやる。
自分がこんなにも矮小だったのかと本能が悲鳴を上げる。耐えてやる。
身体と精神、同時にヒビが入るような感覚。耐えられる。君から抽出した服が、君の正義が、俺を護ってくれる。ここでヘタレてる場合じゃない。俺は決めたんだから。
君と真正面から向き合いたい。どんな形であっても、君の『正義』を受け止めたい。
その覚悟を決めたからには。