時に半端な知識は無知よりも 正直言って、自分の知識がここまで抜けているとは想定外だった。
WAWクラス以上であれば見れば大体は思い出すだろうと、たとえうろ覚えであっても、危機回避のために必要な最低限の知識だけは残っているだろうと。そう高を括っていたことは否めない。
今になって思い返せば、小さな王子の面倒臭さすらもすっかり忘れていた。もしアレを覚えていれば、気がついていれば。カイルノが犠牲になることもなかったかもしれない。
火の鳥に関してもおぼろげだった。――鳥?鳥型にこんな奴いたっけか。
作業を重ねるごとに収容室内は異常な温度の上昇を示す。見るだけで目が焼け焦げそうなほどの灼熱。収容室の中を踊るように舞う火の粉。そこまで行って、ようやく思い出した。コンテナの文言と共に。さらには作業結果が良いとクリフォトカウンターが減る、そんな珍しい特徴すらも忘れていた。
この程度の記憶で、皆の助けとなれるのか。こんな状態じゃ初見も同然じゃないのか。
うろ覚え程度であればまだマシなほうで、実際は自分が思っていた以上に、記憶というものは脆かった。
流石に名前はひと目見て思い出せた。鮮やかな縞模様を彩る黄色と黒。そして名の通りであればそこにあるはずのない深紅の口に、ぬらぬらと輝く生々しい牙。
女王蜂。
厄介だ、ということだけは強く印象に残っている。その肝心な『厄介さ』の正体が思い出せない。濃い霧に満ちた記憶の中を手探りで探す。探すどころか己の足場さえ不鮮明に思えてくる。本当にこの中に求めている記憶は残っているのだろうか。焦りが募る。
作業は何が適切だったか、脱走するタイプだったか、それすらもあやふやだ。覚えているのは見た目だけか?自分の情けなさに歯ぎしりが応える。口枷で見えやしないとはいえ、漏れ出てしまった焦燥が、ただただ悔しい。
管理人からは初手で本能作業を指示された。いつもの初手洞察作業とは違う流れに収まりの悪さを感じる。『いつも』と違う。ただそれだけで不安が湧き上がる。この不安だって、自分が最適な作業さえ覚えていれば避けられたのだ。もどかしい気持ちとは裏腹に手は留まることなく動き、手順通りに作業を進めていく。無性に腹が立つ。苛立ちを覚える。脳とは、記憶とは、こんなにも曖昧なものだったのか。
ふと、違和感。噛み合わない。何かが違う。作業結果こそ良好だが、何かが――。
何かが嵌まる音がした。
「管理人、コイツ洞察作業だ」
ようやく思い出せた。たったひとつだけ。ここまでかけて、たったひとつ。
ひとつだけでも思い出せたという僅かな安心感を、いまだ霧の中に潜む『厄介さ』への不安が塗り潰す。
作業結果が良ければ、まだ大丈夫なはず。だがそれは大半のアブノーマリティに言えることだ。稀に火の鳥のような例外もいるが。では作業結果が普通だったらどうだったか。普通でも構わない奴、普通では駄目な奴。どちらもそこそこ居たような気がする。どっちだった、コイツは。もう記憶なんざ放棄して最悪の事態を想定しておいたほうが手っ取り早い気すらしてくる。
まるでアテにならない、記憶と言っていいのかすら怪しい断片的ななにか。それでも縋らなければ。手繰り寄せなければ。厄介なのは、作業結果が普通でも起こり得るから……?
腕に鈍い痛みを感じる。作業の手が止まっていた。どうやら作業中に女王蜂がちょっかいを掛けてきていたらしい。果たして自分はそこまで思考に意識を割いていたのか。これで着ているのが黄金狂じゃなければ結構なダメージだったかもしれない。……痛み?
『首周りの痒み・腹痛を感じたら、できることは――』
霧が晴れる。足元が見える。見渡せばおぼろげながらも影が見える。そうだった。拡がる。こいつは、拡がる。
洞察作業が最適なはず、それは確かだ。だがどうも結果が芳しくない。思考に意識が割かれ、手が止まっていたからか。だとしたら……まずいかもしれない。腹に力を入れ、声を張り上げた。
今日のところはひとまず無事に切り抜けることができた。だがどうしても引っかかる。
作業結果が普通ならそこそこの確率、悪ければ高確率で胞子をばら撒く。胞子が取り付いた者は継続的にREDダメージを受ける。胞子のダメージで死んだ場合、身体を食い破って働き蜂が生まれる。働き蜂の攻撃で死んだ者からも働き蜂が生まれる。合っている……はず。
何故だ。合っているはずなのにどうしてこんなにも引っかかるんだ。
黄金狂の装甲を外しながら、もやもやした感情の正体を探る。合っている。合っていただろ。何が違うんだ。
考えがまとまらない。今一度端末で管理方法を見直す。記述と記憶に相違はない。気の所為なのか。脱ぎづらいインナーと格闘しながら管理方法を反芻する。
勢いよくE.G.Oロッカーを閉める音が響く。
「……あ、あ、……まさか、部門、そうだ、部門って……」
何てこった、じゃあ今日を切り抜けられたのは知識じゃあない。完全に運じゃないか……!
「――ッ」またも歯ぎしりが漏れる。この空間に居たくなかった。去り際、刺すような視線を感じる。振り払って足早にロッカールームを出る。クソ、クソ。俺は……
「何か思い出したんですね」
後ろから察しの良い男の声がする。思わず立ち止まってしまう。気づかれたならもう逃げられない。およそひと月少々の付き合いで、すっかり染み付いてしまった。今だけは見逃してほしい。足を止めたことを心底後悔した。
背後にプレッシャーが迫ってくるのがわかる。逃げたい。今すぐ逃げ出したい。それを許してくれないプレッシャーの出どころが、横をすり抜けて正面へ。……逃げられない。観念する。
「……お、俺は」
声が震える。察しの良い男は真っ直ぐこちらを見据えて目を離さない。心の裏側まで貫くような、何度も受けてきた鋭い視線。もう見なくてもわかってしまう。
目が泳ぐ。顔が見られない。顔を見るのが怖い。顔を見なくても、黙って続きの言葉を促しているのがわかってしまう。僅かな沈黙。耐えきれなくなり、絞り出すように言葉を続けた。
「俺は……俺が……ッ、俺が、グレゴリーを殺していたかもしれない」
「――!」
正面に立つ男が息を呑み、言葉を失う。明らかに予想外の返答だったという反応。無理もない。自分だって信じたくはない。こんな事。
思案ののち、呟くように。
「……記憶違い、ですか」
察しが良すぎてもう正面に立たれたら敵わない。頼む、見逃してくれ、これ以上口に出したくない。口に出したら罪が重くなりそうで、口に出せたとしてもどう切り出すべきかわからなくて。
続けるべき詳細を言い出せないまま、ただ時間だけが過ぎる。
察しの良い男が溜めて、ふぅ、と息を吐く。
「場所を、変えましょうか」
彼なりの精一杯の気遣いだったのだろう。……しばらく逃げられそうにない。どころか、どんどん退路を断たれている。
自分の部屋ならば多少は話しやすいだろうと思ったのだろうか。そのまま入るよう促される。完全に逃げ場を失った。逃げられないならもう仕方がない。社員証を通して解錠する。
「……汚ねぇぞ」
二つの意味を込めた一言。
「わかっています」
二つの意味が込もった返答。
嘗て誰も招いたことのない自室――いや、『あいつ』は2・3度来たことがあったか。
部屋を見せることで心の内側まで曝け出すようで、だから部屋に人は入れたくなかったし極力入れないようにしてきた。
最後に他人を部屋に入れたのは、『あいつ』が新しい特撮作品を布教しに来た時だった。
わざわざ社員寮まで来るなんて珍しい。余程見せたかったのだろう。押しの強さに負けてつい入れてしまった。『あいつ』に自室の様子を見せるのは恥ずかしかったが、それでも布教しに来ただけあって、観終わったあとはそんなことを忘れるくらい面白かったし、楽しい時間だった。
それでも、やはり自分の部屋を見せたくないという気持ちのほうが大きくて、できるだけ鑑賞会は『あいつ』の部屋でやるようにしていた。
部屋は持ち主の心を映す。――どこかの点で聞いた言葉。言葉だけが印象に残って、誰が言ったかなんて覚えちゃいないが。その言葉を聞いてからは、殆ど部屋に物を置かなくなった。
隠すべきことが多すぎて、部屋の様子からですら心の内を読まれるかもしれないと思うと、余計なものを部屋に置いておくのが怖かった。
最低限必要なもの以外でいえばせいぜい何作か厳選した特撮のDVD-BOXと、数冊の小林作品。管理人の部屋にはびっしりと棚にDVDが詰め込まれていて、さらには各種ノベルティグッズやフィギュア展示用の棚まであったのに比べたら……殆ど何も無いに等しい。――流石にアレと比べたら駄目か。
部屋に置いておくDVDも、大分削った。今の点はウランランスに頼めば大体望みのタイトルが出てくるし、そうでなくとも自分の好みはほぼほぼ『あいつ』譲りだ。趣味嗜好がそっくりな管理人に言えば貸してくれるからな。
「汚いどころか思った以上に殺風景ですね」
意外そうな声で率直な感想を言われた。
少なくともリビングスペースには生きるのに必要最低限なものしか置いていない。半ば空虚とも言える空間。部屋の備品も殆どクローゼットにぶち込んで、たまに特撮をちょっと観て、あとは寝るだけの空間。部屋が持ち主の心を映すってんなら、自分の心も空虚なのだろうか。……間違っちゃいねぇかもな。
飯は食堂で済む。最近はサウナに行く機会が増えたから浴室……というか脱衣所には多少物が増えたが、それくらいだ。
「いつ飛ぶかわからないからな」
半分はその通り。数回飛んだ時点で、物に執着したり未練を持ったりすることを諦めた。
もう半分は、それこそ要らない物を削っていったらこうなっていただけ。
「あなたの言う条件が合っているならば、もう点を飛ぶことはないのでは?」
返ってきた反応はやや心外だった。ああ言えば、てっきり腫れ物に触るかのような反応をするかと思っていたのだが。
スリッパどこだっけな。いつも履かないから……あ、ここか。
一足取り出して、察しの良い男の前に置く。僕はここで良いですよ、と一旦は断るが、もうここまで来たら同じだろ、とスリッパを押し付けた。渋々スリッパに履き替え、靴を揃えて置き直す(そういう所がこいつらしいんだよ)。
何もなさすぎて恐らく座る場所に困るだろう、とベッドに置いてあったくたびれたクッションを放り投げる。慌てて受け取り、では失礼して、とローテーブルの横に腰を下ろす。自分はそのままベッドに座り込んだ。
「ここで気ぃ利かせて紅茶の一杯でも出せりゃいいんだがな。生憎茶葉切らしてるんだわ」
「そこまで気を遣わせるつもりはありませんよ。今でもあなたが紅茶を淹れ慣れているという事実がにわかに信じ難いですし」
「あんたは俺のことを何だと思ってんだよ。それと、別に慣れてるわけじゃない。染み付いてるだけだ」
「あれ、元裏路地のドブ漁りじゃなかったんですか?」
「は、言ってくれらぁ」
腰を落ち着けて、心外な返答の続きを聞く。
「あなたは死んで、そのまま"昨日"へ置いていかれた時点で別の点に飛ぶ。もしくは、……管理人の死亡、などでこの施設が運営不可能となった時点で別の点に飛ぶ。僕の中ではそういう認識でしたが」
「……多分」
実のところ自分自身も正確な条件は把握しきれていない。『あいつ』が首を括ったときのことは……あまり思い出したくないが、管理人不在により施設運営不能、か。よく考えれば確かにそうだ。
『あいつ』の姿を見た時点ではそもそも自分が死ぬ要素なんて無かった。ショック死するようなノミの心臓でも無い限り。ただ呆然とぶら下がった『あいつ』をずっと見ているしかなかった。そうしたら途中でぷつりと意識が途切れていつの間にか飛んでいたんだ。
あとは……ん?
「ちょっと待てよ、"昨日"へ置いていかれた時点ってどういうことだ」
「言葉の通りですよ。あなたが死んだ状態でTT2プロトコルで巻き戻されないまま、その日の業務を終えた時点、という意味です。死んでから数日経って記憶貯蔵庫に戻るまで有効かどうかは流石にわかりませんが、そこはあなたの死亡経験不足なので情報が足りません」
「……死亡経験不足って、おい」
今まで何回死んだと思ってんだ。自分でもわからねえよ。そういえばこいつ、地中の天国で串刺しにされた時以外死んでないな。あれはもう止めようがないからノーカンとして、じゃあ実質ノーミスってやつか。
それで人のことを死亡経験不足呼ばわりしやがるかこの野郎。
「僕は単にあなたの発言から必要な情報を抜粋して推測しているに過ぎません。ですがあなたの発言そのものは信頼していますから、発言の通りそのままに意味を受け取った場合の話です」
「ややっこしい言い回ししやがって」
「僕はこれでも極力噛み砕いて表現したつもりだったんですけどね!」
「もっと裏路地のドブ漁りにもわかるようにペースト状になるくらい噛み砕いてくれよ」
皮肉交じりに茶化す。今に至る経緯の話と、逆行時計でやらかしたときの話して以来、随分とグイグイ来るようになったな。
「あなたのほうが年上で……いえ、いいです。今のは無しで」
「突然気ィ遣うんじゃねぇよ、調子狂うだろ」
そりゃ、単純に時間だけで見たら俺のほうがよっぽど長いこと『生きて』いる。でもな、そんな簡単な問題でもないんだよ。
殆ど何も得るものなしに死んだ点は無数にあったし、長いこと持った点でも基本的に目的は生き延びて管理人をXとして維持すること。Xを引き戻す手段を確立させるためにいくつの点を潰してきたかわからないし、引き戻してもずっとXの維持とメンタルの保護ばかりに注力してきた。
それから職員間のトラブルが起きないよう上手いことバランスを取ること。……あと、厄介なアブノーマリティの知識を叩き込むこと。それが……まぁ、半端だったから今こんなことになっているわけだが。
――ずっとそれらの繰り返し。一度確立させちまえばそれ以降は同じことの繰り返しだから、伸びしろってもんが無いんだよ。つまり俺が生きてきた日数を年齢換算する意味なんて全く無い。敢えて言うなら100年近く棒に振ってきたんじゃねぇの?知らんけど。数えるのだって大分初期の頃早々に止めちまったから、完全に体感だけどな。
そんな内容のことをざっくりとかいつまんで話したうえで、結論をぼそりと付け加える。
「だから、どんだけ繰り返そうがまともな人生経験積んでない以上、成長もクソも無いんだよ、俺には」
「僕はそうは思いませんけどね。『まともじゃない』人生経験ならたっぷり積んできたんでしょう?」
何か引っかかる言い方だな、と若干しかめっ面をしつつそのまま続きを促した。
「あなたの話に挙がった親友も仰っていたように、あなたが培ってきた危機回避や生き延びる術は、充分に僕らを生かす為の糧となっています。職員間のトラブルを緩和する手腕だって相当にアドリブが必要な事でしょう。それらだけでもかなりの経験が積み重なっているはずです」
「……そんなもんかねぇ」
「そんなもんです。繰り返しすぎて感覚が麻痺しているんじゃないですか? あなたが思っている以上に、あなたの中には様々な経験が詰まっていると、僕は思っています。あなたを観察しているうちにそれに気づいて、だからこそ、僕はあなたを信頼することにしたんです。……あの話を聞く前から」
そうだ、こいつは俺を怪しみこそすれ、27日目に管理人を引き戻す際も二つ返事で了承してくれた。俺自身のことも管理人のことも何も話せない、訳の分からない状態のはずなのに「あとでたっぷり話を聞かせてもらいますからね」と、後払いのような形で。
コア抑制の最中もずっとそうだった。「上層セフィラのコア抑制が終わったらすべて話すから」。そんなふわっとした条件でも、俺を信頼してただ待っていたんだ。
……結局、逆行時計でやらかした事については切り出せなくて、あとで詰め寄られたけど。今の点を裏切るも同然のことやっちまったんだから、まぁ訊いてくるよな。そっか、あのとき自分は馬鹿なことしてるなって思わず嗤っちまったが……見られてたのか。目ざといにも程があるだろ。『置いてってくれてもいい』なんて口滑らした俺も大概だが。口滑らすほどには磨り減ってたのか。自分じゃ気づかないもんだな。――あの時、『声』が聞こえなかったら……俺はどうなっていたんだろうか。
「まぁ……年上は否定しないし否定しようもないけどさ。俺は人事ファイル記載の生年月日が正しいって確証持ってねぇからな」
確かに人事ファイルのデータでもこっちのほうが年上ではある。正確な生年月日なんざそもそも自分自身知らないのだが、オフィサーとして雇用されたときと時間を飛んで管理職になってからで人事ファイルのデータに差異はなかったから、多分あれが俺の生年月日なのだろう。――どうやって調べたんだか。
何故自分の生年月日を知っているのか、何故俺なんかにL社の採用通知が来たのか。こっちが聞きたいくらいだ。今でも生年月日についてでっち上げの説は捨て切っていない。住所不定のドブ漁り如きにどうやって採用通知を届けたのか、ってのも正直滅茶苦茶怪しい。
「確かに、そこは疑問ですね……話を聞くぶんには、生き延びるために常に身を隠す必要があるから一つ所に留まっていられないとかどうとか」
「あんたらにはわからん世界だろうけどな。裏路地の治安も場所によって様々だが、俺にとっちゃまさにその通りだったよ」
ふと疑問に思った。
「……俺の経歴ってどうなってるんだろうな」
「何ですかいきなり」
「考えてもみろよ。俺は元々オフィサーとして採用通知を受け取ったんだ。その時の俺は確かに裏路地のドブ漁りだった。ここまではいい。『あの日』……逆行時計で時間が巻き戻って、俺はオフィサーじゃなく管理職になった。明らかにただ巻き戻ったにしちゃおかしいよな」
「そうですね。単純に考えて、ランク5の管理職とオフィサーが同時に使用したことで想定外の事態になりエラーを起こしてしまった、と考えればまぁ納得出来ない話ではないですが」
「そう、そのエラーだよ。逆行時計を発動させたのはランク5の奴、最終的に生き残ったのは俺。それで俺を管理職だと誤認した状態で巻き戻った、とかだったらさ。今の俺の過去ってそのランク5の管理職のものと入れ替わってたりしねぇのかな、って」
「あぁ、……成程。意識はそのままに、過去ごと入れ替わっている可能性ですか……。だとすると、あなたが点を飛ぶ度に『違う経歴を持つあなた』になっている可能性もありますよね? それを考え始めたらキリがありませんよ」
「あーー……、そっかぁ、それ考えてなかったわ……。やめ、この話やめ!絶対こんがらがる」
「それには同意です。……さて」
言いながら、居住まいを正す。対してこちらは溜息。……ま、そうだよな。部屋に上げた時点で覚悟は決まってた。
正直、ずっとこうしてうだうだ話し続けていたかった。まともにこいつと喋るときは毎度のこと立ち話。座ってるときは大抵サウナだったり管理人の部屋だったりで、他に誰かがいたから。腰を落ち着けて取止めもない話をする機会なんて、今までの点だって数えるほどしか覚えていない。ましてや俺が点と点を飛び歩いてる前提を承知の上で話せる機会なんざ皆無だったから。そのことについてゆっくり話せる時間がもっと欲しい。
――半分くらいは『本題』から逃げたかっただけかもしれない。わざと最初から本題に切り込まなかったのは、話しやすくするためだったのだろう。
「ダフネ。あなたが思い出したことを教えてください。できるだけ詳細に」
察しの良い男がようやく切り出した。再びプレッシャーが迫ってくる。
「女王蜂の管理方法、見てくれるか。3と4だ」
「ええ、出ました。クリフォトカウンター0で部門全体に胞子を放つ。そして胞子は職員に付着し、持続的にRED属性のダメージを与える。ここですよね?」
「ああ、そこだ。そこなんだけどな……」
あのときの記憶と文脈上は何ら変わりがない。ないのだが、同じに見えて胞子の挙動は全く異なるものだった。
部門全体に胞子を放つ、ここは合っている。問題は胞子のターゲット。
――『コンチまで走れグレゴリー!管理人、退避指示だ!』――
「……違ったんだよ」
思い出す。致命的な記憶違い。一步間違っていたら。そう思うと声が震える。呼吸が荒くなる。胸が締め付けられる。……苦しい。
「ダフネ、落ち着いてください。誰もあなたを責めることは出来ないんです」
「……すまん、コービン」
半ば涙声になっていた。コービンが立ち上がり、俺の隣――ベッドの上に腰掛ける。
「真正面にいるよりは多少気楽だと思います。どうかゆっくり落ち着いて、……待ちますから」
「っ、……悪ぃ……」
思い出せば思い出すほどに胸が苦しくなる。溢れ出るものが止まらない。感情を叩きつけるように話した。
「違った……違ったんだ、胞子のターゲットが……あれは部門に拡がって……っ、そこに漂うん……じゃない、部門の職員を、……直接っ、狙うんだよ!」
「……直接……」
「そうだ、直接だ、直接……だからっ、部門外に逃げても、無駄だったんだよ、……っ!」
止まらない。涙で顔も声もぐしゃぐしゃにしながら、それでも話し始めると止まらなかった。コービンが背中をさする。気を遣わせてしまっていることが無性に申し訳ない。
「……気密性の高い、収容室っ、あれをすり抜けてくる胞子だぞ!?まともな胞子なわけないんだ……胞子がっ……職員そのものを、ターゲットに、して、」
言葉が詰まる。コービンは何も言わずに待っている。「自分のペースで話してください」何も言っていないはずなのにそう聞こえた。
「たまたまだったんだ、俺と、っ、グレゴリーは……本当、に、たまたま胞子に狙われなかった、だけで……っ!グレゴリーの防具、っ、赤弱点……だからっ……もし、もしグレゴリー、がっ、ターゲットだったらッ」
もしグレゴリーがターゲットだったら。その先が言えない。声を絞り出そうとしても音にならない。
「俺が、おれが、っ、ぅぁ、……ぁ、ぁぁ……ああぁぁぁっ!」
胸を締め付ける苦しさに耐えきれなくなって、顔を突っ伏してしばらく嗚咽を漏らすしかなくなった。袖が涙でぐっしょりと濡れていく。
コービンはなおも黙って背中をさする。言葉は挟まない。余計な相槌も打たない。只々、次の言葉を待ってくれた。
ようやく涙も枯れてきたのだろうか、なんとか言葉を絞り出せた。
「……おれが、グレゴリーを……殺していたかも、しれないんだ……っ、俺の記憶のせいで、対処、間違えて、っ……」
「あなたのせいじゃありま」
「俺のせいなんだよッ!!」
背中をさする手がぴたりと止まる。
「俺の間違った記憶でっ、グレゴリーを、俺が、殺しかけたんだよッ!!」
「違いますダフネ!」「違わねぇよ!」
静寂の中、嗚咽だけが響く。
「グレゴリーは……っ、一度、俺が、殺したんだよ……!」
「――! ダフネ、それは……最初の」
「……あの時、グレゴリーは……死の、瞬間を、すげえ恐れてた……ッ!そうだよ、俺が!俺が誘導したんだッ、……あのとき、キュートの奴を……俺が、かんりにんを、誘導して……収容させたんだよ……!」
「……」
背中に置かれたコービンの手のひらに若干力が入るのを感じる。無理もない。いくらあのときのグレゴリーの死が管理人の指示ミスだったとはいえ、その原因を作ったのは間違いなく俺だ。別のアブノーマリティならあの死は起こり得なかった。実質俺がグレゴリーを一度殺したようなもんなんだ。
あの時のグレゴリーの恐怖に引きつった顔は今でも脳裏に焼き付いている。いつもなら同じことをしようがすぐ忘れちまうのに。付き合いが長くなると記憶もなかなか消えない。
……あの段階では、管理人を鍛えることばかり考えていた。勿論職員たちだって死ぬことに、死を見ることに、慣れておいて欲しかったフシはある。早めの段階で死を実感させることが、後々のメンタルを守ることに繋がる。だから……
「だから、慣れて欲しかっ……、でも、もう……死なせたく、な、――ッ……」
最低だ。俺のエゴで一度死なせておいて、今度は記憶違いで殺しかけた。しかも今度はいけしゃあしゃあと死なせたくないだなんて。
「ダフネ、あなたは」
「……軽蔑するか」
「するしないで言えば、……しますね」
「正直で……助かる」
変に気を遣われるよりは正直に言ってくれたほうがいっそ気が楽だ。
コービンの素直に意見を出す側面と、適度に気を遣う側面のバランスがどうにも話し易くて、悔しいが有り難い。
「軽蔑はしますが、責めはしません」
何だよ、ずりぃよその言い方。意図まで汲んでるつもりかよ。駄目だ、また溢れてきた。
「……すまない、コービン」
「言うべき相手が違うでしょう」
肩にぽん、と手を置いて、コービンが立ち上がる。切り上げるつもりか。
「そう、だな」
「仮に再度女王蜂を収容することになったら、今度は正確な対処ができるでしょう。だから後悔するのではなく、運良く生き延びたことを喜ぶべきなんですよ、『本来』は」
「本来、か」
大きく息を吐き、やや大げさにコービンが言う。
「そろそろお暇させていただきます。食堂、今のうちに行かないと目当てのものが売り切れますからね」
歩きながら、
「軽蔑は、この部屋を出るまでにしておきます」
「……すまない」
「お邪魔しました、ダフネ。……あなたもちゃんと食べないと、肉付きだけじゃなく精神的にも良くありませんよ」
「わーってらい」
コービンの奴、スリッパちゃんと元の場所に戻して行きやがった。そういう所なんだよな。
記憶違いの詳細は把握できたし俺の状態も良くなさそうだからって、一人にしてくれたのだろうか。察しが良いうえに気まで利かせるかよ。まったく……
「すまない」
誰もいない空間に、一言。感情も思考も滅茶苦茶で、誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。
……食っとけとは言われたがどうにも食欲が湧かない。ベッドに寝転がる。いっそこのまま寝てしまおうか。
眠れるだろうか。
今日みたいな記憶違いがまた起きないとも限らない。どころか、小さな王子や火の鳥なんかまるっきり忘れていたんだ、記憶違い程度起きて当たり前と考えたほうがいいだろうな。
となると……俺の記憶次第で、また誰かを危険に曝すことになるかもしれない。
上層のセフィラコア抑制が完了して、せっかく先に進めたと思ったのに。E.G.O回収で、俺の知識が幾ばくかでも役に立つかと思ったのに。
涙が溢れる。仰向けになり、瞼に手の甲を押し当てる。あの日の……3日目の、グレゴリーの顔が浮かぶ。もうあんな顔はさせたくない。そう思って、何とかして助けようとして……。
俺の誤った記憶が、グレゴリーを殺すかもしれなかった。もし胞子がグレゴリーを狙っていたら。咄嗟にREDシールド弾を撃つように管理人に言えただろうか。――無理、だろうな。……俺だけなら黄金狂の耐性で耐えられるんだろうが。
いくらRED耐性があったとしても、やっぱり胞子にじわじわと身体の中を食い荒らされるのは……ああクソ、思い出しちまった。
胞子に食われている間は再生リアクターも回復弾も効かない。シールド弾の補助が無い限りは胞子の活動限界いっぱいまでじっくりゆっくり、身体中を内側から食われていく。耐えていればそのうち胞子が弱って消滅するから、生き延びさえすればじき再生リアクターで元通りになるが、あの感覚は正直……キツい。
腹に何かが蠢く感触と首筋の激しい痒み。痒いからといって掻くと余計悪化する。痒みが増して更に掻きむしって、柔らかくなった首筋の肉が格好の餌となり、食い破りやすい出口となる。もしRED耐性が弱点だったら……考えたくない。
俺は危うくグレゴリーに……あの苦痛を、下手したら内側から食い破られる死の恐怖を……味わわせてしまうところだったんだ。
息を整えて溜息を吐く。何もしないでいたらずっと考えてしまう。この調子じゃ眠れそうにない。無理やり何か食って、サウナ行って……そのあとはそのあとだ。
寝ようとしたらきっとまた思い出すに違いない。だが少しでも目を閉じておかないと明日ぶっ倒れる。
目を閉じても、コービンの仮説が確かならば、就寝中に突然死でもしない限りは多分きっと飛ばないだろうけど。
その代わり、目を閉じるとさっきの光景が、オフィサーの身体を食い破って出てくる働き蜂の姿が見える。ただ運が良かっただけ。ほんの少し運が悪ければ、グレゴリーがああなっていた。オフィサーの最期の瞬間とグレゴリーの姿がかぶる。俺の記憶が、知識が、今後また誰かを殺すかもしれない。駄目だ、しばらくはずっと続くだろうな。
例え生き残れたとしても、『ああならなくて良かった』、誰かが犠牲になったら、『俺の記憶のせいで』。ずっと引きずる。自分の思考は自分が一番よくわかっている。
あー……、寝不足だと過労死しやすいっていつか聞いたことがあるぞ。以前寝た時に飛んでたのは過労死でもしてたのか?それじゃ尚更眠らないとまずいじゃねぇかよ。この精神状態で?無理だろそんなん――
――やっと安心して目を閉じられると思ったのに――
抑えきれなくなった涙が一筋、枕を濡らす。もう……飛びたくない。