運命なんて.
「一目見たときから運命の番だってわかった」
恍惚とした表情を浮かべて近寄ってくる男。何度か会った気はするが名前すらも覚えてはいないその男は、そう語りながら両手を広げてアルハイゼンの元へとゆっくりと近付いてくる。普段であればその横を気にする事なく通り抜けてこの場を去る所だが、今はそういう訳にはいかなった。拘束されているわけでも退路を絶たれているわけでもない。けれど、胸はザワザワと波打ち脳がクラクラと揺れ全身がこの場を離れるなと訴えかけている。
「俺に何をした」
「君には何もしていないよ。どちらかと言えば、何かしたのは自分の方かな」
言いながら男は取り出した注射器をアルハイゼンに見せつけて地面に落とした。落下と共にカランっという音が部屋に鳴り響く。なんて事はない些細な音が鼓膜を揺らし目の前が揺らぐ。上昇する体温、早くなる動悸、吐き出される熱い息、堪え難い欲望。これらが意味する事は一つだ。
「発情誘発剤か」
「ご名答。君には通常のオメガの発情は効かないって噂だけど、流石に運命の番の発情には逆らえないよね?」
少し手を伸ばせば届く距離。男は面白そうに笑みを浮かべて熱の篭った瞳でアルハイゼンの顔を覗き込んでくる。
確かに、アルハイゼンは他のオメガが目の前で発情しようが理性で抑え込み、表情や態度を変えることはなかった。だが、男の言う通り今はお世辞にも普段通りとは言い難く、油断すれば今にも目の前の男に襲い掛かりそうだ。
(これが運命の番か、厄介だ)
「ほら、噛んでいいよ?番になろう。これが定められた運命なんだから」
男が目の前で熱い息を吐きながら、熱を帯びた首元を晒してアルハイゼンに見せつける。伸びた腕がアルハイゼンの身体に回され擦り寄るように密着した。
強烈な何かが込み上げて爆発しそうになる。必死に耐えようと目を瞑り歯を食いしばった。ぐらぐらと揺れる思考に脳が焼き切れそうだ。本能に抗っているせいか、耐え忍ぼうと力んだ弊害か、次第に胸が痛み息苦しさに食いしばった歯を解放して空気を吸い込みそうになる。だが、きっと口を開けた瞬間全てが終わる。少しでも開いたら最後、アルハイゼンは目の前にある首筋に噛み付いてしまうだろう。それほどに強烈で抗い難い欲望が身体の内でのたうち回っている。
ああ、目の前の男を押さえ付けて組み敷いて、その顕になった首筋に噛み付いて
―ジブンノモノニシテシマイタイ
『アルハイゼン』
理性が飛ぶ直前。ふと柔らかい声が耳の奥に流れ込んだ。キツく瞑った目蓋の裏に浮かぶ金色を纏った男の顔。優しく微笑む見知った男が優しく語りかけた。
『無理はするな』
ああ、君は幻聴でさえも俺の心配をするのか。
気を抜いてはいけない状況の筈なのに、目の前に浮かぶ男の笑顔がアルハイゼンの思考を揺らした。
導かれる様に目の前の男の肩に腕を回し、大きく口を開いた。恍惚とした表情で歓喜に震える肩を押さえ付け、齧り付く。強く噛んだ歯が皮膚を裂き溢れ出す鉄の味が口内に広がる。
「……な、なんで」
腕の中の男が目を見開いて動揺するのを横目で見てゆっくりと齧り付いた口を離した。自身の腕にくっきりとついた歯型からじんわりと滲み出す血が垂れるのを見ながらアルハイゼンは深く息を吐く。痛みのお陰で脳が正常な思考を取り戻していくのを感じながら、口元についた血を拭った。
「う、嘘だ。だって僕と君は運命の番で、運命の番に抗える人なんて、そんな、いるわけがっ」
ぶるぶると震え出す肩を強く押して離れると、そのまま男は尻餅を付いて座り込んだ。信じられないと動揺しきった瞳でアルハイゼンを見上げるが、アルハイゼンが男に視線をやることはなかった。
「運命の番?それが定め?自己の気持ちを無視した定められた運命に何の価値がある。そんなものは『クソ喰らえ』だ」
吐き捨てた言葉と共にアルハイゼンはその場を後にした。急ぎ足で向かうのは勿論自身の家だ。
そこに居る筈の男を想う、早く会いたい、なんて口にすれば正気を疑われそうだ。
「カーヴェ」
バンっと勢いよく家のドアを開け放ち家の中を見渡す。名前を呼べば、音を聞きつけたカーヴェが部屋から姿を現した。
「アルハイゼン、おかえっ、うわっ!」
その姿を見た瞬間アルハイゼンは走り出していた。そのままの勢いでカーヴェをキツく抱き締める。嗅ぎなれた華やかな匂いが鼻腔を満たし昂った精神が落ち着いていくのを感じる。暫く戸惑っていたカーヴェがゆっくりと背中に手を回して優しく背中を摩った。
「帰ってきていきなり熱烈だな。一体どうしたんだい?……身体が熱いみたいだけど、もしかして『ラット』か?」
同じアルファであるからか、直ぐにアルハイゼンの異変の正体に気付いたカーヴェが心配そうにアルハイゼンの顔を見つめた。そのまま、ベッドに行くかい?なんて言うものだから、アルハイゼンは大きく息を吐いてカーヴェの首筋に顔を埋める。
「今の状態だと加減が出来そうにない。君に酷い事はしたくない」
「君が僕を気遣うなんて、余程弱っているようだね。って、君!怪我してるじゃないか!」
アルハイゼンの腕から滴る血を見つけて、カーヴェが騒ぎ出す。ちょっと待ってろ!と医療箱を取りに行く背中を見送ってソファに腰を落ち着けた。
バタバタと戻ってきたカーヴェがアルハイゼンの腕の手当てをしながら、真剣な表情で口を開く。
「自分の腕を噛んだのか。もしかしてオメガの子に噛み付きそうになったのか?君がヒートに当てられるなんて珍しいな」
「……」
「無言は肯定と取るぞ。別に隠す必要はないだろう。僕だってアルファなんだ、気持ちはわかる。気には要らないが一方的に責めたりはしないよ」
「……運命の番とやらに会った」
「え」
アルハイゼンの言葉に動きを止めてカーヴェがアルハイゼンを見つめた。揺れる瞳がカーヴェの心の動揺を映し出していた。それほどにアルファにとって『運命の番』とは特別なものなのだ。
「運命の番相手に君は抗ったのか?君の理性は本当、どうなってるんだ。そんな例聞いた事ないぞ」
「きみが」
君が『無理するな』なんて言うから。
だから、俺は意地でもその言葉に抗おうと思ったんだ。
なんて言えば、また怒り出すだろうか。
「僕が?」
「何でもない。気にするな」
「気にするなって、君ねぇ。……で、君はその大丈夫だったのかい?アルファの本能に逆らったんだ、辛かっただろう」
「……うん」
皮肉の一つでも返そうとしてやめた。今はこの優し過ぎる男から与えられる甘味を享受したい。手当てを終えて医療箱を閉じる手のひらを掬いあげて唇を落とす。そのまま腕を引いてバランスを崩したカーヴェを抱え込むようにしてソファに寝かせる。覆い被さる様にカーヴェに影を落とすと砂漠の鉱石を宿した瞳が優しげに細められた。
たったそれだけの仕草にどうしようも無いぐらいに胸が締め付けられる。
―ああ、彼の首筋を噛んで自分のモノに出来るのであればどれ程良かった事か。
首筋に甘く噛み付くとピクリと肩が震える。その震えすら愛おしい。
運命の番が暴力的なまでに理性を無理矢理引き剥がそうとするのに対し、カーヴェは優しくアルハイゼンの理性を溶かしていく。それは何よりも抗い難く、与えられるがままにアルハイゼンは全てを甘受する。
「今日はしないんじゃなかったのか?」
「気が変わった」
「ははっ、運命の番にすら抗った君がアルファに対して理性の一つも保てないなんて、誰も信じやしないだろうね」
「オメガもアルファも関係ない。君だからだ、カーヴェ」
言葉と共に胸元に唇を落とす。擽ったそうに身体を揺らすカーヴェが顔を傾けて首をさらけ出した。
「凄い口説き文句だな。精神的な番にはなれなくても、君の証位は付けれるだろう?」
どうしてこの男はこうも簡単に鉄壁であるはずのアルハイゼンの理性を消し去ってしまうのだろうか。欲望のままにアルハイゼンはその綺麗な首筋に自身の証を残すために力強く噛み付いた。
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