優しい嘘吐き「……なんだ、何か面白い事でもあったか?」
いつものようにマスターの部屋の留守番をしていると、彼女は俯きながら帰ってきた。
別に留守番なんて頼まれてはいない。だが俺が部屋に常駐している都合、そうなってしまう事は多々あるのだ。
その表情を伺うに、酷く無表情に見えた。
マスターは無言のまま、俺が座り込んでいるベッドに倒れ込む。その身を重力に委ね、俯せで布団に顔を埋めた。
「それで、どうだったんだ?」
「しばらく、休めって」
「ふーん……なんだ、クビにでもされた?」
「…………ううん」
普段であれば、あまりにもタチの悪い俺の冗談にも元気に反論して怒る彼女なのだが、今はそんな空元気すらない、といった様子だ。
マスターはパタリと寝返りをうって、仰向けに天井を仰いだ。特に返事もないまま、時間が経過していく。
しん…と耳の奥で空気の震える音がした。
そのくらいには、お互い無言でいた。
別に彼女から直接言葉で聞く必要はない、俺にはそれを視る術を持っているのだから。藤丸立香の心の声を、叫びを、ずっとずっと視てきたのだから。
それは、あまりにも虚しい心の内だった。
今のマスターの心には、自我というものがあまり無い。それでも以前はこれほど空虚なんていう事はなかったはずだ。しかし彼女の心には色々なモノが巣食っていて、自我を持つ余裕すら無くなったくらいなのだから。
汎人類史を取り戻すという命題
カルデアスタッフからの期待
そして、時折りする後悔と自分への憤り
彼女にはそんなモノがぱんぱんに詰まっていて、まるで並々と水を注がれた水風船のようだった。今にも破裂しそうだったそれは、ギリギリの表面張力で崩壊を凌ぎ、耐え続けていたのだ。
それがきっと、限界を迎えたのだろう。
一度破裂して溢れ出したものは取り返しがつかない、覆水盆に返らずというやつだ。残されたものは惨めに破れた風船だけで、これ以上空虚なものはないくらいだ。
俺はそれを把握しつつも、何もしてやれない。
残念ながら、俺だって中身のない空洞の虫だ。彼女の崩壊を防ぐ手立てもなければ、失ったものの代わりに何かで満たしてやる事もできない。
そもそもあんなのは気持ちの悪い献身だ。自己犠牲の精神なんて俺にはさっぱり理解できないし、無償の愛だの人類愛だの、そんなのは知ったことではない。
それでも、そんな中身を失ってしまったマスターを見ていると、俺は親近感ともいえる共感を抱いてしまった。ブリテンにおわりを齎した終末装置であった俺は、役目を果たした時に何も残るものはなかった。
そんな空っぽの俺がマスターである彼女にできる事なんて、実際のところ無いに等しい。
僅かにあるとするならば、隣にいてやる事くらいのもので。
「もう、休んだらどうだ」
返事もなく仰向けでぼんやりする彼女の頬を撫でるものの、相変わらず反応がない。
「もう、全部やめてしまえばいい」
もしかしたら、愛なんてもので満たしてやれればよかったのかもしれない。だが残念ながら俺にはそんなモノを持ち合わせてはいない、それは叶わぬ事だった。
それでも。
天を仰ぐ無表情を、覗き込む。
額にかかる髪をかき分けて、そのままそっとキスをする。彼女は俺を受け入れて、抱きしめあって、心を寄せあって眠りに落ちていく。
「俺が、全てにおわりを与えてやろうじゃないか」
きみの心を苛む全てのものに、おしまいを。
だから、こんなところで立ち止まるな。生きて、生きて、どこまでも走っていけよ。
────その言葉を口にする事ができたなら
「……ありがとう、オベロン」
久々に、きみの微笑みを見た。触れる肌に熱が籠るのを感じて、少しだけ……ほんの少しだけ、安心した。