カラン、と響く軽やかなドアチャイムの音と共に開かれたドアから、出てゆく客と入れ違いに爽やかな春風と青い緑の香りが舞い込んだ。
誕生日の贈り物なのだという花束を大切に抱き締めた客の背中を見送りながら、イサミはふと脳裏によぎった疑問をカウンターの上で忙しなく動く小さな姿へ投げかけた。
「……そういえばお前、誕生日ってあるのか?」
生まれた日はきっとあるだろう。ただ、それを誕生日として記録し、祝う文化があるのかまでは分からなかった。ただ、もしわかるなら祝ってやりたいと思ったのだ。
「ああ、ちょうど今日だぞ」
「へえ今日なのか。……今日⁉」
何気なく告げられた言葉を一度は聞き流しかけたイサミだったが、「今日」の意味を数秒遅れて認識し、驚きに目を剥く。
ぷきゅぷきゅと足音を鳴らす『かんたんな方』の姿のブレイバーンは、イサミの驚きの声に「そうだ!」とあっけらかんと答え、天板に散らばっていた葉やリボンの端材を集め終えるとまとめて卓上のゴミ箱に詰め込んだ。
「数多が重なって存在する多元宇宙、その中のひとつで『私』という存在が生まれ、デザインされた日が今日。四月二日なんだ」
「ん? んん…?」
ただ誕生日と呼ぶには妙に間怠い表現に、イサミは思わず首を捻る。
ひとたび出自を問えば「地球外の機械生命体」だの「勇気の概念的存在」だのと様々に自身を自称するこの謎のロボットには、恐らく出生からして難解な何かがあるのだろう。
今や謎の存在を謎のまま深く考えず、そのまま日常に受け入れてしまうことにしたイサミにとっては、彼が抱える謎などもはや追及するような事でもなく、ただ「そういうもの」として聞き流すだけの事柄になってしまっていたが。
よく分からん、と率直な感想を口にすれば、ブレイバーンもさして気を悪くする様子はなく、そうか、とただ相槌を返した。
「今日というのも、あくまで無数にあるうちのひとつの定義でしかないんだ。私の願望を言えば、『この私』がイサミに出会えた日をこそ私の誕生日と定義したいところなのだが」
「あ?」
「……うん。そうだな! やはり今からでもそうしよう! イサミが私を見つけて私がイサミを見つけた、ふたりが出会った祝うべき素晴らしい日。あの日にこそ、真に私は生まれたのだから! そうあれは、二十年前の十二月―…」
「待てアホかお前は。誕生日はそんな風に自由に設定するもんじゃないだろ」
唐突にアクセルベタ踏み状態となったブレイバーンの恍惚とした語り出しに、イサミが呆れて言葉を被せる。途端にぴたりと口上が止まり、振り返ったガラス細工めく大きなグリーンアイはきょろりと瞬くようにイサミを見上げ、呟いた。
「そうなのか?」
「そうなんだよ」
人間社会に適合するのは妙に上手いくせに、こういう根本的な部分に致命的なズレが残っているのはいったい何なのだろう。イサミは内心思いながら、レジの隅に置いていた折り畳み椅子を引っ張り出し、腰を下ろした。
座ったことで小さな姿との距離がぐっと縮まると、ブレイバーンは頬杖をついたイサミに嬉しそうに近付き、短い足で器用にあぐら座りをしてから正面を陣取り、こちらを仰ぎ見た。
「それで、プレゼントは何がいいんだ?」
「うん?」
「お前、今日が誕生日なんだろ? 花でもケーキでも、何かモノでも。俺がやれる範囲のものだったら用意してやるよ」
さすがに今日だというのは驚いたが、この奇跡のようなタイミングを思えばむしろ過ぎていなかっただけ幸運だろう。
「欲しいもの…」
今度はブレイバーンが首を捻る番だった。
ブレイバーンは案外無欲で、「イサミと共に居ること」以外への執着や嗜好を見せることがほとんどなかった。
好きなものを問えば「もちろんイサミだ!」とだけ返ってくるし、イサミが作ったものならばなんでも美味しそうに食べる。
だから、何かプレゼントをと思ってもその何かをどうすればいいか、という部分がイサミにはちっとも思いつかなかった。
「言っておくが、俺と一緒に居られればいいってのは無しだからな。それ以外だ」
「そ、そんなっ!? イサミぃ!?」
実質的な「何も要らない」を回避するために、イサミはそれを告げたが、どうやらブレイバーンは言葉の意図を違えて受け取ったらしい。
あわあわと狼狽える小さな姿が可愛くて、それだけじゃなくきっと、「かんたんじゃない方」の姿でさえ、自分は同じようにかわいいと思ってしまうのだろうな、と到来した自覚にほんのすこし苦く笑って、イサミはブレイバーンの柔らかな頬をつついた。
「……あのなあ、何を勘違いしたのか知らんが、そんなのは今更プレゼントにならねえんだよ。俺はもう、お前が自分で出て行かない限りずっとお前と一緒に暮らすつもりでいるんだから」
普段だったらわざわざ訂正などしてやらないが、今日は祝うべき誕生日なのだ。年に一度、今日くらいは素直な胸の内を明かしたっていいじゃないかと、頭の中で誰にともなく言い訳を並べる。
イサミにはもう、この謎の居候をどこかに追い出すつもりなどちっともなかった。もし二人の間に別れがあるとすれば、それはブレイバーンがイサミの元を離れていく時なのだとさえ思っていた。
イサミにとって彼はもはや居候などではなく、家族に等しい存在へと変わっていたから。
「い、イサミぃーーーーッ!」
小さな体が感極まったように叫び、その場からぴょん!と小動物のように飛び跳ねてイサミへと抱き着く。その瞬間、いつかの流星が降ってきた夜のようにまばゆく激しい閃光が、イサミの視界を真っ白に塗りつぶした。
「……重てえ」
ちかちかと明滅しながら色の狂った視界に、ぼんやりとした輪郭が少しずつ戻ってくる。勢いづいたままタイルへと押し倒されたイサミはほとんど無抵抗に床に縫い付けられながら、眇めた目でそれをした犯人である二メートル超えの鋼鉄の巨躯を見上げた。
全身に柔らかくのしかかる重みは、イサミの人生にインクのように濃く染み込み、そのまますっかり馴染んでしまった鮮やかな赤色をしている。
「す、すまない…! どうやらイサミへの気持ちが溢れすぎてしまったようだ……」
「そういうシステムだったか? これ」
マスコット然としたあの姿から一転、様変わりして美しい彗星の輝きだけを片っ端からかき集めて束ねたようなハンサムフェイスが、イサミを見つめるたび白皙の頬を薄く染めていた。
「そういうこともある」
「あるのか…」
「店内で9メートルにならなかったことを褒めてくれ。これでも精一杯踏みとどまったんだ」
「そうだな。もしなってたら、さすがに前言撤回してお前と絶交してただろうな」
「なッ…イサミッ!?」
「冗談だ」
先ほどとは比べるべくもない美貌が慌てる姿はやはり想像していたとおり可愛くて、装甲に彩られた柔らかな頬へ手を伸ばす。
猫の子めいて差し出された手のひらへすり寄ったブレイバーンは、好きだ、大好きなんだ、と唇を伴っていとけない愛の言葉をイサミへ落とした。
「……イサミ、やはり私は君がほしい。イサミだけがほしいんだ。その他には何もいらない」
イサミがほしい。君だけを愛している。花よりもケーキよりもプレゼントよりも、イサミひとりの存在が勝るんだ。流星群の夜のように次々降ってくるくちづけの合間に、低く潜められた熱の籠る声が懇願する。
真っ昼間の花屋の明るい店内は、気付けばブレイバーンの宇宙よりも広く深く大きな愛だけで満たされていた。
イサミもまた、ついばむように触れてくるだけの唇をやわく食み、薄く口を開いて見せて、大きな舌が口内を舐ってくることを誘う。
時間も場所も忘れて、ふたりは温度も大きさもなにもかもが異なるふたつをひとつに絡め続けた。
「――ひとつだけ、欲しいものを思いついたんだ。イサミ、私にイサミの時間をくれないか。今日一日、この店の営業が終わってからでいい」
「それはいいが……せいぜい三時間ぐらいしかないだろ、それ」
唇の表面がふやけるほど重ねていたキス
「いや、それでいいんだ。イサミが花屋のエプロンを外してから今日という一日が終わるまで、この一夜だけ、どうか、『私』に乗ってほしい」
「さあ! 私の中に乗ってくれ!」
「いやお前…マジかこれ……」
閉店作業を終え、すっかり更けた夜の海。イサミはブレイバーンに連れられて、とある浜辺を訪れていた。
「何も躊躇することはない! 私のここはイサミ専用なのだから!」
差し伸べられた手のひらに乗るのは初めてではなかった。9メートルの巨体の肩に乗る事も。けれど『ここ』に乗ったのは、そもそも人間が乗れる構造になっていることを知ったのは今日が初めてだった。