いちばん恐ろしかったはずの記憶は、今ではうすぼんやりとした輪郭しかイサミの中に残っていなかった。
戦後のメンタルケアの一環として、イサミが半ば無理やりに同部隊の面々によって押し込まれた部屋は極端に物が少ない――刺激の少ないつくりをしていた。
終始、神妙な顔でイサミと手元のカルテとを見比べていた医者いわく、その忘却は心の防衛本能によるものらしい。 時間が解決するという言葉を添えて、イサミにはそれなりに強い眠剤と頓服薬が処方された。
だが、解決するまでの時間はイサミを否応なく苛んだ。
脳裏にこびりついた曖昧なディティールの夢にイサミはひどく魘され、そのたびに全身を汗みずくにして飛び起きる日々が続いた。締め付けられるように頭が痺れて、理由なんて要らないほど自分を取り巻くすべてが怖かった。たった一度でも大切なものを投げだしてしまえた自分が恐ろしかったのだ、
絶望のあと、自分は確かにもう一度与えられた勇気によって霧のような恐怖を払い、再び立ち上がることができた勇気ですべてを物語のように美しく解決したはずなのに。
今のイサミが思い出すことと言えば、勇気を失くしてしまった瞬間のことばかりだった。あれ以降、まるで自分のなかにあったそれがすべて燃やされ尽くしてしまって、今の自分はただの残り滓にでもなってしまったようだった。
敬愛すべき隊長の、気遣わしげな表情を思い出す。あの人は「休め」と言ってくれた。あの人らしい優しさで、きっと相当な無理をしてどうにかねじ込んで、本来ならそれが許される状況にないはずのイサミに、長い休暇を与えると言ってくれた。
だが、イサミはそれを丁重に断った。
それならば、とあらかじめそうなるのを読んでいたようにすぐさま提示された代案は、復興支援の裏方にあたる業務だった。対人の関わりは限りなく薄く済み、けれど肉体的には相当に負荷の多い課業。なぜ休暇を断ったのか、イサミは最後まで口を噤んだままだったのにあの人は説明せずともすべてが分かっていたようだった。
異動初日。どうしてかヒビキも共に一時転属となっておりイサミはひどく驚いたが、「隊長に任されてんの。今のあんたを一人にしたくないから」「イサミはたくさん踏ん張ってくれたからさ。今度はあたしたちが支える番だよ」と笑っていた。
ヒビキがイサミに対して気遣わしげな態度を見せたのはこれが最後で、これ以降は今までイサミが長年見て来た通りのいつものヒビキだった。軽口を叩いて、くだらない話をして、笑顔を見せてくれる。そんな風に付き合ってくれるのは正直有難かった。
そしてサタケが与えてくれた忙しさは、イサミの中に色濃く残る恐怖を最大限に薄めてくれた。限界まで体を動かして気絶のように意識を失えば、夜中に飛び起きる回数も少なく済んだ。夢すら見ずに泥のように眠れた。そうすることでしか、やはりイサミはこの恐怖と対峙できなかった。
だが、そんな日々が続いたある日。久しぶりに夢を見た。
昼と夜のあいだ。明るくも暗くもない時間。たったひとりですごくすごく怖いものをみた。
相変わらず曖昧な夢だ。けれど、感じる恐ろしさも何ひとつ変わってはいなかった。大切にしていたものすべてが手のひらから滑り落ちて、地面に叩きつけられて粉々になってしまったような感覚だけがあった。具
体的に何が起こったのか、いつの、何の夢を見ているのかはやはり思い出せない。けれどとにかく怖くて、恐ろしくてたまらなくて、嫌だ、いやだいやだいやだ、と夢の中でもがいた。
真っ黒い何かがこちらを睨んでいた。憤怒に染まった声が何かを叫んでいた。そして大きな腕が、得物が、イサミへと振り下ろされる。怖い何かが真っ黒にイサミの視界を塗り潰す。
――そんな恐怖の最高潮で、イサミは目覚めた。
ばくばくとやかましく心臓が跳ねている。呼吸すらままならない。じんわりと汗を吸ったシーツが気持ち悪くていっそのこと起き上がってしまいたかったが、寝ている同室の隊員たちを起こすのははばかられて頭からシーツをかぶってうずくまり、ひたすらに呼吸を鎮めることに努めた。
怖い。内臓がじくじくと黒くて痛い重いものに浸されていくような感覚だった。夢だったのに、あの、なにか怖いものは夢で、目覚めたここにはもう無いのに。手足は冷え、痺れさえ伴う。なにがそんなに怖かったのかはもうほとんど分からないのに、理屈などではもはや御せないほど何もかもが怖くて怖くて仕方なかった。
手探りで枕元に手を伸ばす。お守り替わりに置いている頓服の内用液を指先の感覚だけで探し当てると、もつれる指先でどうにか先端を切り、薄甘いつくりものの柑橘味をしたそれを一気に口内へと含んだ。恐怖に引き攣る喉で無理やりに嚥下し、息を吐いた。
そのまま、飲み干した内用液の空袋を爪が食い込むほど、骨がきしむほどに強く両手で握り込む。 早く朝になって欲しい。課業が始まれば、考える暇もないほど身体に負荷を掛けて動かすことが出来れば、この恐怖をほんの一時振り切れる。そうすれば、 再び夜が来るまでは忘れていられる。いつもそうしてきた。できていた。だから早く。早く早く早く。
ほろり、と目尻にたまった涙が滑り落ちる。助けて。はく、と音にもならない乾ききった唇をひらく。すがるように思い出したのは親友の――相棒の姿だった。かつて相棒が成っていた、もうどこにもいない大きな姿だった。
大切な相棒が帰って来た奇跡の代わりに、あのロボットは空っぽの機体すら残さずに消えてしまった。ふたりは同じものだったはずなのに、『あいつは居ない』という感覚がいつまでたってもイサミの中から消えなかった。もう頼れないんだ。そう考える瞬間ごとに心臓が握りつぶされそうになった。
助けてくれよ、ブレイバーン。
頭の中で名前を呼んだ。もう居ないモノの名前を。初めからいなかったモノの名前を。力を入れすぎた眉間が震える。もうどこにも届くわけがない懇願を何度も何度も叫ぶ。ひとりではもう、耐えられなかった。怖いのは嫌だ。苦しいのも、辛いのも、寂しいのも、無理なんだよ。そう言ったのに、どうして置いて行ったんだ。消えるなら連れて行ってくれればよかったのに。だってお前が居なくちゃ、俺は。
「…………ぶれい、ばーん、」
ぐちゃぐちゃの頭を満たした名が舌に乗る。ついにあふれ出した言葉がちいさく音を零した。
――その瞬間、宙から大きな星が降った。