イミテーション・タイムリープ 最後にあのバスに乗ってから三ヶ月が経った。
N社大鎚として浄化に勤しむムルソーは、数年前のある時期から断続的に、不思議な現象を体験していた。鏡の中にある別の世界へと呼び出され、戦闘行動をするというものである。そこで自分は“人格”と呼ばれ、“その世界にもともと存在するムルソー”がその人格を被る……いわば、憑依のような状態となっていた。その世界には頭に赤い時計の……“仮面”を被った“管理人”という者がおり、その者が人格を呼び出したり被せたり、戦闘の指揮を執ったりしていた。その管理人と十二人の戦闘員、およびその他数名のスタッフがバスに乗って移動しており、彼らは“リンバスカンパニー”と名乗っていたことを記憶している。
管理人の指揮を受ける戦闘員の中には、握る者……とそっくりな顔の女性がいたので(被る人格として握る者もいらっしゃった)、ムルソーは驚いたのだった。N社上層部と協議することこそあれ、何者かの指示を受け従う握る者など、ムルソーは見たことがなかったからだ。ただ、彼女がいて助かったとムルソーは思っている。でなければ、あの“仮面”の管理人への対応を間違ってしまっていただろう。また、彼らが乗っていたバスは、その世界の彼女が設計したものらしく、どの世界でも握る者は天才なのだと再確認したムルソーは深く納得したのだった。
一方、その世界のムルソーはというと、N社に勤務していた時期はあったようなのだが、とある理由で退職し、リンバスカンパニーに雇用されたようだった。間借りした身体を通して感じられたことには、彼の所属していたN社にも“釘と金鎚”の派閥は存在していたようで、しかしながら彼はあまり関らず、握る者とも出会わなかったらしい。自分ではない自分の可能性を垣間見るのは、不思議な気分であった。
管理人を始めとしたバスに乗る彼らの目的は、“黄金の枝”なるものを集めることのようだった。そのために彼らは、各地に点在するロボトミーコーポレーションの旧支部を探索したり、あるいは例のバスの裏口から行けるという謎のダンジョンで資材を集めたりしており、人格としての我々はその過程で呼び出されていた。ときには、彼らがかつて戦ったという、その世界の“釘と金鎚”についての記憶を元にした敵性存在とも交戦することがあったが、彼らは“クローマー”なる女性を崇める偽物であったため、問題はなかった。こちらの世界にいれば握る者を輔弼する良き金鎚になったであろう者もいたので、いささか勿体無い気はしたが……ムルソーが思考するべきことではなかった。
そう。あの世界について、ムルソーが思考を割くべきことはほぼないのだ。たとえ人格として呼び出されたとしても、それで大鎚としての生活が変わるわけではないのだから。
しかしながらただ一点。ムルソーがあの世界に気を払うべき理由が存在していた。それは、グレゴールという男の存在であった。
グレゴールは、例のバスに乗る戦闘員のひとりだった。彼は……なんの人格も被っていない“彼”自身は、元々G社の兵士であり、片腕が鋭利な虫の鎌であった。しかしその腕は決して異端などではなく、痛覚と体液を持つ“純粋な”腕であったため、ムルソーは問題視していなかった。
そのグレゴールが被る人格の中に、“G社課長代理”というものがあった。彼が元々所属していた会社と同じG社に所属している人格であり、その関係性はムルソーからはよく分からなかったが、明らかな違いが一点。課長代理のグレゴールは、両腕が虫の腕だったのだ。
自身の腕は誇りであると言う一方で、時折寂しそうな目をしていた彼。聞けば、その腕や、皮膚を突き破って生えてくる様々な虫のパーツを忌避する者たちから、彼らは嫌悪や侮蔑を浴びているということだった。特に女性には気持ち悪がられるだろうと、彼は共に戦う戦闘員にすらも気を遣っているようだった。
一方で、戦闘時の彼は苛烈そのものだった。躊躇うことなく敵へと突撃し、鋭利な腕で切り、払い、抉る。血を失えば敵の肉を喰らってでも回復し、失った肉も身体改造の効果で再生する。絶対に倒れてなるものかという強固な生存本能は、ムルソーの目には眩く映った。そして、なんといってもその腕だ。痛覚と体液を備え、疑いようもなく生身であるその腕は、ムルソーと違って一切の武装をせずとも戦うことができる。鎧を着ずとも、釘を握らずとも、一切の金属を排した裸であっても、きっと彼は強いだろうとムルソーは想像した。まさに、彼自身がひとりでに空を飛ぶ釘のようだと、そう思ったのだった。
ムルソーは、自分の目の前で自分の意に反して自虐を続けるグレゴールを放置できるほど優しくはなかった。それに、完全に生身のグレゴールを、まるで義体の方がマシだと言わんばかりにまで追い詰めた、どこかの愚昧な異端を許せるほど寛大でもなかった。だから言ってやったのだ。グレゴールは何よりも尊ぶべき生身の人間であり、迷いなく敵を貫くその腕は美しいと。そして今でもハッキリと覚えていた。それを伝えたとき、歪な喜びで濁った瞳を潤ませて、ムルソーを見上げたグレゴールの表情と、その視線に射抜かれた自分の背に走った、言いようのない興奮を。
我に返ったグレゴールは、戸惑いはにかみながらも礼を言った。彼は上官(あの場では時計の管理人)に対してとても従順だったので、管理人がかつて敵対したという“釘と金鎚”の教理に興味を持つのは気が引けたのだろう。一方で、自身を肯定する教理に惹かれ、心が揺れているということは、ムルソーから見ても明らかだった。そしてムルソーは、グレゴールの心の隙を見逃さない程度には優秀であった。
“釘と金鎚”の教理ならば……自分ならば、この男を救える。
そう思ったとき、ムルソーの心に火花が散り、久しく燻っていた何かが、息を吹き返したかのように燃え上がったのだった。
その日以来、ムルソーは少しずつグレゴールに教理を吹き込んでいった。ダンジョンの一角で休むときや、葡萄の味のソーダを飲むとき。ムルソーはグレゴールの介助を買って出て、少しずつ距離を詰めていった。思惑を気取られないように静かに、彼が怯えないようにそっと。執念深い男に目をつけられた哀れな虫が、逃げ出してしまわぬように。
ムルソーが教理を囁くたびに視線を彷徨わせ、優しく腕に触れるたびに縋るような視線を向けるようになっていくグレゴールが、ムルソーは愛おしくてたまらなかった。戦闘の合間のわずかな隙間を、互いに互いで埋めていく中。二人が心身ともに親密な関係性を持つようになるまで、さほど時間はかからなかった。そしてある夜、涙ながらにせがむグレゴールに押される形で、ムルソーは彼と約束したのだった。もしもこのバスで相見える日々が終わるのならば、お互いに元の世界でお互いを探そう、と。
最後にあのバスに乗ってから三ヶ月が経った。そろそろグレゴールを探すべきだろうか。それとも、もう少し待つべきなのだろうか。過去にも一ヶ月ほど鏡の境を越えなかった時期があったが、今回もそのときのような小休止なのだろうか。黄金の枝集めは終わったのだろうか、それとも頼りになる人格が他に見つかったのだろうか……。
グレゴールを探しにいくとしても、いったいどこから探せばいいのか。G社があった地区だろうか。彼が身を投じていると言っていた煙戦争はムルソーの記憶にもあったが、それは実体験ではなく過去の話としてである。……グレゴールは本当に、この世界に存在するのだろうか。
様々な思考がムルソーの脳裏を過った。考えなしで実行できる計画ではなかった。また、ムルソーには大鎚としての仕事や立場や責任があった。彼はグレゴールを心底愛していたが、それ以前に彼は、握る者の金鎚であるのだ。そして今夜も、異端を浄化するために彼は行軍せねばならなかった。日没の迫る空が真っ赤に染まる頃、出発の時刻がやってきて、ムルソーはグレゴールに関する思考を止めざるを得なかった。
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異端を二人、取り逃した。中鎚と小鎚たちの報告をまとめると、こうだった。
ごうごうという低い音と、ぱちぱちと何かが弾ける音。時折バリバリと一際大きな音を立てて何かが倒れる。裏路地の一角が、炎に包まれていた。
炎を放ったのは、ムルソーたち“釘と金鎚”だ。この路地は、見かけは何の変哲もない、都市によくある路地であったが、“釘と金鎚”に楯突こうとする異端の一派が集団で潜伏しており、殲滅浄化対象となったのだった。秘密結社だと嘯いて、彼らなりに目的を持って結集していたようだが、やはりここは都市によくある裏路地である。金や庇護に目が眩み、情報を漏らす者がいくらでもいるのだ。
炎の勢いが強まり、熱が金鎚たちのいるところにまで伝わってきている。もっと早くに離脱しておくべきだった状況にも関わらず、彼らがまだここに残っているのは、今夜浄化するはずの異端を二名、取り逃したせいだった。
金鎚たちの奇襲になす術もなく抑え込まれるかと予想されていた異端たちだったが、路地の地の利を活かして分散、逃走。金鎚たちは乱戦を強いられた。それでも握る者の名の下に、執念深く異端を追いかけた金鎚たちだったが、事前に報告されてる異端の数と比べて、出来上がった死体が二つ少ない。その確認をしていたために離脱が遅れていたのだった。
「……仕方あるまい。これ以上残っていては、我々まで炎に呑まれてしまう。この地区を離脱したのち、委細を握る者に報告せん。握る者が、然るべき処分をお下しになるだろう。全隊、整列」
「はっ!」
ムルソーが指示すれば、金鎚たちは素早く隊列を組み、帰投の準備を整えた。握る者より下される処分に怯える小鎚が、小隊をまとめる担当の中鎚に一喝されているのがよく見えた。賞も罰も、握る者に与えられるのであれば等しく喜ばしいものであろうというのに。そう感じられないのは偏に信仰の貧弱さ故だと、ムルソーは静かに結論付けた。
掃除屋がやってくるまでにはまだ時間があるが、報告事項もあるため、帰投は早い方がいいだろう。ムルソーは規則正しい歩調で進み、他の金鎚たちも遅れることなく追随する。そのときだった。ムルソーの耳に、今聞こえるはずのない声が飛び込んできたのは。
「ムルソー殿!」
「!?」
名前を呼ぶただのひと声で、ムルソーの冷静さは崩され、彼はその場で足を止めた。止まりきれなかった金鎚たちが後ろで追突事故を起こしたのか、金属のぶつかる大きな音が聞こえたが、今のムルソーには顧みる余裕もなかった。
声が聞こえた方向を振り返れば、そこはさらに細く入り組んだ路地の入り口だった。ただでさえ暗い夜空の下、更に重たい闇が溶け残るような暗がりから、軽やかな足音が聞こえてくる。
「あぁ……やっぱり、ムルソー殿でしたね。足音で分かりました。そしてその美しい瞳……」
部下たちにはとても見せられないとある秘密を隠すために、右目の周囲を除いて顔全体を仮面で覆ったその姿を、まるで見慣れているかのように、吐息がちに震えるその声が言う。大鎚の後ろに控えていた金鎚たちがそっと釘を構える中、声の主が、闇の切先から姿を現した。
「ぐ、グレゴール……」
胸元で折り畳まれた鋭利な腕。背中の後ろで広がる翅。肩につくほどに伸びた髪。まさしく彼は、ムルソーと想いを交わしたグレゴールその人だった。
グレゴールが何故、何をしにこんな裏路地の一角にいるのだろう。もしや自分を探しにきたのだろうか。だとしたら、どうやって居場所を特定したのだろうか。ムルソーの頭の中を様々な疑問が駆け巡ったが、彼は何よりも先に投げかけるべき言葉を選び取り、端的に口にする。
「貴殿が本当に、当人と同じ、鏡のこちら側の住民であったことを、非常に喜ばしく思う」
それを聞いたグレゴールは、何も言わずただ目を細めると、そのままムルソーへと駆け寄った。武装した硬い胸に飛び込み、そのまま額を預ける。金鎚たちの手前、ムルソーはどう対応すべきか迷ったが、大釘を持っていない方の手をそっとグレゴールの肩に添えた。
「あら……その方は」
そうこうしていると、ムルソーの背後から何者かが様子を伺うように、胸元に懐くグレゴールを覗き込んできた。
「うふっ、こうして見ると……マスコットのような愛らしさがありますね?」
彼を抱くムルソーの手つきから何かを読み取ったのか、同調するような物言いをするのは、中鎚のロージャだった。彼女もまた、鏡の向こうでグレゴールと共に戦った経験のある金鎚の一人だった。あの世界に元来存在するロージャは、グレゴールの腕を気持ち悪がることがあったと聞いたことがあるが、こちらのロージャはそうでもないらしい。わざわざ確認したこともなかった。
ロージャが意味ありげに、ウインク……のような顔の動きを見せた。他の金鎚は彼女に任せて、グレゴールの対処に専念してはどうか、ということだろうか。しかし、大鎚として皆の模範となる役割が当人にはあり……と、しばし思考を巡らせていたところ、胸元のグレゴールが身動ぎした。
「む……どうした、グレゴール」
肩を抱く手に力を入れすぎたか、とムルソーがその手を離すと、グレゴールはふわりと数歩後退った。髪が伸びたせいだろうか、彼は鏡の先で会っていたときよりも、少しばかり老けているように見えた。そして、二、三度瞬きをして、彼もムルソーを見つめる。
その眼差しには、ドロドロとした恨みの感情が宿っていた。
「っ、」
「六年……六年ですよ、ムルソー殿」
彼の口角は歪に上がっていた。笑顔を作ろうとしているのか、抑えきれない自嘲の笑みが湧き上がってきているのか、判別がつかなかった。
「何、」
「自分たちが鏡の向こうで会わなくなってから、六年が経ったと言っているのです!」
決して大きくはないが、鋭い怒りの籠った声でグレゴールが凄む。ムルソーの背後で臨戦態勢となろうとする金鎚たちを、ムルソーは片手を上げて制した。
「六年……と言ったか?」
ムルソーは、自身が鏡の向こうに呼び出されなくなってから、まだ三ヶ月しか経っていないと認識していた。彼は、己の認識とグレゴールの発言との相違点について確認しようとする。しかしそれが、グレゴールの憤怒をさらに勢い付かせてしまった。
「六年ですよ! もしや、最後に会ったときのことまで忘れてしまわれたのですか?」
以前より伸び、結ぶ紐もなくなった髪を振り乱しながら、グレゴールは言う。
「正直……四年が過ぎたあたりから、もう二度とお会いできないのではないかと覚悟してはおりました。それでも、確かめずにはいられなかったのです。本当に自分たちは、もう二度と共に歩むことはないのか。この世界に、ムルソー殿はいらっしゃらないのか。そう、せめてムルソー殿がいらっしゃるかどうかだけでも確かめたくて、自分はここまでやってきたのです」
そういえば……彼が元々いたのは何区だったのだろうか。規模の大きな煙戦争で、G社の優秀な課長代理として前線に立っていたのだから、一箇所に“住む”という暮らしができない時期も長かったのかもしれない。鏡の向こうの生活のことは、お互いに深くは訊かないという方針が、すっかり仇となっている。ムルソーは、思った以上にグレゴールのことを知らないということに気が付いた。
「G社を退社してから三年ほど経ちました。巣を越え路地を越え……あなたさまを探すため、できることはなんでもいたしました。地に落ちているものを口にしたり、路銀のために血を浴びたり……稀に好意で助けてくださる方もいらっしゃいましたが、ほとんどの場合は自分を利用しようとする者ばかりで。純粋に好意で……という方でも、身体が純粋でなければ、その申し出は断らねばなりませんでしたし」
最後のひと言は、仄かに笑うような吐息を纏っていた。ほぅ、とロージャが背後で息を吐いたのが、ムルソーの耳にも届いた。
「正面からN社をお尋ねして、『ムルソー殿はいらっしゃいますか』と訊ける身分でもございませんでしたから。“釘と金鎚”のご活躍を調べて、噂を追いかけ、今晩やっとこうして追いつくことができました」
グレゴールが再び、ムルソーの目の前まで進み出る。
「最期にひと目お会いできたら……このような、何も持たぬ虫の身には、それすらも過ぎた栄誉だと思うことにしておりましたが、いけませんね。実際にお姿を拝見しますと、欲が出て参ります」
虫の腕を折りたたみ、顔の前で擦り合わせる。
「どうか、お聞かせください。お答えください。自分は、もうムルソー殿にとっては不要なものとなってしまったのでしょうか? あの日交わしたあの約束を、ムルソー殿はお忘れになってしまっていたのでしょうか?」
……まさか、そんなことありませんよね。言外の言葉に耳を覆われてもう何も聞こえないような視線を浴びて、ムルソーの背を冷たい汗が流れていった。もう要らないなんて、そんなはずはない。そんなこと、あるはずもない。だというのに、痛くもない腹にさえ食当たりを起こさせるほど、グレゴールの執念は重かった。
「……グレゴール。当人は、貴殿と交わした約束を忘れたことなどなく、貴殿を必要としなくなったわけでもない。貴殿は、今も変わらず当人の最愛である」
「……」
「その上で申し上げるが、貴殿と当人の間で行き違いが生じている」
「行き違い……?」
信じられない、あるいは“許さない”という声色で、グレゴールがムルソーの言葉を復唱した。
「うむ。何故ならば、当人が最後に鏡の中へと呼び出されてから、三ヶ月しか経過していないが故に」
「なんですって?」
グレゴールが前のめりになり、靴の下で砂がぎりりと音を立てる。ムルソーはそんなグレゴールに、あえて半歩近付きながら、釈明を続ける。
「いかにも。以前、握る者や管理人に聞いた話では、人格の抽出というのは、前後三年ほどの幅があるのだそうだ。つまり、」
鏡の世界で出会った時点で、自分たちは同じ世界線の、異なる時点から抽出された者同士であったのだろうと。
「そんな……でも確かに、そうであれば理屈が通りますが……」
「補足申し上げますが、私が最後に呼び出されたのは半年ほど前のことでございます」
ロージャからの援護射撃に、ムルソーは頷いた。
「未だ信ずるに足りないのであれば……」
混乱しているグレゴールに、ムルソーは最後に鏡の先へと呼び出された日の思い出を語った。お互いの秘密や他の金鎚たちが聞くべきでない内容を除いた、口に出せる範囲で、なるべく多く詳細に。グレゴールの姿やそれに見出した感情などを丁寧に述べていけば、グレゴールの表情は徐々に柔らかいものとなっていき……別の感情が露わになりはじめる。
「そんな……それでは、自分は勘違いで、ムルソー殿にあらぬ疑いを……」
申し訳なさと恥ずかしさから、顔を鎌で隠すように頭を抱えてしまったグレゴールを、今度はムルソーから抱き締める。
彼は老けて見えるのではない。実際に、齢を重ねていたのだ。ムルソーのいない場所で、彼の知らない間に。
「……当人は、神や運命など目に見えぬものは信じぬが故、そのような言葉は使わぬが」
「……」
「グレゴールにのみ、そのような苦難の旅路が強いられたという現実に、強い憤りを感じる」
片手で大釘を握り締め、もう片方の手をそっとグレゴールの頬に添えながら、ムルソーは“よく頑張ったな”と囁いた。グレゴールはしばらく震えていたが、じきに、啜り泣く細い声が聞こえてきた。
「……む、」
グレゴールの頬を撫でていたムルソーは、妙な感触がするのに気付き、その手を離した。
「グレゴール……これはなんだ、血液か? まさか、負傷しているのか!?」
これまでの会話の中で最も、火を見るよりも明らかに動揺しながら、グレゴールの身体を確認しようとするムルソー。それを見たグレゴールは袖で雑に涙を拭うと、くすりと笑った。
「問題ありません、返り血ですので」
グレゴールはチラリと背後を振り返り、すぐにムルソーの方へと向き直る。
「この近くに皆様が……“釘と金鎚”の方がお越しになると伺って、路地を探索しておりましたところ、前方から二体の……頭部を義体に換装した者が走って参りました。『お前もN社に狙われているのか!?』なんて仰るもんですから、『“釘と金鎚”の方がいらっしゃるのですか?』と尋ね返したのです。そうしたら、何やら武器を振り翳して襲いかかってきたものですから……」
貫いてしまいました。
小首をかしげるグレゴールはコケティッシュで、蠱惑的で、少なくともムルソーにとっては非常に可愛くて。もう二度と、民間人の生活に戻ろうだなんて言わない、血と戦いの世界から離れようともしないだろう、幾分変わってしまった彼が重ねた、不可逆の六年を垣間見られた気がして。ムルソーはその胸の奥の方で、悲しみとも喜びともつかない甘美な痺れを感じた。
中鎚のロージャと数名の小鎚をして、路地の奥を確認しに行かせる。ほんの少し進んだところに、グレゴールの言う通り、異端の死体が二つ転がっていた。頭部と胸部、急所を的確に抉られたそれらの姿は、先程取り逃がしたと報告を受けた者と一致していた。
「グレゴール……貴殿という人は……」
「ムルソー殿の“敵”でお間違いなかったですか?」
「……うむ。ちょうど先程、我々の手を逃れた不届きな異端であった」
「よかったです! 間違っていたらどうしようかと……」
これで、自分もムルソー殿のお役に立てましたね?
ムルソーを見上げて無邪気に笑うその殺戮兵器を、ムルソーは今度こそ、思いっ切り強く強く抱きしめたのだった。
「……では。道中で協力者を得て、本日浄化すべき異端は全て葬ったと、握る者には報告を申し上げよう。今度こそ帰投する。金鎚たちよ、列に並びなさい」
死体の確認が済み、改めてムルソーは金鎚たちを整列させる。それと同時に、感心した様子でその隊列を眺めていたグレゴールを呼び寄せた。
「何をしている。帰投するのだから、貴殿もこちらに……あぁ。道が分からないのであれば、当人が案内をするが故。此処に」
真紅の外套をそっと広げ、グレゴールを促す。
「……良いの、ですか?」
確かに、ムルソーの隣にいれば、N社の関係者として如何なる関所も越えられるだろう。巣の中に入ることも容易いだろう。だがしかし、薄汚れた虫である自分が、そのような待遇を受けて良いのかと、グレゴールは二の足を踏んでいた。
「……何を言う」
今更離れようだなんて許さない。そのような色を見せるのは、今度はムルソーの番だった。
「貴殿はこれから、当人の“つがい”として命運を共にするのだから」
「……!」
ムルソーが当然のように言い切れば、グレゴールは歓喜に身震いをし、そのままそこへと飛び込んだ。
「二人での生活については……握る者の許しが得られるよう、当人が最善を尽くすが故に」
「はい……はい……! ありがとうございます……!」
愛する人の体温を感じられる距離に収まって、いよいよ泣き出してしまったつがいが転ばぬようにと、ムルソーはグレゴールの鋭利な腕を、躊躇うことなくその手で握った。