琥珀色の記憶 キャラバン宿駅に到着したとき、少し風が強いことが気に掛かった。
防砂壁に吹きつける煙のような風砂を見ながら、このまま砂漠に出ていいのかカーヴェは思案した。だが、取り付けるのが難しくなってしまった蛍との約束を先延ばしにする気にはなれない。念のため大きめのストールを用意したのは正解だったかもしれない。畳んだそれを荷物から取り出して、蛍との待ち合わせに向かった。
蛍がフォンテーヌに渡って以降、会う約束を取り付けることもままならない。偶然を装って街角で会うこともない。理解しているつもりだったが、話の合う気のいい友人のままで彼女を見送ってしまったことを激しく後悔していた。もしカーヴェが蛍の恋人であったら、調査だとか依頼だとか理由を付けなくとも会いたいという気持ちだけで会いに行けるのだろう。
先日、教令院の学者からの依頼だといって蛍がスメールに戻ってきたのを知った。カーヴェには彼女を誘うだけの理由がなかったが、とにかく約束を取り付けなければと冒険者協会に言伝を頼んだ。
カーヴェは今、砂漠での風蝕に強い建材について調査研究をしている。それに付き合ってもらえないかと連絡したのだ。待ち合わせは、アアル村の草神像。そこから南に下れば、カーヴェが調査目標にしている風蝕された廃墟がいくつか見られる。わざわざシティを離れたのは、出来るだけ誰にも邪魔されたくなかったからだ。
キャラバン宿駅で操手付きの駄獣を頼んで、アアル村の手前まで運んでもらった。操手にチップを手渡して駄獣を見送り、草神像に目を遣る。そこには、砂漠の熱気も強い風も感じさせない、静寂と清涼感に満ちた金髪の少女がいた。
蛍は舞い飛ぶ草晶蝶に手を伸ばし、その淡い光を掴もうとしている。散り散りになった草晶蝶の一頭がカーヴェに向かって飛んできて、それを掌中に収めたところで蛍の視線がようやくこちらに向けられた。
◆
「——カーヴェ、久しぶりだね」
「やあ、蛍。少し待たせたかな。今日は来てくれてありがとう」
「ううん。まさか声を掛けてくれると思ってなかったから、うれしいよ」
久しぶりに訪れたスメールは、ナヒーダの統治の下でますます活気づいてきたように感じられた。蛍はそれらを横目に過ぎ行く旅人でしかない。だが、この地に置き忘れた想いに触れる間もなく依頼だけを済ませて立ち去るのは少し寂しかった。
そんなとき、冒険者協会のキャサリンから伝言を受け取ったのだ。送り主はカーヴェ。蛍がこの地に置いてきてしまった想いのひとかけら、それを持っている相手だ。
すらりと長い腕を伸ばして草晶蝶の光を掴み取ったカーヴェは、こちらに歩み寄って蛍の手のひらに晶核をぽとりと落とした。
「いいの?」
「僕は今のところ必要ないから、構わないさ」
ありがとう、とカーヴェを見上げると、意思の強い紅緋の瞳が優しく細められる。カーヴェはいつも蛍に優しく、時にうっとりとした様子で話をし、建築のことになると熱っぽく語ってくれた。その日々を思い出して、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「そろそろ向かおうか。……ああ、今日は風が強そうだから、良かったらこれを使ってくれ」
カーヴェは被っていたストールを解いて広げ、蛍の身体を包むように肩に掛けた。ふわりと懐かしい匂いが香る。樹木とローズ、ハーブ、コーヒーの深い香り——カーヴェの匂いがした。
「うん? どうかしたのか?」
「……ううん、何でもないよ。行こうか」
そっとカーヴェの背中を押して促した。蛍はカーヴェの用事でここに呼ばれている。一人で舞い上がったり感傷に浸ったりしているわけにはいかない。
二人で連れ立って砂漠へ出る。身体が揺らぐほどの風が吹いているわけではなかったが、灼けた砂がさらさらと流れていくのが見える。
「髪が砂だらけになるぞ? ちゃんと頭から被ったほうがいい」
自身のことはそっちのけで、カーヴェはストールの首元を引っ張って蛍の頭に被せた。一度は頭の隅に追いやったカーヴェの残り香が再び鼻先を掠めて落ち着かなくなる。
「っ……か、カーヴェは、最近はどう過ごしてたの?」
建築は蛍には難しく、こちらから振る話題としては向いていない。だが近況を訊けば、カーヴェが噛み砕いて教えてくれるだろう。
蛍はかつて、カーヴェの仕事に付き合って砂漠に来たことがあった。彼が砂漠建築の研究を続けているということは、あの時の依頼が彼にとって良い方向に進んでいるということなのかもしれない。
「僕は……仕事は上手くいっていると思うよ。僕一人では見つけられなかった道を、君と見つけることができたからね。そのおかげで上手くいっているんだ」
蛍にとっても、楽しく幸せな思い出だ。カーヴェに惹かれたきっかけの出来事である。
「とはいえ……今の日々はどこか物足りないよ。ままならないな、いろいろと」
はは、と少し困ったように笑うカーヴェに、蛍も似たような感情を思い起こしていた。フォンテーヌに渡ったのは蛍の意思であり、現地でもいきなり法廷騒動に巻き込まれたり忙しく過ごしている。だがふとした瞬間に、スメールの砂漠の熱を、雨林の雨を、街に広がるスパイスの香りを思い出す。そして、そこにはカーヴェと過ごした時間があったことも。
「ねぇ、カーヴェ。知ってる? 人間の記憶って、音から失われて、香りが最後まで残るんだって」
蛍が漏らした言葉に、カーヴェは驚いたように足を止める。ストールに隠れているというのに、砂がさらさらと流れる音が聴こえた気がした。砂の流れる先には、砂礫と化した廃墟がいくつか見える。そのどれかがカーヴェが調査に使っている遺跡廃墟なのだろう。
「——蛍」
わずかに強められた語気に、砂に沈むブーツの爪先から思わず視線を上げた。ストールでよく見えないと逃げてしまいたいところだが、風に乱れた金髪も、白くまるい額に浮かぶ玉の汗も、鋭い紅緋の眼光も、しっかりと捉えて目が離せなくなってしまう。
「君は、僕の声を覚えていた?」
「あ……う、ん。忘れてないよ……」
カーヴェは蛍のことを覚えていてくれたのか、それは聞き返せなかった。旅人である蛍の存在はどこか希薄なものに思えて、流れていく彼の日常に残っていられる自信はなかった。
暑いな、と視線を外したのはカーヴェが先だった。蛍が鞄からハンカチを取り出したのと、ストールの隙間からカーヴェの手が滑り込んできたのがほぼ同時だった。ストールの中でじんわりと汗が滲む首筋をカーヴェの大きな手が拭う。蛍は手を伸ばし、ハンカチをカーヴェの額にそっと当てていた。
「あ……」
紅緋の瞳が、じっとこちらを見つめている。強まった風がストールを激しく揺さぶり、カーヴェの金髪もさらさらと揺れては白い肌に張りついていた。
どうして。どうして彼は、真剣な眼差しで蛍を見つめているのだろう。どうして、思い詰めたようなせつない表情をしているのだろう。時が止まったかのように押し黙ったまま、カーヴェの額の汗を拭う。
風が勢いを増し、背中を押された蛍は思わずカーヴェの胸に手をつき、後ろを振り返った。風切り音がひどく、他に何も聴こえない。だが振り返った先の空は、舞い上がった砂塵で茶色く変化していた。
「——っ!」
砂嵐だ、とカーヴェは言ったのだろう。風の音に遮られてよく聴こえない。
強い力で引き寄せられて半回転し、蛍はカーヴェの腕の中に隠されて砂嵐をやり過ごした。砂塵がぶつかりながら風を切る音が、カーヴェの身体の外側で鳴る。蛍の耳には、とくとくと跳ねるカーヴェの心音だけが大きく響いていた。
◆◆
どうして。どうして彼女は、これほどまでに無防備なのだろう。どうして、カーヴェを危険な気持ちにさせておいて、涼しげでいられるのだろう。
触れた首筋は細く肌は滑らかで、引き寄せて抱きしめた肢体は柔らかく、開いた胸元のふくらみは確かな弾力をもってカーヴェの身体に押しつけられていた。
砂嵐はほんの数分、蛍を守ってやり過ごせるくらいのものだった。蛍の瑞々しいくちびるが薄く開き、小さくカーヴェの名を呼ぶ。カーヴェを見上げる大きな金色の瞳は、砂粒が入ったのか涙を浮かべて潤んでいた。
「砂が入ったんじゃないか、痛くないかい?」
「ん、ちょっと痛い」
蛍が瞬きをすると、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。艶やかな肌を伝う滴が美しく、思わず指先で拭った。
堪らなく愛しい気持ちがカーヴェを急き立てる。好きだ、愛していると伝えられたら、どれだけ楽になれるのだろう。今はまだ、そのときではないのだろうか。
「もう少し歩けるかな? もう、すぐそこなんだ」
「大丈夫。涙と一緒に流れたみたい」
「目に傷が入ってないといいな。シティに戻ったら、ビマリスタンに目薬をもらいにいこう。僕も付き添うよ」
「ふふ、ありがとう。そんなに心配しないで、ね?」
花が綻ぶような微笑みは、カーヴェの焦る心を少しだけ鎮める。やはりまだ少し瞬きの多い蛍の風除けになろうと、自然と肩に手を回して抱いていた。
ほら、とカーヴェが指差した先には、風蝕で崩れ落ちた小さな遺跡の廃墟が見える。教令院に申請して、今はカーヴェが建材の研究に使っている場所だ。
「主に煉瓦材なんだけど、砂の大きさを変えたりつなぎの材料を変えたり、いろいろやってみてるよ。切石のほうが風蝕に耐えるのはわかっているんだけど、石工と運搬のコストを考えると——」
建築のことになると淀みなく喋れる自分に少しだけほっとしていた。カーヴェは、ある話題を意図的に避けていた。蛍の近況について、だ。
旅人の蛍は、世界を渡り歩く。その旅路には多くの出逢いがある。カーヴェのように、彼女に懸想する男もいるはずだ。この可憐で無防備な彼女が手の届くところにいれば、いずれは触れたいと願うだろう。カーヴェと会わないでいる間に、蛍は日毎に大人の女性として成長していってしまう。それが怖かった。
繋ぎ留めたいという一方的なカーヴェの想いだけで、彼女の生きる道に踏み込んでしまってもいいのか、カーヴェはずっと悩んでいた。ひどく身勝手で愚かしい気がして、ずっと踏み切れないでいる。
「——カーヴェ? どうかした?」
遺跡の廃墟に並べた建材を前に研究の進捗について話していたはずが、ぐるぐると渦巻く感情に流されていつの間にか押し黙ってしまっていた。
「……いや、少し考え事をしていた」
「何か気になることでもあった?」
小さな遺跡廃墟は天井が落ちて壁もところどころ崩れているが、内側に入れば死角がないわけではない。砂漠の真ん中で、蛍と二人きり。次に蛍と会えるのはいつになるのだろう。背中を伝うじっとりとした汗の感触が、カーヴェを現実に引き戻した。蛍に背を向けて意識を逸らす。このまま進んでいいのか、止まるべきなのかわからない。
「ああ。……蛍、最近の旅は順調? 変わりはないかい?」
「え? うん、海に潜ったりしてる、くらいかな。変わったことといえば」
「フォンテーヌは海が広くて綺麗だろう? スメールとは雰囲気が随分違うからな」
石材に積もった砂を払い除け、風蝕の具合を確かめる。
カーヴェは、フォンテーヌのことになると気後れしてしまう。スメールとフォンテーヌ、また大事な人を奪われてしまうかもしれない。自虐的なカーヴェの物言いに気付いてしまったのか、蛍はカーヴェの隣に寄り添うようにして遺跡廃墟の壁に触れた。
「——でも、どうしても、スメールのことを思い出しちゃうんだ。砂漠とか雨林とか、あっちにはないでしょう?」
「……そう、だな。でも、どうして」
思いがけない言葉に、指先が震える。蛍から目を逸らしたまま、まだ視線を戻すことができない。
「私、忘れ物しちゃったみたいなんだ」
「忘れ物……スメールに?」
「うん……ほんとは、すごく大事なことだったのに……言えなくて」
ストールから伸びた蛍の小さな手が、カーヴェの腰布を指先で摘む。わずかに引っ張られて、カーヴェは振り返った。手から滑り落ちた石材が足元で真っ二つに割れる。可塑性の低さが耐久性に影響したのだろう。
あっ、と声を上げて石材に気を取られた蛍の手首を掴んで引き寄せた。まるで流れ星を掴んだような、閃きにも似た予感がカーヴェの鼓動を蹴り上げる。
「いいんだ、蛍」
「カーヴェ……えっと、私……」
「君は、スメールに何を忘れたんだい? 僕に教えてくれないか」
ほっそりとしなやかな腰を抱き寄せ、蛍の金色の瞳を覗きこむ。不安そうに揺れる瞳には、カーヴェの顔が映っている。彼女が内側に隠したものを全部引き摺り出してしまいたい。一度ぎゅっと強く瞬いて、蛍は意思の込められた視線をカーヴェに向けた。
「私、カーヴェのこと……好き、になっちゃった」
途中から、彼女がカーヴェの腰布を摘んだときから、期待していた。蛍もまた、カーヴェと同じ気持ちを秘めているのではないかと。旅立ちによってしばらく会えなくなるのなら、その気持ちを明かさないままでいることにしたのではないかと。
「……狡いな、僕は。どうしても君に言わせたかった」
「え……?」
潤んだ金色が揺らいで、大きく見開かれた。
予感があった。期待していた。だが、彼女の言葉を遮ることなく、最後まで言わせたのはカーヴェの我欲だ。
「蛍、赦してほしい。僕は君を困らせるかもしれない」
できるだけ彼女の身体を傷付けないように、ストールで包んだ背を遺跡廃墟の壁に押し付ける。あっ、と何かを言いかけて開いた小さなくちびるに、喰らいつくようにくちづけた。腰を抱いて支え、何度も喰らいつく。呼吸がうまくいかず苦しそうな蛍は、カーヴェの背にしがみついて膝を震わせていた。
風蝕の進んだ壁から砂がぱらぱらと流れ落ちてくる。また強く吹いた風に、蛍の身体を抱き締めて砂粒を避けた。
「ぁっ……か、ゔぇ、砂が」
離れては吸い寄せられる蛍のくちびるから、小さな声が漏れる。熱い舌先で、ざりざりと嫌な感触がした。
「……砂が入ったな、すまない」
「ううん……でも、カーヴェ、どうしてこんな」
ようやくカーヴェが離れたくちびるに触れながら、蛍は目を伏せた。困っているというより、恥ずかしそうな、信じられないといった様子だ。想いは通じ合っている。もう踏みとどまる必要はない。
「僕が君を愛しているのは、そんなに不思議なことなのか?」
「あい……っ?」
「ああ。蛍、僕は君を愛している。君が旅立ってからずっと、生きた心地がしなかった。僕は君なしじゃいられないんだ」
くちびるに添えられた細い指先を引き寄せて、その手にキスを落とす。はっとカーヴェを見上げた大きな瞳から涙がこぼれたので、それを舐めとるようにまたくちづけた。
「ふっ、くすぐったいよ、カーヴェ」
「蛍。僕は、もう、君を手に入れてもいいんだよな?」
「うん……いいよ」
蛍の小さな両手がカーヴェの頬を包む。砂でざらついたままなのも構わず、今度はゆっくりくちびるを重ねた。
独り善がりではない繋がりに、心が潤いを取り戻していくのを感じる。
「……シティに戻ろうか。僕ら、砂だらけだな」
「うん。私、カーヴェとたくさん話したい」
「ああ。夜通し話したっていい」
「さすがにちゃんと眠るよ?」
「ははっ、それは保証できないよ」
蛍をしっかりと立たせて、服に纏わりついた砂を払う。汗ばんだ白い肌の上で、砂粒がきらきらと輝いていた。
砂で足元がふらつかないように、しっかりと手を繋ぐ。強い風に砂が舞い上がれば、抱き合ってやり過ごした。熱い砂の上を、一緒に歩いていく。
二人が出逢った、スメールの街へと。