進捗 互いが恋仲だったことを忘れる父水「ふむ……特に何も起きんようじゃな」
すり、と顎をさすりながらゲゲ郎が呟く。隣では、小さく「ああ」と相槌をよこした水木がゲゲ郎と共に、部屋に掲げられた看板を見ていた。
『相手のことを忘れる薬、10本飲まないと出られない部屋』
突如白い四角い部屋に閉じ込められた二人は、先程その、『相手のことを忘れる薬』とやらを半分ずつ飲み干したところである。
どうあっても出られない部屋。用意された薬。互いに自分が飲むと譲らず、妥協した結果のことだ。
仕方なしに薬を飲み干し、軽く記憶のすり合わせをしてみたものの特にこれといった問題は無さそうで、ほっと息を吐く。
……もしかしたら日常の些細な出来事を忘れている可能性はあるが。
「まあ、何もないに越したことは無い。……ゲゲ郎、さっさとこんな場所から出ようぜ」
「うむ」
かちりと解錠音のした扉に手をかけると、先ほどはびくともしなかったのが嘘のようにあっさりと開いた。
そうして二人は、またいつもの日常へと戻っていったのである。
──互いが恋仲だった、ということを忘れて。
※
おかしな出来事もあったものだ、首を傾げながら、水木は鬼太郎の世話を焼いていた。
幸と言うべきか。謎の部屋に閉じ込められている間どうやら外は時間が流れていなかったらしく、扉を潜ると見慣れた我が家の廊下につながっていたのだ。
ゲゲ郎は思い当たる節でもあるのか、「ちと灸を据えねばな」と呟き先ほど家を飛び出したばかりである。
「鬼太郎を頼んだぞ」
「ああ」
妖怪などの不可思議な存在を相手に水木が出来ることは少ない。
日がな一日日向ぼっこをしたり湯船に浸かったり。あの気ままな男は、こうした時ばかりは何よりも頼りになるのだ。
なんて、少し考え事をしていれば、いつの間にかご機嫌な鬼太郎が水木の腕の中でシャツを涎まみれにしていた。
「ああこら、俺のシャツはおしゃぶりじゃないぞ」
慌てながら言われた言葉にふにゃりと笑う鬼太郎。それにつられて柔らかく微笑む水木。
かわいい養い子のふくふくとした頬をつんとつつく。その指すらぱくりと咥えて涎まみれにしてしまう様子に、水木は思わず吹き出した。
「着替えるついでに風呂に入っちまうか」
※
※
※
「水木」
「うわっ」
台所に立つ水木の背後からゲゲ郎が声をかける。大袈裟な驚き様にゲゲ郎が目を丸くしていると、怒った様子の水木がぎゅっとワイシャツの胸元を握りしめながら振り返った。
「おい、いきなり後ろに立つのやめろよ」
「わしは何度か声をかけたぞ。お主が気付かんかっただけじゃ」
「そッ……それは…すまん」
尻すぼみに返事をする水木。ふいと目を逸らす様子がいつもと違うように見えて、ゲゲ郎は首を傾げる。
「何かあったか」
「いや、何も無い」
「そうか」
言いたくないのなら無理に言及する必要はないかとゲゲ郎が頷けば、水木はあからさまにほっと息を吐いていた。わかりやすい男だ。
眇められたゲゲ郎の瞳に気付かない水木は、笑いながら「お帰り」と呟きゲゲ郎の胸をトンと叩いた。
「飯を用意してやるからすぐ風呂に入ってこい」
「水木は……」
「俺と鬼太郎はもう済ませたから」
確かに。ゲゲ郎がよく見れば、水木の髪はしっとりと湿っていた。浴衣を身に纏っていないからすぐには気付かなかったが。
ずい、と鼻を近付け匂いを嗅ぐと、爽やかな石鹸の匂いが鼻をつく。
「っ……おい」
たじろく水木の声が面白くて、ゲゲ郎は水木を囲うように台所に手をついた。
石鹸の香りに、じわりと混ざる水木の汗の匂いが心地よい。
(はて、不思議と馴染みのある香りじゃ)
ううむ、と首を捻る。己がそう思ってしまう理由を知りたくて、肌が触れ合うほどにゲゲ郎が近付こうとすれば。
「もういいだろう!」
と焦った水木がゲゲ郎の肩を押した。
ぎゅっと眉を寄せてゲゲ郎を睨みつける水木。毛を逆立てて威嚇する猫のような水木をじっとゲゲ郎が見下ろせば、男はすこし気まずそうに口を尖らせ、ぼそぼそと呟いた。
「……お前、埃っぽいんだよ。さっさと風呂に行け」
「おお。そうか」
これ以上は本当に水木を怒らせてしまう。
「それはすまんかったな」
ぱっと水木から離れたゲゲ郎は、軽い調子でそんなことを言いながらそのままくるりと背を向け風呂場へと向かった。
※
風呂場へ向かうゲゲ郎の背中を見送った水木。暫く待ってもゲゲ郎が戻ってくる様子がないのを確認すると、大きく安堵の息を吐いた。
煙草に火をつけ、煙を深く吸い込み、1番上まで留めていたワイシャツの釦を外せば強張っていた体の緊張が漸く解けた気がする。
(良かった、何も気づかれなかった)
吐き出した煙を眺めながら、シャツの襟元で隠れていた首をすり、と擦る。そこには赤い鬱血痕があった。
虫刺されと見紛うようなそれは、所謂キスマークと呼ばれるものだ。
首だけではない。水木のワイシャツの下には、夥しい量の鬱血痕と噛み跡がある。
全てゲゲ郎に付けられたものだ。
ゲゲ郎が帰宅する数時間前。
鬼太郎によって涎まみれにされたワイシャツを着替えた水木は、姿見に映る己の体を見て絶句していた。
鬱血痕に噛み跡、それに腰に残る手の形の痣。身体中に散る、明らかな情事の痕跡。
だが記憶を辿ろうとも思い当たるものは何もない。ある種の執着すら感じるものに、何も思い当たらないほうがおかしい。水木はハッと口を押さえた。
(まさか、奪われた記憶とは――)
そうして水木は唐突に、己とゲゲ郎が恋仲であったという記憶を思い出した。
ああ、なんてことだと唸り、水木はシャツを手繰り寄せる。
記憶の中で。
――後添えになってくれと熱心に口説くゲゲ郎に絆される形で、水木はゲゲ郎と恋仲になったのだ。
正直に言えば、水木はこの時点では、ゲゲ郎に対して恋愛じみた感情を抱いてはいなかった。
だがゲゲ郎は、それでも良いと水木に言ったのだ。水木を愛するための口実が欲しい、嫌でなければ受け入れてくれ、と。
何度目かの懇願で、後添えは無理だが恋仲ならばと水木が言い。そうして晴れて二人は、恋仲になった。
とは言っても、最初はまるでままごとのように健全な交際だった。
例えば隣り合わせて座る時に肩が触れ合うほど近くに腰掛けたり、水木が仕事に行く時に抱擁したり。酒が入って少し大胆になったかと思えば、真っ赤な顔で啄むような口付けをしてきたり。
交際を申し受けたからにはそれなりの覚悟をしていた水木は、とても既婚者だとは思えない、あまりにもおぼこい男の態度に拍子抜けした。
水木のことをちらちらと伺い、どの程度までなら許されるだろうと距離を測るゲゲ郎は見ている水木が焦れったくなる程である。
だがゲゲ郎は、水木がゲゲ郎のすることを受け入れれば安堵したように息を吐く。そして心底幸せだとでもいうように顔を綻ばせた。
その、締まりのない微笑みを見る度に水木は胸が締め付けられるような愛おしさに襲われ、そうしていつしか、水木の心もゲゲ郎の心に追いついてしまったのだ。
(ああ、好きだな)
そう自覚した水木がはじめて自らゲゲ郎に口付けた時、感極まった男はぼろぼろと大粒の涙を流して強く水木を抱きしめた。
――それから。
「ああ、畜生……なんだってこんな……」
それから、初めて肌を重ねた日のことを思い返し、水木は一人毒付きながら顔を赤くした。
あまりにも手緩い触れ合いばかりを好むゲゲ郎に焦れ、押し倒したのは水木の方だったからだ。