ケーキバースもどきなぐだソソ「カマソッソ、すごく甘い匂いがするね?」
シュミレータでの戦闘訓練が終わり、マイルームへと向かう道中でのこと。
茨木童子あたりが食堂からデザートをくすねて歩いているのかと思っていたら、匂いの元は、珍しく廊下を闊歩しているカマソッソのようだった。
思わず疑問形でマシュに話しかけてみると、「そう……でしょうか?」と返される。
ケーキのような、バニラのような、かなりはっきりした香りなのだけど。
あまりの良い匂いに、ゴクリと喉を鳴らしてしまう。
「デザート食べてみたのかなぁ」
「カマソッソは甘味を必要としない」
「わぁ?!」
一瞬で距離を詰めて答えるカマソッソに、驚いて大声をあげてしまった。
憮然とした表情で見下ろされ、目の前に長い髪がさらりと揺れた。甘い香りが強くなる。
「……じゃあ、シュミレータで行った先がお菓子の国だったとか?あ、今は行けないっけ……?」
「むぅ?」
「行ってない? じゃあなんでこんな甘い匂いが……って、え? なに?」
何も食べていなくてこんなに甘い匂いがするなんて、ちょっと心配だ。何かの異常かも? なんて悩み始めたところで、隣にいたマシュも、カマソッソも、眉間に皺を寄せて俺の顔を覗き込んだ。
「神官よ。今はオレの心配ではなく自身の心配をするべきだ」
「そう……ですね。先輩、私はカマソッソさんから特別変わった匂いを感じません。それに」
「顔色が悪い。幼学者のところへ連れて行く」
「えっ? えっ?」
体を両側から固定され、俺はあれよあれよという間にダヴィンチちゃんのところへ連れて行かれたのだった。
⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「何だろうこの……異常は異常なんだけど……あえて言うなら、呪い……? 何にせよ、過去のデータには無いパターンだ」
「えぇ……」
結果を告げるダヴィンチちゃんの顔は真剣で、正直自覚のなかった俺は困惑する。
「前回のチェックでは特に問題なかったはず! あれから何か変わったことは?」
「ええと……カマソッソからすごく甘い匂いがする意外は……あ、最近、食べ物の味がしない、です……」
は? と横に控えたカマソッソが怒気を孕んだ声を出した気がする。
「あとは、その、食べても食べてもお腹が空いてて……そのせいでちょっと寝付きが悪いっていうか……」
「神官……」
カマソッソの顔がみるみる強張っていく。大きな目が眇められ、射るような視線を向けられて、ちょっと……いやかなり居心地が悪い。
「なぜ異常をすぐに報告しない」
「えっだっ……だってなんか鼻が詰まってご飯の味がしないことなんてたまにあるし。お腹すいたなーとは思ってたけどご飯自体はちゃんと食べてたし、結局疲れて寝られてたし……! そんな言うほどのことでもないかな……次の健診で言えば……いい……かな……って……」
言いながら俺の語尾はどんどん小さくなって行く。カマソッソが無言の圧力を纏いながら近づいてくるからだ。怖い。でもほんとに次の健診までこのままならちゃんと言うつもりだったんだってば!
「確かに、なんらかの状態異常は起こっているものの、脳を含めた臓器に損傷は無いし発熱嘔吐下痢その他命に関わるような症状も今のところ無い。会話も正常にできるしマスター権の行使も問題はなかった。……百歩譲って、報告がなかったことには目を瞑ろう」
ダヴィンチちゃんからお許しが出て少しホッとするけれど、カマソッソはすごく怒ってる。気がする。触手がワナワナと震えているし、大きな手で俺の肩を掴みたいのを我慢している気配がする。
「ただし! 原因がわかるまで毎日体調の報告! あとご飯はちゃんと食べて。味がするもの、しないものに分けられるようなら分けてみてそれも報告! 今日はこれから全身精密検査。心当たりも思いつく限り全部話してもらうからそのつもりでね!」
「はい……」
⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
「結局原因も症状もよくわかんなかったよ〜!」
数時間後、検査尽くめで疲れた俺は大声でそう言いたい気持ちを抑えて、ため息をつきながら食堂の机に突っ伏した。
お腹すいた。何か食べたい。でも、何食べても、味がしないんだよな……。エミヤたちが作ったご飯が美味しく食べられないなんて、ひどい話もあったもんだ。
「大丈夫か?」
すぐ後ろから声をかけられて、ふわりと甘い匂いがした。食堂にカマソッソがいるなんて珍しい。いや、心配して来てくれたんだろう。
今のところ俺の異常を知っているサーヴァントはごく少数だ。それを気遣ってか戦闘中の張りのある声とは打って変わった、顰められた声になんだかおかしくなってしまう。
「ふふ、ありがとう。大丈夫だよ。ほんとに、味がしないこと以外特に異常なし! 言われるまで自覚がなかったくらいだし」
まーこれが一生となったら困るけどさ。ダヴィンチちゃんたちもついてるしきっとすぐ治るよ。と、隣に腰掛けたカマソッソへにゃりと笑って答えると、思ったよりも深刻そうな顔を向けられた。
カマソッソには嘘がわかる、んだっけ?
俺の心を覗き込むようなその目は大きくて、青くて、真っ直ぐで、兜の奥にあっても俺の姿をはっきりと映している。
自分を蔑ろにするな、自分の価値を見誤るなと普段からよく叱られるから、多分今回もそう思われているんだろう。
でも本当に、たかが半月くらい味覚が無い程度では優先するべきことが多すぎて……。心配させるくらいなら、忘れていられるようなことだったんだ。
「食事はお前たちにとって必要な娯楽だろう。だからこそ、本来必要のないサーヴァントにさえこうして食を供している。……辛くはないのか」
「うん。今のところ大丈夫! 今までだって、味が無いどころか、激まず料理だって食べてきたしね!」
笑顔で押し切ろうと勢い答えた俺に、カマソッソが苦々しげに口を開いた。
「……カマソッソも、人の味覚を失った」
「え?」
いつものように諌められるのかと思っていたのに、ぽつりと呟くような声音でカマソッソがそんなことを言うものだから、俺はギクリと固まってしまう。
「血を糧とするようになる前の、何もかもの味を忘れた。ミクトランでは、血液のみがオレを生かした。その血の味も、美味いなどと感じたことはない」
じっと俺の目を見ながら、淡々とカマソッソは言う。
「生きねばならないから喰らった。その度に流し込む血の味は不味くて不快だ。オレを狂わせたのは記憶だけではない。必要不可欠なものがひたすらに苦痛であれば、心など瞬く間に壊れるものだ」
声は静かだったけれど、カマソッソは怒っている。と同時に、心から俺を心配してくれているのがわかる。
「オマエは、耐えたりなどするな」
自らに課した使命を全うするために狂うしかなかった王様は、俺に、自分のようになってくれるな、と言っているのだ。
「あ……」
なんと答えようか迷う俺の前に、カマソッソの大きな手からひとつ、リンゴのような果実が置かれた。
「えっ……と?」
「試せ」
「あり……がとう」
俺が検査をしている間に、採って来てくれたんだろうか。みたことのない果物は、手に取るとふわりと甘い香りがする。
皮に齧り付くとぷつりと弾けて、瑞々しい果肉と果汁が口いっぱいに広がった。
……甘い!
皮の部分が特に甘味が強くて、夢中で頬張る。舌に広がる久々の味に、ほんの少し泣きそうになった。実は結構、参っていたのかもしれない。
「……美味しい」
「そうか」
柔らかく笑うような気配がして、思わずカマソッソを見る。さっきまで怒っていたはずなのに、ホッとしたような優しい笑顔がそこにあった。
自分のことはなんでもないように話すのに、俺のこととなるとずいぶん心配性だ。
「ありがとう。……それと、ごめん」
心配させたくないなんて、結局余計に心配をかける事になるっていい加減学ばないといけないな。
反省します……と続けた俺から、ようやくカマソッソの視線が外れた。
「ふふ。……その果実は特に香りが良かったと、思い出したものだ。今のオレはここで腹を満たすこともある。あまり深刻な顔をするな」
「うん」
手の中の果物に視線を落とす。
カマソッソも、この果物なら食べられたんだろうか。改めて聞くのはなんとなく憚られて、誤魔化すように残りの果肉を食べ切った。
ほんの少し空腹が和らいで、今日はよく眠れる気がする。もう一度感謝を伝えると、口に合ったのならまた用意しよう、と告げて、カマソッソは食堂から出て行ってしまった。
甘い香りが遠ざかる。
そういえば、どうしてカマソッソからあんなに良い匂いがするんだろう。まるでさっきの果物みたいだ。
その味を思い出して、俺は口の中にじゅわりと広がる唾液を飲み込んだ。
⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎⬛︎⬜︎
粘土を食べたら、多分こんな感じだと思う。
好物だったはずの唐揚げを、炊き立てで美味しいはずの白米を、吐き気を堪えて飲み込む。
温度は感じるから、味噌汁はかろうじて食事をしている気持ちにはなるけれど、付け合わせのキャベツは紙を食べているみたいだし、小鉢に盛られた金平牛蒡は良い具合に茶色くなっているのに、水が染み出してくる木の枝を噛んでるみたいだ。食感を楽しめる漬物を口に放り込んでみても、塩味なんて全く感じない。
今ならあの激辛麻婆豆腐だって難なく食べられそうだ。味を感じなくても栄養自体は取れているようだから、体はおかしくなるかもしれないけど……。
そんなことを考えながら、憂鬱な夕食を終える。
あれからさらに2週間。
微小特異点の修正や、そのレポートに追われた慌ただしい日々のおかげで思い悩む暇もなかったのはありがたかったけれど、それも昨日あらかた片付いてしまった。
一向に味覚は戻らなくて。いや、それどころか食べ物に関しては嗅覚まで鈍ってしまって、正直だいぶ参っている。
それに。
もう一つの問題の方が、ずっと深刻になってきた。
胃は膨れているというのに、空腹感が無くならない。
無味無臭の食べ物に食欲など湧くはずもなく、そもそも食べる量が減ってはいたけれど、そうした物理的な飢えとは違う。もっと腹の底から、食べるべき物を口にしていないと訴えかけるような感覚。
それを食べない限りは、満たされないのだとわかる、呪いのような飢餓感。あの果物を食べるときだけ、ほんの少しだけ満たされるそれが、俺を悩ませていた。
「カマソッソ、入るよ」
食堂を後にした俺は、サーヴァント達の居住区画へ足を向けた。彼らは個々の要望をなるべく反映させた自室を与えられている。
通常より扉のサイズが大きいからと、区画の外れにあった倉庫を改築した部屋がカマソッソの割り当てだった。薄暗いのも好みらしい。
部屋の中は甘い香りが漂っている。
相変わらず俺だけに感じられるらしいその重く甘い匂いは、規格外に大きなベッドに腰掛けているカマソッソから放たれていた。
「待てぬほど空腹だったか?」
薄暗闇の中で光って見えるカマソッソの瞳が、また真っ直ぐに俺を見ていた。
俺があの果物を求めて来たのだろうと、ベッドの上に幾つか無造作に転がっていたうちのひとつを差し出される。
マイルームまで届けてもらう約束だったから、急に部屋に来て驚かせてしまったようだ。
『これなら、少し味がする!』とダヴィンチちゃんに報告したそれは、ミクトラン原産の桃に近い種の果物だった。
ミクトランを再現したシュミレータの中で採取して、魔力リソースを加工して食材としてこちらへ持ち帰ってくれたらしい。
見た目はほとんどリンゴなのだけれど、果肉は比較にならないほど柔らかく瑞々しい。
元々の味を知らなかったのも良かったのか、その食感と僅かな甘みにどれだけ救われたかわからない。
でも。
全く同じものを用意してもらっても、味がするものとしないものがあった。
『果物は当たり外れが大きいものね。でもひとつでも味のする食べ物が見つかって良かったよ!味覚が回復するまでは、果物を中心に食材を試していこう』なんてダヴィンチちゃんは言っていたけれど、そのとき俺は、なんとなくわかってしまった。
カマソッソが手渡してくれた果実にだけ、俺は甘みを感じていたんだ。
「……神官?」
差し出されたそれを見つめるばかりの俺に、カマソッソが心配そうに声をかける。ハッとしてそれを受け取ると、俺は隣に腰掛けた。
「全然、空腹がおさまらなくて。……今日は、確かめたいことがあって来たんだ」
手の中の果物を転がす。
甘い香りだ。
頭がくらくらするような、蠱惑的な香りがする。それを食べなければ、満たされないと、腹の底から訴えかけるような香り。
食欲をそそる、抗いがたいそれに、口の中が唾液で満たされる。
息をする度、はっ、はっ、と、呼吸が乱れて、ご馳走を前にした動物みたいだ、と思う。
唾液が飲み下しきれなくて、口の端から溢れそうになって口に手を当てる。
やっぱりそうだ。
俺が本当に食べたいのは、この果物じゃなく……。
「しん」
「カマソッソ!!」
俺の様子がおかしいことを心配したカマソッソが、覗き込むように近寄るものだから、俺は慌てて距離を取る。
「ごめ……ごめん。カマソッソ、あの、俺」
咄嗟に動いた俺の手から果実が落ちる。
目の前のものが、あまりにも美味しそうで。心臓が跳ねて、体が熱い。
部屋でかき混ぜられた匂いに頭がくらくらして、それがおかしなことかもよくわからなくなる。
だから、思った通りを口にした。
「俺、カマソッソのこと、……食べ、たい、みたい」
「は、……?」