無題 海藤が三日も意識を失っていた事件は、大量殺人と報道され、各地で話題をかっさらった。
長引いた出張から帰ってきた八神が東に聞かされたのは、どうやら海藤は今回の事件を引き起こした犯人に毒を盛られ、一時は予断を許さない状態だったらしい。
自分の不在時にとんでもない事件が起きた。
そんな事を思いながら、八神がフルーツの盛り合わせを持って病室に顔を出した時には、本人の意識は戻ってはいなかったものの、いびきをかいて寝ていたので安堵の息を漏らした。
簡単に海藤の容態を聞いたあとは、これ以上ここにいても仕方ないとその場を東に任せて事務所に戻り、苦戦した離婚調停の件の報告書をまとめにかかった。
なので、意識が戻った海藤から事件の詳細を語られている時、隣にいる赤髪の少年のせいで八神の頭にはちっとも言葉が頭に入ってこないでいた。
「というわけで、こいつは俺の息子で、しばらくの間事務所に置いてくれ」
「いや、海藤さん。話が全然見えないよ」
「あんたが“ター坊”だったのか! 海藤のおっさんと同じくらい強ぇんだろ!」
この少年は確か、海藤が受けた依頼主ー今回の事件の犯人とも聞いたーの子供だと東に聞かされていた。病室で東と将棋を打っていたのを見ただけで、詳しい話は聞いていない。
それを何だ、いま目の前の男はなんと言った?
聞き間違いでなければ、これから一緒に暮らすことになった息子だと言ったような……。
「ちょっと急な事でよ。ゴタゴタが落ち着くまで白樺っていう先生の元に居ろって言ったんだが、仕事してるところが見てぇだの抜かしやがってよ、こいつだけ着いてきちまったんだ」
「海藤さん、こんなおっきな息子いたの?」
「いや、ゆくゆくはって感じだな。俺も昨日の今日で実感わいてねえんだ」
「ゆくゆくは!?」
「俺の親父は海藤のおっさんじゃねぇよ?」
目の前で繰り広げられる二人のやり取りに軽くめまいを覚えた。
海藤の年齢で言えばこれくらいの歳の子供がいてもおかしくはないし、言われてみればどことなく雰囲気が似ている気もする。だが本人達が言うには血は繋がっていないらしい。
まさか一週間もない出張から帰ってきたら、10年以上独り身だった相棒が家庭を持っていたなんて話を世界でどれだけの人が経験しただろう。神室町に限って言えばきっと八神だけだ。
思わず煙草に手を伸ばして、やめた。年齢を聞けばまだ中学生だという子供の前で吸うことは、憚られた。
「あ、煙草! そういえばおっさん、俺の煙草返してくれよ!」
「返すか! ガキがあんなもん吸うんじゃねえ!」
「おいおい、海藤さん、子供に何吸わせてんの!?」
「吸わせてねえ! 准、お前美希子の前でも同じこと言えんのかぁ……!?」
この後、煙草は誤解だということ、子供の母親のこと、その母親は美希子だということ、今回の事件の犯人のことを改めて説明され、納得は出来ずとも不在時に起きた事のあらましを漸く理解することが出来た。
「美希子さんって、海藤さんが同棲するって、バーに連れてきたあの美希子さん? 記憶喪失で、半グレを殺そうとして、って、訳わかんねぇな。で、その美希子さんは?」
「その事でター坊に頼みがあってよ……。色々と入り用になっちまって、給料の前借りをしたいんだが」
引っ越す金はないと言った通り、男の独り身の家に女房と子供が住むとなると、色々と買い足さねばならない物が出てくることは容易に想像できる。もちろん物以外にも金はかかるのだが、とりあえず迎え入れる準備を早めに済ませたいとの事だった。
そういうことなら、と散々駆けずり回った分上乗せされた報酬を多めに海藤に渡すと、悪いなとバツの悪そうな顔をされた。
「入院費も払わないといけないもんな。もう今までみたいに飲み歩けないよ、海藤さん」
「おっさん、やっぱり貯金ないんだな。母ちゃん、これから大丈夫かなあ」
「ガキが余計な心配するんじゃねえ。この探偵事務所はこれからもっと繁盛するんだよ」
仕事がない時は、飲んでくると言って事務所をふらりと出ていき、金がない時はソファに座って一日煙草を吹かしているような海藤が、子供の前ではしっかりするもんだなあと感心していると、八神のスマートフォンが着信を知らせた。九十九からだった。
「もしもし、九十九? どうした」
『ああ、八神氏。海藤さんはそちらに居られますかな』
「ああ、うん。いるよ。何か用でもあった?」
『いえ、入院したと聞いたので杉浦氏とお見舞いに来たのですが、病院の許可無く退院したとのことで……』
目の前で親子漫才を繰り広げているこの男は、毒を盛られた他にナイフでの刺し傷切り傷が身体中にあり、三日で退院出来るわけがないと何故か見舞いに来た九十九と杉浦が病院側から説教を受けたらしい。
八神も頑丈な方ではあるから思い当たる節もあるが、とばっちりを受けた二人がおかしくて思わず笑い声が漏れた。
「九十九は今回海藤さんを色々手伝ってくれたんだろ、海藤さんからちゃんと謝礼貰ってよ。色つけて渡してあるから」
『ヒヒ……僕はいつでも構いませんので、懐が寂しくない時にでも、とお伝えください。そろそろ杉浦氏に変わりますね』
電話の向こうでなにやらやり取りがあった後、耳に馴染んだ八神の好む声が聞こえてきた。
『もしもし、八神さん? 出張お疲れ様。僕達今病院出たばっかだから、そのままそっちの事務所行ってもいい?』
「ああ、いいけど、結構凄いことになってるよ、今」
『東さんから何となく聞いてるよ。それを見たくて九十九君と神室町に来たんだよね』
「海藤さんを心配してじゃないのかよ」
『うん。それはもちろんあるよ』
ちら、と言い合いを続けている親子に目をやって、この場に来た杉浦と九十九のリアクションを想像してしまう。
長年相棒をしていた自分でさえすぐには飲み込めなかった事実だ。美希子の存在を知らない二人はさぞかし驚くだろう。
了承の返事をして通話をきると、近所迷惑になるから落ち着きなよと二人の肩を叩くのだった。
□
「あんたが元窃盗団のエースの“杉浦”で、そっちが天才ハッカーネカフェ暮らしの“九十九”?」
病院に届けるはずだった見舞い品を手にしたまま八神探偵事務所を訪れた二人に、准は目を輝かせて食いついた。
美希子にプロポーズをし、了承の返事をもらった海藤はそれはもう浮かれていた。
熱を持て余したままに乗った神室町行きのタクシーの中で、探偵の仕事に興味を示す准に今までの仕事の内容をあることないこと喋ってしまった。車内は守秘義務などあったものでは無い。
そんな事だから、九十九と杉浦のことも多少の誇張を入れて説明してしまった。本人の認識だと、少し大袈裟に伝えたというだけだ。
「そのパソコンいつも持ち歩いてんの? やっぱオタクなわけ? メガネには何が映んの?」
「おやおや、随分と元気な息子さんで」
「うわー。物怖じしない態度とか、無神経な物言いが海藤さんそっくりだねー」
「あんたは元窃盗団って感じしねーなー。もっとゴリゴリのマッチョを想像してたんだけどな。ガッカリ」
「はあ?」
「准、もうその辺にしとけ」
好き勝手言い始める准に海藤が慌てて止めに入る。九十九はともかく、杉浦からの視線がどんどん鋭さを増してきたからだ。
いつもはそんな態度を気にする海藤ではないが、同業者への息子の有り余る態度は父親として律しなければならない。というよりは、家族になったばかりの息子に対し、距離感を測りかねているだけなのだが。
九十九は誰に対しても態度が変わらず等しい一方、杉浦は子供に対して苦手意識を持っているように見える。というよりは、接し方が分からずぶっきらぼうになっているといった印象だ。
あかねに好意を持たれて話しかけられた時も、変に相手をする事無くあしらっていた。
いつもは周りの人間に対して器用に立回る姿を見ているだけあって、年下の子供相手にたじろいでいる姿が少し微笑ましい、と八神は恋人の姿を観察しながらしみじみと思った。
杉浦が呆れ顔で海藤をじとりと見やる。
「准君だっけ? 将来は海藤さんみたいにならないよう沢山勉強しなね」
この先、家族に苦労を強いるだろう自覚のある海藤にその杉浦の言葉は深く刺さり、ぐうと喉を鳴らした。
「杉浦、その辺にしておけよ。息子の前でくらい海藤さんの顔を立たせてあげなよ」
「はーい。ごめんね、お父さん」
「お前ら……」
四人の中に笑いが起きた中、海藤本人だけが腑に落ちない顔をしていた。
西日が部屋を紅く染めはじめた頃。
家を片付けると准を連れて帰ろうとした海藤に、見舞いの品を握らせると、八神は横浜から来た二人を少し早めの晩飯に誘った。
適当に入った居酒屋は早い時間のためか他の客が一人もおらず、三人は広めの席に腰を落ち着ける。八神と杉浦が向かい合う形で座り、九十九は杉浦の隣に座った。
「とりあえずビールでいいか?」
「うん。海藤さんに付き合わされると思って仕事全部終わらせてきたんだよね」
生ビールを三つと適当につまみを数皿頼んでから、じっくりとメインメニューを選び始める。そうしているうちに生ビールはすぐ運ばれてきた。
「かんぱ〜い」
三つのグラスがご気味良い音を立ててぶつかる。
まだまだ寒い時期ではあるが、一口目の生ビールは口を湿らす程度では収まらず、その量をどんどん減らしていった。
「しかしだいぶしっかりした子でしたなあ。すこしヤンチャでしたが」
「美希子さん……、母親の教育がちゃんとしてたんじゃないかな」
「僕、まだちょっと信じられない。海藤さんが結婚するなんて」
「しかも一人息子まで連れてくるんだもんな」
「八神氏、海藤さんのためにもこれからますます仕事を頑張らねばなりませんねえ」
ほんとだよねー、と向かいにいる杉浦に顔を覗き込まれて、八神はグラスを唇に当てたまま視線を逸らした。
「僕、唐揚げと刺身盛り合わせ頼みたい」
「じゃあ刺身盛り合わせはでかいのひとつ取って、俺は梅水晶たのむ」
「一緒に焼き鳥盛り合わせも宜しいですかな」
「鶏ばっかだね」
「すみませーん!」
メニューを店員に伝え終わると同時に先に頼んでいた枝豆と塩キャベツがテーブルに並べられた。
「海藤さんも参観日とか行くのかな。あのシャツで」
「ぶっ」
「うわ、八神さん汚い!」
「飲んでる時に変な事言うなよ」
おしぼりで吹き出したビールを拭き取ると、鼻にも逆流したのかほんのりと麦の香りが鼻腔を抜けていく。鼻をすんすん鳴らしていると、まだ何かを言いたげな杉浦がこちらを見ていた。
「八神さんって子供好きそうだよね」
「なんだよ突然」
「別に突然じゃないよ。好きでしょ、子供」
「まあ別に嫌いじゃないけど」
「ふーん。そうなんだ」
杉浦から質問をしておいて突然切り上げるものだから、そこで一瞬の静寂が生まれる。
この杉浦に見覚えがあった。
この男は拗ねている。原因は分からないが、こうなる場合は大体八神が絡んでいて、八神本人が自覚のないまま杉浦を不機嫌にさせていることが多い。
今回も思い当たる節がないし、長引いても面倒臭そうなので本人に直接疑問をぶつけることにした。
「なんだよ杉浦、さっきから」
「何?」
「妙に突っかかってくるじゃん」
え?そう?と杉浦はきょとんと八神を見つめる。
九十九はそんな二人を交互に見て眼鏡を指で押し上げると、助け舟を出した。
「八神氏〜。杉浦氏は今日、八神氏に会えることを楽しみにしていたのです」
ゴン、と大きい音を立てて杉浦の握っていたグラスがテーブルへと置かれた。中身は零れていない。
「九十九君??」
「知らなかったとはいえ准君が居た手前、出張帰りの八神氏を堪能できなかったのでありますから、杉浦氏のささやかな苛立ちや八つ当たりは大目に見て頂きたい」
「そうなのか? 杉浦」
八神に向けられていた鋭い杉浦の視線は、隣に座る九十九に注がれる事となったが、九十九本人はそんな事を気にもとめずさらに口を開く。
「恐らく杉浦氏本人も先程までは無自覚だったため、この八つ当たりは八神氏にのみ発動したものです。僕以外は、これが杉浦氏の甘えた態度だとは気付かないことでしょう。杉浦氏、安心していいですぞ」
「つ、九十九君さあ……!」
「なるほどなあ。解説ありがとう、九十九」
「いえいえ、相棒ですから」
杉浦が反論しようとした所で、刺身の盛り合わせです、と目の前に料理を並べられてしまい、八神と九十九は固まっている杉浦を置いて箸を持った。
「いただきます。おー、美味いよこれ」
「醤油を取っていただけますかな」
「はいよ」
杉浦も食べな、と促すが九十九の追い打ちで完全にへそを曲げてしまった杉浦は、テーブルへ頬杖をついてしまい箸を持つ気配すらない。
「で、さっきの子供がどうとか、何?」
「何でもない。もういいし」
「またなんか変な事考えてんのか?」
「……」
乾杯の音頭を取った後には思えない、暗い雰囲気になってしまったテーブルだろうが、店員は構わず料理を運んでくる。
目の前が料理の皿でいっぱいになっても、杉浦の取り皿は綺麗なままだった。
「杉浦が考え込んじゃう性格なのは分かるよ」
「ふーん。僕って、そうなんだ」
「茶化すなよ」
「じゃあ僕が何を考えてるのか大体分かるんじゃない?」
「大体ね。まあ、俺だって同じようなこと考えたことあるからな」
その言葉に、杉浦はゆっくりと八神を見た。
怒っているのは杉浦なのに、その目には八神に許して貰いたいという揺らめきがあった。
「多分この話はこれから先も、杉浦が納得するまでずっと続くと思う。でも、昔のお前ならこうやって口にも出さなかっただろうから、まあ、俺は嬉しいと思ってる」
「……何それ」
感情的になりやすい自覚があるから、フェアであるよう心掛けている。
かつて杉浦が言った言葉だ。出会ったばかりの頃の杉浦は、仮面を付け八神達の元へ現れた。仮面が、八神隆之を殺したいほど憎んでいる寺澤文也を隠してくれていたから。
その仮面を外して偽名を名乗る時も、怒りや嫌悪が現れないように道化師を演じきってみせた。
何でもできると思った。姉を忘れてしまったこの元弁護士を憎んでいるうちは、それが力になった。
しかし同時に、それは杉浦の本音を心の底に深く深く沈めていった。
八神に笑いかけて、心が死んだ。
仲間のように扱われて、吐き気がした。
思ってもないことを喋る自分の口に、石を詰めてやりたかった。
八神にまつわる全てが嫌いになっても、仲間という仮面をつけて振舞った。
だが八神は真実を明らかにした。
ずっと自分を中心に回っていたと思っていた暗く苦しい世界は、その日、創薬センターで終わりを告げた。
八神は杉浦を救ったつもりなんて無いのかもしれない。事実、八神は八神の信念と、日の当たらない場所での不正を暴きたかっただけなのだろう。
しかし、それが杉浦にとってどれだけの光に見えたか、八神は知らない。
ずっと我慢していた不安が、泣き言が、苦しみが、声に出せて、それを聞いてくれる人がいるという事がこんなに暖かいものだったなんて、姉が死んでからずっと忘れていたのだ。
もう言葉にしても怖くないと思わせてくれた八神は、大袈裟ではなく、死ぬまで杉浦の特別になった。
きっとこれ以上の出会いなんか無いと思う、と告げた杉浦に対して八神は大袈裟だと笑っていたが、その言葉がきっかけとなり二人を恋仲に発展させたのだから人生は分からない。
「あーあ。九十九君の前で恥ずかしいよねー。八神さんて」
「ヒヒ……、このような喧嘩も僕は既に七回は見せられていますから、対応策も十通り程は用意してますぞ」
「お前ら、よくそれでやってるよなあ。ほんと仲良しだこと」
運ばれてきた唐揚げの熱さをぬるくなったビールで流し込んで、杉浦は精一杯の照れ隠しをしてみせた。