八杉16 お帰りなさいって声は、ライダースジャケットに阻まれてくぐもった。
なかなか鍵を開けられずにいる八神さんのために室内から解錠して、出迎えたら「ただいま」って言いながら抱きしめられたから。
愛煙してる銘柄のにおいに混ざってアルコールの強い香りがする。
八神さんは、今夜は調査じゃなくて、依頼主からお礼にって食事に誘われてたらしくて。
悪いけど手が空いてたら様子を見てやってくれって海藤さんから連絡を受けたんだけど、来ておいて正解だったなって思う。
八神さんは、よく誘われる割にお酒にはそんなに強くない方だ。
僕や海藤さんたちと一緒の時はそこそこ飲めるはずなんだけど、親交の深くない人と付き合いで飲む日はペース配分が狂っちゃうみたいで、時々こうして酔って帰って来ることがある。
「気分は?」
「わるくはない、かな……?」
話し方もゆるゆるしてて、なんだかふわふわしてる。こんな状態でよく帰ってこれたよね、って溜息が漏れた。
「杉浦、来てくれてたんだ?」
猫がするみたいにすり、って八神さんが身動いで、僕の頰に癖のある髪が触れてくすぐったい。
「ソファすわろ、八神さん」
これ以上密着してるとだめな気がして、八神さんに半分抱きしめられたまま移動する。
動きづらいからちゃんと離れて欲しいんだけど、って思ってたら、体勢が崩れた。
「う、わ──」
頭とか肩とか。とにかくソファに打ち付けるんじゃないかと思って身構えたけど、やけにやんわりと横たえられる。
「八神さん……」
悪戯が成功したみたいな、にんまりした笑顔を浮かべた八神さんに、わざと押し倒されたんだってわかって「怒るよ?」って唇を尖らせた。
そんな言葉に効力なんてなくて、八神さんは僕をじっと見つめる。陶然とした瞳に僕が映ってた。
指を絡ませて僕を組み敷いている腕は、酔っていてそんなに力なんか入らないはずなのに、ぴくりとも動かせない。
もともと体温が高めな八神さんの指先はいつもより熱くて、触れられた先から溶けてしまいそうだった。
「……酔っ払い」
「ん、酔ってる」
負け惜しみのように口にしたのに、楽しげに返されて眉を寄せて見上げると、
「ほっぺた赤いけど、照れてんの」
かわいいな。って、八神さんが言った。
途端にぶわっと頬が熱くなる。
「かわ、」
「かわいい」
酔うとこうしてらしくないことするけど、記憶力の良さが仇になって翌朝盛大に照れ散らかすか、「ほんと悪かった、ごめん」て自己嫌悪に陥ってへこむのは目に見えているのに。
こうなっちゃうと止めようがない。
これが他の人ならそもそもまず遠慮なく蹴飛ばしてる。
誰にどんなに甘く囁かれても、僕が他の誰かにこんな感情を抱くことはないし、この状況を作らせる隙だって与えるつもりはない。
酔って抱き寄せて、組み敷いて、少し掠れた声音で甘い言葉を口にする──ちょっと困った絡み癖を許しちゃうのは、僕が八神さんを好きだから。
それに、今の八神さんのこの声が、甘い夜を思わせるものと同じだと僕は知ってるからこそ、適当に流せないでいる。
僕を気遣って痛くないかきいてくれたり、僕を欲しいって言ってくれる声。
昨日の夜もたくさん聞いたし、その時のことをすぐにでも思い出せてしまう。今も、すでに体の奥でふつふつと熱が灯るのを自覚してる。
酔うと本心を隠せなくなるって八神さん本人に聞いてるからこそ、僕だって簡単にその気になるよ、って恨めしく思った。
ぴたりとくっついた体から伝わる八神さんのあたたかさに、緩く、けれどたしかに欲を煽られ続けて、そろそろ限界が近い。
受け入れることは難しくないし、僕だってそうしたい気持ちはある。
けど、ここでその先に進むには躊躇う理由があった。
僕らが重なり合ってるのが、僕の部屋でもホテルでもなくて、八神さんの事務所で、来客が座るソファだってこと。
このソファでしちゃったら、僕は事務所に来るたびに今夜のことを思い出しちゃうし、八神さんだって気まずくなるのはわかりきってた。
だから、ここではだめ。
「八神さん、水飲もうよ。酔いさまさなきゃ」
「……なんで。やだ」
離れたくないし。
なんて、いつになく幼い物言いで拒否すると、僕のもどかしさを知ってか知らずか、八神さんは髪に口付けを落とした。
くすぐったくて身を捩ると唇が追いかけてきて、悪戯するように首すじや耳のくぼみを吸う。
「ぁ、まって……」
「ん……」
待つ気なんてないくせに、優しく返して八神さんがふ、って微笑んだ。
柔らかな表情は僕が一番好きなものだし、声の甘さが腰に重く響く。
耳たぶ、頬、瞼へ唇が触れて、どうしたって声が出ちゃう。
わかってるくせに決して唇には触れてこようとはしなくて、八神さんはただ肌にあとすらつかない口付けばかりを繰り返した。
「だめ、だってば……」
これ以上は止められなくなっちゃう。
そう思って唇を手のひらで塞ぐと、とろりとしていた双眸が不意に細められた。
八神さんの手がする、とパーカーの裾から侵入して、もう片方の手は僕の腕をひとまとめにする。
決して強くない力。本気を出さなくても、いつだって振り解いて逃げられる。
けど、そうしないことを見抜かれてるからこその力加減だってこと。
ぐ、と沈みこむ感覚とソファの軋む音に、無意識に喉が鳴った。
「やがみ、さん」
八神さんの香りが強くなる。
事務所の鍵かけたっけ。
頭の隅に浮かんだ疑問を払い除けるように、八神さんの手が際どいところを掠めた。傷痕のある場所をゆっくり撫でられるだけで背中がぞくぞくする。
小さな欲を丁寧に拾い上げられて、僕は八神さんに身を委ねるしかなかった。
しちゃうんだ、ここで。
明確な触れ方に体は反応してしまうし、仕方ないな、って許してしまう自分も大概だと思う。
そう思いながら、八神さんの唇を受け入れるために僕はそっと目を閉じた。
「…………」
「…………」
「…………ん?」
けど、触れると思っていた唇が重なることはなくて。
おそるおそる目を開けると、八神さんは僕の肩にゆっくりと顔を伏せようとしていた。
予想していなかった重みにちょっと、と声をかけるけど、完全に体重を預けた八神さんはすぅすぅと寝息を立て始める。
「……嘘でしょ?」
肩を揺すっても、うーん、と小さく唸るだけで起きる気配はこれっぽっちもない。
「あー、もう……!」
中途半端に煽られたままほったらかしにされて、でも八神さんのぬくもりは離れてくれないなんて。
どうしてくれるの、て気持ちがむくむくと沸き上がる。拳を握ると、広い背中にひとつ、ぽこ、と制裁を加えた。