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    zu_kax

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    やっと……家に行く……ぜいぜい
    けんなゆ♀ 4話はぜったいにえっちなことをさせる

    四、黄昏のコンチェルト ライブを終えたばかりの那由多は、いつもより少し息苦しそうだった。普段から白皙な彼女の肌はさらに白く、顔色が悪く見える。ステージの上でのパフォーマンスは、いつものように素晴らしいものだったが、楽屋に戻ってくると椅子に座り、くちびるを結んだままじっとしている。
     那由多をボーカルとして擁立してから、すでに数か月が経っていた。ライブは何度か出演していたが、こんなに体調の悪そうな那由多は初めてだった。
    「大丈夫か。顔色が悪い」
     冷えたミネラルウォーターを差し出すと、那由多はゆっくり伸ばした指でペットボトルを掴んだ。蓋を開けて、ひとくち流し込むと小さく息を漏らす。
     ステージ上では次のバンドがパフォーマンスを行っているところだった。那由多をボーカルに据えてからというもの、賢汰たちのバンドは前座よりもメインで出演してくれと願われることが多くなっていた。今日は複数のバンドが出演する対バンライブで、後ろから二番目の出演順を任された。大トリを務めるのは、この辺りでは有名なアマチュアバンドだ。全員が社会人で構成されたスリーピースのミクスチャーロックバンド。ボーカルの技術が高く、人気があるのも頷ける。礼音と結人は汗を拭くとすぐにまた客席のほうに行ってしまった。今日はこのバンドの演奏を聞くのも楽しみにしていたらしい。
     賢汰たちの前に出ていたバンドはもう帰ったか、礼音たちのように最後のバンドの演奏を聞きに行ったのだろう。楽屋は那由多と賢汰の二人だけしかおらず、がらんどうだった。
     ワア、と上がる歓声に、会場の熱気が楽屋まで伝わってくる。漏れ聞こえてくるギターの音に、あ、と賢汰は小さく声を漏らした。今まで披露していた曲はこのバンドのオリジナル曲だったけれど、この曲はカバー曲だ。バンドをやっている人間なら誰でも知っている、レジェンドバンド「SYANA」の代表曲。ボーカルワークが難解だと言われるこの曲は、SYANAの伊龍恒河にしか歌えないと言わしめたほどの歌だ。イントロを聴いただけで客席もピンと来たのか、大歓声がこちらまで聞こえた。
    「……っ、ハァ、うっ、く」
     その音とともに、那由多は荒い息をくちびるから零す。苦しそうに胸を押さえる様子に、賢汰は血の気が引いた。これは、ただ体調が悪いだけでは片づけられない。
    「ゲホッ、ゲホッ、う」
     ひゅー、ひゅー、と聞こえる喘鳴音に目を見開く。息苦しそうに胸を押さえる那由多に、賢汰は口早に告げた。
    「那由多、救急車を」
    「いらねえ……鞄、薬……」
     慌てる賢汰とは裏腹に、那由多は冷静だった。その冷静さが、更にこちらを急き立てるような気持ちにさせる。彼女はこういったことに慣れているのか。
    指を差した先にある那由多の鞄を近くに持っていき、チャックを開ける。勝手に中を物色して見つけた、それらしきジッパー付きのビニール袋を那由多に手渡した。中身を取り出した那由多は慣れた手つきでそれを口に持っていき、薬を吸入する。ぜいぜい、と聞こえていた喘鳴音が、薬を吸引することで少しずつ収まっていった。吸入器を外しビニール袋に戻すと、那由多は小さく息を吐く。赤い瞳にはじわりと生理的な涙が滲んでいた。
    「大丈夫か? 病院に……」
    「必要ねえ」
     救急車を呼ばずとも、病院に罹ったほうがいいのではないかと声を掛けたが、那由多は切れ切れの息とともにはっきりと吐き捨てた。明確に断られれば、それ以上強く言うことはできない。
    那由多は、高潔で誇り高い人だ。誰かに弱みを見せることを嫌う。きっとこの状況を賢汰に説明することもないだろう。何か持病を――それも、喉や気管支に関する病を持っていることは賢汰にも容易に想像できた。だが、こちらから那由多にそれを尋ねていいのか賢汰には判断することができなかった。彼女が自分から口にするのを、待ったほうがいいのではないかと思ったのだ。
    「せめて家まで送るよ」
     つい先日、賢汰は免許を取得したばかりだった。車があれば、那由多をスタジオやライブ会場に送迎するのも楽になる。今日も、那由多は電車でこのライブ会場まで来ていたが、帰りは家まで送ろうと思っていた。ライブが終わった後は那由多も消耗しているから、少しでもその身体を労わりたかったのだ。
     病気のことを何も聞いてこない賢汰を訝しんだ様子で、那由多はこちらをじっと見る。ライブ会場から、またワアと大きな歓声が起こったのが聞こえた。ステージでは、SYANAのカバー曲が終わったようだった。那由多はさっと表情を曇らせると、俯いて目を伏せる。
    「帰りたくない」
     ぽつりと、寄る辺のない言葉が漏れた。それは、いつも不遜で傲慢な那由多が発したとは思えないほど弱々しく、寂寥感に満ちていた。病気の発作が起こったことで、彼女の精神状態は大きく揺らいでいるのかもしれない。
    「……那由多」
     息を飲み、賢汰は小さくつぶやく。彼女は母親と二人暮らししていると聞いたことがあった。どうしてそんなことを言うのか、賢汰には那由多の気持ちを窺い知ることはできない。いつまでもここにいることはできないし、発作が出ている以上、賢汰は那由多に早く家に帰って休んでほしかった。
     那由多は椅子から立ち上がると、賢汰に一歩近づき距離を詰める。苦しそうな息は、先ほどよりは良くなっているようだった。伸びてきた指が、賢汰のシャツの裾をきゅっと摘まむ。こちらにもたれるように、白銀の髪から覗く額を賢汰の肩に寄せた。びく、と賢汰の肩が揺れる。
    「……帰りたく、ない」
     賢汰が大学入学を機に一人で暮らしていることを、那由多は知っていた。それゆえ、こんなことを言い出したのだろうというのも予測できた。未成年の少女を自宅に連れ帰ることなど、賢汰にできるはずもない。だが、那由多が今頼れるのは自分しかいないのだと思うと、どうしようもない気持ちにさせられた。賢汰はこの神様に出会ったときから、彼女のすべてを守りたいと思っていたから。こんなボロボロの女の子をひとりで放り出せるほど、賢汰は非情にはなれなかった。きっと断れば、彼女はひとりでどこかに行ってしまう。
     ライブの後の昂揚を、自らを慰めることで昇華する那由多は、時折賢汰をトイレに連れ出した。初めてしたときと同じように、賢汰はただ那由多にもたれかかられるだけで指一本ですら触れたことはない。
    「なにも、しないからな」
     那由多にそんな前置きは無意味だとわかっていたけれど、牽制も含めた線を引く。那由多はそれが是の返答だと気づいたようで、こくんと声も出さずに頷いた。



     ライブハウスから車で数十分のところに、賢汰の暮らすアパートはあった。駐車スペースに車を停めると、那由多は黙って賢汰の後ろをついてくる。まだライブは終わっていなかったけれど、礼音と結人に「那由多の体調が悪そうなので送ってそのまま帰る」と伝えれば、二人はライブハウスの店長や周りの出演者への挨拶は自分たちでするからと言ってくれた。
     鍵を開け、家に入って電気をつける。大学生の一人暮らしには十分な1Kの部屋は、日ごろから掃除が行き届いているため埃とは無縁だった。那由多が気管支の疾患を持っているのであれば、少しでも悪影響を及ぼす要因からは遠ざけてやりたい。
    「狭くて悪いが」
     靴を脱ぎながら中を勧めれば、那由多は編み上げブーツを脱ぐとひたひたと音をさせて賢汰の後に続いた。
    「……シャワー、浴びたい」
     玄関から地続きになっているキッチンを抜け、洋室に入ると那由多はぽつりと言った。確かにライブでパフォーマンスをしたから、汗をかいているだろう。賢汰はその申し出を当然と受け取るものの、眼鏡の奥の瞳を揺らがせる。母と二人暮らしをしていたときも、自宅に恋人を招くことはあったし、こういう状況が初めてなわけではないのだが、相手が那由多だと思うと妙に緊張してしまう。
    「着替えは……」
    「なんでもいいから貸せ」
     そもそも那由多はいつも持っている荷物が少ない。財布と携帯くらいしか入らない小さなショルダーバッグに、着替えが入っているわけも無かった。汗でべたつく服を再度着るつもりは無いのか、傲慢に言い捨てる彼女に賢汰は小さく息を吐く。年頃のお嬢さんが、恋人ではない男の部屋に突然来てシャワーを貸せとせがむ、その異常性をこの子は理解しているのだろうか。
     頭を抱えながら、賢汰はクローゼットの中から部屋着として着ているパジャマを取り出した。那由多には少し大きいかもしれないが、我慢してもらうしかない。
    「バスタオルは洗面所に置いてあるのを使ってくれ。新しい下着が必要ならコンビニで買ってくるが……」
    「必要ねえ」
     賢汰が下着を買いに行くのもどうなのかと思ったが、那由多はそう言い残してバスルームに向かう。今着ているものをそのまま使うらしかった。消えていった白銀の背中を見て、自由奔放な少女に小さく息を吐く。理性を爪でがりがりと削られているような感覚に、胃が痛くなった。
     あの子に欲情するのなら、賢汰は死んだほうがマシだった。不貞の輩に犯され、ずっと傷ついてきた那由多を、自らの欲で暴くなど考えたくない。ライブが終わったあと、たまに連れ込まれるトイレでも、何度も自らの理性を削ぎ落とされたけれど、賢汰は彼女に欲を持って触れたことは一度も無かった。
    意志と肉体は別物だから、毎回身体は彼女の嬌声に反応して勃ち上がり、そのたびに賢汰は苦しくて泣きそうになる。一人残されたトイレで、自分自身の処理をするのが惨めで辛くて、自己嫌悪で吐きそうになった。所詮自分も、あの下劣で低俗な下種どもと同じなのだ。彼女の身体を抱きたいと、意思とは無関係に身体は那由多を求めて反応する。愛しいから、世界で一番大事にしたいのに、自らの雄の欲望がそれを台無しにするのがいつも辛かった。いっそパイプカットでもしてこんなものを無くしてしまおうかと思ったこともある。
    ザア、とシャワーの水音が聞こえてきて賢汰はどきりと心臓を跳ねさせた。普段はひとりで過ごすアパートに、自分以外の人間がいる違和感に慣れない。邪なことを考える自分を嫌悪し、これ以上彼女を汚さないために、賢汰はキッチンに立った。ライブを終えて疲れているだろう那由多に、少しでも体力をつけて欲しい。ちょうど夕飯時で、お腹も空いていることだろうと料理を作る。冷蔵庫には、昨日作った里芋の煮っ転がしやきゅうりのからし和えが残っていた。早炊きで炊飯器をセットすると、冷蔵庫から取り出した野菜と肉を炒め始める。
    キャベツとピーマンと肉があったから、炒めて回鍋肉を作ることにした。味付けはパウチタイプの市販のものを使う。炒めている間に白米も炊き上がり、冷蔵庫に残っていた副菜を小鉢に盛り付ける。ベッドの前に置かれたローテーブルに二人分の夕食を並べ終えるのと、那由多がバスルームから出てくるのは同時くらいだった。
    「那由多、夕飯食べるだろ?」
    言いながら、テーブルに向けていた顔をパッと上げると、視界に入ってきたのは細く、驚くほど白いすらりと伸びた脚だった。肩にバスタオルを乗せた那由多は、まだ半乾きの髪を煩わしそうにタオルでいじっている。上半身は賢汰の渡したパジャマを着ていたが、下半身はズボンを履いていない。トレーナー型の長袖のパジャマは那由多には丈が長かったようで、すっぽりと太腿のあたりまでを隠していた。
    「ヒッ……」
     那由多の晒された脚を見て、賢汰は小さな悲鳴を上げながら視線を逸らす。こういうラッキースケベは要らない。断固として求めていない。
    「那由多、頼むから下を履いてくれ……」
     もう一度あのすらりとした生足を視界に収めるのが嫌で、賢汰は顔を背けたまま声を出した。恐る恐る、震える声で進言するも返ってくるのは興味の無さそうな音だ。
    「……いいのか?」
     何が「いい」のかわからず賢汰は怪訝な表情になる。声に釣られて顔を上げたら、まただぼだぼトレーナーの那由多がいた。いわゆる「彼シャツ」の状況が視界に広がっており、賢汰は小さく咳払いをする。
    「どういうことだ?」
     平静を装って尋ねると、那由多は一度下を向いて自分の曝け出された脚を見る。
    「そのまま履くことになる」
     ソノママハクコトニナル。音声はきちんと賢汰の耳に届いたが、どういう意味かわからずに何度かその言葉を反芻した。じっと見ていたら、居心地が悪そうに視線を逸らしたので、賢汰はハッと息を飲み込んだ。那由多は替えの下着を持っておらず、コンビニで買う必要は無いと言った。賢汰は勝手に、彼女がシャワーの前に着ていたものをそのまま履くのかと思っていた。
    もしかして、というか、もしかしなくても。那由多はその下に何も――。そこまで思い至って脳神経が爆発するような感覚に陥った。これ以上思考し続けたら絶対に良くない。ちょっとお外走ってきていいですか。
    「……コンビニで下着を買ってくる」
     那由多の姿を一切視界に入れず、口早に告げて財布を手にする。
    「おい」
    「那由多が良くても、俺の精神衛生上良くない」
     いきなり外に出ようとする賢汰を那由多は止めたが、静止する声を聞かずにアパートを出る。賢汰のアパートから最寄りのコンビニまでは徒歩で何分もかからない。頭を冷やすためにも、適切な距離を取ることは重要だと思われた。



     帰ってきた賢汰から下着を受け取った那由多は、バスルームで新しいものに履き替え、ちゃんとパジャマのズボンも履いてくれた。だぼだぼのパジャマの下に着ているのが、自分が買って来た下着なのだと思うと頭が狂いそうになる。それ以上考えると一緒にいるだけでおかしくなりそうになったので賢汰は思考を止めた。
     風呂上がりの那由多はバスタオルで髪を無造作に撫でつけただけだったから、賢汰は食事の前に髪を乾かしてやることにした。せっかく綺麗な髪なのに、こんな風に雑に扱っていたら痛んでしまう。
     洗面所に椅子を持っていき那由多を座らせると、ドライヤーを当てながら櫛で優しく髪を梳いてやる。脱衣所の洗濯カゴに脱ぎ捨てられた使用済の下着が目に入って、そちらを見るのは止めた。多分賢汰に洗えということなのだろう。そのときのことは、そのとき考えることにする。
     ふわふわと細い猫っ毛をくしけずると、気持ち良さそうに那由多は目を細める。長い髪からは普段自分が使っているシャンプーと同じ匂いがしてぐらりとした。那由多はこの風呂に入ったのだから当然なのだけれど。事実を受け止めるたびに、ダメージを受けてしまう。最初は落ち着かなさそうに椅子に座っていた那由多も、髪に触れられることに慣れたのか、徐々にリラックスしているようだった。いつも家でも、タオルドライだけなのかと聞くと、そうだと言われたので、ちゃんとドライヤーをしないと髪が痛むぞと告げる。
    十分ほどで髪を乾かし終えると、ようやく夕食にありつけた。白米を盛りつけ、回鍋肉をレンジで温める。出来上がったときは湯気が出ていたのに、色々あってすっかり冷めてしまっていたのだ。大根の味噌汁と、冷蔵庫にあった残りものの小鉢を那由多の前に並べると、二人で向き合うようにローテーブルを挟んで座った。
    「口に合うと良いんだが」
    「……」
    那由多は目の前に出された料理を黙々と口に運んだ。表情を見る限り、不味くは無かったらしい。出されたものはすべて食べ切り、冷たいお茶を飲むと箸を置いた。
    「悪くなかった」
     その言葉は、那由多にとって一番の高評価だろう。嬉しくなって口元が緩む。賢汰も食事を終えると、片付けのために流し台まで食器を持ってきてくれた。普段から母親ともこういう風に過ごしているのかと思うと、ほっこりと胸が温かくなる。洗い物をしている間、那由多は洋室でベッドの上に座っていた。いつもは殺風景な自室に女の子がいる光景はあまりにも慣れない。
    そういえば、思考放棄をしていたが那由多は今日の夜をどのように過ごすのだろう。もう帰りたくない気持ちは無くなっただろうか。そもそも、母親にはきちんと連絡しているのか。時計を見ればすでに夜も深い時間になりかけている。帰るならば早いほうがいい。
    食器を片付け終えた賢汰は洋室に戻り、ベッドに座ったままの那由多の傍に寄る。
    「那由多、今日は……その」
    「?」
     しどろもどろになりながら口を開けば、長い睫毛が揺れた。怪訝な顔を向けられ、意を決して口を開く。
    「どうするんだ? 帰るなら、車を出すが」
     賢汰の問いに、那由多は不機嫌そうに赤い瞳の色を深くした。こちらを向いていた目が逸らされ、伏せられる。
    「帰りたくない、と言っただろう」
     むくれるような声に、賢汰はうっと眉を顰めた。それは、そうなのだけれど。
    「……ここに泊まる、ってことか?」
    「最初からそのつもりで連れてきたんだろ」
     重ねて尋ねると、那由多は当然のように言葉を返してきた。そうなる可能性も多少は視野に入れていたが、那由多の気が変わって今日は帰ると言うかもしれないとも思っていた。
    「いや、……」
    「母親は夜勤だから、連絡しなくても構わない」
     言葉を失う賢汰の表情を横目に、興味が無さそうに続ける。母が帰ってくるのは朝になってからなのだそうだ。那由多が学校に出かけるほうが早いから、朝に顔を会わせることは無いのだと言った。なので、ここで泊まっても母親にバレることは無いのだと。元より那由多に友達などいないから、「友達の家に泊まる」などと嘘を吐いたとしても、母親にはすぐにその嘘が分かってしまうだろうと思われた。
    「そうか……」
     賢汰は那由多をバンドに引き入れることが決まってから、彼女の母親にも挨拶をしていた。母親は那由多が今までバンドの奴らに何をされていたか知らなかったけれど、那由多が音楽をやっていることは知っていたようだった。プロを目指していることと、彼女をバンドに迎え入れること、リーダーとして那由多を大事にすると伝えたら、母親は不安気な表情で、けれど「那由多をお願いします」と言ってくれた。そういう意味でお願いされたわけではないのだ。ここで那由多を泊めたら、賢汰を信頼し預けてくれた彼女の母を裏切ることになるのではないか。
    「……わかった。鍵は置いていくから那由多はこの部屋を使ってくれ」
     深い息を吐いた賢汰は、家の鍵をローテーブルの上に置いた。それから鞄の中に財布と携帯を入れる。口早に告げた言葉に、那由多は意味を図りかねたように目を見開いた。
    「は?」
    「駅前まで出ればホテルも空いているだろう。朝になったらまた来るから」
     那由多をここに泊めるならば、賢汰はここから出ていくつもりだった。この部屋にはベッドはひとつきりで、客用の布団なども無い。万が一客用の布団があったとしても、同じ家の中で寝るのは、賢汰には耐えられなかった。
    「……そんなに嫌か」
     玄関に向かおうと踵を返した賢汰の背中に、那由多はぽつりとつぶやいた。震えるような、小さな声だった。
    「そんなに、私に触れるのが嫌か」
     掠れたハスキーボイスに涙が混じる音がして、賢汰は驚いて振り返る。赤い瞳はひどく傷ついたような色をしていた。賢汰は、那由多のことを大事にしたかった。自分のことを大事にしてほしかった。彼女のことを愛しいと思うから、那由多には触れたくなかった。その気持ちは、那由多には届いていない。
    「ちが、」
    「違わない」
     否定の言葉は、鋭い音で叩き落とされた。燃えるような紅は、賢汰を試すようにじっと見つめる。きれいだと、思った。
    「汚い女だと思うか」
     お前も。芯のある声なのに、その音はかすかに揺らいでいるようにも聞こえる。知らない男に何度も抱かれて、その快楽を知った。そういう風に作り変えられてしまった彼女の身体はいつだって、欲を求めて彷徨っている。
    どうしてそんなことを聞くのか。悲しくて喉の奥が熱くなった。どうしてこの子ばかり、こんな苦しい思いをしなければならない。地獄のような苦しみを奴らに味わわせたところで、那由多の傷はいつまでも塞がらないのに。
    「お前は私を神様だと言うが、そうやって遠ざけて軽蔑しているだけだ」
     何と返していいかわからずに押し黙る賢汰に、那由多は続けて口を開く。眉には深い皺が刻まれていて、淡々と告げられる低い声は確かな怒りが孕んでいる。
    「触れたくないのは、そういう理由だろ」
     諦めのような悲しげな声が辛かった。喉の奥が熱く、涙が出そうになる。
    「違う!」
    すすきので出会った賢汰だけのミューズ。愛しくて神々しくて、だからこそ、触れたくない。那由多を汚いなんて思ったことは一度も無かった。どうして彼女は自分をそんなに卑下する。音楽に関しては驚くほど自信家で傲慢なのに。傷ついて、傷ついて。諦めて、そして手離した。
     何を言えば彼女に賢汰の気持ちが伝わるのかわからなくて、否定の言葉しか吐くことはできなかった。旭那由多は高潔で、不遜で、誰にも触れることなど許されない美しいひとだ。那由多自身が、旭那由多を否定することなど、できないはずなのに。
    「……帰る」
     小さく息を吐いた那由多は、呆れたようにぽつりと言い、賢汰の脇を通って玄関に向かおうとする。賢汰の手は、外に出ようとする彼女の腕を掴んでいた。
    「どこに行くんだ」
     帰るのが嫌だと言っていた那由多が、大人しく家に帰るとは考えにくかった。こんな夜遅くに、一人で外に出すわけにはいかない。掴んだ腕を煩わしそうに振り払い、那由多はこちらに顔を向ける。
    「どこでもいいだろ。こんな身体でもいい男は、どこにでもいるからな」
     ハッと鼻で笑って告げた那由は、自棄になっているみたいだった。欲を処理するためなら、誰でもいいのだと、彼女は言う。汚い自分でも、女だというだけで求める人間はいるのだと言う那由多の顔は苦しげで、賢汰は胸が痛かった。
     もう、那由多がこれ以上傷つくのは見たくなかった。自分自身を傷つけ続ける那由多を見たくなかった。那由多が「賢汰でもいい」と言ってくれるなら。彼女に触れるのは、賢汰が最後になればいいと思った。
    「……行かないでくれ」
    伸ばした腕を那由多の背中に回して抱きしめる。華奢な身体は、簡単に賢汰の腕の中に納まった。小さく、息を吸う音がする。ドライヤーで乾かしたときと同じシャンプーの匂いがふわりと鼻を擽った。
    「この報いは、必ず受けるから」
     苦しげに告げた賢汰の腕に抱かれて、那由多は驚いているように見えた。どくん、どくん、と鳴る鼓動の音が聞こえる。互いの熱が混じりあって、溶けていくみたいだ。
    「頼むから……ここにいてくれ。那由多」
     囁くように那由多の耳元でつぶやくと、那由多はそれに応えるようにそっと、賢汰の背中に腕を回した。おそるおそる伸びた指は、赦しを乞うように賢汰のシャツを掴む。触れている部分が熱かった。
    「もう、どうすればいいか、わからない」
     傷ついた那由多は、悲しそうな声で言った。自分でも、つけられた傷を塞ぐ方法がわからなくて苦しんでいる。傷ついていることすら、彼女は気づいていないかもしれない。足掻いて、もがいて。どうにかして溺れないようにばたついている白鳥みたいだった。
    「たすけて、さとづか」
     薄いくちびるからは子どもみたいな音が漏れる。触れることを許されたのも、彼女を掬いあげるのも、赦されたのは賢汰だけだ。
    賢汰は、那由多のことを大事にしたかった。もう二度と、誰でもいいなんて言わせたくない。自分自身を蔑ろにしてほしくない。
    頬に手のひらを添えると、那由多は長い睫毛を揺らがせた。そっと触れるだけのくちづけを落とすと、ぱちくりと瞬きをする。その顔があまりに意外そうで、賢汰は息を吸った。
    「……、」
     触れている頬に、わずかに熱が籠る。潤んだ瞳で見つめられて、賢汰はぎくりと背筋を凍らせた。嫌な予感がして口を開く。
    「那由多、もしかして……」
     続く言葉は、音にならない。那由多は答えの代わりに目蓋を閉じた。もう一度、とせがむようなその顔に、賢汰は軽率にくちづけたことを恥じた。あれだけ経験をしておきながら、彼女はキスをしたことが無かったらしい。経験豊富かと思えば初心な生娘のような反応をする那由多に、賢汰は小さく息を吐く。顎を上に向けると、もう一度そのくちびるを塞いだ。触れるだけのくちづけは、けれど砂糖菓子のように甘く、溶けそうなほど熱い。
     どうかこの美しい生きものが、もっと自分を大事にしてくれるように願いながら。この気持ちが届くことを祈って、賢汰は那由多のくちを塞いだ。触れていたくちびるを離すと、伏せられていた目蓋が開く。赤い瞳は、惚けたような欲の色を混じらせていた。
    「……もっと、」
     舌足らずな蕩けた声を向けられて、賢汰はぐらりと自分の理性が揺らぐ感覚がした。
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