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    DasonHen

    @DasonHen

    画像化すると長くなる文はここ
    あとたまにえっちな絵を描くとここ(報告はサークル内)

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    DasonHen

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    ・初夜に至るまでもだつくさめしし
    ・それぞれの過去を捏造している
    ・これは2話目です

    一時限目-追試 自然に目が覚めた。ベッドから身を起こさず、ごろりと緩慢な寝返りをうつ。遮光カーテンの向こうは少しだけ暗い。今日の天気は薄曇りらしい。
     昨晩は何度も何度も寝返りをうって、ベッドをごろごろ動き回って、色々なことを考えて、それからようやく眠りの波が訪れたことを覚えている。それが何時だったのかは分からない。平時と比べれば明らかに睡眠時間は少なかったはずだ。
     それでも今はもう目が冴えてしまって、二度寝なんてできそうになかった。
     
     今日、何時に起きたいかとか、何するかとか聞くの忘れたなぁ。
     はぁ。ひとつ溜息を吐く。
     村雨はまた明日解説を、とは言っていたものの、それ以上の話はしなかった。もし彼の方に何か予定があるならそこまで車で送っていくし、必要そうなら食事を持たせても良い。
     前向きに、前向きに、努めて明るく、そう考える。
     そういうのって先にやっとくべきじゃねえの?と自分でも思うが、昨日はそんな余裕がなかったのだ。今日は日曜で、従業員も休業日。オレ自身の予定はない。
     とりあえず、朝食の準備でもしようと勢いよくカーテンを開けた。
     
     
     朝から肉だ肉だと訴えてくる元気なアイツのためにベーコンを焼きながら、それでも考えるのは昨晩のことだ。
     いくら驚いたからと言って、あの態度はナシ、だろう。明らかに気を遣わせたし、何より失礼にも程がある。
     謝罪の意味を込めて、ベーコンは四枚。いや、多くね?とは思うものの、その方が明らかにアイツが喜ぶのだから仕方ない。卵は二個。コレステロールがどうとか考えたら負けだ。さらにソーセージを入れたコンソメスープも。
     謝るのに食いもんで釣るというのも、決して人として褒められたものではない。分かっている。それしか引き出しのない自分が憎いが、しかしどうしたってそれ以上のことを思いつくことはなかった。
     
     手、繋ぎたかったのかなぁ。
     自身の掌を見る。なんの変哲もない、まぁ右は傷があるものの、それ以外は何もない、ただのカサついた男の手だ。
     これを村雨と繋いでいる自分の姿を想像すると、なんだか居ても立っても居られないような、うわぁとかうひゃあとか変な声を上げたくなるような、その場を飛び出して外を全力疾走してきたくなるような、そんな気持ちが全身を駆け巡る。想像しただけで緊張して、顔が熱くなって、逃げたくなる。
     別に、何も知らない純粋な子供ではあるまいに。
     
     今まで、村雨のようなすげー男からそんなことを求められた事がないから、免疫がなくて慌てているだけなのかもしれない。何度考えたって、村雨の手は綺麗だし、触るとなめらかで掌は少し柔らかいし、温かいし、触って悪いことなど何もない。
     彼と手を繋ぐことでオレの何かが損なわれることが決してないということも、断言できる。
     
     逃げるようなことなんて、何もない。
     
     何より恋人同士なのだ。手ぐらい、繋いだから何だというのだ。オレが勝手にそういうのが無いと思い込んでいただけで、付き合っているというのなら当たり前のスキンシップだ。村雨は人肌が好きなようだし。
     
     朝の光を浴びながら、順を追って紐解くと、どうして昨晩の自分があんなに動揺していたのかどんどん分からなくなってくる。
     「嫌か?」昨晩のその問いに、今なら「嫌じゃねえよ」と胸を張って答えられそうな気がした。あの時はそれだけ混乱していたのだろうか。そんなことにビビって怯えて、なにがハーフライフギャンブラーだ。情けない。
     
     まぁ、ただ、あいつも急におでこにキスしてくるのとかはちょっと悪いと思う。その雰囲気でそんなキザなことするのはずるいだろうが。
     もし次があったら、なんて返そうかな。やり返してみようかな。さすがにそれは嫌がられるだろうか。唇を付けずにフリだけやるとか。それくらいが良いかも知れない。
     うだうだ悩むくらいなら、受け入れて挑戦してみた方が良いだろう。
     
     気分が上向いたあたりで卵の黄身に白い膜が張り始める。皿を汚さない程度の半熟が基本的に人気だから、蓋を閉めたまま火を止めてあとは予熱でじわじわ温めれば出来上がりだ。
     ごそごそ、廊下の向こうから音がする。村雨が起きたらしい。パンをトースターに入れて、サーブの準備をする。
     なんと言おうか。まずは明るく「おはよう」がセオリーだろうか。何も気にしていないという雰囲気で。村雨がいくら人の内面を読むのが得意だからと言って、それは気遣いをしなくても良いという意味ではない。
     がちゃり。リビングのドアが開く。入ってきた村雨は、ゲストルームに用意していた彼専用の部屋着を着ている。寝起きだというのに、いつもと変わらない、隈の浮いた目。
     
    「おはよう」
    「おう、おはよう!」
     
     そして、唐突にそれを理解した。

     オレ、この人を汚すのが嫌だったんだ。
     

     のぼせ上がって浮かれた頭から、血の気が一気に引くのが分かった。ざぁ、と視界の端から黒い砂嵐が滲む。一瞬だけ視界が眩むのを、二度のまばたきで耐えた。
     胸が痛い。どくどくと嫌な鼓動が肺を押す。
     突然、自分が触ったものすべてがひどく汚らしく思えて、手に持っていたフライ返しを取り落としかける。
     でも、表情は変わっていないはずだ。手も震えていない。今のは手が滑っただけだと、言い訳ができる範囲内。換気扇の音で、息を一瞬詰めた音は自分の耳ですら拾えなかった。
     料理はいつも通り。手も器具も洗った。昨晩だって、ここで作ったものを食べさせた。何もない。何もない。自分に言い聞かせる。

     それでも、村雨は異変に気付いてしまうだろう。体温変化と発汗なんてすぐにはコントロールできない。
    「ちょうど良かった、朝メシもうすぐできるぜ。洋食。飲み物なにがいい?」
     間を取りすぎた。村雨の顔を見るのを一瞬躊躇してしまった。赤い目がこちらをじっと見ている。ダメダメだ。
    「……アイスコーヒーはあるか」
    「すぐには出せねぇけど、出来る」
     こだわるほどコーヒーには詳しくないので、というかウチを訪ねてくる奴らはめいめい色々なものを飲みやがり在庫管理が面倒なので、うちにある飲み物は手軽で飲み切りやすいものばかりだ。コーヒーも、一応ドリップだが小さな袋のものを一種類のみ。淹れた時の味の違いはよく分からないながら購入したケトルで湯を沸かす。
     雑念は、いらない。そう言い聞かせて一秒、目を瞑る。切り替えろ。今は、朝食の方に集中すべきだ。
     すぐに追及されなかったのなら、もしかしたら村雨は気づいていても気に留めていないのかもしれない。
     
     皿を出して、あからさまに卵の面積が少ないベーコンエッグを乗せる。彩りと栄養バランスのために、レタスとプチトマトを添える。綺麗なはずのそれが、ひどく色褪せて見えるのなんて気のせいだ。
     スープを器に注ぎ入れ、トースターからパンを取り出して皿に乗せ、あとは冷蔵庫からヨーグルトを出して添えれば完璧だ。ジャムは食べる段階になってからリクエストを聞けば良い。大丈夫。
     
    「ほい、お待ちどうさん。コーヒーは今入るから待っててな」
     村雨はテーブルに着くのではなく、キッチンのすぐ手前に立っていた。それだけで、普段とは状況が異なる。いつもは、おはようの挨拶の後に何かの軽口が続くし、村雨は席に着いて二人分の水を入れておいてくれるのに。

     ただ真っ直ぐ立っている村雨の横を、何事もないかのように通り過ぎる。何事もないように、だ。心臓が少し暴れて、それを抑えるためにゆっくりと息を吸って、吐く。また吸う。手に持つ盆が揺れていないことを目で確認する。
    「獅子神」
     だめか。
    「んー?」
     頼む、何も聞かないでくれ。
     オレがテーブルに盆を置くと同時に、村雨が動き出す。ゆっくりと、足がこちらに近づいてくる。
     勝手に下がっていく視線を無理やり上げて、村雨の顔を見た。昨晩も礼を欠いた態度をとったのだ。それくらいの誠意は見せなければ。
     ただ、何と言って謝れば良いのかは、分からなくなった。パニックになってごめん?不出来でごめん?そもそも、付き合ってごめん?そんなこと、謝られたって村雨にはどうすることもできないのに。
     
     整理のついていない頭で村雨と対峙するなど無理がある。ここは賭場ではなく、オレたちが敵同士ではない、としてもだ。度胸なんかでどうこう対応できるほど、村雨礼二は甘い相手ではない。

     まるで、断罪を待つ罪人のような気持ちだった。
     換気扇の音に紛れて、村雨が息を吸い込む音が聞こえる。
    「……昨晩、事を急ぎすぎたことは謝罪する。あなたへの思慮が足りていなかった。すまない。」
    「…………えっいや、むしろ謝んのは、」
    「いらん。あなたの意識にも前向きな治療が必要だ」
    「…………おう?」
     村雨は鋭い視線でこちらを見ている。それを見返す。しかしおそらく、注意深く観察しても苛立っているようではなかった。村雨は動かない。
     何もかも、先手を越されてしまい、オレの口からはひとつも言葉が出ない。
     どうして謝られた?治療ってなんだ?
     
     そのまま一秒ほど無言で見つめ合って、それから先に目を逸らしたのは村雨の方だった。はぁ、という大きな溜息と共に。
    「……あなたに落ち度が無いことと、今後のために治療が必要であることは両立すると言っている」
     
     村雨の発言はいつも一見すると脈絡がなく、噛み砕くのに少々の時間を要する。ようは、段階がないということなのだが。
     落ち度がないのか。昨晩のオレに?慰めているつもりなのだろうか。いや、村雨は軽率にそんなことをする男ではない。本当に、彼の中ではそうなのだろう。オレが納得しようがしまいが。
     では治療とは。
     
     そこまでを考えた時にしゅわ、とキッチンからお湯が沸く音が聞こえて、思考が現実に戻ってくる。
    「……少し考えるからさ、朝メシ冷める前に食えよ」
     そうだ。せっかく朝食を作ったのだから。オレが考えなければならないことに、村雨を付き合わせる訳にはいかない。待ったをかけるなど賭場では噴飯物の愚行だが、今は村雨の朝食の方がずっと大事だ。
     村雨はオレから視線を外し、息を吐いた。
    「いただこう」
     
     少しだけぎこちなく、時が動き出す。水を用意するため冷蔵庫に向かう村雨に背を向け、キッチンの中に入る。コンロが壁に向いているデザインでよかった。フィルターと、いつもより多い豆を用意して、コーヒードリップの準備をする。アイスコーヒーにするなら、いつもより濃いめに抽出しなければならない。
     考える猶予は五分程度だ。
     ドリッパーをセットして、フィルターにふんわりと豆を盛る。村雨が席に着いた音がする。目が、こちらを向いているのが分かる。これが終わったら、問答無用で治療が開始されるのだろうか。これからのために。
     
     これからって、何だろう。
     
     あまり、未来のことを考えるのは得意じゃない。目標を立てて、もがいて足掻きながらそこへ向かう、その過程を辿る以外に動く方法を知らない。
     でも、考えてみても村雨との関係の「これから」を、上手く思い描くことはできなかった。
     現実的ではないが、強くて満たされた自分がもし存在してくれたら、そんなオレだったら村雨の隣に立っていてもいいのかも知れないと思う。思うけど、それだけだ。考えるべきは、そんな夢物語ではない。オレの自己認識なんかより、いま現時点に関しては村雨の考える「これから」と「現実」の方が重要だ。そのために、治療が必要なのだから。
     フィルターを湿らせる。細く湯を注ぎ、豆を浮かせて踊らせて、蒸らす。コーヒーの良い香りが漂って、知らずのうちに息が漏れた。
     
     分かっている。オレの手は一応常に清潔を保っていて、触っても別に汚くなんかない。村雨はオレが手ずから作った料理を食べてくれて、オレが洗って用意した着替えを着てくれる。真経津も、叶だってそうだ。今ここに、オレのことを「汚い」と詰る人はどこにもいない。
     だからこれはオレの勝手な感覚の問題で、過去が見せる記憶の染みだ。現実には存在しない妄想だ。
     汚いオレも、無価値なオレも、着飾って淀みを塗りつぶして「まとも」のふりをしていたオレも。その全てが過去に存在していたからって、今のオレの中身が汚いがらんどうだからって、現実世界のオレの手が物理的に汚れているわけではない。触れるのを断る理由にはならない。
     落ち度がないというのはおそらく、そういうことだ。
     哀れな自分を見つめる自慰行為をやめろ。
     どんなに恐ろしくても怖くても、こんなもの、考慮に値する筈がないのだ。
     
     とぽとぽと微かな音を立て、コーヒーが溜まっていく。ある程度まで蒸らしたら、あとはゆっくりとお湯を注いでいけばコーヒーは出来上がる。
     早くも、タイムリミットだ。
     
     
    「アイスコーヒー、おまちどうさん」
    「ありがとう」
     村雨の前にはアイスコーヒー、自分にはサラダとプロテインスムージーを置きながら椅子に掛ける。メニューが二人で異なることに突っ込まれることはもうない。食べたいものを食べているだけだ。
     すでに皿の半分を腹に収めている村雨は、手を止めてコーヒーに口をつける。からり。涼しげな音が鳴る。
    「美味いな」
    「そりゃよかった」
     かちゃかちゃという微かな食器の音以外は、ほぼ無音の空間だった。微かに遠くから車の音が聞こえている、気がする。自分もゆっくりとサラダを口にする。
     まだ無理やり道筋を立てただけで、答えらしい答えは出ていない。治療の内容はよく分からない。
     
     考えたことを口にすべきかどうか、迷っているうちに先に口を開いたのは村雨の方だった。
    「人差し指を出せ」
     そう言いながら、村雨はオレに向かって一本の指を差し出してくる。言われるままに、フォークを置いて同じく村雨の方に指を向けた。まるで鏡合わせのように、卓越しにお互いに指を差し合う、妙な格好。
     そういえば、人を指差したらダメだというのはたぶん、小学校で学んだと思う。基本的なマナーだ。村雨は、そういうものを気にしそうに見えて意外とおおらかなので、これも特に気になっていないらしい。
     それより、促されたこれが何を意図しているのかが分からなかった。彼の思考にはいつまで経っても追いつけない。何?何が言いたい?
     そんな疑問はオレの視線に存分に乗っていたことだろう。村雨はこちらの顔を見てフフ、と笑った。
     そのまま、一本だけ立てられたお互いの人差し指の先が触れ合う。
     
     あ、やばい、オレ手洗ってない。
     
     ゾッと背筋に怖気が走る。最後に手を洗ったのはフライパンをシンクに置いて、軽く洗った時だ。あれから時間が経っている。嫌だ。汚い。汚い?分からない。汚くないかも知れない。でも、汚いかもしれないから、一応。
     指を離して立ち上がりかけたオレを制するように、村雨は少しだけ大きな声を出した。
    「あなた、E.T.は知っているか?」
    「は?」
    「知らないのなら良い。座れ」
     イーティー?ET?何の略だろう。このポーズと関連のある何かということは分かるが。ここにスマホは持ってきていないので、あとで調べなければ。
     
     言われるままに腰を落ち着けたこちらを見ながら、村雨は妙に楽しげに、ぐいぐいと人差し指を押し込んでくる。
    「何だよ?」
    「面白いことを教えてやろう。ここを撫でてみろ」
     村雨の、オレとくっつけている人差し指とは反対の手が、ふたつの人差し指の背を扱くように撫でた。特に痛みも、くすぐったさもない。ただ、村雨の人差し指と親指がオレたちの指を撫でている。
    「……はぁ?これが何だ?」
     ただ、村雨の指に指が触られているだけ。この何が面白いと言うのだろうか。
     オレの問いに返事はない。ほら、とただ目配せをされて、埒が開かないのでこちらももう片方の手を伸ばす。
     触っても大丈夫?と怯える自分は押さえ込んだ。村雨の方から触れてきているのだ。匂いや汚れに敏感であろう男が自ら。
     村雨を見る。ゲーム外であれば、隠そうとしていなければ、オレにも端々を読み取れるくらいには分かりやすく感情を露わにする男。それが、楽しげに笑っている。指は離れない。
     なら、大丈夫。そう結論づけて、村雨を真似て二本の指に触れる。
    「うわ、」
    「変な感じがするだろう」
     たしかに妙な感覚だった。自分の指を触っている筈なのに、何か他のものを触っているような。想像している感覚とは違った感触が指に伝わる。いや、片方が村雨の指なのだから当たり前なのだが。
     村雨がじっとこちらを見ている。次に何を言われるのだろうかと待ちながら、指を往復させる。
     
    「………………」
    「………………」
    「…………え?だから何だ?」
    「いや、そういう遊びだが?」
    「へっ?」
     
     なんだって?
     聞き間違いか?思わず首を傾げながら彼の目を見ると、向こうはまるでふざけるようにオレと同じ角度に首を曲げてこちらを見つめ返してきた。
    ふざけるように、というかおそらく、普通にふざけている。
     おちょくられているのだろうか。

     もちろんそれでも、オレが考えていたことをこの場で追求され、詳らかにされるよりはずっと良いのだが。
    「なんで急にバカにしてくんだよ……」
    「バカになどしていないが」
    「は?」
    「うん?」
     お互いにまるで真面目な話をしているかのような声音で、しかしお互いの指を押し合いながら見つめ合う。村雨は本気で、至極普通のことをしているとでも言うような表情でこちらを見ている。やっていることは全然普通ではない。なんだこれは。
     両者動かず、そのまま数秒が経過した。
     
     いや、いや。何が楽しくて大の男二人でそんなことしてるんだ。
     我に返り、押し合っていた指を離して、ずっと軽く反らしていた関節を曲げ伸ばししながら自分の手元に返す。止められることはなかった。
     見ると村雨も、ぐねぐねと解放された指を動かしている。拭われたり、擦られたりはしていない。それにいちいち安堵している自分が少し、虚しい。
     でも、そんな空虚感などどうでも良かった。村雨が何を考えているかを知る方が大事だと思い直す。

    「……いや、本気で何やってんだ?」
    「減感作療法だ」
    「は?なんだって?」
     またよく分からない言葉が出てきた。スマホ取りに行っていいか?
     オレの目配せを華麗に無視して、村雨は下を指差し「席に座れ」とジェスチャーする。強く命令されているみたいで気分は良くないが、おそらく調べ物などせずとも全て説明してやるという意味なのだろう。もしくは今の言葉自体を理解する意味がないか。
     そう噛み砕いて、また浮かせかけた腰を落ち着けた。
     立って座ってを繰り返して、椅子取りゲームしてるんじゃねーんだぞ。
     
     やるせないオレの表情などお構いなしに、村雨はアイスコーヒーを飲んでから口を開く。
    「あなた、花粉症はあるか?」
    「いや、ねーけど」
    「アレルギー反応の機序は?」
    「知らねぇ」
     ぱくり。村雨が冷めたベーコンエッグを口に運ぶ。それからトーストも。
     話の最中だと言うのに、当たり前のような顔をして再開された食事に怒るべきなのかはよく分からなかった。曲がりなりにも、オレは教えてもらう立場だ。とりあえず、合わせて自分のサラダを片付ける。
     
     しかし、村雨は食事の方に気を取られていた訳ではなかったらしい。一口それを飲み込んだ後、また講義は再開された。
    「……アレルギーというのは、ようは免疫の異常——本来であればウイルスなどの外敵の侵入に対して働く防衛反応が、例えば花粉など全くの別物に対して働いてしまうことだ」
    「なんか聞いたことがあるな」
    「……ちなみにその防衛反応というのは、ある程度まとまった量の外敵が入ってこなければ起こらない。ウイルスひとつ入る度に大きな免疫反応が出ていては、人間は毎日発熱してしまう」
    「うん」
     一口、また一口、食事を飲み込む度に村雨は口を開く。ランチョンセミナーかこれは。朝食だけど。ついでに講師が喋るモンでもねーけど。
    「そこを逆手に取るのが減感作療法だ。体の免疫が反応しないほど微量の外敵を持続的に体に取り込み、少しずつその量を増やし、最終的にはいざその外敵が大量に体に侵入しても免疫反応が起こらないようにする。花粉症やハウスダストアレルギーの根本治療に用いられている」
    「え、じゃあそれ皆やれば良いんじゃねーの?」
    「アレルギー反応は命に関わるので、専門医のこまめな診察を継続的に受ける必要がある。その専門医は少なく、治療もまれに効果のない人もいる。それでも良いのなら」
    「あー、なるほどな」
     病院にはあまり縁のないオレだが、基本的に待ち時間が長いということは知っている。それと天秤にかけると、ということなのだろう。
     
     しかし、そのなんとやらをオレにするとは。と、そこまで言葉にして考えてから、ようやく合点がいった。
     少しずつ、外敵との接触を繰り返して、いつか防衛反応が起こらないようにする。
     無意味に人差し指を押し付け合ったあれは、つまり。

    「あなたは、洋服越しに私が触れても緊張するものの逃げはしない。しかし手に触れるとてんで駄目だ。
     私が……私に限らずだが、直接肌に触れられることに忌避感があるのだろう」
     村雨は、いつの間にか皿の上をすべて片付けて真っ直ぐこちらを見ていた。カラン、とグラスの中の氷だけが動く。
     間接か、直接か。あまり意識はしていなかった。確かに、服越しの接触は、気になったことはあるが恐ろしく思ったことはない。
     だって、いつも、まるで無意識のように村雨はすぐ隣に立っているから。それこそ、肩が触れ合うくらい。
     いつの間にかそれが彼の当たり前だと思っていた。
     まさか、ずっとそのつもりで、あんな距離感でこいつはオレと接していたのだろうか。
    「……そう、かも?分かんねー」
    「分からなくても良い。別にその気持ちを捨てろとも言っていない。あなたには必要なものだろう」
     村雨が、グラスを持っていた手を開き、こちらに向けてくる。指が二本、ひらひらと揺らされた。「手を出せ」の合図だろう。それくらいは分かる。
     まるで誘われるように、オレの手がそちらに伸びる。洗っていない手。取るに足らないオレの手。それでも良いのだろうか。
     ちらりと村雨の顔を伺うと、村雨は何のことはないとでも言うような表情でこちらを見ていた。
    「診断は変わらない」
     向かっていったオレの手をほとんど捕まえるように、村雨の細い指がオレのそれに引っかかる。
     
     まずは指先。次に指一本。そのうちに。
     村雨は、おそらくそういうことを言っている。「これから」というのは、そういう意味だ。
     
    「……………………」
     言葉は出なかった。心臓の音がうるさい。
    「言いたいことがあるなら言え。隠すな」
     優しくて優しくない男は、オレがどんなに臆病で歪んでいて醜いか、分かっているはずなのにそんなことを言う。
     圧倒的な強者にこうしろ、と言われてその通りにするのは楽だ。そのことは良く分かっている。たいてい、そうした先に未来などないことも。
     いつだって、一歩を踏み出すのは自分の足でなければならない。
     
    「……言いたいことはねぇけどさ、」
    「ないのか?」
    「………………あの、最終目標ってどこ?」
     とても、甘ったれたことを聞いている。その自覚はあった。恥ずかしくて、顔が熱くてたまらない。
     こんな質問、まるで自分に「村雨から求められる価値がある」と公言したようなものだ。
     ただ、思っていたよりもずっと、村雨の声が穏やかで優しいから。それに、村雨はもしオレが驕っているのなら容赦なく、しかし遺恨もなく叩き潰してくれるだろうから。
     だから、口が妙に軽くなる。
     
     村雨は一秒程度の間を空けてから口を開いた。
    「それは私の目標だ。あなたのものではない」
    「教えねーってこと?」
    「……そうだな。少なくとも、わざわざ持っていった枕を再び持ち帰りたくはないとは思っている」
     オレの問いかけをはぐらかすように首を傾げ、村雨が軽く笑う。
     昨晩の、村雨のおかしな後ろ姿を思い出す。枕を小脇に抱えて部屋を出ていく男。
     寝るために必要な道具を持ち込んで、持って帰りたくない。
     それって、つまり。
     
     想像すらしたことのない話だった。誰かと一晩を過ごして隣で眠るというのは、オレにとってはあまりに恐ろしいことで、今まで関係を持った人間と朝まで共にいたことは一度もない。追い出すか、自分が帰るか。そうやって臆病に生きてきた。
     今だって、こいつらと誰かの家に泊まった時、オレが眠ることはほとんどない。眠れないのだ。こいつらが自分に害を成さないことは分かっている。それでも、身じろぎの音で、呼吸音の異常で、ぱちりと目は開く。体に染みついた癖は抜けない。
     それを、他でもない村雨と。彼の隣で克服しろと。

    「昨晩は聞かせ損なったが、寝物語を読むのは得意だ。ついでに徹夜するのもな。
     あなたが寝付くまで、頭でも肩でも撫でてやろう」
    「…………なんでそういうこと言うんだよ……」
     顔がさらに熱感を持っているのがよく分かる。手で隠したいのに、片手はしっかりと見られたくない本人に捕獲されていて、なるほどこいつはここまで読んでいたのかとようやく気付く。
    「ふ、フフ、茹で蛸のような、とはよく言うが、あなたの頬はどちらかと言うと食道の色に近いな、フフフ」
    「……いやオメーそれはもうちょっと良い例え方あったろ」
     嬉しいのか何なのか、いや、嬉しいんだろうな。意外と笑いのツボが浅くて多い村雨は、自分にしか分からない例え話で一人で笑っている。
     いつの間にか、差し出した手は掌全体が握られていた。それでも向こうから離されることはない。汚いかも、なんて考えるだけ無駄なのだろう。少なくとも、今この瞬間においては。
     
     笑みを含んだままの村雨の視線が下がり、手元まで落ちる。捕獲されたように握られたオレの手をじっと見つめている。まじまじと自分の手を見られるのは落ち着かないのだが、村雨はそんなことを気遣う男ではなかった。
    「……乾燥しているな」
    「育ちが悪くてな、皮膚が厚いんだよ」
    「あなたは手指洗浄の頻度が高いのだ。きちんと保湿しろ」
     白くささくれだった薄皮を撫でて押される。別に全くケアをしていない訳ではないのだが、村雨のそれと比べると、自分の手の無骨さはよく際立った。
     一時期は労働の証ともとれる荒れた手が嫌で、綺麗にしていた時もある。しかし、生活におけるその不自由さに気付いてすぐやめた。筋トレや家事、タブレットを使っての仕事をしている限り、おそらくオレの手と保湿剤は無縁だ。
     村雨の、彼自身の顔や体と比較すると大きめの、しかしオレよりは薄くて小さい手を見る。丸く、よく整えられた綺麗な爪。ささくれのひとつもない指。しっとりして少し柔らかいのは、皮膚が薄いせいだろう。
    「……気になるのなら、好きにしたら良い」
    「え?」
     オレのそれを握っているのとは反対の手が、あまりに無造作に、机越しに差し出された。ひらひら揺れる、たまに筋の浮く細い指。
     許されているし、同時に試されているのだろう。それは分かる。
     
    「……い、いよ、別に」
     しかし、それに自ら触れる勇気は、まだ出なかった。触れた後にどうしたら良いのかも、分からない。
     村雨は少々不満げな表情で嘆息して、片手を自身の膝の上に戻す。

     きっと触れても良かったのだろう。その後に固まってしまったとしても。ただ、促されてそうすることに迷いが生じただけだ。オレの心の問題だ。
     今は、村雨のことを逃げずに見つめるので精一杯だから。
     
     動かないオレにしびれを切らすように、村雨の細指が手に絡められる。爪をなぞり、指の股を押し、筋をなぞられる。
    「……くすぐってぇよ」
    「慣れろ」
    「これ、そんなずっと続けんの?」
     こんな、まるで漫画やドラマの中みたいなやさしい触れ合いが、オレがこれに慣れるまで続くなんて、考えただけで落ち着かない。慣れる日がくることも、まるで信じられない話だ。

     げんかんさりょーほー、だっけ。気長な治療なのだろう。オレがいつまでもこのままなら、村雨がその気を無くしてしまったら、途中脱落だって、おそらくあり得る。
     きっと、それまでの話だ。不確定な「これから」を、オレが自力で手にしようとしない限り。
     
    「時に獅子神、これは私の心尽くしの誠意なのだが」
     村雨は視線を手元に落としたまま、天気の話でもするように、軽やかに言葉を紡ぐ。
    「フットインザドアを知っているか?」
     にやり。声音の涼やかさとは正反対の、非常に村雨らしい笑顔がこちらを向いた。
     そうだった。村雨はオレのこの臆病な気持ちを「捨てなくて良い」とは言ったが、「そのままで良い」なんて一言も言っていない。
     医師は患者の怠慢を許したりなどしない。

    「………………それはあれか、球種予告ってやつか?」
    「野球は嗜まないので分からない」
     
     野球用語だって知ってんじゃねーか。
     
     実に楽しそうに、まるで敗者をいたぶる悪人のように、村雨は「最初の一歩」を強く掴んだ。

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