Dogma 楽しいと、最後に感じたのはいつだろう。
何もかもに手ごたえがない。何もかもがツマラナイ。
……ずっとこうなんだろうか。
この先ずっと、もう何もかもが味気なく。
遠い記憶のいつかのような、心が震える瞬間は、二度と訪れないのだろうか。
そんなのは嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、から、探さなくては。
もう一度、心から面白いと思えるナニカを。
××××××
「やぁ、リコリス」
「……スノーマン」
高層ビルの屋上で、どこからともなく姿を現した見知った顔に、僕は眼下を走るパトカーの灯りからようやく目を離して彼の通り名を呼ぶ。それに答えるように彼は帽子を軽く上げ、軽い足取りで僕の隣に並んだ。ふわりと、彼の銀に近い白髪が宵闇に揺れる。
「見ていたの?」
「もちろん。今日も調子が良さそうだね」
そう言った彼の笑顔はどこか、あの有名な不思議の国の猫に似ていて、僕はそっと目を逸らす。
「調子、良いかな、僕は」
僕の呟きに、スノーマンはきょとんと目を丸くして、「何を弱気なこと言ってるのさ」と言った。
「今日の警察は、最近でも五本の指に入る気合いの入りようだったじゃないか。その厳戒態勢からあっさり標的を盗み出してこんなところで高みの見物なんて、調子が良いと言わずになんと言うんだい?」
「それは……そうかもしれないけれど」
「……ふむ。少なくとも、歯切れのほうはずいぶん悪いようだ」
どうかしたの? と興味本位な表情に覗き込まれて、「別に、」と曖昧な笑みを返す。
調子は良い、のだろう。それこそ、もう盗めないものなどないのではと、驕った考えさえ浮かぶほど。そういう意味では確かに調子は良い。けれど、調子、という言葉が指す意味は、それだけではなく。
答えるつもりのない僕に「ふむ、」ともう一度呟いて、彼は少し不満げに眉を顰めてみせた。
「それだけの成果を出しておいて勝ち誇ってもらえないと、こちらとしても遣りづらいんだけどね。なにせ、この僕がまだ一度も君から標的を奪えていないんだから」
「やっぱり、そのためにずっと見ていたんだね」
「ご名答。結局ひとつも隙はなかったけど」
「……どうして、そういう方針にしたの?」
露骨な話題転換、というだけではなかったけれど、彼にはそう受け取られたようだった。それでも彼は律儀に、あるいは好奇心のままに首を傾げてその問いに答える。
「いろいろ理由はあるけれど……一番は、そうだね。それが楽しいから」
「楽しい?」
「あぁ。誰だって楽しくないことは続けられないだろう? 僕はこの怪盗稼業が続けたい。だけど最近は普通に盗むだけじゃ楽しめなってきた。だから楽しく続けられる方法を探した結果、見つけたのがこの方針ってわけ」
「そう……」
「君は違うの? 怪盗リコリス」
僕は、と出した声がひどく掠れていて口を噤む。彼の言うことはよくわかる。楽しくないなら楽しみを見つけるか、いっそ辞めてしまえばいい。その単純な論理を、上手く呑み込めないでいるのは。
「……楽しい、って、なんだろうね」
「……これは重症みたいだね?」
お手上げだといわんばかりに肩を竦めたスノーマンに、そうでしょうというように目を細める。
楽しみ方なんてとうに失くした。そんな自分がただ怪盗を辞めたとて、その先に何を見つけられるのか。それを考えるたび喉が絞まるような錯覚を覚える。本当はもう、この世界に自分が楽しめる物事なんて——。
「じゃあ、こういうのはどうだろう?」
不意にスノーマンの声で意識が引き戻される。くるりと芝居がかった仕草で月を背にして、彼は聞いてもいないアドバイスを述べた。
「君にとって、最もつまらないことは何?」
「……僕は今、楽しいものについて考えたいんだけど」
「同じことだよ、リコリス。君が何をつまらないと感じるかを考えることによって、その対称にある楽しいについても理解が深まるのさ」
詭弁だ、と呆れて溜息を吐きたい気分になる。彼との会話はいつもこうだ。置かれた話題を裏返して裏返して、何度返したか数えられなくなった頃にはそもそも何が表にあったのかもわからなくなっている。そんな胡乱で不確かな話ばかりの彼とそれなりに長く付き合いが続いているのは、結局自分もそういう会話が嫌いではないからなのだけれど。
「……誰にでもできることはつまらない、かな。もう既に誰かが為してしまったことも」
「他人の後を追うのが嫌い?」
「探偵には向かないね」
「芸術家には向いてるかも」
そう言ってスノーマンはくすっと笑う。芸術、というのは確かに悪くないかもしれない。宝石のような画一化された価値にはついぞ面白味を見出せなかったけれど、美しいものは嫌いじゃない。
そんなことを考えて、「あぁ、それから」と言葉を重ねる。
「せっかく盗んだモノを他人に横から掠め取られるのも、僕にとってはつまらないな」
「それは……良いことを聞いた」
ニィ、と彼が浮かべた笑顔は相変わらず心底楽しげで、僕はほんの少し、羨ましい、と感じた。
「それなら僕は当面、“美しく”て“誰も盗んだことがなく”、かつ“誰にも盗まれない”モノを探すことにしよう」
「これはまた、随分と抽象的で難しそうなお題だね。特に最後の条件が」
「自分が必ず盗むからって? 凄い自信だ」
まぁ楽しみにしておいて、と僕は彼に背を向ける。そろそろ警察の包囲網が緩む頃だ。無益だが有意義な会話も潮時だろう。別に心持の何が変わったわけではないけれど、僕は最後に振り返って言った。
「もし僕がその答えを見つけたときは、聞いてもいない助言のお礼に、君の大事なそれも盗んであげるよ、スノーマン」