遺失物取扱所-4(名夏) 隣で敷布にしっかりくるまった夏目がよく眠っている。
着物の裾はしっかり掴まれたままだ。動くに動けず、触れないのだから振り解くこともできずに名取はただじっとしているだけだ。
数日前から夏目は名取を掴んで昼寝をするようになって、掴んで来る手の近さにもすっかり慣れた。今も特に動じることもなく夏目の隣で借り物の書物を手にしている。
とは言っても本の中身は頭に入らなくて、隣で眠る子供が吐き出す呼吸音を名取はじっと聞いていた。
ずっと掴まれたままの裾からじわりと体温が移っている。人の幼子のように高い温度がすぐ近くに在った。触れることはないのに、今にも触れそうなほどひどく近い距離にいる。
夏目との距離がひどく近くなっているように思う。名取にとっては分不相応にも思える距離が、それが正しいことなのかわからない。誰も見ていない二人だけの暮らしの中で、どんどん麻痺する感覚が間違っていないか何度も考えてしまう。
他の誰かが、人が今の二人を見たら嗜めるのかもしれない。不安がないわけではないが、夏目が望んだことを望まれた通りに叶えるのが仕事なのだから、と自分自身に言い聞かせる他ない。
夏目にとって何が正しいかを名取が決めることはできない。
起こさないようにできるだけ静かに息を吐く。だけど見下ろした夏目が身動ぎをして、ぱっと着物の裾から手を離した。
起こしてしまったかと構えると、夏目は一度うっすらと眼を開けるとまた眼を閉じた。もぞもぞと動き、伸びをしてから眼が開かないままのそりと起き上がった。
「なとりさん」
「起きた? おはよう」
眼が閉じたまま座り込んだ夏目はぐらぐらと頭を揺らしている。危なっかしい様子だが支えてやるわけにも行かない。
まだ眠そうに呻いて夏目は何度も眼をこすった。
「なとりさん、先生くるよ、あけて」
「え、すぐ?」
「名取の小僧! 開けろお!」
あまり機嫌が良くない様子でがんばって眼を開いた夏目がそう言った途端、叫ぶ猫の声が扉の向こうから聞こえた。
慌てて立ち上がると夏目の寝所の引き戸を開ける。風呂敷包みを背負った猫が開けた縁側に短い手を引っ掛けてふんふんと鼻を鳴らしていた。
「先生、おはようございます」
「ご苦労、小僧。夏目ぇ、来い!」
「うるさいなあ」
ひょいっと廊下に登った猫が夏目を呼ぶ声が響く。まだ眠たそうな夏目はとても機嫌の悪い声のままよろけながら廊下に出てきた。
「先生、今日はまだおやつないぞ」
「知っとるわ! まだ昼にもなっとらん」
「そんなだったっけ……」
ふらついたままよろよろと猫の隣に座り込み、伸びをしながら夏目は欠伸を繰り返している。呻いて眼をこすりながらも、廊下に座った猫のふかふかした背中を無意識のように撫で回していた。
「寝とったのか?」
「寝てたよ。呼ぶから起きちゃったよ」
「何だ、今起きたのか」
「朝はちゃんと一回起きたよ。でも眠くて寝てた」
「なんだ成長期か? 成長期だな」
自分が言ったことに頷きながら夏目の返事も名取の答えも待たずに決めつけて、猫は自分の家かのように我が物顔で風呂敷包みを下ろすと口を解いて中身を全部縁側にぶちまけた。
派手な音を立てて風呂敷から飛び出したものたちは雑多で、明らかにごみにしか見えないものも混ざっている。猫の隣に座った夏目の足元にそのごみが転がり、夏目はあからさまに嫌そうな顔でそれを避けた。
露骨な仕草に思わず笑ってしまうと、夏目はまだ開いていない眼で名取を見上げて無言で助けてくれと訴えている。その背丈は確かに出会った頃とはずいぶん大きくなった。
夏目の背がだいぶ伸びた。人の子なら成長期なのだから当たり前のことだが、神である夏目が歳に沿って大きくなると言うのは少し意外だった。見目も性格もそうだが、成長期の年頃に背が伸びていくなんて本当に人の幼子と変わりないんだなと今更ながらに思う。
名取から見た夏目は神としての力を有する以外は人の子と何ら変わりない。
もし、夏目が本当に人の子であったのなら、二人の何かが変わるのだろうか。本当にそうであればきっと出会うこともないのだろうけれど。
考えても詮無い、意味のない思考が回って少し頭を振った。神の夏目に出会わなければここで暮らすこともないのだから、と思考を振り払う。
夏目はげんなりした顔のままでまたぐらぐらしていて、猫はごそごそと風呂敷包みの上を跳ねながら何かを探していて、名取の様子に誰も気付かない。
跳ね回った猫が一通の書状を掴んだ。
「おい夏目、起きろ」
「やだー」
「嫌ではない、多軌からの手紙だ。一応お前のことも書いてあったから見せに来た。小僧も見ていいぞ、来い」
猫の短い手が名取を手招く。まだぐらぐら揺れている夏目の隣にいたら触ってしまうかもしれないだろうと思い猫の隣に座ると、夏目はうっすら眼を開けて何だか不満そうに見てきた。でも名取が問いかける前に眠たそうにまた眼を閉じてしまう。
起きられない夏目をべしべしと猫が叩いている。
「起きろ、こら」
「うーん……」
「全くどうした。小僧、先に読んでいいぞ」
「いいのですか」
「いいぞ」
ふんっと偉そうに鼻を鳴らす猫から手紙を受け取る。美しい紋様が織り込まれた桜色の便箋には少女らしく可愛らしい字が綴られていて、見目はとても微笑ましい。
だが、中身を読むにつれやや顔が引きつった。
数枚に渡る手紙はいかに猫がかわいくてふかふかで早く会いたいかが繰り返し熱く語られ、最後にほんの数行最近の夏目の様子を聞いている程度だった。本当に猫の言うとおり、一応、といった体だ。
「どうだ」
「いえ、その大変お元気そうでよろしいかと」
「元気すぎる……夏目も読め」
どう答えるべきか言葉を濁す名取に猫が胡乱な眼差しを向ける。猫の困惑を理解して名取も頷いた。
夏目は名取が手紙を読んでいる合間にまたうつらうつらしていたようだった。猫の短い手がぐいぐい着物を引っ張りながら手紙を押し付けてきて、それでようやく眼を開ける。
よろよろした手で手紙を受け取ったが、紙を捲るにつれて徐々に夏目はぐらつかなくなってきた。手紙を読む間に徐々に覚醒してきたらしい。
「多軌、すごい元気そう」
「そうだね……」
困惑した名取と猫とは違って、夏目はほっとした様子で丁寧に手紙を畳んだ。その手に猫がすっとふかふかの手を重ねる。
「どうだ、夏目」
「どうって。先生、好かれてるな」
「好かれすぎている。ちょっと怖い」
「愛されてるんだよ」
「重すぎる! 神域にいた頃はここまでではなかっただろう!」
「離れて大事なものがわかったんだよ」
「あっさり言うな!」
ぴゃっと毛を逆立てる猫をはいはいと軽くいなすと、夏目は手紙を猫の風呂敷に戻そうとする。しかし猫が泡を食ったように夏目の手を止めた。
「やめろ、しまうな」
「なんで? 先生の手紙だろ」
「嫌だ。預かってくれ」
「ええー、何言ってるんだよ」
震える猫の声に心底迷惑そうな顔をした夏目は当たり前に手紙を突き返していて、けれど猫はぶんぶん首を横に振る。青くなりながら助けを求める顔で名取を見上げてきた。
「頼む、小僧」
「そう言われましても……」
「頼む、持ち歩くのが怖い」
「そんなこと言うなよ、多軌がかわいそうだろ」
「怖いものは怖い!」
「えー」
「小僧ー!」
夏目は聞いてくれないと察した猫は今度は夏目ではなく名取に手紙を押し付けてきた。
しかし、青い顔の猫に頼み込まれても主人である夏目は猫に文句を言っていて板挟みの名取はどうにも答えようがない。困惑してどうにもできないが、必死でぐいぐい手紙を押し付けてくる猫に名取が先に根負けしそうだ。
困って夏目を見ると、はあ、と大きくため息をついて夏目は猫をぺしりとはたいた。
「しょうがないなあ、ごめんなさい名取さん」
「いえ、預かるだけでしたら」
「助かった、小僧……この礼は近いうちに何かで返してやろう」
名取に手紙を持たせてほっとしたらしく、猫はまた風呂敷包みをしまい直した。短い手で器用にぎゅっと口を結ぶと包みを背負う。
「では私はそろそろパトロールの時間だ。昼には戻るからな、たんまりおやつをもらってこいよ小僧」
「最近食べ過ぎだぞ、先生。太るぞ」
「私は陶器だぞ! 太るか!」
ふんっと偉そうに鼻を鳴らし、猫は風呂敷包みを揺らしてひょいっと地面に降りた。りん、と首元の鈴の音が大きく響く。
「じゃあな!」
「行ってらっしゃい」
短い手足で駆け出した猫に夏目と共に手を振るが、猫は振り返ることもなく走り去る。
庭に植った紫陽花の葉の影を猫が抜けて行く。がさがさと木や葉をくぐる音もすぐに聞こえなくなり、大きく揺れた木も落ち着いた。
「名取さん、手紙すみません。おれの部屋に置いておきますよ」
「別に預かるだけなら大丈夫じゃないのかな」
「うーん、多軌の思念が強すぎるから何かあるかもしれないので」
「ええ、何が起きるの……」
「多軌の思念だけ名取さんに引っ付いて先生を撫で回すくらいできそう」
「怖いんだけど……」
「おれにはくっつけないと思うから持ってますよ」
はい、と手を伸ばした夏目に手紙を渡す。小さな少女の神の思念がもう伝わる気がして、美しい便箋が急に空恐ろしく思えた。
「預からない方が良かったね、ごめん」
「名取さんは悪くないですよ。最初から名取さんに押し付ける気だったんです、先生。多軌ももうちょっと抑えられないもんかなあ」
面倒そうにため息をつきながらも夏目は笑っていた。少しの悪態を混ぜながらも遠くなった友人との繋がりにどこか嬉しそうにしている。
さっきまでの少しだけ乱暴で子供らしい言葉はもうすっかり消えていて、それが惜しいような気がした。
「夏目もおれに敬語じゃなくていいのに」
そう、思わずこぼしてしまう。
名取の声に夏目が顔を上げて見上げてきた。少し考えるような顔をして、夏目は首を傾げた。
「すみません、それは変な感じなので……我が儘ですね」
「いや、ごめん。好きなようにしてくれていいんだよ」
失言だ、と慌てて手を振ると夏目は何も気にしていない表情で柔らかに笑った。
どうしてかその表情がいつもより大人びて見えた。幼いばかりだと思っていた子供の背が伸びるように、その表情や心のうちも変化しているのだろうか。
当たり前のことなのに、どうしてか鼓動が少し早くなる。
「ありがとうございます。これ、厨子にでもしまっておかないとなあ」
立ち上がった夏目は確かに背が伸びている。見間違いではなく、名取を見上げる眼の位置が出会った頃よりずっと高くなっていた。
「夏目、背伸びたね」
「そうですか? 自分だとわかんないですね」
ふうんと言いながら自分の頭に手をやっているが、確かに夏目本人には自分自身の成長の速度などわからないだろう。
銀糸の髪が揺れる。指先が髪をかき混ぜてすぐに滑り落ちた。
「そういえば、人の子供は節目節目に柱に印をつけるんだって」
「印? 背が伸びたかどうかですか?」
「柱に傷をつけるらしいよ。おれもしたことないけど」
「そうなんですね。あ、ちょっと待って」
名取を見上げて笑った夏目の表情はいつもの幼い子供のものに戻っていた。ぱたりと身を翻して自室に駆け込んですぐに戻って来る。
手には手紙の代わりに筆と小刀を抱えている。
「印、つけたいです」
「柱に傷付けて怒られないかな」
「大丈夫ですよ、おれがつければいいから」
はい、と小刀を名取に預け、夏目は廊下の天井を支える最も太い柱に背をつけた。背すじを伸ばして頭と柱に手をつけると、そのままずれないように回って筆で手に沿って印をつける。
「ここかな」
「そうだね」
「ありがとうございます、貸してください」
小刀を名取から受け取り墨の跡に刃を当てる。少しだけ柱を削り、そこに傷跡をつけた。
「できたー」
小刀の刃を鞘にしまって夏目は満足気にしている。名取の目線よりはまだだいぶ下にある印を眺めながらあといくつここに印を付けられるのかと思う。
きっと長い間は側にいられない。その間にどれほど夏目は大きくなって、いくつ印を付けられるだろう。離れるまで夏目は子供でいてくれるだろうか。
出来るなら、大人になる前に離れられればいい。幼い日々の思い出のままで終わってしまった方が、きっと。
「あ、お昼だ」
はっと音に振り向いた。部屋の振り子時計の鐘が鳴っていて、長針と短針が揃って真上を指している。いつもは気にもならない音が今日はやけに大きく耳に響いた。
「先生、そろそろ戻りそうですね」
「ああ。おやつがないと怒るね。取りに行ってくるよ」
「はあい」
行ってらっしゃい、と手を振る夏目に手を振り返して廊下を抜ける。
庭に眼を向けると、さっき猫が走り抜けて行った紫陽花にもう花がついているのを見付けた。まだ開いていない花に色はないが、すぐにいくつもの花が開くだろう。
もうすぐ夏が来る。
過ぎ行く日々の速度が早くなっている気がした。
「塔子さん!」
「貴志くん、会いたかったわあ。元気にしてたかしら?」
「はい、元気です」
跳ねるように走ってとても嬉しそうに駆け寄った夏目に塔子もまた嬉しそうに夏目を出迎えていた。
以前に訪れた時は自身よりまだ幾分か小さい夏目に少し屈んで話しかけていた彼女は、今日は膝を折ることもなく夏目とほぼ変わらない目線で立っている。案内の神職を後ろに従え、穏やかに笑う様子はいつもと何ら変わりない。
「あらあら。貴志くん、ずいぶん背が伸びて」
「そうですか?」
「ええ、急に大きくなって。成長期かしら、成長期ね」
猫と同じような台詞で、自分自身に言い聞かせるように塔子は夏目を上から下まで何度も眺めてはしきりと頷いていた。
その彼女の仕草に夏目が首を傾げているのが何となくわかる。夏目が塔子に走り寄っている間に、付き従う神職に慣い膝をつき顔を伏せた名取には夏目の細かい様子までは見えなかったが、夏目から疑問符が漂う気配だけはすぐに察した。
言葉尻や話し方、ほんの少しの動きで夏目の感情がわかるようになっていた。それくらい、ずっと一緒にいるんだと思う。
「でもどうしたんですか? 今日は忙しい日じゃ」
「ええ、そうなのよ。明日は毎年の大きい祭祀なのよね。滋さんは準備で忙しくて、私もすぐに帰らないといけないんだけど。でも、どうしても今日来たくて」
名取の感慨をよそに、ため息をつく塔子の声は少し残念そうだ。けれどすぐに気を取り直したように彼女が嬉しそうに笑う声がした。
「貴志くん。まだ前日だけど、お誕生日おめでとう。滋さんはお越しになれなかったのだけど、お祝いだけでもって。去年も来られなかったし」
「え、わあ、ありがとうございます! 名取さん、名取さーん!」
呼ばれて、顔を上げると夏目が焦った声で手招いている。控えていた神職がその手に持ちきれないほどの荷物を差し出していて名取も慌てた。
塔子が持たせていたらしい荷物はとても夏目には抱えきれないだろう。急いで駆け寄ると神職から荷を受け取った。
駆け寄る視界の端に紫陽花が映る。頭を垂れて地面に着いてしまった紫陽花の赤と紫は既に盛りを過ぎて枯れ始めていた。雨季はもうすぐ過ぎ去って、夏の始まりがすぐに訪れる。
夏の始めにやってくる、夏目の誕生日もすぐだった。
「やっぱりちょっと多過ぎたわね、つい張り切っちゃって……ごめんなさいね、名取さん」
「とんでもございません。私からも御礼申し上げます、お方様」
「いえいえ。そうそう、まだあるのよ」
「え、そんなに?」
「もうねえ、早いけどいっそまとめてお祝いしましょうって滋さんにお願いしてね。あら、ありがとうございます。どうぞ、貴志くん」
控えていた後ろの神職が差し出す風呂敷包みを受け取ると、塔子は結ばれた口を解いた。
元より美しい布地の風呂敷包みから更に美しい大きな花が描かれた布が見えた。
「羽織なのよ。ちょっと大きいかもしれないわね、でも貴志くんまだ背が伸びるだろうし」
「ありがとうございます。綺麗ですね、花」
「ふふ、牡丹なのよ。あとこちらもあるの」
穏やかに笑って夏目に風呂敷ごと羽織を渡すと、彼女は神職からもうひとつの風呂敷包みを受け取った。揃いの美しい布地の包みを解く。
「こちらは名取さんに。お世話になっているお礼なの、受け取っていただけるかしら」
塔子の声に驚いて思わず眼を瞠る。
はらりと布地が落ち、風呂敷包みからは夏目に渡された羽織と同じ生地の布が見える。その生地は同じだが描かれた花は違った。
「貴志くんと同じ羽織だけど、こちらは椿なの。どうかしら、気に入っていただけるといいのだけど」
塔子は年配の女性とは思えない少女のように愛らしい雰囲気をしている。その可愛らしい彼女が少し心配そうにしていて、夏目も同じような表情をしていて、見上げて来る二人の眼差しに少しだけ居た堪れない。
けれど、元より神職である名取が神からの下賜を拒否できるはずもない。荷を抱えたまま膝をつくと頭を垂れた。
「藤原様からのご温情、誠にありがとうございます。私などには大変勿体無うございますが謹んで御受けさせていただきます」
「良かったわ。ちょっと早いけど私たちからの感謝の気持ちなの。良かったら着てくださいね」
「とんでもない。身に余る光栄でございます」
「あ、おれ持ってますよ。荷物いっぱいでしょ、名取さん」
「あらそうね。お願いね、貴志くん」
荷を持ち過ぎている名取に代わり、塔子が口を結び直した包みを夏目が受け取ってくれた。二人分の風呂敷包みを抱えて夏目の両手も埋まる。
「ちゃんと渡せて良かったわ。今年はどうしても直接貴志くんのお誕生日をお祝いしたかったの」
「え? どうして」
「貴志くん、今言うことではないかもしれないけど。私たちはいつもあなたの味方だから。どうか幸せになってちょうだいね」
「はい?」
塔子の声に夏目がとても戸惑った声を上げていて、名取も頭を垂れたままで同じように戸惑う。少々度を過ぎている気もする大量の贈り物と塔子の言葉は、これから夏目を迎え入れるはずの未来と少し噛み合わない。
まるで、来年からはもう夏目の誕生日を祝えないかのような言葉だ。
そんなはずはない。夏目を迎え入れる以上、夏目をとても大事に優しく扱う彼女が誕生日を盛大に祝わないはずはない。
そう思ってから、大きな祭祀が夏目の誕生日と同じ日だと言っていたことを思い出す。もしかしたら祭祀で多忙すぎて当日にお祝いすることは今後できない、と言うだけかもしれない。そう思い至ってひとまずは納得した。
「それじゃあ残念だけどもう帰るわね。名取さん、貴志くんをよろしくお願いします。末永くね」
「承知いたしました……?」
かけられた言葉に名取も思わず胡乱な声を上げてしまった。不敬かと思って慌てて頭を上げるが、塔子は名取の言葉など全く気にすることもなく、いつもの少女のように愛らしい笑みを浮かべて夏目の頭を優しく撫でた。
「また来るわね、貴志くん」
「はい、また……?」
夏目もまた塔子の言葉に首を傾げているが、手を振ってすぐに身を翻した塔子を引き留めることも出来ず手を振り返していた。付き従っていた神職も立ち上がり塔子と共に去って行く。
すぐに影は霧にまぎれていき何も見えなくなった。
「名取さん、ありがとうございます。重いでしょう」
塔子が去ったのを見届け、荷を抱えて立ち上がると夏目が困った顔で見上げてきた。夏目の眼にも一向に解けない疑問符が山ほど浮かんでいる。
気持ちがよくわかる。塔子の言葉は名取にも飲み込めないことが多く混乱していた。
「大丈夫、重くはないよ。でもすごいね、たくさん」
「ですよね。どうしたんだろ、急にたくさん。去年も一昨年もこんなにお祝いくれなかったけど……」
「そうなんだ。おれにもいただいていいのかな」
「一応七瀬さんも前に下賜いただいてたんですけど、三年勤めてくれた時に記念に、だったから。名取さん一年しか経ってないのに何ででしょうね」
二人で首を傾げるが既に帰ってしまった塔子の真意がわかるはずもない。困った顔のままの夏目もどうしようもない様子で美しい風呂敷包みを抱え直した。
下賜もだが、塔子が最後に言い残した言葉の意味が名取には全くわからない。末永く、などと言われても名取が夏目に仕えられるのはあと一年もないだろう。疑問は募るばかりだが、例え今塔子が残っていたとしても末端の神職に過ぎない名取が位の高い神である塔子に言葉の真意を問うことなど出来るはずもない。
困惑は重いままだが、もう解決することはないだろう。共に暮らすことも出会うこともなくなっても、友人に近い存在として末永く夏目の思い出に残っていてほしいと言うことなのだろうかと、納得は行かないがそう思っておくことにした。名取には神である塔子が真に思うことなど知る由もないのだから。
少し息をつくと夏目も息をついた。
「わかんないけど、とりあえず戻りますか。いただいたもの開けましょう」
「うん」
頷いて両手いっぱいの荷を抱え直して、ふと気がついた。
本当の夏目の誕生日は明日だ。
「そうだ。明日お祝いしないとね。せっかく頂き物もあるんだし」
「おれの誕生日ですか?」
「うん。去年は知らなかったから、誕生日のお祝いできなかったからね」
「そうでした。ありがとうございます」
「先生も呼ぼうか」
「いいけど、もらったお菓子全部食べられちゃいますよ」
穏やかに笑った夏目も今は疑問を遠くに押しやったようだ。包みを抱えたまま戸を引く。
「名取さんはいつお誕生日ですか?」
「ずいぶん先だよ。十一月の十二日」
「十一月なんですね。結構すぐですよ」
そう、屈託無い笑顔をこぼした夏目にわからないように少しだけ息をつく。
きっとこうやって夏目の誕生日を祝うのは最初で最後だろう。来年の夏にはきっと離れている。
少しだけ喉に骨が刺さったように痛んだ。
「周一、もう戻るのか」
「ええ。仕事がありますので」
「たった一人の親が死んだと言うのに仕事の方が大事かね」
身支度を整え荷をまとめているのを見咎められる。掛けられた声はひどく冷たかったが名取にはそれはどうでも良かった。
辛辣な声と台詞に却って脳が醒めるようだ。そのたった一人の親と、眼の前の親類たちは自分に何をしてくれたんだろうと思い返して名取は無表情に振り返った。
この家に良い思い出なんてひとつもない。
「これでも大社からは長い休暇をいただきましたので。これ以上はご迷惑をおかけできません」
これ見よがしにため息をついて大社の名を出さしてやると、さすがにそれ以上は何も言い返せない様子だった。せめてもか舌打ちと苦い表情を返す親族に名取も醒めた眼を向けるだけだ。
名取が大社に出された際に彼らが何を得たのかくらい知っている。わかっていて、それを投げ捨ててくれてやるつもりで家を出て売られてやったようなものだ。
大社との神職の契約により、親も親族も属していた社もかなりの恩恵を得た。金銭もだが、その他にもたくさんの便宜を計られ恩恵に預かっている。
まだ十代の時の名取を売り飛ばした対価に得られたそれなりの額の金銭は名取の手元には全く渡らなかった。掠め取られた金には最早未練はないが、これ以上無意に毟り取られるつもりもない。
嫌な思い出ばかりのこの古く大きな家だって無駄に譲ってやるつもりもない。家に残されていた権利書の類は葬儀の合間にほぼ全て見つけ出した。親の遺産であるそれらを神域に持ち帰ってしまえば、当面は親族たちが簡単に家を売り払ったりはできないだろう。
神仕えを終えたら自分でこの家を処分する。そう決意して立ち上がる。
「……葬儀は済ませましたから。また宿下りを許された際に家の片付けはしますから、そのままでいいですよ。出てください、もう閉めます」
まだ留まろうとする親族を門の外に追い出し、かちりと家の鍵をかけてしまう。元々施された鍵の上には新しい錠も付け、更に大社から得た封の札を貼り付ける。さすがにこれを破り捨てるような真似はそうそう出来ないだろう。
まだ舌打ちする親族が渋々去っていくのを見届けてから庭に回る。しっかり雨戸を降ろした家を見回り、勝手口にあたる小さな裏門も閉じて内側にしっかり封の札を貼る。
しばらく人の手が入っていない庭はやや荒れていた。魚がいなくなった池は干上がり、灯籠が崩れかけている。これらもいずれ処分しようと思いながら庭を通り過ぎると、すっかり枯れてしまった紫陽花の大きな株が眼についた。
初夏、神の庭に咲いた鮮やかな紫陽花を思い出す。咲き誇っていた大輪の紫陽花はもう花を落としていて、神域には夏の花が咲き始めていた。
誰が整えるわけでもないのに、次々と季節の花を咲かせる美しい庭に戻りたい。早く夏目のところに帰りたいなって思ってしまってため息をつく。
この家は帰りたい家じゃない。この家にいたくない。
帰りたいのは、今の自分の家は、夏目と暮らす神の庭なんだ。
「名取さん!」
神域に戻り、夏目の建屋の引き戸を開けようとした途端に真横から焦ったように夏目が駆け寄ってきて少し驚いた。
名取の気配を察したのか、室内を通らずに急いで庭を抜けてきたらしい夏目は裸足のままだった。足元に虹の光が走っている。
いつもより幾分か光が強く見える。虹の色が鮮やかに光り名取の足元も照らし出していた。
「夏目、ただいま」
「お帰りなさい、大丈夫でしたか?」
「うん。ごめんね、一週間もいなくて」
「おれは大丈夫です、七瀬さん来てくれたし。それより、一週間だけでいいんですか? 喪とか、葬儀とかあるんじゃ」
心配そうに見上げて来る夏目の眼差しが名取には重い。心から心配してくれているんだろうけれど、その感情は名取には勿体無いだけだ。
一週間前の早朝、名取の父が亡くなったと連絡があった。その報せを聞いた途端、名取より夏目の方がひどく動揺して泣きそうになっていて、名取が申し出る前に何日でも好きなだけ宿下りしてくださいと言われたほどだ。
親がいないと言う夏目にとって、親がいなくなるのはひどく苦しいことと捉えているのだろう。それはわかるし、名取をひどく心配してくれているのはとても有難いことだと思う。
だけど、心配されるようなことなんてひとつもなくてそれが心苦しい。今の名取には親がいなくなって悲しいと思う気持ちなんてかけらほどもないんだから。
「大丈夫。葬儀は済ませたし最低限の片付けはしたから。早く戻りたかったし」
からりと引き戸を開けると室内に入った。何ともない様子の名取に困惑しているのがわかる。
けれど、項垂れながらも夏目も素直についてきて、何度かためらいながらも人の世から戻ったばかりで洋装のままだった名取のコートの裾を掴んだ。
「すみません、おれの面倒で」
「いや、それは仕事だから気にしないで。充分休ませてもらったし」
そうできるだけ穏やかに話しかけるが、夏目はぎゅっと強く薄いコートの裾を握り締めた。振り返ると余計に項垂れていて、沈んだ気配に失敗したなと思う。
本当に気にすることではない。だけど、夏目にとっては自分のせいで名取が早く戻ってきてしまったのかと気にしているのだろう。
ためらう。今の夏目に、本当に思うことを言うべきかどうか。
親が死んだって何とも思わない。清々とするくらいだって、言ってしまったら夏目が傷付くかもしれないと思うのに。
惑う間に縁側まで歩いていて庭が眼に入った。紫陽花はもうすっかり枯れていて、その隣で白粉花が咲いている。庭に面した柱には烏瓜の蔓が這っていた。
「ごめん、なさい」
夏目がぽつりと呟く。
俯いて、ひどく悲しそうに名取に謝る夏目の足元にはいつも使っている敷布が敷かれたままになっていた。いつも夏目と猫と並んで座って茶を飲み話して笑っていた跡がそのまま残っている。
穏やかに過ごす日々に戻ってきた。そう実感してほっとしているのに、夏目の悲しげな声にひどく罪悪感をかき立てられた。
「違う、ごめん……夏目のせいじゃない。おれが、あの家にいたくなくて」
夏目がはっと顔を上げる。少し涙が滲んだ眼に心臓が痛んだ。
夏目が名取のことで心苦しくなることなんてないのに。そんなことを押し付けたくないのに。
「親がいなくなってもおれは悲しくないんだ。清々したくらいで」
迷い続けた言葉がもれている。ひどく驚いたように眼を瞠った夏目を見られなくて眼を逸らした。
逸らした視線の先では、露草の青い花が朝をすぎて萎んでいる。
「人の世にも神や妖はいるけど、神域と違って神職の資質がない者には何も見えないんだ。うちの家系は誰も見える者がいなくて、小さい頃はおれが神や妖を見たって言っても聞き入れてもらえなくて」
「……はい」
「資質がある者が代々生まれる家系じゃないんだ。何代も前に数人いたくらいで、祖父も父母も何も知らなくて……何を言ってもおかしい子供だって嫌がられた」
夏目がこくりと頷いているのが視界の端に見えた。ぎゅっと服の裾を掴む夏目の手の温度が滲むような気がして、それに少しだけ安堵した。
滲んだ温度なんて錯覚だってわかっているのに。
「病なのかって祈祷を受けたときに、地元の社に資質を見込まれたけど、それで家から追い出されて修行させられてて……でもその社からも大社から話がきたらすぐ追い出されたよ」
ぼろぼろもれている言葉が止められなくて名取こそが困惑している。
なんでこんなことを話しているんだろう。自分の過去なんて、どれだけ疎まれて生きてきたかなんて夏目に言うつもりなんかなかった。そんなことを神の夏目に告げたところで、夏目の重荷になるだけだってわかっている。
わかっているのに言葉が落ちる。
「大社に縁を持てるんだ。そのために使われただけで、誰も、おれなんて」
「名取さん」
勝手に話し続ける声を急に遮って、夏目がコートの裾を強く引く。
はっと顔を上げると夏目こそがひどく沈痛な面持ちで見上げてきた。
そんな顔をさせるつもりはなかった。名取の思い出を、嫌な記憶しかない幼い頃を夏目に、神に見せてしまうなんて。
「夏目、ごめ」
「名取さん」
慌てて口にした謝罪も遮られる。ひどく悲しそうなのに、とても柔らかな声に呼ばれて息を呑んだ。
コートをもう一度引かれる。引っ張られるままに縁側にぺたりとふたりで座り込んだ。
「少しじっとしててくれますか」
そう、優しい声に宥められる。穏やかな響きが耳に落ちて、それだけで詰めていた息を吐き出した。
美しい声だと思った。
夏目の声からは子供特有の澄んだ高さが薄れていた。小さな子供ではなくなった、成長した夏目の声は少し低くなり、その美しい響きが耳に落ちる。
ずっと側に居た時はわからなかった。ほんの少しの間だけとは言え離れた今、ようやっとわかる。夏目はもう出会った頃の幼いばかりの子供ではない。
「名取さん」
ばさりと布がこすれる音がやけに大きく聞こえる。名取に頭から敷布をかぶせ、夏目は真摯に見上げてきた。
そうして柔らかに頭を撫でてくる。いつも名取にそうされているように、決して触れず、けれど温度が伝わる距離で触れる。
体温が滲む。深く呼吸をした。
「おれのところに来てくれて、良かった」
そう穏やかに、柔らかに告げた声にこくりと頷いた。
ここに来られたことは、夏目と共に暮らす今の日々は、名取にとってこの上ない幸運だったのだと実感する。
確かに今が幸福だ。いずれ失ってしまうものだとわかっていて、それでもこの今が二人のこれからの日々を支えていくのだとわかる。それくらい、美しい日々だ。
ここに来られて、良かった。
「……うん」
頷くと夏目は安心したように笑った。名取もやっと身体から力が抜けてため息をついた。
「ごめん、変なこと言って」
「そんなことないです。名取さんは何にも悪くないから……」
笑いながら少し悲しそうに言った夏目に安堵する。ついこぼれてしまった過去が、重い記憶が少しだけ軽くなった気がしていた。
「ありがとう」
「いいえ、何も……」
「ううん、ありがとう。夏目は優しい、いい子だね」
そう笑うと、どうしてか夏目は一瞬だけ大きく眼を見開いた。
まるで傷付いているかのように。