遺失物取扱所-1(名夏) 花が咲いたみたいな人だ。
神域から遥か遠く、神と人の間に線を引くための森。その森を護る人の社の庭で幾人もの人が列を作り重なるように歩いている。夏目は遥か彼方の神域の庭から人の群れをじっと見ていた。
数多の人の列の中、金に近いはちみつの色の髪をしたその人の姿だけが夏目の眼に飛び込んで離れない。その人だけまるで花が咲いたかのように鮮やかに見える。
小さな夏目の手には到底届かない遠くで、その人は夏目を見ることはない。夏目が見ていることを知る由もない。声も何も届かないし、夏目はその人を何も知らない。
でも、この人だって思った。
「夏目くん、どーしたのー」
「どーしたー」
「多軌、田沼。先生も」
呼ばれて振り返ると、猫を抱えた多軌と田沼がぺたぺたと裸足で歩いてきた。
土を踏むたびに二人の足下から虹色の光が弾ける。神域の土は人が踏んでも淡い光を放つが、神が踏むと段違いに強い光を放つ。人が踏む時とは比較にならないほどの強い虹が二人の幼い神の足元で弾けていた。
神域の土の光は人と神の大きな違いのひとつで、光量が強ければ強いほど神格も高いと夏目は聞いている。
確かに子どもの三人が放つ光もなかなかに眩しいが、直接見なければ眼が眩むほどではない。修行中の幼い神たちの神格はそう高くないからだ。
しかし多軌が抱えた猫は違う。
猫がぴょいっと多軌の腕から抜け出す。ぽすんと土の上に降りた猫の足元は子どもたちとは違い、丸く強い光を放ったまま消えることなく虹の色を作り続けている。
神域に長く住まう、社の招き猫たちの長は子どもたちとは格が違う存在だ。
「せんせい行かないで! つるふか!」
「つるふかだねえ」
「わかったわかった」
けれど格も立場も違っても子どもたちにとって猫は友人だ。
多軌と田沼に囲まれた猫は迷惑そうな口調を装いながらも満更でもない表情で子どもたちに撫でられている。夏目も屈んでその輪に混ざり猫を撫でた。
「つるふかだねえ、先生」
「おう。何見とったんだ、夏目」
「あっち。お社の方でさ、あの人見える?」
「人か? どれだ」
「えっと、」
「皆様方、こちらにおられましたか」
その人を確かめようと夏目が猫と二人に指し示そうとすると、急に人の声がした。
指し示そうとした手が行き場を失って半端に落ちる。
「的場さんだー」
「どうしたんですか?」
振り返ると、的場が三人と猫に向けて膝をつき恭しく頭を垂れていた。
小さな田沼と多軌と夏目にも、彼は他の神に対するのと同じ礼儀を欠かすことはない。八百万の神を祀る大社を預る当主の跡継ぎたるもの、そんなことは当たり前であるべきなのかもしれないが、夏目は単純に子どもにも常に敬意を払える的場をすごいなあと思うばかりだ。
「失礼いたします。多軌様、お方様がおいでになられております」
「お母さん? どうしたんだろ、約束より早いですね」
「早く多軌様のお顔が見たいと仰られて」
「もう、お母さんたら! すぐ行きます」
「田沼様もお父君が参られます、そろそろお支度を」
「はい。じゃーな、夏目」
「行ってらっしゃい」
二人の友人は夏目に手を振ると手を繋いでぱたぱたと走り出し、二人を見送る猫と夏目だけが残された。
駆けていく二人を見ながら夏目は少し息をついた。
夏目と同じ年頃の田沼と多軌にはよく親である神が訪ねてきて、その度に嬉しそうに親元に向かう二人を見送る。そうして親のいない夏目が猫と共に取り残されるのはよくあることだ。いつもはそれが少しだけさみしい。
だけど、今はそれよりも知りたいことがあった。
「では、私も失礼いたします」
「あっ待って、的場さん」
「はい。いかがされました、夏目様」
去ろうと立ち上がった的場を引き止める。振り返った的場に急いて社の方を指差した。
「えっと、あの人誰ですか? 見たことないです」
「人……誰でしょうか。私にはここから社の方を見ることはできませんので」
「あ、すみません。茶色の、はちみつみたいな髪の色で、眼も同じ色……赤っぽい色で背の高い男の人です。おれ、初めて見ました」
「茶色。今の神職でそういった髪と眼の色の者はおりませんが」
「えっと、着物着てなくて洋装で、今日庭に列が出来てて、並んでて」
「洋装……ああ」
夏目の拙い説明を聞きながら少し考え込むようにした的場がふむと息をついた。どうやら思い当たったようだ。
「今日は神職の試験日ですので。試験を受けている者でしょう」
「そうなんですか。あの、おれ、その人がいいです」
「いい、と申されますと」
「おれの付人、あの人がいいです」
そう焦ったように言ってしまうと、的場はとても驚いたように眼を見開いた。いつも冷静な表情を崩さない的場がそんな顔をするのは初めて見て、夏目も面食らう。
二回ほど瞬きをして一瞬だけ眉間に皺を寄せた彼は、けれどすぐに夏目に頭を垂れてもう一度膝をついた。
「……承知いたしました。社に戻りましたらすぐにその者を探します」
「ありがとうございます!」
嬉しい。素直にそう思って的場にぺこりと頭を下げた。
嬉しくて笑った夏目とは裏腹に、的場は膝をつきながら腕を組んだ。そして何とも言えない難しい顔をして夏目のそばで黙って二人を見ていた猫を見て首を傾げた。
「なんだあ、的場」
「いえ……斑様、後ほどお話を……」
「わかっとるわ、後で社に行く」
ふん、と鼻を鳴らすと猫はぐいっと伸びをした。そうしてまた丸まった猫に礼をし、的場は夏目に向き直る。
「夏目様、仔細はこれから整えますが。大変失礼ですがひとつお伺いしたいことが」
「はい、なんでしょう」
「その、その者のどこを気に入られましたか?」
「どこ……」
どこ、と言われると。少し考えて夏目は遠くの彼をもう一度見た。
今も夏目を知りもしない彼はやっぱりひどく夏目の眼を引く。ため息をついて手を握り締めた。
それだけしかない答えを口に出す。
「だって、あの人」
花が咲いたみたいで、すごくきれいだった。
「さて、名取。出社日当日いきなりですが、神からのご指名がありました」
「はい?」
「名取を付人にするとのことです」
「つきびと、というと……」
「神のお付き、お世話係になるということです」
まさに、八百万の神が住まう神域とその森を護る大社の神職として就職当日。学校を卒業し神職の行を終えたばかりの二十歳の名取は、まるで聞いたことのない台詞ばかりを次々と告げる的場に疑問符を浮かべまくるしかできなかった。
出社当日の本日朝、社に着いた瞬間に呼び出され連れていかれた別室では、大社の当主代理の的場がまさに待ち構えており、自己紹介後の一言目にはこの宣言だ。何も飲み込めない。
同時に就職した他の新米神職とは別行動になったためまだ就職にあたる手続きすら終わっていない。大社の成り立ち、広大な社と神の森、その奥に広がる神域についての知識も就職時に調べたり聞いたりした表面上のものだけだ。神職の職務内容の説明もろくに受けていない。
眼の前の社の当主代理の的場の存在すら知らず、彼が非常に若いことにも驚きを隠せない。
年嵩の当主は引退直前で、今は当主代理という立場の的場静司は名取より一歳下とついさっき聞かされたばかりだ。
当主代理を名乗るだけあり、歳下とは思えないほど堂々とした態度の的場はどうしてか少し困惑したような顔をしていた。
「はあ、一体それはどういう」
「決まったら職務内容は七瀬が説明しますが、まずは名取を指名した神とお顔合わせをします。間違えておられたら無駄足なので」
「それは……間違いじゃないですかね……」
「正直、私もそう思いたいんですがね」
難しい顔をしてそう答えた的場にややこしいことなのかと身構えるが、就職すぐの身で仕事を断るわけにもいかない。何をするかも全くわかっていないのだ、まずは飛び込むしかなさそうだ。
大社に職が決まった時も驚いたが、更に一日目からこんな事態になるとは思わなかった。だが、なるようにしかならだいだろうとため息をついた。
「では行きましょう」
「え、もうですか」
「私も暇ではないので。さっさと済ませますよ」
すっと立ち上がると的場は名取が入ってきた入口と反対方向、神域の森と思われる方向の襖を開けた。ついていくと彼はそのまま広い宴会場のような部屋を何部屋か通り過ぎ、そのたびに襖を開ける。
的場の後に着いて欄間をくぐると後ろではぱたりと音がした。振り返ると、名取の後には誰もいないのに襖は勝手に閉まっている。
不思議に思っているとぱたりと的場が最後の襖を開ける。
その先は部屋ではなく、赤い橋がかかっていた。
「行きますよ」
「はあ」
的場の後ろをついていかにも神社といった風情の巨大な赤い橋を渡る。恐る恐る歩いていると橋の真ん中で何か、膜のようなものを身体で押す感触がした。
一瞬怯むが、すぐにぱちん、と膜を抜ける。
次の瞬間、ざわりと周囲の空気が変わった。
はっと振り返ると背後にはさっきまですぐ後ろにあったはずの襖がない。つい後ろにあったはずの巨大な社はどこもなく、橋の下には今までなかった大きな池が広がり四方八方に遥か彼方まで海のように続いていた。
鮮やかな色をした鯉のような、けれど違うような魚が数匹、軽やかに泳いで跳ねた。
「池……さっきまでなかったのに」
感嘆の声を上げると的場がまた難しそうな表情で振り返った。
「渡れましたか。ご指名は名取で間違いなさそうですね」
「そうなんですか?」
「もう神域です。一部の神職と神から通過を許された者以外はこの橋は通れません。夏目様がお許しになられている」
「夏目様?」
「名取を指名した神です。御名は夏目様と仰います。遺失物、失せ物探しを得とする正真正銘の神です。最上級の礼を持って接するように」
「あ、はい」
訳がわからないながら頷くと、的場は名取に背を向けてすたすたと歩いて行くので慌てて後を着いていく。
海のように広く見えた池にかかる橋は非常に長く見えたが、見た目に反してほんの数歩であっという間にその袂に着いた。
橋を渡り切ると急にざあっと風が吹く。何かがすぐ側を通り過ぎた。
「うわっ」
さあっと大きな魚のようなものが名取の側を通り過ぎた。それは空を駆けてそのまま遥か遠くまで上がっていく。
人ではないもの。
はっと眼を見開くと周りは人とは違う気配にあふれていた。透けてよく見えない気配から、獣と思しき姿の者が走り抜けた名残もあり、まるで人のようだが決して人ではないものの姿も遥か遠くに見える。
少しだけ話を聞いた、人の世界にはないものに溢れた神域の世界だ。
ついきょろきょろと見回してしまうと、前の的場が振り返って睨んできた。
「あまり周りをじろじろ見ない方がいいですよ」
「あ、すみません……」
「目が合っただけで不敬だとお怒りになる神もおられます。また、大社の神域には八百万の神がおられますから様々なお姿の神がおられます。どんなお姿でも驚かないように」
「それはよくわかりました……」
恐々と下を向くと、名取は的場の足下だけを見ながら着いていった。
的場が地面を踏むたびに淡い光が走り、すぐに弾けては消えていく。名取の足下も同じように薄く光が走っていた。
ぱちぱちと弾ける淡い光に眼を奪われている。光の跡を着いていくと的場がふいに立ち止まった。
「こちらです」
的場が立ち止まった先には建屋が並んでいた。人の社の庭、末社と呼ばれる様々な神が座す社に形が似ている、けれど明らかにそれより大きい建屋が立っていた。
見渡すと並びに同じ建屋がいくつも並ぶ。それらは遥か彼方まで同じものが続いているように見えるが、それも先ほどの池と同じく見た目通りではないのだろうと推測できた。
辺りを見回す名取を無視し、的場は二度建屋の入口に向かって礼をすると鋲を二回叩き、更にもう一度礼をした。何秒かの間を開けて中からも二回叩く音が帰ってくる。
「七瀬、いますか」
「はい、お待ちを。すぐにお越しになられます」
中から女性の声で返答が帰る。
その女性の気配が遠ざかる前に、すっと的場は地に正座した。
「お越しです。名取も座礼を」
「はい」
倣って正座をすると的場は手をつき頭を伏せた。それにも倣って名取も下を向く。
いきなりのことだったが、一応はきちんと礼ができたと思う。
子どもの頃、神職としての資質があると見込まれてからは礼儀作法を異常なほど厳しく仕込まれてきた甲斐があったと言えばあったなと少し苦々しく思い出した。
名取の思い出を置き去りに、建屋からかたりと音がした。戸が開く音だ。
それと共に誰かが出てくる気配がする。衣擦れの音がした。
「的場さん、お連れしてくださったんですね。ありがとうございます」
「とんでもございません」
顔を伏せているせいで何も見えないがやけに高い声が聞こえてきた。
それはまるで幼い子どものようで、やや舌っ足らずに聞こえる。聞く限り、神の声にはとても聞こえなかった。
「名取を連れて参りました。夏目様、お間違えないでしょうか」
「はい、この方です。なとり、さん」
「お間違えなく。此度は神域への通過をお許しいただき御礼申し上げます。名取、ご挨拶を」
的場に振られて、一度深呼吸すると地面に頭を擦り付けるように深く礼をした。
地からの光が眼の前で弾ける。
「お初にお目にかかります、夏目様。名取と申します。此度はお呼びいただきまして光栄にございます。何なりとお申し付け下さいませ」
「は、はい。よろしくお願いします。あの、頭を上げてください」
許しを得てゆっくり頭を上げる。
建屋の入口で初老の女性の神職を後ろに従えて立っていたのは、十を過ぎたくらいに見える子どもだった。
「……子ども?」
思わず小さく呟いてしまう。すると前の的場が振り返って睨みつけてきた。
「名取、不敬です」
「気にしないで、的場さん。実際子どもですから」
そう、幼い少年にしか見えない子どもは的場に手を振る。名取の失言など気にも留めず、華美ではないが質の良い着物を纏った子どもは裸足のままぺたぺたと名取の前に歩いてきた。
子どもが土を踏むと名取や的場が歩いた時の比ではない強い光が弾ける。まだ地面に正座したままの名取の視界に散る虹色に眼が眩んだ。
「初めまして、名取さん。夏目です」
眼の前に立った子どもの、神の裸足のつま先に強い虹の色が纏わりついてすぐに弾けて消えた。
ゆっくり見上げると見下ろしている子どもと近い距離で眼が合う。視線が重なると、はにかんだように、少し照れたように子どもは笑った。
それだけで眼を奪われて息を呑む。
まるで小さな花が咲いたようだと思った。
「えっと、手を取ってください」
「は、い」
小さな手を差し出される。
右手で右手を取った。触れた子どもの手は暖かく、まるで人の子どもそのもののように思えた。
「あの、ええと……手の甲に、口を付けて、ください」
少し戸惑ったようにそう告げた子どもに礼をし、言われた通り手の甲に一度だけ口付けた。
目を伏せていたためその表情は見えなかったが、すぐに離すと、子どもはほっとしたように息をついた。
「大丈夫、です」
するりと手が離れた。温度が遠ざかる。
「よろしいですか、夏目様」
「はい」
「では名取。本日より夏目様の付人を任じます。七瀬、後は頼みます」
「承知いたしました、的場」
「夏目様、私はこれにて失礼いたします。書類上も本日より任に着くよう整えて参りますので」
「はい、ありがとうございます」
すっと一礼すると的場は立ち上がってすぐに身を翻した。ほんの数歩を進むだけであっという間に彼の姿は霧にまぎれたかのように見えなくなった。
「名取さん」
呼ばれて顔を上げる。幼い神は名取を見てどうしてかとても嬉しそうに笑った。
心臓を掴まれる。
「お待ちしていました。よろしくお願いします」
「は、い」
掠れた声で返したうつろな返事にも、幼い神は、夏目はひどく幸せそうに笑うばかりだった。
「全く、夏目様がお優しくて良かったな」
「他の神は知りませんが…-やはりお優しいのですか、あの方は」
「実にお優しく、大人しい方だ。我儘を言うこともない、身の回りのこともほぼご自分でできて手がかかることもない。楽な仕事だぞ。ついてるな、名取」
七瀬と呼ばれた初老の女性神職はそう言ってからりと笑った。彼女の言葉はどこか名取をからかうような響きが混ざっていて、小馬鹿にされている気がしたが仕方ない。
大ベテランであろう七瀬から見れば名取など赤子のようなものだろう。今は軽んじられていても職務を全うすれば変わるのではないかと信じる他ない。
「とは言っても今いるお小さい神はお三方のみ、夏目様と田沼様、多軌様だ。皆様揃って十二歳、しっかりされており手がかからない。いつもご一緒に遊んでおられる」
「毎日遊ぶお時間があるということですか」
「そうだよ。勉学や修行のお時間もある程度決まっている、時間割は名取の部屋に貼ってあるからその通りに」
「おれの部屋があるんですか?」
「あるよ、ご寝所の隣だ。寝泊まりはそこ。これからは一日中ほぼ夏目様に付き添い、実家への宿下りも滅多にできんからそのつもりで。必要な物は社に下りれば何でも出せる。食事は神は精進料理しか召し上がらないが、お祝いの際は肉や魚をいただくときもある。名取も同じ物を食べることになるな」
「おれも肉魚食べれないんですか?」
「社に下りた時に食べろ。人間は肉魚食わんとやってられんだろ」
「そうですか。良かった」
ふーっと息をつくと、七瀬はにやりと笑った。やはりからかわれている気がするが、生憎名取はあまりにも何も知らなくてその七瀬の表情の意味が全くわからない。
今は気にしないようにして、夏目が下がった神の建屋を振り返る。
「夏目様はもう下がられたんですか」
「お前を任じた時に契約しただろう。それでお力を使われたからだいぶお疲れになられたようでお昼寝されると」
「あれだけでお疲れになるんですね」
「やることは一瞬だが契約だからな。お前に神の力の一部が注がれたんだよ」
「そうなんですか? 全然わからないですけど」
「実感はしづらいだろうが、契約がなく神の守護がない人間は神域に長く留まれん。ここには人を喰らう神も獣もいるからな、守護がなければ喰われるぞ」
「ええ……怖いんですが……」
「契約していれば大丈夫だ」
ぞっとしない話に名取は青ざめるが、七瀬はなんでもないことのように切り捨てる。そうして夏目の建屋の戸をがらりと開いた。
「この戸も契約がないと開かないから他の神の建屋に行くことはないぞ」
「それはありがたいですね、迷いそうだったんで」
「それから今後は神に一切触れてはならない。契約以外で人が触れると穢れになり神の力が失われるからな。どうしても触れる必要があるときは布越しで。まあ夏目様はお清めもお召し替えもご自分で全てできるから必要もないだろう。着替えや必要なものはこっちだ」
「はい、ありがとうございます」
七瀬に手招かれた先、建屋の中の上り框を上るとすぐ手前の小部屋を示された。そこは倉庫のようで、いくつかの箪笥や籠の類が床に無造作に置かれていた。
「名取の物もここらにしまっといていいぞ」
「私物持ってきていいんですか?」
「別に何でも持ってきていいが付人も必要なものは全部支給されるからな、何もなくても特に困らん」
そう言う七瀬のあとをついて歩く。倉庫を通り過ぎ、やけに広々とした浴室や簡単な調理設備のある台所を見せられた。
最後に辿り着いた部屋の戸を引く。
「こっちが付人の部屋だ」
「ここですか」
案内された個室は何もないせいか、とても広く見えた。先ほど言われた通り壁には時間割が貼ってある。
「建屋の中はこんなもんだ、奥は夏目様のご寝所になる。職務内容だが基本的にお小さい神の付人の仕事は遊び相手と教育だ。修行のお付き添い、作法や読み書き計算などをお教えする。他は何でもお望み通りに、と言いたいところだが、人や他の神、獣に害なす行動があればそれはお教えし正すように」
「わかりました。小学生の読み書き計算くらいなら、まあ何とか」
「おう。面倒も多いし家にはろくに帰れんが給料は高いぞ。通常の神職の三倍出る」
「そんなにですか?」
「これから大変だからな。前払いだよ」
そう、明らかににやにやとからかっている顔をした七瀬に思わずため息を返す。名取のため息を全く気にもせず、七瀬はぱたりと引き戸を開けると先ほど入ってきたばかりの上り框の方を指した。
「普通はご指名があったら即神域だが、夏目様はお優しいからな、今日は帰って必要なものを持ってきて良いとのことだ。諸々の手続きも済ませておけ。明日は日の出前に来い、陽が昇ると夏目様が起床されるからそこから勤務開始だ」
「おはようございます、名取さん」
名取の部屋と夏目の寝所を隔てる廊下で七瀬と二人座して待っていると、足音と共に夏目の声がした。
少し寝癖のついた髪のままの夏目がぺたぺたと歩いてきていた。寝巻きらしい麻の着物を着た、寝起きの彼はよく眠れたらしくすっきりした顔をしていた。
廊下に面した庭から朝の光が差し込む。
「おはようございます、夏目様」
「はい。今日からよろしくお願いします」
はにかんだように笑った夏目はやっぱり花が咲いたように色鮮やかに見えてひどく名取の眼を惹く。
子どもでもやはり神だからなのだろう、人とは存在感が違うようだ。気付かれないように息をつく。
「夏目様、おはようございます」
「七瀬さんもおはようございます」
けれど、ぺこりと七瀬に向かってお辞儀をする夏目は不思議と歳相応の幼い子どもに見えた。鮮やかな空気が少しだけ霞む。
「七瀬さん、今日のこととか、後はおれから名取さんにお願いするから大丈夫ですよ。田沼と多軌のところに行ってください」
「承知いたしました」
そう短く了承し礼を告げると七瀬はすぐにすっと立ち上がった。立ち去ろうとする彼女に夏目が思い出したように走り寄る。
そうして、触れはしないが小さな手を七瀬に差し伸べた。
「今までありがとう、七瀬さん」
幼い言葉だが、心よりの礼に聞こえた。
七瀬にとってもきっとそうで、彼女はふっと表情を和らげた。
「とんでもございません。それに田沼様と多軌様のお付きの任から外れたわけではございません、これからも毎日お会いできますよ」
「はい。これからもよろしくお願いします」
そう幼い神に笑いかけた彼女の笑顔は、昨日から名取に向けていたからかうようなものとはまるで違う、優しい笑みだった。
「朝と夕方にお風呂入るんですよね、お清めしないといけなくて」
七瀬を見送ったあと、夏目がぺたぺたと廊下を歩くのに着いていく。入った時はそれほど広くは見えなかった神の建屋は思っていたよりずっと広く外に面した廊下も長い。
そんなところも人の世とは違うようだ。
「承知いたしました。お手伝いすることはございますか」
「うーんと、おれが入ってる間に拭くものと着替え置いといてもらえますか。着替えは自分でできます。置き場所は……七瀬さんが知ってるかな」
「はい、昨日教わりました」
「そうですか、良かった」
振り返って笑った夏目の髪はやっぱり寝癖であちこち跳ねている。お清め、がどういったものなのかは不明だが髪も洗うのだろうか。それならいいのだけれど、そうでなければ直した方がいいのだろうか。
そうぼんやり考えているうちに廊下を突き当たった浴室に着いた。
「そんなに時間かからないので、着替えお願いします」
「はい」
ひらひらと手を振って脱衣所に入った夏目を見送り、昨日案内された倉庫に戻る。
そこでいくつか置かれた箪笥のひとつを開けると中身は空っぽだった。
他の箪笥を開けても同じで、ほぼ全ての箪笥が空っぽで物はない。ほとんどの箪笥を開けて、最後に開けたものにようやく昨日夏目が着ていたものと似た色の日中着ると思われる着物の組み合わせがひとつしまわれているのを見つけた。
ほっとして脇の籠を見るとそこにはちょうど良く拭き布が数枚入っており、それも掴むと浴室に戻る。
ばしゃばしゃと身体を流しているらしい水音がするのを確認して、引き戸を開けると入り口に着物と拭き布を置いてすぐに戸を閉めた。何となく水浴びする夏目を見てはいけない気がする。
「いや、絶対見たらだめだろうな」
何となく、ではなく絶対な気がして名取はひとりごちる。
神の水浴びを見て何も起きなかった神話などないだろう。眼にしてしまっては何が起こるかわからない。
夏目は確かに穏やかで優しげな雰囲気をしているが、まだ彼の何も知らないのだ。夏目の禁忌がなんであるかも名取にはまだ全くわからない。それを踏んでしまったらどうなるかも全く見えない。
しかし、それでは生活が回りそうにない。何が禁忌かは本人に聞いたほうが良いだろうか。
引き戸の前に座して控えながら、ぼんやりと今後のことを考えていると、確かにそれほど時間を置かずにがたがたと音がして引き戸が開いた。
「戻りましたー」
「はい、お帰りなさいませ」
名取が用意した着物を身につけた夏目が引き戸から顔を覗かせた。
その髪からはぽたぽたと絶え間なく水が滴っている。着物はきちんと着れているが、髪はろくに拭いていないようだった。こぼれ落ちた水が着物と床に落ちていくつも染みを作っている。
少し迷う。夏目が出てきたばかりの脱衣所の、すぐ手が届くところにはまだ乾いた拭き布が幾枚か積んである。
絶えず水がぽたぽたこぼれ続ける床を見て、ためらいながらも夏目を見上げた。
「夏目様、失礼してよろしいでしょうか」
「はい、何か」
多分大丈夫そうな返答に一礼すると、立ち上がって拭き布を手に取る。
首を傾げた夏目の髪に布をかぶせた。
「わあ」
「少し動かないでいただけますか」
視界を塞がれた夏目が驚いた声をあげたが、名取の声にこくりと素直に頷いてくれた。ほっとして直接触れないよう注意を払いながら髪を拭いた。
布越しに髪を弱く掴み、決して触れずに水を吸い取っていく。その間、夏目はとても大人しく俯いてじっとしたままだった。
何度も繰り返して、髪の先から水が落ちなくなってから布を取り去った。
「もうよろしいですよ」
「は、い」
布が落ちると、一度子犬のように頭を振ってから夏目はすぐに名取を見上げた。
湯に浸かっていたのだろうか、体温が上がっているようで顔が赤い。近い距離のせいか夏目から暖かい温度が少しだけ伝わってきていた。
どうも、お清め、といっても普通の入浴と変わらないらしい。髪は冷たかったので水浴びをしていたのかと思ったがそうではないようだ。髪も身体も冷え切っているのではないかと思っていたので少し安心する。
「ありがとう、ございます」
ぺこりと子どもらしく頭を下げた夏目の銀色の髪が差し込む朝陽に光る。寝癖はすっかり取れていた。
「いえ、きちんと拭かないとお風邪を召されるのでは、と」
「風邪……は、大丈夫……いえ、そうとも限らないですね」
そう、夏目は少し困ったように笑った。
名取にはその表情の意味がまだよくわからなかったが、ひとまずは大丈夫そうな気がする。まだ夏目のことを何も知らないのだから、これから少しずつわかっていけばいい。
この瞬間は、確かにそう思った。
「この後はいかがされますか。お食事でしょうか?」
「はい、朝ごはん食べます。多分もう玄関の土間に置いてあります」
「では見てまいります」
一礼するとそのまま玄関に向かう。どうしてか先ほどはとても長く感じた廊下は短く、ほんの数歩で土間に着く。
言われた通り、土間には二人分の膳が用意されていた。七瀬からの説明を聞く限りではいちいち社に取りに行くものだと思っていたがそうではないらしい。
膳の内容は聞かされた通り精進料理で特に人が食べるものと大差ないものに見えたが、片方の膳だけ炊かれた米が堆く積まれているのだけが人のものとは違った。
多分こちらが夏目側の膳なのだろう。神への供えとしてはよくある見た目だ。だが、これを小さな夏目が全部食べられるとは到底思えない。残しても良いものなのだろうか。
色々と疑問は多いが、ひとまずは両手に膳を抱えて戻った。
「ごはんありましたー?」
「はい、確かに」
廊下の縁に座って脚をぶらぶらさせていた夏目が立ち上がってぺたぺたと寄ってくる。
暖かい陽を浴びていた髪はもうすっかり乾いたようで、さらりと柔らかく流れ落ちていた。
「えーと、おれがこっち。名取さんはこっち」
予想通り夏目は米が堆く積まれた方の膳を取った。これを食べられるのだろうかと心配になる。
疑問符が顔に出ていたのか、夏目が首を傾げた。
「どうしましたか?」
「いえ、その。だいぶ多くないかと思いまして」
「あ、大丈夫です。これお供えなので見た目だけです」
「え、そうなのですか?」
「人の社の方におれの、失せ物探しの末社があるんですけど、そこに朝お供えしてくれてるんですよ」
「それをいただくということですか」
「そうです。だからちょっと食べたらなくなるんですよ。人の社の方ではお昼になると下膳して、夕方またお供えしてくれます」
「へえ……」
「名取さんの分は普通に人が食べられるものだと思いますよ」
そう話しながら夏目はぺたぺたと廊下を進む。今度も廊下は短く、夏目の寝所にあたる戸口にすぐ着いた。かたりと引き戸を開けて夏目は部屋に入った。夏目を追いかけようとして、ふと神の寝所に立ち入っていいのかどうか迷い立ち止まる。
逡巡していると夏目が振り返って手招いた。
「入って大丈夫です、どうぞ」
本人が言うなら大丈夫だろう。
安心して、開けたままの引き戸から寝所に入るとそこはすぐに寝床があるわけではなかった。
部屋の真ん中には座布団、端には文机が置かれていて、小さな本棚には数冊の本と筆が収まっているだけで他は何もない。奥の方には御簾がかかっており、その奥が本来の寝所なのだろうと予想が付いた。
「名取さんの部屋はそっちです」
「はい」
本棚と文机が並ぶ壁の反対側には別の部屋に続く引き戸がある。それを指し示し、夏目は座布団の前に膳を置いた。
先ほど説明されたとはいえ膳の中身の見た目の多さはやはり不思議だ。
「その、夏目様は」
「はい」
「人の食べ物はお召しにならないのですか」
「人のは食べなくてもいいんですけど。でも、七瀬さんはいつもお昼すぎに飴とかおやつくれます。肉魚じゃなければ食べていいって」
「ああ……かしこまりました」
七瀬の説明を思い出してひとり頷く。お供えの食事は朝と夜だけのようだし、人の子と同じように考えれば昼過ぎに何か甘い物でも社に取りに行けばいいだろう。
「では昼過ぎには何か取りに参りますが、何か今お手伝いすることは」
「ありがとうございます、でも大丈夫かな。おれ、ごはんも一人で食べられますよ」
「はい。お手伝いせずでよろしいのですね」
「他の神様はお付きの方がお世話全部することが多いらしいですけど、田沼と多軌は自分でやるからおれも教わりました。あ、田沼と多軌は友達です。ごはん食べたら遊び行きたいです」
「承知いたしました。では下がらせていただきますので、食事が終わられましたらいかがいたしますか?」
そう問いかけると夏目は一瞬ふっと落胆したような表情をした。
それがよくわからずに名取は首を傾げる。夏目も何かに困惑しているようで、眼を泳がせて名取から眼を逸らした。
さっきまで、まっすぐ見ていたのに。
「えっと……呼び、ます」
ついさっきまでの眼差しをなくし、すらすら話していたのを忘れたように、どうしてか困ったように言い淀む夏目がよくわからない。
だが、それを問うわけにも行かず名取も黙るだけだ。
「すみません、名取さんも部屋でごはん食べてください」
そう、笑った夏目はどうしてか少しさみしそうだった。
「ありがとうございます、土間に置いとくと消えますんで」
「はい」
夏目が食事を終えて隣室の名取を呼ぶまでにはそれなりに時間がかかった。見てはいないが、神の食事ともなると色々あるのだろうと勝手に納得している。
引き戸を開け部屋に入ると、先ほど夏目が話していた通り山と積まれていたはずの膳の中身はすっかり空っぽになっていた。
空の膳を引き取り、名取も食べ終わった膳を重ねると土間に積む。するとすぐに何かに吸われるように空の膳が消えた。
「ほんとだ……」
「夕方になるとまたごはん出てきますよー」
何でもないことのように夏目は言うが、名取には不思議なことだらけだ。思わず膳が消えたところに手を振ってしまった。
名取の仕草が面白かったのか、夏目は少し笑うと土間に降りて草履を引っ掛ける。
「草履、お召しになるんですね」
「名取さんは裸足でも何か履いても大丈夫ですよ。おれは裸足で歩くと眩しいだけなんで」
「ご自身でもそうですか?」
「すごい眩しいです。名取さんも最初眩しかったんじゃないですか?」
「ええ……まあ……」
「正直に言ってくれて大丈夫です」
鼻緒を引っ張ってきちんと履くと、夏目はがらりと戸を開いた。もうすっかり陽は昇っていて、外は心地良い暖かさになっていた。
人の世と同じように、神域も春のようだった。
ぱたりと草履を鳴らし夏目は神域の土の上に降り立った。確かに草履越しでは土は光らなかった。
「七瀬さんが神の威厳を示すためにも裸足でってよく言うんですけど、おれ、威厳とかないし」
「いえ、そんなことは」
「ほんとにないんですよ……あんまり人前に出ないようにしてるし」
「人の世の社においでになることがあるのですか」
「十月に。神在月だから末社の神が集まって神職の前に出るんですけど、おれだけ子どもだからばかにされたり……七瀬さんが怒ってくれるんですけど、神様相手だし……あー、もう嫌になってきた……」
今は四月で十月はずいぶん先のことのはずだが、今から夏目は憂鬱そうだ。外の石を蹴りながら口を尖らせている。
「まだずいぶん先のことでしょう、お気になさらずに」
「わかってますけど」
「夏目、それが付人か」
初めて不機嫌そうにした夏目が名取を振り返って口を尖らせる。
けれど続きを話す前にその背後から見知らぬ声がした。
「ニャンコ先生、おはよう」
夏目がくるりと回ってまた前に向き直る。
そこに何かいるようだが見えなくて、夏目の横から覗き込んだ。
そこにいたのは名取には予想外の生き物だった。
「ねこ」
「おいこら、不敬だぞ、人」
丸い猫のような生き物が短い手足で立ち上がった。人語を話す猫にこれも神かと気付いて、名取は慌てて膝を付いた。
「失礼いたしました、まだ不慣れなもので」
「先生、名取さん今日神域に入ったばっかりなんだから仕方ないよ。先生、猫に見えないし」
「猫に見えなければなんだと言うんだ!」
「たぬきとか?」
「たぬきの頭領は別にいる! 私は社の招き猫の長だ、敬え!」
「うん、えらいえらい。名取さん、これはニャンコ先生」
「これではない! 斑様だ!」
「うん、先生」
ぎゃんぎゃんと吠えた声をいなして、夏目は猫を抱き上げるとわしわしと撫でた。
猫を抱きしめて夏目は機嫌良さそうに笑う。さっきまでの不機嫌はもうどこかに行ってしまったようだ。
「ふん、まあ許してやろう。名取とやら、せいぜい職務に励め。それから私は触っても良い」
「よろしいのですか?」
「夏目や他のガキどもはだめだからな。たまになら許してやる」
「先生、つるふかですよー」
はい、と抱っこした猫を差し出され、夏目の手には触れないように気を付けながら猫の頭を撫でた。
確かに猫はとても手触りがいい。
「つるふかですねえ……」
「そうだろうそうだろう」
毛並みを褒められるのは満更でもないらしい。猫は夏目と名取にそれぞれ撫でられ満足そうだ。
「せんせいー」
しばらく二人で猫を撫でていると、ぱたぱたと軽い足音と共に猫を呼ぶ声がした。
顔を上げると夏目と同じ年頃の子供が二人走ってくる。その二人の裸足の足は人とは比較にならない強い光をこぼしていて、すぐに神だとわかった。
「夏目、先生、おはよー」
「おはよー」
「おはよ」
「先生、こっち来てえ」
「わかったわかった」
幼い少女の神に手招きされ、猫は夏目と名取の手から抜け出すとぽてぽてと短い足で歩いた。その足元は子供たちとはまた違った強い虹の光が途切れることなく続いている。
何となくだが、それだけで猫と子供たちの神格の違いは理解できた。大社の、人の社の側に大量に置かれている招き猫の長を名乗るだけあり、猫の神格は子供たちよりかなり高いようだ。
けれど、猫は子供たちをとても大事にしている。それがすぐわかった。
「せんせいつるふか〜」
「いつもつるふかだ」
「そうだねー」
少女の神が猫を抱きしめると猫はやはり満更でもない顔をしていた。少年の神も嬉しそうに猫を撫でている。優しく柔らかい空気が漂っていて、猫も子供たちも幸せそうだった。
この柔らかい世界に混ざっていいのかと躊躇してしまう。何の縁もなく、何も持たず何も知らない名取がここにいていいのだろうかと思うほどに。
少し後ずさってしまうと、ぎゅっと猫を抱きしめた少女がふっと顔を上げて初めて気がついたように名取を見上げた。
「夏目くん、こちらの人はだあれ?」
「おれのお付きになってくれた人だよ。名取さん」
「へー、はじめましてー」
「いつ来たの?」
「本日です。夏目様のお付きとなりました、名取と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「そーなんだ、おれは田沼です。よろしくお願いしまーす」
「私は多軌です。お願いしまーす」
「だからかー。今日七瀬さんおれの方来たんだー」
「うん、田沼と多軌のところ行ってってお願いしたから」
「そっかあ、ありがとう」
取り留めのない子供たちのお喋りが続いている。同じ年頃で同じくらいの背格好の子供たちの少し高い声は決して耳障りではなくどこか清々しい響きを持っていた。
この美しい音の響きも神だからなのだろうか。耳に心地良い響きを味わっていると、多軌がふわりと笑った。
「良かったあ、夏目くんも名取さんがいるならこれからもさみしくないね」
「……うん」
けれど、そう多軌が笑っても夏目はとてもさみしそうに頷くばかりだ。
どうしてかわからずに首を傾げると、田沼も多軌も何だかさみしそうに名取を見上げた。
「おれたち、そろそろ親元に戻るんだ。ここでの修行はもう終わり」
「子供は他にいないから、夏目くん、ひとりになっちゃうの」