遺失物取扱所-2(名夏)「「せーの、お世話になりましたぁー!」」
二人分の幼い声が大きく重なる。
神域と人の世を分つ橋の袂で、大きな荷物を背負った田沼と多軌が一生懸命に叫んだ声が響いている。子供達の前では数人の神職たちが座して地に頭を伏せていた。
その神職たちの列の一番後ろで、名取も地に額を擦り付けるようにして礼をした。
「皆様、顔を上げてください」
子供の声ではない低い声に許しを得て、神職たちがすっと静かに頭を上げた。名取もそれに倣い頭を上げる。
子供たちの後ろでは、彼らの親たる神々がにこやかに子供たちを見守っている。声の主はその中の一人、僧侶姿の神だろう。
頭を上げた神職たちは皆姿勢を正しまっすぐに神たちを見上げている。その中で名取だけは気付かれないように周囲を見渡した。
一番目立たない後ろに座しているからか、神たちは名取に注意を払わない。わからないように夏目を探すと、夏目は多軌と田沼の隣でしょんぼりした顔をして猫を抱っこしていた。
「長い間大社の皆様には大変お世話になりました。御礼申し上げます」
「とんでもございません。私どもこそ長きに渡り土地神様方からのお恵みを頂戴し、大変感謝申し上げます」
先頭に座す的場が口上を述べると、いやいや、と温和そうな僧侶姿の神が手を振る。田沼の父だという神と、その横では多軌の両親だという親神もにこやかに的場に話しかけた。
「いやいや、大変お世話になりました。透も要ちゃんも七つから預けていますからね。もう五年になりますか」
「はい。長きに渡り私どもを信頼し大切な御子様をお預けくださいましたこと、何よりの誇りにございます」
「的場さんには本当に昔からお世話になって。またうちにもいらして下さいね、透も勇も待っていますから」
「ぜひともお伺いさせて下さいませ。こちらは寂しくなりますが、お二人とも神在月のお戻りをお待ちしておりますよ」
「はあい。楽しみにしてます」
「ねえねえ的場さん、先生は持って帰っちゃだめ?」
多軌が名残惜しそうに夏目が抱えた猫を撫でている。猫は大人しく撫でられながらも鼻を鳴らして短い首を横に振った。
「駄目だぞ! 私は大社の神だからな!」
「申し訳ございません、多軌様。斑様はお譲りできませんが、お二人にはこちらを」
そう的場が七瀬を振り返りると、彼女はすっと立ち上がって子供たちのすぐ側まで歩み寄り、美しい絹地の布で包まれた何かを恭しく差し出した。
子供たちの視線がそちらに逸れる。
「なんだろ、開けていいですか?」
「ぜひ」
「どれどれー。わあ!」
七瀬が布を開くと、その中には手のひらに収まる大きさの招き猫が入っていた。夏目に抱っこされている猫の姿を模したらしいそれを二人の子供はきらきらした眼差しで見て、それから七瀬を見上げて嬉しそうに笑った。
何も言わず、けれど七瀬も優しく笑っている。育ててきた子供たちとの別れを惜しんでいるように。
「神域の土で陶芸の神がお作りくださいました。お二人のこれからの善き日々をお祈りし、大社よりささやかながら御守りをお贈りいたします」
「せんせい! かわいい!」
「すごいー、ありがとうございます!」
とても嬉しそうに招き猫を受け取った子供たちの隣で夏目は一人俯いてしまっていた。今にも泣き出しそうな素振りに心配になるが、今は名取が何かできるわけもない。
もどかしいが何ともならず息をつくだけだ。
思わず目線を背けて下を向くと、招き猫を渡し終えたばかりの七瀬が気配を消しつつ隣まで下がって来た。
「名取」
「はい?」
「これは夏目様の分だ、後で渡せ」
すっと二人に渡された物と同じ、絹地の布に包まれた物を七瀬から手渡される。中身は見えないがあの小さな招き猫が入っているのがすぐにわかった。
顔を上げると七瀬はさっきと同じようにとても優しく笑っていた。名取ではなく、日々を共に過ごした小さな子供たちに笑いかけているんだろう。そう思える表情だった。
「ありがとうございます」
「お前さんが礼を言うことじゃないな」
けれど次の瞬間にはまたいつものからかうような笑みを名取に向け、七瀬は的場のすぐ後ろに戻った。
息をつき夏目を見ると、見ていなかったうちに彼は田沼と多軌に囲まれていた。大人たちの談笑と別れを惜しむ子供たちの声が混ざって響いている。
「夏目、元気でね」
「うん、ありがとう」
「ねえ的場さん、夏目くんも神在月の祭祀が終わったらちょっとくらいうちに来ちゃだめかなあ」
「申し訳ございません。夏目様は末社から離れることは叶わず」
「そっかあ、残念。でもおれたちまたすぐ来るから」
「……うん」
泣き出しそうな声をこぼしながらも夏目は泣かなかった。猫をぎゅっと抱きしめながらがんばって顔を上げている。
まだ幼い仕草に喉が詰まるようだ。
「要、透ちゃん。そろそろ」
「はあい。夏目くん、またすぐ来るからね」
「うん」
「ばいばい、夏目ー!」
「またねえー」
「またね」
子供たちが手を振り、大人たちが頭を下げ合う。親たちに手を引かれた子供たちが橋を渡り、何度も何度も振り返っては手を振る姿が徐々に霧に紛れていった。
人と変わらない別れを惜しみ、神は巣立って行く。
すっかり姿が見えなくなるまで見送って息をつくと、座して控えていた神職たちもやれやれ、などとこぼしながら立ち上がっていた。
「お疲れ様でした、皆持ち場へ。夏目様もどうぞお戻りください」
「はい。ありがとう、ございました」
「……何もしておりませんよ」
的場にきちんと礼をして、夏目は猫を握りしめたままでまっすぐに名取の方に駆けてきた。いつもの子供らしい笑顔はひとつもなく、ぎゅっと強く口を結んでいる。
泣き出しそうなのを必死で我慢しているのが手に取るようにわかった。腕の中の猫が夏目を見上げてため息をついている。
「名取さん、待っててくれてありがとう……戻りましょう」
「はい」
声が少し震えていたが、それでも夏目は硬い口調で泣かずにいる。
どこか呆れたように鼻を鳴らした猫がしゅるりと夏目の腕から抜け出して地に降りた。
「先生」
「お前ら先に戻ってろ。私はパトロールに行くぞ」
そう言って猫は振り返ることなく駆けて去った。猫を見送る間に七瀬や他の神職たちも続々と帰って行き、橋の袂には夏目と名取だけが取り残された。
「夏目様、行きましょうか」
声をかけると夏目はこくりと素直に頷いてはくれた。一度橋を振り返り、くるりと身を翻して自身の建屋の方に歩き出す。
俯いて土を蹴った夏目からはさみしさが溢れているようだ。
「ごめん、なさい」
「いえ、何も謝られることは」
「ううん、付き合わせちゃって……ほんとは、見送りに他の神が参ずることなんて、ないから。的場さんに無理言ったんです。ごめんなさい」
そう呟いてごしごし目元を擦っている姿がかわいそうでつい手を伸ばそうとしてしまう。だけどすぐに気付いて手を引いた。
触れない。
せめて、今だけでもこの幼い子供と手を繋いで歩けたら良かったのに。
絶対に触れないんだ。
「行かなきゃ良かった、かな」
ぽつりと呟いた声に何も言えず何も出来ない。ずっと俯いて歩いている夏目の足元の光が普段より弱くなっている気がする。いつもは虹の光が弾けているはずなのに、今日は白色の光だけがぼんやりと舞っていた。
自らの建屋に着く頃には光は余計に弱まっていた。この光が神の感情に比例するものだとは思っていなかった。
「すみません、今日はもうお休みしたいです……」
がらりと引き戸を開けて廊下を進み、庭に面する廊下の前で振り返った夏目は、赤くなった眼でしょんぼりと名取にそう訴えた。
逆らうわけにはいかない。よろしいですよ、と何事も無かったのように頷くべきなのだろうとは思った。
だけど一瞬逡巡して、名取は夏目の前に屈んだ。
「夏目様」
「……はい」
「お休みになる前にこちらを」
首を傾げる夏目の前に手を差し出す。さっき七瀬から預かった絹の布地をそっと開いて、中身を見せた。
それを見た夏目が眼を瞠る。
「七瀬さんから預かりました。夏目様にも、と」
「……え」
名取の手のひらに乗った、二人とお揃いの招き猫を夏目はひどく驚いたように見つめていた。
そうして猫と名取を交互に見て、ためらうように震えた手でそれを取った。
「七瀬さん」
見開いた眼からぽたりと雫が落ちた。
受け取った猫をそっと撫でて、じっとそれを見る夏目の眼から涙がいくつも転がり落ちる。
ぱたぱたとわずかな音を立てて廊下に涙の雫が落ちた。その様を眺めて、名取は少し迷った。
けれど、ためらいながらも手に残った絹地の布を夏目の髪に被せた。
布の上からそっと夏目の銀色の髪を撫でる。どうしてかこうしたかった。
「なとり、さん」
「……はい」
震える声に応えても、もう夏目は返事もできないようだった。
何度か腕で目元を拭うが、耐えられなかったのか急に力が抜けたように床にしゃがみ込んでしまう。そのまま名取も一緒に床に座り、夏目の髪を布越しに撫で続けた。
時々しゃくりあげながら夏目はぼろぼろ泣き続けている。さみしい、かなしいが直に伝わってきて名取も喉が詰まるようだ。
ただ小さな招き猫を握り締めて泣き続ける小さな子供の髪を布越しにしか撫でられないことがもどかしかった。
「ありがとう、ございます」
ひとしきり泣いた夏目が泣き止むまでそれほど時間はかからなかった。
ぐしっと目元を擦り、まだぐずぐず鼻を啜りながらも何とか顔を上げてくれた。すっかり赤くなってしまった目元を拭ってやりたかったがそれはできなくて、髪から布を取ると着物に点々と落ちた涙の跡を拭った。
「無理しなくていいんだよ、さみしいよね」
呟いて、でもそのまま顔を拭うわけにもいかず、床にこぼれた涙を布で拭き取る。
小さな涙の水たまりに陽が差して虹の色が浮かんでいた。まるで夏目が元気いっぱいに歩いている時にこぼれる光のような明るい色だ。
その色に眼を取られていて、名取は自分がこぼした言葉に気がつくのに時間がかかった。
はっと気がついて顔を上げる。礼を払えていない言葉遣いをしてしまったことに血の気が引く。
慌てて見上げると夏目はひどく驚いたみたいに眼を丸くしていた。急いで一歩身を引くと姿勢を正し座礼する。
「夏目様、申し訳ございません。失礼を」
「いえ大丈夫です! 大丈夫なので! 謝らないで、頭下げないでいいです!」
慌てた名取よりずっと慌てた夏目の声がして、恐る恐る顔を上げる。
あわあわと手を振る夏目は全く怒っていいないようだった。困ったように慌てて口をぱくぱくさせた彼の眼にはもう涙は見えない。
「あの、ほんと大丈夫なので……その、できたら、なんですけど」
「はい、申し訳ございませんでしたが、何か」
「ほんと謝らないでください……あの、その……でも」
もごもごと言い淀んで、夏目はぱちぱちと忙しなく瞬きをしては指を組んだり離したりしている。落ち着きのない様子に首を傾げた。
「その、周りに誰もいない時だけでいいので……様づけとか、その、敬語とか、やめてもらえませんか」
だけど、顔を赤くして途切れ途切れにそう言った夏目に今度は名取が驚いた。
ぱたぱたと慌てたように手を振る子供を見上げると一度ぱちりと眼が合ったもののすぐに困ったように眼を逸らす。
全く怒ってはいないようなのでほっと息をついた。そんな小さな望みなんてすぐに叶えられる。
「はい、お望みであれば。よろしいのでしょうか」
「はい……でも、あの、無理ならいいんです、けど」
「いえ、何でもお望み通りにと伺っておりますので。それでは、これからはそのように」
「本当ですか?」
「はい。では、夏目、とお呼びしてよろしいですか」
「はい!」
ぱっと名取を見上げて嬉しそうに頷いて笑った夏目は、泣いたことなんてもうすっかり忘れたみたいだった。
それにほっとして息をつくと立ち上がる。
「じゃあ夏目、おやつもらってくるから。食べよう」
「はい」
笑った夏目からはもうさみしさが消えていた。
陽の光が差し込む廊下は乾いていて、もう涙の跡はどこにもなかった。
「名取さーん、帯、結んでください」
ぺたぺたと廊下を歩く夏目はやたらと豪奢な長い帯をずるずる引きずって名取を呼ぶ。今日ら着ている着物も普段の簡素な単に上着を羽織った程度の物ではなく、裾にかけて大きく花の柄が描かれた凝った意匠の物だ。
豪奢な帯に美しい着物を纏う夏目の姿を初めて見たが、よく似合っている。本人はあまり着たくない様子だったが。
「はいはい。今日は本殿だったね」
「行きたくないです!」
「がんばろうね」
励ましたが、夏目は顔を背けて口を尖らせてぶつぶつ文句を垂れ流し続けている。その、子供らしいと言えばとても子供らしい仕草に笑ってしまう。
帯を受け取る。着物は下帯まではきちんと結ばれていて崩れることなく着られているが、豪奢な帯をきちんと結ぶのは難しいようだ。元々一人で着るような衣装ではないので当たり前だが。
「なんで毎月本殿行かなきゃ行けないんだろ、ちゃんと毎日仕事してるのに」
「神のお力とご威光を示すためにってことで」
「威光なんかないのに……」
ふーっと大きくため息をついた夏目は確かに人が思い描く神とは程遠かった。それでも美しい着物を身に付けた幼い子供はどこか神秘的な空気を纏っている。
帯を伸ばすと、夏目は素直に名取に背を向けた。
「これ、どういう形で結ぶのが正解?」
「七瀬さんは花の形にって言ってたんですけど」
「花の形かあ。できないかも」
「おれは何でもいいです、見えないし。文句言う人もいないのに七瀬さん結構こだわるんですよね」
そう、背を向けたままの夏目が大袈裟にため息をつく。花の形に結ぶのはやはり名取には難しく、豪奢な帯の先が着物の花と重なるように流して結んだ。
「七瀬さん、ちょっと口うるさかった?」
「ちょっとだけ」
整えた帯から手を離すと先端がするりと流れ落ちて着物に沿う。引きずるほどでもなくちょうど良い程度の長さに結べたようだ。
「これでいい?」
「何でもいいですー」
そう、くるっと名取の方を向いた夏目は子供らしく何回か跳ねた。動き回っても特に着崩れることもなく、上手く結べたようだ。
「はやーい。七瀬さんにやってもらうともっと時間かかったんです」
「凝ったことしてないから。七瀬さんちゃんと気遣ってくれてたんだよ」
「それは、わかってます」
目線を床に落とした夏目がほんのすこしさみしそうに笑った。
夏目はたまにこんな表情をする。
日々を共に過ごすうちにわかったことがいくつかあった。夏目はどうしてか良くさみしい表情を浮かべている。去った友人たちや長く支えてくれた人たちだけではなく、他にも何かをずっと惜しんでいる。
失った何かを探している。
「ここに来た時から七瀬さんがずっと面倒見てくれたから……おれ、親がいないので」
そう、夏目が小さく呟いた声が大きく耳に響いた。初めて聞いた夏目の出自がやけに気に掛かった。
親がいない。それでどうして今神域にいるのだろう。どうやって育ってきたのだろう。
どうしてかひどくざわついた気持ちになる。
「夏目、」
「あー、もう鐘鳴ってますよー」
名を呼んだ時、本殿に神職が集まるための合図の鐘が鳴り響いて名取の声はかき消された。
嫌だーとぶちぶち言いながらも夏目はくるりと身を翻す。帯と着物の裾が美しく翻り、幼くも神秘を纏う神の後ろ姿に名取は声を呑み込んだ。
今は聞くことを諦め、文句を垂れ流し続けながらも自分の寝所の方に向かう夏目の後ろを着いていく。いつもの寝所の引き戸の前を通り過ぎると、夏目は廊下の突き当たりの壁を押した。
普段はただの壁でしかないそこは、夏目が触れると取っ手が現れ扉となった。
「これ、扉だったんだ」
「いつもは壁ですよ。本殿行く時だけ開くんです」
「直接本殿に入れるんだ」
「そうですよー」
ようやく穏やかな声になってくれた夏目が戸を引くとすぐに赤い橋が現れた。
大社から神域に入る際の橋によく似ているが、この橋の下には池がない。橋の袂で夏目は髪を揺らして名取を見上げた。
「行きましょうか。この橋の真ん中くらいから人の世なので、普通に人がいると思います」
「ああ、それじゃあ。夏目様、参りましょう」
人に聞かれることを考え、呼び名と口調を付人として当たり前の声に戻すと、夏目は名取を見上げて少し眼を瞠って、でもすぐに笑った。
「はい。何か、様付けされるの変な感じです」
困ったように笑う夏目の言葉に思わず頷いた。
それはよくわかる。敬語も様付けもやめてほしいと言われてから幾日も経っていない。それなのに、もう友人や兄弟の間であるような砕けた言葉と呼び名に慣れてしまっていて、名取も違和感がある。
「そうですね」
「ねえー」
間延びした声に合わせるようにゆっくりと歩く姿が子供らしい。
夏目からは最初に出会った時の少し緊張したような空気はすっかりなくなっていた。すっかり名取に慣れて、懐いて、今の二人の生活はとても上手く回っていると名取は感じていた。
名取にとっても、主人と言うよりは小さな友人や弟のように思えていた。他の人に言えば不敬と怒られるかもしれないが、多分、夏目は名取がそう接してくることを望んでいるだろうと言うこともわかってきた。
出来る限り夏目の望み通りにしたい。そうして、二人の生活を長く続けたいとも願っている。
それは難しいことだろうか。
「あ、忘れてた。面ください」
「ああ、承知しました」
橋の途中でふと立ち止まった夏目が名取に持たせていた簡易な布の面を受け取る。印が描かれた、目元周りを隠すだけの白い布を自分で巻いて結ぶと夏目は大きく息を吸った。
「やだなー、行きます」
「はい」
橋の真ん中に差し掛かっていた。夏目に続いて中央から先に一歩踏み出すと、人の世と神の世の境でいつも感じる膜のようなものをすり抜ける感触がする。
人の世に戻る。
「失せ物探しの神の御成りでございます、伏してお出迎えを」
すり抜けると一気に世界が変わる。
先触れによる御成りの声が大きく聞こえた。橋の袂からは赤布で道が敷かれ、両脇を固めるように神職たちが並んでいる。その全てが深く頭を垂れ座礼している。
その間を夏目はひとつも声を出すことなく息を潜めるように歩き、名取もそれに付き従う。眼を隠し、美しい着物を翻して従者を従えた夏目は傍から見れば幼くとも神秘を纏った神らしく見えることだろう。
でも、他の誰にもわからないだろうが、名取は夏目からひどく緊張した気配を感じていた。相当嫌なんだろうなと思うが、名取もそれは噯にも出さない。無表情を装い、ただ忠実な従者としての素振りで付き従うだけだ。
神職たちが連なり座す間を抜け、本殿の入り口から階段を登り廊下に入る。神の間が連なるそこからは人の気配は薄くなり、それを確認した夏目は名取にだけ聞こえるようにほっと息をついた。
「もう疲れたー。ここ通るのが一番緊張します」
「誰も見てないよ、みんな伏せてたから」
「見てなくても嫌ですー」
人の気配が薄いのをいいことに二人でこそこそ話していると、また鐘の音が響いた。他の神が人の世に入ったようだ。
ここでまごついていると順番が詰まって他の神が入ってくるだろう。ふう、と息をついて夏目は長く伸びる廊下の果てを見据えた。
「行きますかー」
「はい」
裸足の足でぺたぺたと廊下を進む仕草だけはいつもの夏目と変わらない。長い廊下の右側にいくつも並ぶ神の間のうちのひとつ、失せ物探しと表された間まではすぐだった。
夏目と入れ替わり、名取が間の前で二回手を叩く。
その合図ですぐに御簾が上がった。
「夏目様、お疲れ様でございます」
「七瀬さん」
呼ばれた声でぱあっと夏目の表情が明るくなる。
控えていた大社側の神職は七瀬だった。
「本殿はやはり緊張されますか」
「はい。何回来ても疲れます」
「すぐに終わりますよ。さ、お進みください。名取、こちらで控えろ」
御簾のすぐ後ろ、一段下がった箇所に手招きされ七瀬と共に座す。
夏目は一人緊張した面持ちで短い階段を上がってもう一枚下げられた御簾を潜った。
「失せ物探しの神、顕現でございます」
口上と共に太鼓を鳴らす音が聞こえる。御簾から垣間見える影の動きで夏目が高座に座したのがわかった。
ここまでの道のりは聞いていたが、夏目がこれから何をするかはわかっていなかったな、とふと思い出す。聞けばいいかと思い、横に座す七瀬を見上げた。
「七瀬さん、聞いていいですか」
「なんだ?」
「夏目様、本殿では何をなさるんですか。全然聞いてなくて」
「そんなことか。何もしないよ、月に一度末社の神はお姿を人の世に映すことが決まっているだけだ。今お姿をお見せして、次に太鼓が鳴ったらお戻りで終わりだ」
「へえ。ありがとうございます」
頷く名取を見て七瀬はまたからかうように笑った。先日の招き猫を渡された時以来七瀬には会っていなかったが、こうやってからかわれるのはずっと変わらないようだ。
「どうだ? 少しは慣れたか」
「ええ。ありがたいことに大変良くしていただいております」
「そりゃ良かったな、良い仕事だろう」
「それはもう。長く仕えさせていただければ良いのですが」
「長く、は難しいな。そう遠くないうちに夏目様は大社から出ることが決まっている。出立されれば名取のお役目も終わりだ」
「……そうなんですか」
一瞬言葉に詰まる。どこかでわかっていたが、やはりずっとはこうやって二人で過ごしてはいられない。
そうはっきりと知らされるとどうしてか心臓が軋んだ。
「短い間でも神仕えをしていれば箔がつく。給料もいいし名取には良いことだらけだろ、良かったな」
「そう、ですね」
何事も無く当たり前のようにそう言った七瀬から眼を逸らした。
初めてわかった。
夏目と過ごす日々が終わって欲しくないと思っている。名取にとってもこんなに穏やかな日々は初めてで、緩やかで暖かいこの日々を失いたくないんだ。
それも、夏目がいてこそで。
「お、終わったな」
太鼓の音がしてはっと顔を上げる。
影が動き、御簾をくぐった夏目がすぐに戻ってきた。疲れた顔で少しふらふらしつつもまっすぐ名取の前まで歩いて来る。
「疲れましたー……」
「お疲れ様でした」
「お役目ご苦労様でございました、夏目様。よろしければこちらを。お戻りになりましたらお召し上がりください」
「わー鯛焼きー。見て、名取さん」
そう労って七瀬が袋を差し出す。受け取ると、すぐに中を覗き込んで夏目は嬉しそうな声を上げた。
さっきまでの緊張した面持ちはもうどこにもなく、ふわふわ笑って子供らしい仕草で名取を見上げて鯛焼きを見せてきた。
「美味しそうですね」
「これ美味しいんです! 七瀬さん、ありがとう」
「とんでもございません。ですがこれからお戻りでしょう。名取に持たせてくださいませ」
「あ、そうでした。お願いします」
にこにこと鯛焼きを大事そうに抱えて跳ねた夏目が少しばつの悪そうな顔になって名取に袋を差し出す。
立ち上がって受け取ると座したままの七瀬は眉を顰めて名取を睨んだ。
「名取、人前に出る時は気を付けろ。神のご威光を人にお見せするのも職務だぞ、従者らしい振舞いをしろ」
「それはすみません……」
怒られてしまって頭を下げる。
こればかりは七瀬の言う通りだ。すっかり神域での日々に慣れきってしまって気が抜けている。少なくとも二人だけではない場面では気を引き締めようと思う。
ため息をつくと隣の夏目は気にしてないですよと言いたげに見上げてきたが、それに甘えてばかりではいけないだろう。
そう名取が反省しているのを感じ取ってくれたのか、七瀬は表情を和らげてから夏目に礼をした。
「ですが、夏目様がつつがなくお過ごしのようで私も安心いたしました。それではお戻りくださいませ」
「ありがとうございます。またね、七瀬さん」
座礼する七瀬に手を振ると、夏目は名取を従えて御簾をくぐり本殿の廊下に戻る。
立ち並ぶ間では夏目に続いてきただろう他の神の気配と慌ただしく動く人の声がいくつか聞こえていたが、廊下には誰もいなかった。
「お疲れ様」
「ほんと疲れましたー」
そう、名取を見上げて安心したように笑った夏目に少しだけ心臓が痛む気がした。
わかっていたつもりだった。けれど遠くないうちに離れるのだと、明確に示されたのは案外堪える。それくらい夏目との生活に馴染んで、二人で暮らす日々が当たり前になっていた。
夏目と離れたらきっととてもさみしいだろう。
けれど仕方がないことだ。神と人では理も何もかもが違う。今側に居られることだって奇跡のようなものだ。いつか巣立つのなら、その時はきちんと見送りたい。
隠した思考でいつか夏目を送る日を想った。
「鯛焼き、ニャンコ先生の好物だから見つかったら取られちゃいます。早く食べなきゃ」
だけど、振り返った夏目は柔らかにそう言って、とても嬉しそうにいつものことのように名取の服の裾を引いた。
少し驚いた。確かに触れてはいないが、それでも名取に直に接触してきたのは初めてだ。思わず小さな夏目の手を見下ろすと、彼ははっとしたように手を離した。
離されたくはない。
「すみません、えっと」
「いいよ、服だから。そのままでも」
「そうですか?」
困った顔だった夏目に大丈夫、と笑うと安心したようにまた名取の服を掴んだ。子供らしくくるくる回る表情がかわいらしく見える。
名取には夏目には威厳や威光など必要ないように思える。彼もそれを望んでいない。こういった場でなければ無理はさせたくないなと思った。
神であれど子供なのだから、子供らしく過ごした方がいい。
「あの、鯛焼き四つあったので。戻ったら名取さんも一緒に食べませんか」
「いいのかな、ありがとう」
手をそのままにさせて笑うと夏目は一瞬下を向いた。
それから逡巡するように視線を廊下に泳がせて、でも何かを決めたようにもう一度顔を上げた。
「あの、できたら、なんですけど……これから、ごはんも一緒に食べてほしい、です」
そう、少しだけ顔を赤くして告げた夏目に一瞬息が詰まった。
懐いてくれること、仲良く暮らせることはいいことだと思う。だけど、距離を詰めれば詰めるほどいつかの別れが重くなる。眼の前に見えているさよならはそう遠くはない。その時のさみしさが今から身体に溜まっている気がした。
それでも今は夏目の望み通りに過ごしたい。仕えているからではなく、自分自身でそう望んでいる。
いつか遠くなってもここで二人で過ごした日々が夏目にとって善い思い出になればいい。これからの夏目が神として生きる永い生活の中で思い出が少しの支えになれないかと願った。
「うん、ぜひ」
そう頷くと、夏目はほっとしたように笑って名取の服の裾を握り締めた。
「恵みえてこそ……いただきます」
朝の膳に向けた夏目の祝詞が部屋に響く。一度手を打ったあとに唱えられる祝詞はいつもどこか清々しく美しい響きを持っていた。
音と共に供物にわずかに光が灯る。
供物用に用意された長箸で夏目が一口米を口に運ぶと、残された供物の光が強まりざらりと形を失ってちりちりと消えて行く。
ぱしん、と夏目がもう一度手を叩く。
「思え人の世……ご馳走様でした」
更にもう一度、今度は食後の祝詞を唱える。その間に腕の中の供物は一粒たりとて残ることなくきれいになくなっていた。
「名取さん、ごはん食べてて大丈夫ですよー」
「うん、ありがとう」
頷いて自分の膳に箸をつけるが、夏目が真摯に祝詞を呟く声にどうしても箸が止まってしまう。
食事を一緒に摂るようになると一回一回の食事にかなり時間がかかる意味がわかった。朝晩の食事はひとつの腕の中身を一口食べるごとに食前と食後の祝詞を捧げていて、その祈りと共にざあっと食べ物が消える。
夏目はとても真摯にひとつひとつの言葉に向き合って丁寧に祈りを捧げている。何度もそれを繰り返しているのだから時間がかかるのは当たり前だ。
今日も時間をかけ、腕の数だけの祝詞が何度も響く。それを聞くだけでも何かが洗われていくようだ。
神である証を眼の前で見ている。
「ご馳走様でした。おしまい」
名取が夏目を眺めながらもそもそと自分の食事を食べている間に、夏目は最後の祝詞を唱え終わる。膳に並べられた腕の中身は全てきれいになくなっていた。
「朝からお疲れ様でした」
「いえ、毎日のことですし。名取さんも食べ終わった?」
「うん、ご馳走様でした」
「ごちそうさまでしたー」
名取も夏目に倣って手を合わせる。
ぱちんと手を合わせて二人で膳に一礼したところで、外から玄関の錠を鳴らす音が二回響いた。
「あれ、お客さん?」
「今日は客人の予定はないはずだけど……」
「ですよね」
訝しげに二人で首を傾げていると砂を蹴る音がした。人の、神職が来ていると言う合図だ。
夏目の寝所から玄関まではかなり遠いはずなのに来客がある時だけは音や声がよく聞こえる。これも神域の神の家の不思議な作りのひとつだ。
「おはようございます、夏目様。藤原のお方様がおいででございます」
「塔子さん?! 名取さん、開けてください!」
七瀬ではない見知らぬ声だが、室内によく響いた神職の声に夏目は勢いよく立ち上がった。慌てて小走りに廊下に出た夏目を追って名取もぱたぱたと走る。
今日は廊下は短かった。夏目が急いているときはこの廊下は短くなり、ゆっくり歩きたければ長くなるのだとふいにそう納得した。
「塔子さん!」
「まあまあ、貴志くんたらまた大きくなって。あっという間ねえ」
からりと戸を開けると、夏目は待ちきれないと言わんばかりに裸足のままでまっすぐ外に飛び出した。
夏目が駆け寄る先に、塔子、と夏目が呼んだいかにも優しそうな壮年ほどの女性が夏目を迎えている。彼女の後ろには見知らぬ神職が深く座礼しており、では彼女も神かと察すると名取も土間に座して顔を伏せた。
「急にどうしたんですか?」
「今日は他のお社の奥様方との集まりがあるの。ちょっと早く着いたから先に貴志くんの顔が見たくて。元気そうで良かったわ」
「はい、ありがとうございます」
夏目がとても嬉しそうに応える声がした。幼子が親に甘えるような気配だ。女性もとても嬉しそうにしている。夏目がこんな声を上げたのは初めてで少し驚いた。
楽しげな二人の後ろで、控えていた神職が少し音を立てて土を蹴る。
顔を上げ声をかけるという合図だ。名取も目線だけわずかに上げて二人を見上げた。
「お方様、失礼ながら。的場から少々お話がございますため、よろしければ後ほど社にお寄りいただけますでしょうか」
「はいもちろん。後ほど伺いますわ」
「お待ち申し上げております。それでは私はこちらにて失礼いたします」
もう一度深々と礼をし、神職は立ち上がるとすぐに身を翻した。その後ろ姿は早々に霧に紛れるように消える。
優しい笑顔で神職を見送ってから夏目に向き直った彼女がふっと夏目の後ろに控える名取を認めた。
「あら貴志くん。こちら新しいお付きの人? 七瀬さんじゃないのね」
「はい。春からお願いしている名取さんです」
「まあ、初めまして。いつも貴志くんがお世話になってます。お顔を上げてくださいな」
許しを得て顔を上げる。穏やかに笑う彼女に向け、手をついたままもう一度礼をした。
「お初にお目にかかります、名取と申します」
「名取さんね、よろしくお願いします。私は藤原塔子と申します。東国で主人と失せ物探しの稲荷を守っておりますの。聞いているかもしれませんが、私たちには子供がいないもので、貴志くんがもう少し大きくなったら養子にお迎えする予定なんですよ」
塔子の言葉にはっとする。詳細は聞かされていなかったが、七瀬が言っていた大社を出る予定とは間違いなくこのことだろう。
顔を上げる。眼の前の彼女は最初の印象通りとても優しそうで、夏目も慕っているようだ。良い人、神なのだろうとほっとして名取は顔を上げると彼女を見上げた。
「ご予定、少々伺っております。夏目様に善きご縁がございますこと、私も大変喜ばしく思います。夏目様が藤原様の元においでになるまで、心を込めてお仕えさせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「ありがとう。貴志くんをよろしくお願いしますね。貴志くん、元気そうなのも名取さんのおかげかしら」
「はい、良くしてもらってます」
「まあ、良かったわ。名取さん、貴志くんいい子にしてるかしら」
「勿論でございます。ご勉学もご修業も毎日真面目に励まれておいででございます。私にも大変お優しく、いつもお気遣いいただいております」
「あら、貴志くんお勉強も頑張ってるの? えらいわあ」
そう塔子がとても喜んだ表情で夏目を見ると、夏目は一瞬うっと息を詰め塔子から眼を逸らした。
勉学についてはまずいことを言ってしまったようだ。しまったな、と思ったが勉学はいまいち……などと言えるはずもないので仕方ない。
泡を食ったように夏目は口をぱくぱくさせていたがどうにも庇いようがなかった。
「が、がんばってます……」
「良かったわあ、名取さんちゃんと教えてくれてるのね。あ、そろそろ行かなくちゃ。また帰り寄るわね、貴志くん」
「あ、はい。待ってます」
夏目の慌てた様子を気にすることもなく、人の女性のように楽しげに話し続けた塔子は空を見て時間を確認したようだった。もう行くわね、手を振ると美しい羽織を翻して彼女は社の方に向かった。
その後ろ姿を見送って夏目が手を振る。
すっかり塔子が見えなくなると、夏目はやや恨めしそうな眼で名取を見上げてきた。こんな表情は初めて見る。つい笑ってしまうと夏目は口を尖らせて名取の着物の裾を強めに引っ張った。
「名取さん、励んでるって言っちゃいましたね……」
「実際がんばってるよ」
「修行はともかく、おれの勉強がまずいの塔子さん知ってるから……」
「……がんばろうか」
「はい……」
確かに読み書きや計算の成績は格段に良いとは言い難いし、習字もまだ子供らしい字から抜け出せない。夏目なりに頑張っているとは思うが、なかなか一朝一夕ではいかないものだ。
建屋の戸を開けて、大きくため息をついて室内に入る夏目の背がやや悲しげで、見えないようにこっそり笑った。
「そういえば、藤原様、たかしくんって呼んでたけど。下の名前? 知らなかったな」
「そうです、言ってませんでしたっけ」
思考を逸らそうと問いかけると、夏目はさっきのことはすっかり忘れたように振り返って笑った。そのまま名取を手招きすると自室に向かう。
庭に面した廊下を通ると、朝食前には気付かなかったがそこでは大輪の紫陽花がいくつか咲き誇っていた。知らない間に雨の季節が近づいているようだ。
夏目の自室に戻ると、彼は文机を引いて置きっぱなしになっていた紙と筆を持った。
「名前、こういう字です」
さらりと文字が描かれる。確かに達筆とは言い難いまだ子供らしい字で、貴志、と書かれていた。
「良い字だね」
「ありがとうございます。名取さんは下の名前なんですか?」
「周一だよ」
「しゅういちさん?」
そう名乗って、夏目が握っていた筆の上部を夏目に触れないようにそっと掴む。
すぐに手を離した夏目から筆を受け取り、紙の余白にさらりと自分の名前を書いた。
「周一さん、でしたか」
文字が流れ落ちる様を眺めながら、とても嬉しそうに呼ばれた名前に一瞬だけ心臓が跳ねた。
名取の跳ねた心音などひとつも知らない夏目は、ふわふわと笑いながら筆先から落ちた文字をなぞっていた。
「まあ的場さん。お久しぶり」
「藤原のお方様、ご息災で何よりでございます」
大社の客間に当たる部屋で、的場は座礼して塔子を出迎えていた。穏やかな彼女が室内に入るとそれだけで空気がどこか凛としたものになる。
「ありがとう、お顔を上げてくださいな。主人も元気ですよ」
「それは大変良うございました。いつもご贔屓にしてくださり御礼申し上げます」
「お世話になっているのはこちらの方ですよ。それで、お話って?」
「はい。まだ夏目様にはご内密に願いたいのですが」
すっと的場が顔を上げる。
表情なく、動揺なく的場は口を開いた。
「ご覧になられたかと思いますが、夏目様が名取と言う付人をご指名になられました。そのため、誠に残念ながら藤原様へのお社下りはご縁がなかったこととさせて頂きたく存じます」