遺失物取扱所-3(名夏)「うわー山積み……」
戸を開いた途端、げんなりを絵に描いたような顔をして夏目は肩を落とした。
確かにこれだけ札や絵馬が積まれているのを見たのは名取も初めてだ。
人の世の失せ物探しの末社と神域の末社を繋いだ社の中は、失せ物探しの願いが書かれた絵馬、札、手紙の類で溢れかえっていた。うわあーと夏目が呻いている間にも、天井からぽんと軽い音がして新しい絵馬が落ちてくる。
「今日すごいね」
「すごすぎます。なかなかない……」
「何かあったのかな」
「大社で夏の大祭があったから人がいっぱい来たんだと思います。でも、大祭の後でもこんなに多いのはなかなかないですね」
大祭、の言葉にそうかと頷く。
確かに大社では一昨日まで夏の大祭が行われており、人の世に下りた時の人出はなかなかのものだった。ただの人の観光客も多かったが、他所の社からの使いや神職も多く訪れており、神域にはどこからかやってきた見知らぬ神が数日滞在していた。人の世の大社の拝殿や社務所がいつになく人だらけでごった返していたのを思い出す。
それも昨日までであらかたの人も神も既に帰って行ったようだが、帰り際にでも失せ物探しの絵馬を描いていく人が多かったのだろう。
またぽんと音がして絵馬が落ちてくる。
「今日全部は無理そう。できる分だけにします」
「うん、がんばって」
「はあい。やるぞー」
無理やりやる気を出そうとしているのか腕をぶんぶん回した夏目は山と積まれた木札、紙札、絵馬たちの前に座した。
夏目が一度眼を伏せる。深く呼吸をし、もう一度眼を開いた夏目が願いごとの山に向け手をかざすと、すぐにひとつが空に浮かび上がった。
「吉方、東南東……出る……」
一枚の絵馬が夏目の手の前に浮く。それを見据えた夏目はぶつぶつと小さな声でその絵馬の結果を呟いた。
答えを示された絵馬はぱたりと地面に落ちると、他の積まれた絵馬たちに混ざりながら溶けるように消え失せた。名取が溶けていく絵馬を見送っている間に夏目の前には次の札が浮かび上がる。
「亥の刻……難し、出る……」
次の札にも夏目がぶつぶつと結果を呟くと、札は絵馬と同じように落ちて消える。同じように絵馬、札、手紙の類いが絶え間なく浮かんでは夏目の呟きと共に落ちて溶けていく。
いつもは淡い緑色の夏目の眼の色が変わっている。深い翠に紅、蒼、橙、白と様々な色が綯い交ぜになった宝石の色彩は名取を見ることはなく、ただ無心に神の力を示す。
人には成し得ない美しさにいつも息を呑む。何度見ても、いつ見ても見飽きることはなく、決して名取を見ない夏目の眼をじっと見ていられる。
過ぎる時を忘れてしまう。
「もう無理ですー、休憩」
どれだけ時間が過ぎたのか。ふいに夏目がぱたりと手を下ろし、大きく息をついた。
気がつくと願いごとたちの山は多少ながら減っている。夏目に最後に結果を出された絵馬が空を舞って床に落ちて消え失せた。
「お疲れ様」
「疲れましたー、お茶ください」
「はいはい」
言葉通り本当に疲れ果てたようで、ばたりと板張りの床に突っ伏した夏目はそのままごろごろ転がって猫のように伸びをした。そうして名取を見上げてきた眼はいつもの淡い緑色に戻っている。
宝石の色彩は消えた。でも、いつもそれにほっとする。名取にとってはまだ幼い人の子と変わらないはずの主が、本当は神であることを示されるたびにどうしてかざわついた感情が湧いていたたまれなくなる。どれだけうつくしくてもそれだけが残る。
年相応に幼い仕草を見せる夏目にほっとした。
湯を沸かし、持参していた茶器に茶を注ぐと匂いにつられたのか夏目はむくりと起き上がった。
「はい」
「ありがとうございます」
湯呑みを受け取った夏目はまだ熱い茶をこくこくと飲んでいる。名取が自分の分を煎れている間に茶を飲み干した夏目は空になった湯呑みを差し出した。
「くださーい」
「ああ、じゃあこっち飲んで」
「はあい」
急須の中身は空で湯を沸かし直さないといけない。時間がかかるなと踏んで名取は茶がなみなみと注がれた自分の湯呑みを差し出した。
当たり前に交換された湯呑みに夏目が口をつける。今度はゆっくり飲み始めた。
「ほんと今日は疲れました、全然終わんないし」
「ちょっと減ったけどね」
「ちょっとですね。休んだらまたやんなきゃ。あー増えた」
ばさばさと紙が擦れる音と共に願いごとたちの山の上にまた手紙や絵馬が降り注ぐ。また嫌そうな顔をしながら夏目はぱしぱし床を叩いた。
さっきまでの神らしい様子が消え失せて子供らしく見える仕草にほっとする。
「そういえばさ」
「はい」
「この結果って、いつ書いた人に伝わるんだろう」
「人が引いた御神籤に結果が出るんですよ」
へえ、と頷くと夏目はかたりと湯呑みを床に置いた。中身はもう空になっている。
「人の世の時間はよくわからないんですけど。順序とか時間は関係なくて、先に御神籤引いてから失せ物探しの末社にお祈りしても、結果は先に引いた御神籤に載るって聞きました」
「御神籤引かなかったらどうなるんだろうね」
「そうしたら結果、わかんないですね。引いてほしいな、無駄になっちゃう」
うーんと唸った夏目の後ろでまたぽこりと軽い音がする。まだ増え続ける願いごとたちの結果が願った人に知られないのは確かに残念だ。
「おれは修行だからまあいいと言えばいいんですけど。できたら知ってほしいかなあ」
「そうだね。夏目には無駄にならないけど絵馬も札も買うものだし」
「もったいないですね」
そう後ろを振り返って山を眺め、それから何かを思い出したように夏目が名取を見上げる。すっかり淡い緑色に戻った眼に疑問符が見えた。
「その、名取さんは」
「うん」
「もう行を修めたんですよね」
「一応、神職の行は修めてるよ。でも一般的な人の神社のことだけで大社の話はほとんど聞いたことなかったな。地元の社の神職になるつもりだったし」
「どうして大社に来たんですか?」
「修行していた社が大社の系列に連なっていて受験資格があるから受けただけで……受かるどころか本物の神様に付くなんて思わなかったな」
「そうなんですか」
首を傾げて聞いていた夏目が手を伸ばした。名取の着物の裾を引いて笑う。
「受けてくれて良かったです。そのときに名取さんを見つけたから」
そう、裾を引く夏目の手からわずかに温度が伝わる気がした。
最近の夏目はよく名取の衣服を掴むようになった。繋げない手を繋ぐかのように。
まだ幼さが残る仕草に少しだけ息が詰まる。ぼんやりと口を開けた。
「……どうして、おれを見つけたの」
「なんで、だろ」
名取のぼんやりとした疑問に同じようにぼんやりとした声を返し、夏目は遠くを見るように名取から眼を逸らした。狭い室内を通り越して遠くを見るような眼は少しだけ濃い翠色に見えた。
神の色彩がわずかに滲む。
「すみません、この人だって思ったんです。でも、理由は……わからない」
室内を見渡した夏目の視線が名取に戻る。
わからなくても、名取の何かを夏目が必要としていることは多分二人ともわかっている。それが何であるかも今の二人にはわからないが、それでも夏目に必要なものを名取が持っていることだけは識っている。
それを理解して名取を呼び寄せたのも神の力の一端だろうか。
夏目はいつからそれを知っているんだろう。親がいないと言った夏目は、ここにいつから、どうして、神として居るんだろう。
「夏目は、どこから来たの」
「わかんないんです」
胡乱な声で呟いてしまった名取の疑問符に、夏目はすぐに答えを返した。
翠色が濃くなった眼はどこか無表情に名取を見上げた。
「おれ、どこから来たのかわかんないんです。あんまり憶えてなくて……神域に急に顕現していたって聞いています。前触れなく神域に現れる子供は珍しいそうで、ニャンコ先生が見つけて大社に連れてきてくれました」
「……何も、憶えてないの?」
「ちょっとだけ」
見上げてきた眼は名取を見ているようで見ていない。眼の前の名取を通り越して見知らぬところを見ているんだと思った。
さみしそうな表情には憶えがあった。きっと昔も今もずっと失った何かを探している。
夏目が探すそれは名取が持っていないものだ。
「歳が、実はよくわからなくて……来た時に六つか七つくらいだろうって言われて六つになりました。誕生日だけ憶えてて、七月一日です」
「うん」
「神域に置いてった神かな、わからないんですけど、親なのかな……育ててくれたんだと思うんですけど、憶えてなくて……もう守れないからここで探しなさいって言われたんです。何を、かはわからないけど」
無意識にか、掴まれていた服の裾が引かれる。
さみしそうにしている表情がかわいそうで、でも羨ましくも思う。
少なくとも幼い夏目は大事に愛されて育てられていたのだと感じられた。今もきっとそうで、大社でもきちんと身に沿って大事に育てられている。大社を出て棲むところが移り変わっても、その先の藤原家でも夏目はきっと大事にされるだろう。
名取にはそれは得られない。誰にも大事になんてされなかった。
「失せ物探しの力を見てくれたのは的場さん……当主のおじいさんの方、ですけど。その探し物を探すための力だろうって言われました。ここで修行を兼ねて力を行使すればいつか見つかるだろうって言ってくれて、失せ物探しの社に棲むことになりました」
「それからずっと神域に?」
「はい」
頷いた夏目の眼差しはまだ遠くを見ている。名取を見ているようで見ていないその神の眼がどこを見ているのか、名取が知ることはできない。
「あのひとはどこに行っちゃったのかな」
会いたいな、と呟いた声が小さく届いた。
失われた夏目の探し物に初めて触れたと思う。
背後でからりと音がして失せ物探しの願いごとがまた増えた。この願いごとたちは叶うものもあれば叶わないものもあるのだろう。それを見つける神の、夏目の願いごとは叶わずとも人の願いごとは増え続ける。
夏目の探し物は見つかるのだろうか。
「誕生日、過ぎちゃったんだね」
何を言うべきかわからなくなってぽつりとそう呟くと、どこか胡乱なままだった夏目の眼差しが名取に戻った。少し逡巡してからふっと思い出したかのように、ああ、と呟く。
「そうでした、いつの間に」
「来年はお祝いしないとね」
「はい。ありがとうございます」
そう笑った夏目の眼の色は子供の淡い緑色に戻っていた。名取を通り越していた眼差しも焦点が合って、いつも名取を見上げる幼い子供の眼に戻る。
どうしてかひどく安心した。
思わず息をつくと、背後からばらばらと大きい音がした。
振り返ると、絵馬の塊が山の上に一気に落ちてきている。
「あーまた増えて……休んだし、もうちょっとがんばります」
音に振り向いた夏目はまたげんなりとした顔を見せて、未だ増え続ける願いごとの山に向き直った。
「夏目ー」
「夏目くんー」
聞き覚えのある幼い声がして顔を上げた。
二人で同時に見上げた先で、ぱたぱたと見知った幼い子供たちが走り寄ってくる。ぱあっと夏目の表情が明るくなった。
「名取さん、持ってて!」
「はい」
「田沼、多軌ー!」
手に持っていた花束を名取に押し付けると、夏目は急いで二人の方に走り出した。
庭先にやたらと生えていた鮮やかな秋の花たちはもう枯れ始めていて、朝にそれを摘み取りたいと言い出したのは夏目自身だ。でもそんなことは友人たちが訪れた嬉しさで吹っ飛んでしまったらしい。飛び跳ねるような勢いで駆け出す夏目の裸足の足元に散る光がいつもより強く見えた。
「あいつらもう来たのか。神在月に入ったばかりだぞ」
「斑様。おはようございます」
「おう、おはよう」
走って行く夏目の背後で空気が揺れ、猫がふっと姿を現す。丸い猫が地面に降り立つと強い虹の光がその周りを取り巻いた。
飛び散る虹の色が眩しい。
「朝も早くから元気だな」
「お元気で良いことですよ」
「ふん、うるさくてかなわんわ」
夏目から押し付けられた花束をくるくると紐で括りながら足元の猫を見ると、憎まれ口を叩きながらも猫が放つ光も普段より幾分か明るい。鬱陶しそうな素振りをしながらも、猫もまた子供たちの来訪を喜んでいるのだろうとすぐにわかった。
子供たちが名取と猫から少し離れたところで三人で輪になって楽しげに跳ねているのを眺めながら鼻を鳴らした猫の機嫌は良さそうだ。案外この猫はわかりやすい。
「あ! せんせい〜!」
飛び跳ねながらぱっと顔を上げた多軌が猫に気付いた。田沼と夏目から勢い良く手を解いた彼女が裸足の足でまっすぐに猫に走り寄る。
その後ろで田沼と夏目が手を繋いで走り出す多軌を見送りながら楽しそうに大笑いしていた。
夏目がけらけらと笑っていて、普段は見ない表情がやけに眼に付く。同い年の子供たちと遊ぶ時だけの無邪気な仕草は、名取には決して見せないものだ。
少しだけ喉が詰まるような気がした。
「せんせい! 会いたかった〜」
走り寄った多軌が名取の足元の猫を勢い良く捕まえる。すっかり油断していたらしい猫は全速力の多軌に思い切りぎゅっと抱き締められる。猫がぐええと苦しそうな声を上げた。
見下ろすと多軌の腕に絞め上げられた猫の顔面は蒼白で白眼を剥いていて明らかに危ない。
どうしようかと思うが、まだ楽しそうに笑いながら遠くで跳ねている夏目と田沼は猫の危機に全く気付いていない。今は他の誰も猫の危機を察することはできないらしい。
仕方なく名取は膝をつき多軌と目線を合わせた。
「多軌様、大変失礼ですが……」
「なあに名取さん」
「その、もう少しお力を緩めていただきませんと斑様が」
「えっ、あっ、先生〜!」
ぱっと多軌が手を放す。いきなり放された猫が地面にべしゃりと落ちた。
「あー! ごめんね先生!」
潰れた猫を慌ててもう一度抱き上げて、多軌は今度は力を込めないように猫を抱えた。眼を回している様子の猫を名取も屈んだまま覗き込むが、ぺたりと伸びた猫からは呼吸音がちゃんと聞こえている。
眼を回しているだけで特に何ともなさそうだった。
「先生大丈夫〜?!」
「息が止まっているわけではありませんから大丈夫ですよ」
「ほんと? ならいいけど……ありがと名取さん」
少女の屈託ない笑顔にほっとする。
神域を出た時より少し大きくなった彼女は、けれど以前と変わらない雰囲気のままだった。まだ幼い仕草は夏目と変わらず、人の子のように子供らしかった。
「あー先生ー」
「なんか目がぐるぐるだぞ」
「やっぱりダメ?! 大丈夫かなあ先生……」
やっと気が付いたようにぱたぱたと走り寄ってきた夏目と田沼に猫がぺたぺたと撫で回されている。撫で回されて耳を引っ張られ尻尾を捕まれてと散々な目に遭っているが、それでも猫はぺたりと沈み込んだままだ。
立ち上がると、子供たちが困ったように一斉に名取を見上げた。
「大丈夫ですよ、すぐに眼を覚まされますよ」
子供たちにそう笑いかけると、多軌と田沼はほっとしたように幼い笑顔で笑う。安心した表情に名取もまた笑った。
けれど、夏目だけがひどく驚いたように眼を瞠って名取を見上げた。それに名取こそが驚いてどうしたのかと見遣ると、すぐにふいっと眼を逸らされる。
何かをうまく言えなくて、途切れ途切れに言い淀んでいる時と同じ仕草だ。
「うぅ……多軌、絞めすぎだ……」
思わず首を傾げるが、猫がやっと眼を覚ましてそれに気を取られる。
苦しげな呻き声を上げて短い手足を伸ばしている猫を子供たちが取り囲んだ。
「先生、起きたー」
「大丈夫ー?」
「大丈夫ではない! 来て早々なんなんだ、多軌!」
「元気元気、大丈夫」
多軌の腕の中で眼を覚ましたばかりの猫がぜえぜえと息をしながら叫んでいる。
すっかり元気になった猫の様子に喜んで、ぱちんと手を合わせて飛び跳ねた子供たちの未だ幼い様子に眼が眩むような気がした。ぐしゃぐしゃに猫を撫で回しだした子供たちの手が交差する。
名取には決して触れられない夏目に当たり前のように触れ合っている。
「夏目、今日は本殿行かない?」
「行かないよー」
「じゃあ遊べるね!」
「うん、名取さん」
振り返って名取を見上げた夏目がまた眼を瞠った。
騒ぐ子供たちの声が一瞬遠くなる。猫を撫でて笑い合う田沼と多軌は二人を見ていなくて、猫は子供たちにぐしゃぐしゃに撫で回されるのに耐えていることしか出来ない様子で、夏目の眼差しは名取だけに向かっていた。
淡い緑色の目に見たことのない色が混ざった気がした。
「……今日は、お休みして遊びたいです」
「うん、もちろん」
そう頷くと夏目は困惑したような表情を浮かべ、それから眉間に皺を寄せてあからさまに機嫌を損ねた表情を浮かべた。
見たことのない表情に驚いた名取をよそに、夏目はむくれたまま名取から眼を逸らすと多軌から猫を毟り取った。
「夏目、どうし」
「何でもないです! 名取さん、先生のこと見てて!」
無理やり多軌から奪い取った猫を夏目にぐいっと押し付けられる。無抵抗の猫がうぎゃあと鳴いて落ちそうになるのを慌てて掴まえた。
花束と共に猫を無理やり抱えさせられて、片手に収まりきらない猫を落としそうになる。慌てて滑りかけた猫の首根っこを掴むと更にぐええと鳴いた。
「あーっせんせい〜」
「情けない声を出すな。都の土地神の跡継ぎともあろう者が、しっかりしろ」
散々子供たちに撫で回されたせいかだいぶぐったりとした猫に嗜められ、多軌がううっと呻いて手を引っ込めた。何とか引き下がった多軌を宥めようと田沼がぽんぽんと彼女の頭を撫でる。
「急に来たから、先生も疲れちゃうよ。池の方行こうよ」
「うん」
「魚釣りする?」
「しよー」
手を繋ぎ合った子供たちがぱたぱたと駆け出していく。
名残惜しげに振り返った多軌が猫にぶんぶん手を振っていて、ぐったりした猫の代わりに名取が猫の手を握って振り返しておくと猫はまた嫌そうにぎにゃあと鳴いた。
「やめろお、私の愛らしい手を安売りするな」
「お嫌ですか」
「まあいいが。朝から疲れた。多軌は騒ぎすぎだ、夏目のやつも全く」
「夏目様はどうされたんでしょうね。今までお怒りになられたことなどなかったのですが」
「小僧、お前わからんのか」
花束と共に名取にしっかり抱え直された猫は、腕の中に収まったまま飼い猫のように見上げてくる。
そうして遠くなった子供たちと名取を交互に見てから呆れた表情でふうと大きく息をついた。
「名取も夏目も変なところで鈍い」
短い手でぱしぱしと名取の腕をたたき、面倒くさそうに鼻を鳴らして足をじたばたさせた猫から何だか不穏な気配がして覗き込むが、猫はふんっと鼻を鳴らして名取から顔を背けた。
余計に不安感が募る。
「あの、それはどういう」
「教えてやらん」
問いかけても、にやっと笑った猫はもうこの話は終わりだとばかりにふんふんとわけのわからない鼻歌を歌い始めて、それ以上は何も教えてくれない様子だった。
ぽつりと地面に水の染みがひとつついた。
雨が降り出している。ぽつぽつと乾いた地面に落ちて染み込んで行く雨の雫を見て、庭に向けた廊下に敷いていた敷布を引き上げて畳む。敷布の脇に置きっぱなしにされていた皿と茶器は後で玄関に寄せようと避けておいた。
さっきまでは皿の上に社から貰ってきた団子と鯛焼きが山と積まれていたが、夏目と猫がわあわあ喚きながら争ってあっという間に食べ尽くしたためもう空っぽだ。名取によこされたたった一匹の鯛焼きの尻尾も猫が奪い取っていって、確かにとても美味しいとは言え鯛焼き如きに我を忘れた様子の猫の神に唖然とした。
けれどその猫も食べ終わった途端にパトロールだと言ってさっさと外に駆け出していった。降り出した雨に濡れないか少し心配になる。
「名取さん。あ、雨」
「うん。降ってきたから」
「良かった。ずいぶん降ってなかったから、大社で雨乞いしてるって聞いてて」
「ああ、そうだった」
手を洗い終えたらしい夏目が戻って来て空を見上げて教えてくれた。
確かについ先ほど下りた社はいつもより人が多かった。冬の間とは言えあまりにも雨が降らない日が続いていたせいか、大社には雨乞いの依頼が続々と来ていたようだ。
いくつかの町と村が出した依頼は、その全てが組み合わされた大きな祭祀となったらしい。ついさっき、大社の庭に設置された大きな篝火と支度をする舞姫や巫女たち、そして神域から雨の神を招くべく座を整える神職たちを鯛焼きを抱えながら見るとはなく眺めたのを思い出した。
雨の神が焚いた炎が呼んだらしい雨は、ほんのわずかな合間にもどんどん強くなってきている。
「さっき先生が外に出たけど大丈夫かな」
「先生は雨でも嵐でも関係なしで歩き回ってるから平気だと思います」
そう、空を見上げた夏目は穏やかな空気を纏わせている。秋頃に友人たちと過ごした時のはしゃいだ空気はなくなり、子供らしくむくれた顔を名取に見せたり、勉強を嫌がって遊びに行きたがったりすることもすっかりなくなってしまった。
秋の神在月の頃は馴染みの友人たちがずっといたためか少しだけ我儘を言うこともあったのに、もうそんな素振りは噯にも出さない。夏目の微かな願いごとを名取が断ったことなんて一度もなかったと思うのだけれど、二人で居る間の夏目は以前より更に大人しく、名取が少しでも困った顔をするようなことはしなくなった。
そうやってまた二人きりで過ごす日々がもう数ヶ月続いた。数日に一度は訪れる猫や、月に数度会う七瀬、社に降りた際に頼み事をする顔馴染みの神職たち以外と話した記憶があまりない。
夏目と過ごす日々ばかりが記憶を上書きしていく。とても穏やかな日々が深く身に染み付いて、今まで人の世で疎まれながら暮らしていた日々がひどく遠い。
ここを出たら、また疎まれながら便利に使われるだけの日々に戻るのだろうか。それとも。
「名取さん、濡れちゃう」
思考に沈んで、着物の裾を引く夏目の手にはっとした。
雨は更に強くなっている。吹き込んだ冷たい水が着物の裾を濡らしていた。
「ごめん、ありがとう」
「いえ、でも……っ、わっ」
名取を見上げて何かを言いかけた夏目がびくりと身を竦ませた。途切れた声にどうしたのかと夏目を見た途端、背後で大きな音がした。
はっと振り返ると空が光っている。大きく雷が鳴る音がした。
春雷だ。雨乞いが呼んだ雨と共に春の嵐が来ている。
この雨と雷はきっと冬を連れ去るだろう。もうすぐ寒さが緩み、冬は直に終わり、あっと言う間に春がやって来るだろう。
出会った頃と同じ春がまた巡る。一年が過ぎ去る。神域も人の世と同じく季節が巡るのだと実感した。
またぱしりと空に稲妻が走り、夏目が息を呑む音がした。
「すみません、部屋戻ります」
「え、なつめ」
くるりと身を翻して逃げるように自室に駆け込む夏目をぼんやり見送ってしまう。名取の呼び掛けにも振り返ることなく、ぱたりと眼の前で戸は閉まった。思わず手を伸ばそうとして結局力なく落とすだけだった。
迷う。追うべきなのかわからない。
逡巡する間にばたばたとさっきまでの比ではないほどの大粒の雨が降り出した。
空は真っ黒になっている。雷の音は絶え間なく鳴り響き、空にはいくつもの稲光が走って行く。
音の間隔がどんどん短くなる。あっという間に強くなった雨風が吹き込んで、廊下の壁際にまで雨が叩きつけられて床の木の色が変わる。
きっとひどい嵐になるだろう。季節を変えるほどの風が舞い踊る。
何度も迷って、けれど抱えていた敷布を握りしめて深く息を吸うと名取は夏目の部屋の戸を開けた。
「夏目、いい?」
できるだけゆっくりと戸の隙間を開け、覗き込むと夏目はいつもの文机の前にはいなかった。
文机の奥、寝所の御簾が少し揺れている。その向こうにいるのだろうと確信して部屋に入った。
「夏目」
「は、い」
「入ってもいい?」
声をかけると、わずかな声と夏目が息を呑んだ気配がした。名取の問いへの返答を迷っているようだった。
名取も応えが何も返されないのに御簾をめくってしまっていいのか迷う。
夏目が惑い、応えようとするほんの数秒を待つ間にまた雷の音がした。
「……っ、」
窓のない室内では光は見えなかったが、それでも強い音は大きく響く。短い悲鳴と息を呑む音がした。
惑う。今の夏目はきっと名取に何の応えも返せない。名取だってこの向こうまで踏み込んでいいのかわからない。
逡巡する間に今までの比ではないほど大きな雷音が鳴り響いた。
びくりと夏目が震える衣擦れの音がひどく大きく聞こえて、たったそれだけで何も考えられずに御簾を掴んだ。
「なつめ」
御簾を捲ってしまう。今まで一度も入ったことのない寝所は予想通り一人分の質素な寝具が敷かれているだけで、きれいに整えられている。その整った寝具の上に座り込んだ夏目が眼を瞠って名取を見上げた。
また空が裂ける音がする。雷雲はきっとこの建屋の真上に来ているのだろう。
響き渡る雷鳴に夏目はまたびくりと身を竦ませて耳を覆った。
「雷、怖いの?」
声をかけると、こくりと素直に頷く夏目は真っ青だ。
ひどくかわいそうで思わず手を伸ばしそうになる。敷布を抱えたままの腕が勝手に空を泳いでしまうが、夏目に伸ばす前に何とか気付くと身体に引き戻した。
「すみません……その」
名取を見上げることもできずに、夏目は身体も声も震わせている。
頭上の屋根の上の空には雷雲が座しているのだろう。雷鳴は間断なく続いている。稲光は少しも見えなくても、その大きな音が続くだけで夏目はびくついていた。
かわいそうで、でも何もできない。
「ここに、来た時、最初も雷で……先生に会うまで、わからなくて……怖くて……」
無理やり絞り出した声が切れ切れに伝えてくる。ひとつひとつの雷鳴に震えながらも必死で話してくれた声に頷いた。
真っ青になった顔。服の裾を強く握りしめた手が震えて白くなっている。
鳴り続く雷鳴は確かに強いが、建屋を揺らす風雨も強く雲は速い速度で流れている。この強い風雨も雷もそれほど長くは続かないだろう。
でも、そのほんのわずかな合間を待てばいいなんて言えない。少しでも守ってあげられたらいいのにって思ってしまって、けれど迷った。
触らなくても、もう少し近づいてもいいのだろうか。
逡巡を繰り返していると一際大きな音がした。すぐ近くで、まるで建屋を裂くかのような轟音に名取も驚いて思わず天井を見上げた。
音はすぐに過ぎ去ったが、夏目を振り返ると彼は両手でぎゅっと強く自分の服を握りしめていた。
ずっと息を詰めているようだった。浅く短い呼吸音がもれて苦しそうで、それで名取にもどうしようもない感情が沸くような気がした。
「夏目、ごめん」
一言だけ断ると、夏目がぎこちない仕草で顔を上げる。その頭から抱えた敷布をばさりと夏目にかぶせた。
敷布はまだ小さな夏目の身体を全て包んでしまえるほどの大きさで、全身が見えなくなる。それが良かったのか悪かったのかもわからない。
きちんと身体の前で布地を合わせると夏目がおずおずと内側から布を掴んだ。
背に沿って、肌に決して触れないように抱き締めた。
「大丈夫、部屋に落ちたりしないから」
「は、い」
「大丈夫だよ、ここにいるからね。ちゃんと息して」
そう耳元に小さく話しかけると夏目が詰めていた息を浅く吐き出す音がした。
まだ雷鳴は絶え間なく響く。音がするたびに夏目は震え続けるが、合間に必死で呼吸を続けている。
何回も何回も空気を噛んで取り込む音がした。部屋には繰り返される浅い呼吸とわずかな衣擦れの音だけが響く。
かわいそうで、布の上から腹のあたりに弱く触れた。落ち着かせるようにそのまま指先でとんとんと同じ拍子を刻む。
その拍子に合わせるように夏目の息が少しずつ深くなり、雷鳴の間隔も少しずつ空いていく。さっきまでひどい音を立てて降り頻っていた雨音も少しずつ弱くなってきていた。
しばらくじっと抱き締めたまま同じ拍子を刻んでいると、鳴り響く音が小さくなり遠くなって行く。
雷雲は本当にすぐ通り過ぎたようだ。ほんのわずかな時間で、雲は遠くに雷鳴を轟かせるほどの距離まで去った。
遠くなった音を聞いて、やっと夏目が深く息をついた。
「大丈夫?」
深い呼吸に声をかけると、夏目がはくりと空気を噛む音がした。わずかにこくりと頷くのが布越しにわかる。
ほっとして、手を解こうとした。
「あ、あの」
布越しに触れていた指先を離すと夏目が慌てた声をあげた。
引き留めるような声に手が止まる。
「ごめんなさ、い」
「謝ることないけど……大丈夫なら」
まだ浅い呼吸の夏目の表情は見えず、謝罪を口にする声は震えていたが落ち着いたのなら早く離れなければいけない。布越しとは言え、本来は触れてはならない夏目をこんなに長く抱き締め続けていていいわけがない。
少し焦って抱き締めたままだった腕を解くと夏目がびくりと震えた。
「なとり、さん」
「え、どうし」
布の隙間から夏目が手を伸ばす。
指先がふらりと空をさまよう。名取を呼ぶ胡乱な声と指先は、離れようとする名取を探して引き留めようとしているように見えた。
思わず手を伸ばそうとしてしまって、息を呑む。
この手を掴んではならない。
どうしたって、触ってはならない。
唇を噛んで声を飲み込んだ。その震えが伝わったかのように夏目の手はすぐにぱたりと落ちた。
二人で、短く息をつぐ。
惑うような間を開けて夏目が口を開く気配がした。
「あの、その……」
「うん」
「その、もうちょっとだけ……抱っこ、してくだ、さい」
途切れ途切れの訴えにほっと息をついた。
今のまま、何も夏目が見えないまま、触れないままなら望むことを叶えられる。
望まれたことならいい。望まれないことはできない。
「うん」
頷くと夏目も深く息をついた。もう一度腹あたりに腕を回して抱き留めると夏目の身体から力が抜けて完全に背を預けた。
ずっと布に包まれたままの夏目の表情はひとつも見えない。布越しにじわりと体温だけが伝わってくる。
触れたことのない夏目に、この小さな神にも体温があるのだと今の今までわかっていなかった。呼吸をする音も、まだ幼い身体の細さも、ひとつも知らなかった。
人の幼子と何も変わらない夏目を実感してしまう。
少しだけ腕に力を込めて抱き寄せると、夏目が深く呼吸をする音と呼吸で動く身体を感じ取れた。
音を聞いているうちに、急にずるりと夏目の身体が落ちてくる。
「夏目?」
名取に背を預けたままの夏目の身体から力が抜けている。敷布の端から床に手が落ちていて、すう、と深い息がした。
眠ってしまったようだ。
「なつめ」
もう一度呼んでもやはり返事は返ってこない。
息をつくと触らないように気を付けながら夏目を抱え直して寝床に下ろす。横たえた夏目は敷布を握り締めて包まれたままで、布の隙間から少しだけ顔を覗かせていた。
初めて、寝顔を見た。
歳よりもっと幼く見えるあどけない顔で、でも安心したように眼を閉じていてほっとする。
眼の端に涙の跡があったけれど拭うことはできなくて、布に覆われたままの髪を少しだけ撫でることしかできなかった。