夜の翠にとらわれて私は疲れているのだ。
そうでなければ、間違ってもこんな店に訪れることはしない。こんな店なんて職業差別かもしれないけれども、今の私は分別の出来る良い子ちゃんじゃない。地下に続いた階段から広がる店は、洒落たバーではなくて、ギラギラとしたネオンが煌めくショーパブであった。店名は見なかったが、そこに書かれていたポールダンスの文字に飛び込んだ。
何もかも捨ててやろうと思いながらも、結局のところクソ親父の掌の上だ。自分がいかに世間知らずの小娘であると突き付けられて、まともな議論にもならなくて逃げ出した。そう、今の私は逃げ出している。責任も取らずに、どうなってもいいと自暴自棄になっている。最低な人間だ。だから、八つ当たりとして普段ならば足を向けない店を選んだ。
当日券で入ることが出来たのは運が良かったらしく、店内はほとんど満員だった。舞台の見える端の席に座り、飲み慣れてもいない生ビールのジョッキを呷り、案の定の口に合わない炭酸と苦味に顔を顰めた。
こうなったら、悪酔いして夜遊びしてやるわ!
「ハイ」
「はい?」
突然差し出されたのは、何処をどう見ても牛乳の入ったグラスだ。もちろん、注文などしていない。運んできたボーイに文句を言おうとして、その顔の良さに面食らった。
褐色の肌に黄金の髪を高く結い上げ、翠石の瞳は何処かの国の王子様みたいである。背の高さも服の上からでもわかる筋肉質な身体も、周りのボーイとは明らかに別格だ。これまでの生活で甘い顔立ちに興味なんてなかった筈なのに、どうしてか胸の奥がキュンと鳴る。
何よコイツ、めちゃくちゃ格好良いんだけど!
「これはサービスだ、俺のおごり。せっかく来てくれたんだから、ショーも楽しんで行ってね」
「待っ……」
ひらりと手を振るボーイは、すぐに裏に下がってしまう。まともに会話もしていないから、今のは夢かとも思ったけれど、卓上には牛乳の入っているグラスが置いてある。これで、会計時にとんでもない料金を請求されたらどうしよう。奢りなんて言葉が、言葉通りとも限らない。むしろ、見慣れない顔をぼったくりの対象に定めたのかもしれない。
ぐるぐると思考の迷路に入り込んでいると、店内の照明が落とされた。そうして、舞台にスポットライトが注がれる。中心部にあるポールが、銀色に煌めいた。右と左、それに真ん中の三本。華やかで妖艶な女性はあくまでもバックダンサーで、中央で踊る人物に目が釘付けとなる。
純白の軍帽に、銀も混ざる白銀のファーのついたロングコート。素肌の上半身に白のコルセットを嵌めて、マイクロミニのレザーパンツと太腿までの金の紐で編み込んだハイヒールブーツ。間違いなく、このショーの主役だ。
その飾り過ぎな衣装も、褐色の肉体美を際立てるための道具なのだろう。恥じらいよりも、その美しさに目を奪われた。
ポールを抱いて身体を反らして、絡みつく、その一つ一つの所作に自然と喉が鳴った。大きく広げた脚でさえ、下品さも越えた色香が漂う。結ばれていた髪紐が解かれて、弾けた汗が光る。踊るだけではなく、甘やかに掠れた歌声が響く。
鼓膜どころか身体を揺さぶる重低音のメロディーと重なり、あちこちの客席から黄色い声が飛ぶ。
「シャディクー!」
歓声に応じて、シャディクはコートを脱ぎ捨てた。客に触れそうな距離まで近づき、コルセットやブーツにチップが捩じ込まれる。シャディクは真っ直ぐに──自惚れでもなく真っ直ぐに、惚けたままの私に向けて手を伸ばしてきた。
その人物は、先程の牛乳を運んできた、あのボーイだったのだ。
蕩けている翠石の瞳にとらわれて、私はその場から動くことが出来なかった。