ラディへ捧ぐ③-2ラディへ捧ぐ③-2
「…………ぅ、……?」
くすぐったい。何だか鼻がムズムズして、やたらと体が重い。
「……ふ……ぁっくしょん」
「わっ な、なに……」
ああ、目を覚ましましたか。寝惚けたご主人のくしゃみに驚いたのだろう。ラモラック殿とご主人は、おかしな格好で絡み合いながら、雪の中で目を覚ました。
「……ぅ、……な、なんだ……重……」
「あ、れ……? なんだ、君かぁ……」
お二人ともご無事でしたか。ああ、良かった。
「あれ? ラディ……おはよ。って……あれぇ?」
「おい、重いぞ。さっさと退け」
「ねぇ……ここ」
「あん?」
「ここ、どこ?」
目を覚ましたお二人は、ようやく現状に気が付いたのか。ポカンとした表情で周囲を見渡していた。
二人が倒れていたのは、左右を岩壁に囲まれ降り積もった雪の中。ゆるりと周囲を見渡し、そのまま視線を上へと向ける。垂直に聳え立つ岩壁は頂上部分が霧に覆われており、上が全く見えなかった。
「……まさか、僕らはあそこから落ちたの、かな?」
「そうらしいな……いたた……」
「痛い? どこか折った?」
「いや、それは大丈夫そうだ。雪の上に落ちて命拾いしたな」
ラモラック殿を受け止めようと、木に引っ掛かったのも幸いしたらしい。スピードを殺せたのと雪のクッションで、なんとか大きな怪我もせずに済んだようだ。
周囲には馬車の残骸が散らばっているが、引いていた馬や他の者の姿はない。
「他の者は……まさか……」
「うーん……どうだろ……? でも、人の気配そのものがないよね」
凄惨な光景が広がっているかと思いきや、岩壁と雪、馬車の残骸くらいしか見当たらない。互いの息遣いが感じられるほど静かで、ここが死の世界だと言われても信じてしまいそうだ。
無事を確認すると安心したのか、寒さでぶるりと体が震える。そんなラモラック殿へそっと寄り添うと、冷えてしまった手がギュッと吾輩の体を抱き締めてくれた。
「あったかーい……そう言えばさ、ラディはどこから来たの?」
「ん? そう言えばそうだな……? 何処か抜け道があるのか?」
ええ、御座います。あちらからです。
吾輩が振り返った先へ、お二人も同時に視線を向ける。だが、その表情はとても暗い。
「……あれは流石に、無理か」
視線の先にあるのは、岩壁に開いた小さな穴。かつては坑道として使われていたその洞窟は半分以上が崩れ落ちており、動物ならばともかく、人間が通るには小さすぎる。
「そうだねぇ……ハーヴィンに姿を変えれば、なんとか」
「そんな魔法があるのか?」
「うん、そうらしいね。僕は分からないけど」
「ふむ……万事休す、か」
「でも、希望が持てたね。この谷底は何処かへ繋がっているって分かったし」
「ああ、そうだな。下手にこの岩壁を登るよりかは、出口を探した方が良さそうだ」
「最悪の場合は、ラディにもう一度坑道を抜けて、助けを呼んで貰えばいいしね」
「ああ。夜までには戻るぞ」
「うん。よっしゃ、頑張るぞ!」
こくりとお二人は頷き合い、互いの意思を確認し、歩き出した。
「この辺りの地形は頭に入っている。あちらへ進んで行けば、沢沿いに出る筈だ」
「沢沿いなら、集落や釣り人がいるかもしれないしね。行ってみよう」
「ああ」
ひとまず坑道を抜ける方法は諦め、沢へと向かい歩き始めた。吾輩もお二人を護るべく、一歩前へと歩み出る。
「ラディ、先頭はまかせたよ。あーあ、僕の飛行術が完成していればなぁ……」
「そういや飛行術の練習をしていたな。完成しそうか?」
「あったりまえじゃん。あと少しでスイスイ出来るようになるよ」
「フン、大きくでたな?」
「あー、馬鹿にしてる? 飛行術が完成したら実験に付き合ってもらうからね」
「断る!」
どんなに絶望している状況でも、君がいれば怖くはない。
そんな空気を醸し出しつつ、我々は更なる奥地へと向かって行った。
落下地点から一キロほど進んだ所だろうか。
岩壁が徐々に低くなり始め、周囲の木々も増え始めている。吾輩の鼻には仄かな水の香りも漂ってきており、ご主人が話していた沢が近付いている事を示していた。
「流石に人里の気配はないな……」
「この辺りって、猟師の人とかはいないの?」
「こんな奥地までは入ってこないだろうな。この辺りは道が悪すぎる」
確かに。なんとか歩けてはいるものの、人の手が入っている感じではない。もう少し下流へ向かわないと無理そうか。
そんな事を考えつつ進んでいると、吾輩の鼻へ水以外の香りが届き始めた。水の気配へ混じる微かな音へ、ピクリと耳を立て足を止める。お二人もそれに気が付いたのだろう。同じく足を止め、不思議そうに吾輩へ声を掛けてきた。
「ラディ? どうした」
人の気配だ。吾輩はワンと大きな声でひと鳴きし、まだ見えぬ相手へと存在を報せる。敵か味方かはまだ分からない。ひとまずここは牽制しておくのが賢明だ。それはご主人も同じなのか、腰へ下げた剣鞘に手を添えつつ声を低く尖らせた。
「──何か居るのか?」
「……声? ガウェイン、人の声がしない?」
「あ?」
足を止めて耳を澄ませると、ご主人達へも届いたのだろう。言い争う様な声が、この先から確かに聞こえているのだ。
「三……いや、二人かな?」
「何か揉めているっぽいな……喧嘩か?」
「……山賊とかだったりして」
それはあり得る。ご主人は剣を抜き、最大限の警戒をしつつ声の方へと向かった。
争う声と同時に水音も近くなり、沢沿いへ出られたのを知る。声の主は男女のもので、男の方がかなり激昂しているらしい。
「……ん?この声は……」
声の主に心当たりがあるのか。ご主人は歩きを早め、ガサガサと藪を掻き分ける。藪を掻き分けた先に見えて来たのは、豪華な衣装に身を包んだ騎士らしき男と、暗い色のフードを目深に被った女性。
「おい! 何を争っている!」
震える女性へ罵声を浴びせ続けている男を無理やり引き剥がし、二人の間へご主人が立ちはだかった。
「うーん、迅速……ん? あれ……?」
すると、ラモラック殿も追い付いたのだろう。その状況を見て目を丸くしている。
「あれ? 君たち……」
激昂している男と脅え震えているフード姿の女性。それはご主人とラモラック殿のペア相手でもある、近衛兵と魔物使いだった。
「君たちも無事だったんだね。良かった」
「良くない! おい、貴様。何があったのかは分からんが、止めろ。脅えているだろうが」
「ガウェインくんもよく怒鳴り散らして、みんなを脅えさせてるでしょ~。大丈夫? 怪我はしていない?」
座り込んでガタガタと肩を震わせている女性の背中へ、ラモラック殿が優しく声を掛ける。だが、よほど恐怖を感じていたのだろう。肩へ触れようとしたラモラック殿の手を叩き落とし、ますます体を小さく丸めてしまった。
魔物に襲われ、崖から落とされ、事情は分からないが偉そうな男に激しく恫喝され。状況的に仕方ないのは分かるが、これは流石に脅えすぎではないだろうか。
「…………ガウェイン」
「おう」
ガッ、とご主人は近衛兵殿を羽交い締めにし、暴れないよう押さえ付けている。離せと藻掻き続ける近衛兵殿の前へラモラック殿が立ち、ズイッと鼻先が触れ合いそうなほど顔を近付ける。
ラモラック殿の綺麗に整った顔に見惚れてしまったのだろう。近衛兵殿の動きがピタリと止まり、頬を紅潮させている。だが、これは罠なのだ。
「君も無事で何よりだよ。それで? 大人げなく女性に罵声を浴びせていた理由を、教えて貰おうかな?」
つ、つつつつ、と。ラモラック殿の長い指先が、近衛兵殿の胸辺りから顎先へと這い上がる。ウリウリと指先で唇を突くと、こんな状況にも関わらず彼は興奮を抑えきれないらしい。
そんな様子を背後から眺めつつ、ご主人は呆れ顔だ。
「ね? 君と彼女の間に何があったのか。正直に話して貰えるかな?」
おそらく彼はラモラック殿に取り入るだけでなく、元から仄かな好意を抱いていたのだろう。すっかり骨抜きにされてしまった近衛兵殿は、コクコクと頷き説明し始めた。
「え? 君たちは元々知り合いだったの?」
魔物の強襲に合い、ご主人達と同じく崖から落とされてしまった彼等。
実は近衛兵殿と魔物使いの魔導師殿は幼なじみで、彼女の魔法で助けられたのだと。揉めていたのはちょっとした意見の食い違いで、友人同士ならばよくある話だろうと。
「えー? 友達同士なら喧嘩はしないでしょ。ね、ガウェイン」
「貴様が話を聞いてないだけで、しょっちゅうだろうが」
「君が岩みたいに頑固ですーぐ怒るだけでしょ。いちいち相手にしてらんないよ」
「何だと」
「うるさ……はいはい、後でね。それで、その話は本当なんだね?」
ラモラック殿がそう念を押すと、近衛兵の彼はコクコクと首を縦に振る。信じてくれと。そう懇願する近衛兵殿の目をじっと覗き込み、ラモラック殿はそれはそれは綺麗な笑顔を浮かべた。
「……うん、分かった」
キュッと、顎を掴む手にラモラック殿が少しだけ力を籠める。その次の瞬間、近衛兵殿は雄叫びを上げ、苦悶の表情を浮かべながら身を捩らせた。
「僕はさ、物心ついた時から妙な勘だけは良く働くんだよね」
「おい、ラモラック。加減はしろ。後々面倒でかなわん」
「はーい、大丈夫。ちょっと暫くは鼻の辺りが腫れるかもね」
彼の鼻を魔術で捻り上げつつ、ラモラック殿は少し離れた所でやり取りを見守っていた彼女へ歩み寄り、その傍らへ膝を付いた。
「大丈夫、魔導師団の人達はみな君の味方をしてくれるから。少しだけ勇気を出して貰えるかな?」
ラモラック殿も吾輩も、そしてご主人も。彼女の恐怖には彼の存在が大きく影響していることに、気が付いていた。お二人の存在に背中を押されたのか、彼女はようやく落ち着きを取り戻し始め、ポロポロと涙を零し始める。
「怖かったね。うんうん、落ち着いて。少しずつでいいからさ」
泣きじゃくる女性に吾輩もそっと寄り添うと、少しは安心してくれたのだろう。彼女の病的に細い手が吾輩の体へ回り、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。
──あの鷲の魔物を呼び寄せたのは、私です。
「あー……やっぱり? この辺りは縄張りじゃ無い筈なのに、おかしいなぁって思ったんだよね」
「しかし、何の為にだ? あんたにも危険が及ぶだけで、得はしな……おい。貴様は黙っていろ」
痛みに悶え苦しみながらも罵声を紡ごうとする近衛兵殿の口を、ご主人が力尽くで塞ぐ。
だが、彼女も覚悟を決めたらしい。キッと表情を引き締め、真実を語ってくれた。
──彼に命令されて、私はそれに従いました。
──ガウェイン様と私がペアになるよう、細工をした。同じ馬車へ乗り込み、襲われるフリをしろと。
「あー……だから、ガウェイン達だけ違う馬車になるよう仕組んだの?」
「おい、待て。演習の組み合わせは団長権限だろう? 貴様如きの意見が通るはずが……」
そこまで言って、ご主人も気が付いたらしい。団長権限、現騎士団長であるピートと彼の父親は懇意にしている。ハリボテの栄誉に目が眩んだ同じ穴の狢同士だ。
「……ハァ、なるほどね」
「あの腐れ外道が……、っ! おい、貴様!俺を追い出したいのならば、もっと正々堂々と……!」
「ガウェイン。頭にくるのは僕も同じだけど、ここはまず彼女の話を聞こう」
「は だがなぁ……!」
「──ガウェイン」
「……、ッ」
ラモラック殿はそう手慣れた調子でご主人を制し、話の続きを促す。
魔物に襲わせる所までは計画通り。馬車が魔物に襲われ、崖下へと落ちそうになる。ご主人達の馬車が落ちたのを見届けたあと、彼が颯爽と現れ皆を助ける予定であったのだと。
「馬鹿が。鍛錬の足りぬ貴様に、あの魔物を倒す力など無い」
「そもそも、あの周辺が何かおかしかったからね。僕の魔術も半分くらいしか力が出せなかったし」
「そんな方法があるのか?」
「うん。相殺する感じだけどね。相手の魔力を上回れば、自分の魔力をぶつけて相殺してしまえばいい」
結果的にはラモラック殿の魔力が上回り、計画は頓挫してしまった。それは決して彼女のせいではなく、単純に彼がご主人やラモラック殿の能力を正確に把握できなかった、詰めの甘さが招いた結果だ。
「ああ、それで。君が彼を助けたんだね?」
すると彼女はふいに口を閉ざし、また俯いてしまった。
──途中までは、です。
「途中まで?」
彼女の言葉を聞いて、今度は羽交い締めにされた近衛兵殿が叫び始める。
──この女が俺を見捨てようとしたんだ! だからこんな怪我を負った
「怪我?」
何処が、と視線を向けてみると、彼はこめかみ辺りから血を流していた。何処かに頭を打ち付けてしまったのだろうが、この位ならば全く問題無い。むしろ騎士にとってこの程度の傷は、日常茶飯事だ。
羽交い締めにした腕の力は緩めぬまま、ご主人はゴンと容赦ない頭突きを食らわせている。
「この程度の傷でゴチャゴチャ騒ぐな! みっともない」
「傷広げてどうすんの……まあまあ、彼女は無理やり彼に協力させられてたってワケね」
彼等がどんな関係で、どうして彼女が協力したのかは分からないし、踏み込むつもりもない。だが分かるのは、彼女が彼との信頼関係を途中で放棄し、それが原因で揉めていたと言う現状だ。
「事情は分かったよ。だけど今は取りあえず、城へ戻る事を考えよう。このままだと僕らが野垂れ死にしてしまうからね」
「おい。まさか、こいつらも連れて行くつもりじゃないだろうな?」
「困った時はお互い様だよ、ガウェイン」
「……はぁ?」
「彼がまた彼女に手を上げようとしたら、君が止めてあげなよね。さ、ラディも行くよ」
はい、お供します。
そうして邂逅したお二人を連れて、我々は下流へ進んで行った。だが、ご主人はまだ納得が行かないのだろう。黙り込んで離れた所を着いてくる彼等をチラリと確認し、ラモラック殿へ小声で話しかける。
「……おい! 貴様、本気か?」
「ん? なに、まーだ駄々こねてんの?」
「駄々っ子ではない! あいつは親の力でピートと共謀し、こんな事態を招いた大馬鹿者だぞ?」
「お、正解。その通りだねぇ」
「なら、どうして……!」
「簡単だよ。恩を売っておくのさ」
「は?」
ラモラック殿の表情が、急に大人びたものへと変わる。綺麗な眉をクイッと持ち上げて、ご主人の耳元へ唇を寄せた。
「弱味を握って恩を売っておけば、いざと言う時に手駒として使えるかもしれないでしょ?」
「……ハァ……?」
「利用できるものは、上手く有効活用しないと」
まるで悪戯する時のように軽い調子で言い放ったのに、驚いたのだろう。ご主人は一瞬目を丸くし、深い溜め息を零した。
「あのなぁ……お前は時々もの凄い過激な発想をするな?」
「そう? アグ兄も多分同じ事を言うよ。パーシィは真っ直ぐな子だから、少し違うかもしれないけど」
「おま……貴様ら兄弟を敵に回すと厄介なのは、理解した」
「ふふ、どーも。ねぇねぇそれよりさ」
「あ?」
「いま〝お前〟って、久しぶりに呼んでくれたよね?」
ああ、そう言えばそうですね。
その程度の話題のはずなのだが、何故だかご主人はピタリと動きを止め、あからさまに動揺している。
「そ、そんな事はどうでもいい……!」
「どーして最近ずっと〝貴様〟って他人行儀な呼び方するのさ。昔のまんまで良いのにー」
「うるさい! 俺達はもう子供じゃない。公私混同をするな」
「まだ成人してないからお子様ですけど~?」
「ハッ、詭弁だな」
「ガウェイン昔からカレー大好きじゃん。味覚もまだまだお子様って事だよ」
「はぁ? お前だっていつも三杯は食ってるだろうが」
ご主人、ラモラック殿、後ろのお二人が見ております。
そうお報せしようとご主人のマントの裾を噛んで引っ張ると、お二人はようやく気が付いてくれたらしい。ご主人は慌てて居住まいを正し、ラモラック殿は「見られちゃったか~」とケラケラ笑っていた。
やれやれ。子供だろうが大人になろうが、ご主人達が息ぴったりなのには変わりありませんよ。ご安心下さい。
「……ん? おい、ラモラック」
「なに? ……あー、あれ?」
背の高いご主人が一番最初に気が付いたのだろう。ご主人が示す方角へ視線を向けると、沢が枝分かれし流れが大きくなっていた。木々が徐々に開けたその先には、青い空が見える。
「空……と、言う事は……」
「この先は滝になっているみたいだね。音がする」
ええ、そうですね。水が流れ落ちる激しい音が聞こえてきます。
足を滑らせてしまわぬよう慎重に進んで行くと、滝の音が更に大きくなってきた。滝へ近付く頃には沢ではなく、十メートルほどの幅がある川へと姿を変えている。
川が途切れた先、その先は大きな滝になっており、我々は崖っぷちギリギリまで歩み寄って下を覗き込んだ。
「うわ……すご!」
氷混じりの雪解け水が、遙か下まで勢いよく流れ落ちている。五百メートル、いや、もしかして八百メートル近いだろうか。碧い湖へ流れ落ちるその滝は、水飛沫で霞んでしまい下がよく見えない。
「そうか、あの道はここへ辿り着くのか」
「有名な滝なのかい?」
「ああ、釣り人や冒険者の間ではな。地名から取ってケリドンの滝と呼ばれている場所だ」
「へぇー……」
国境近くに聳え立つこの山の裾野には、ケリドンの森と呼ばれる原生林が広がっている。この森には魔物や盗賊の類いも多く潜んでおり、普段は殆ど人が立ち入らぬ場所だ。
「不思議な地場が働いているそうでな。地図や方位磁針も殆ど役に立たないらしい」
「……ああ! だから演習も、騎士と魔導師が二人一組でやるんだね」
「そうだ。道に迷わぬ為には魔術が必要で、魔物を討伐して道を切り開くには騎士の胆力が試される」
ケリドンの森の奥深くにある、巨大な滝。その滝が流れ込む湖は碧く深く、湖底は赤き地平へ通じているなんて伝説も持つくらいだ。
「え? ホントに?」
「まさか。そんな訳はないだろうが、珍しい魚や生物が多いのは確かだな。だから、釣り人は危険を冒してでも来る名所らしいぞ」
「へー……凄いね。下からも見てみたいなぁ」
「おい、あまり覗き込むな。落ちても知らんぞ」
ご主人はそう言いつつ、ラモラック殿の首根っこを掴んで引き戻す。確かに、ここから落ちて無事でいられる自信は、いくら猟犬と言えど無きに等しい。高所が苦手な者ならば、すぐに卒倒してしまいそうな高さだ。
「うーん……下流に行けば、人家があるかもしれないんだよね?」
「ああ、問題はこの滝だ」
「なんとか下りられないかな?」
「そうだな……少し周辺を探ってみるか」
四人で手分けをし、何処か下れそう道はないかを探してみた。だが、ほぼ垂直の崖には下へ行く足場すら見当たらない。そのうちに左右も岩壁に阻まれ、行き止まりになってしまった。
「ないなぁ……あーもう、飛行術がとつぜん完成したりしないかなぁ」
「飛行……おい、ラモラック」
「ん?」
「どの程度ならば飛行可能なんだ?」
「うーん……せいぜい数十メートルかな。落下の衝撃を和らげる程度だと思う」
「成る程……下は滝壺になってはいる、が」
「……溺死は勘弁して欲しいなぁ」
そうですね。水はとても怖いです。
それと、先ほどから少々気になっている事があるのですが。ああ、ご主人もお気づきになられましたね。
「太陽がだいぶ西へ傾いているな。あと一時間もすれば日没だ」
「えー? もうそんな時間?」
「ああ、仕方が無い……今日はここで野営をしよう」
吾輩も賛成です。今は寒さの厳しい季節、野外で夜を過ごすだけでも厳しい。更に、万が一水に濡れたとしたら、間違いなく朝を待たずに命を落とします。ここは一晩だけ寒さを凌ぎ、熟考を重ねた方が宜しいでしょう。
「では、まずは明るいうちに火の準備と食料の確保だ。火の準備は魔導師組にまかせて良いか?」
「うん、まかせて。風が避けられそうな場所を探しておくよ」
「ああ、頼む。じゃあ俺達は食料の確保へ行くぞ」
ご主人がそう近衛兵殿へ声を掛けたが、どうにもお相手の歯切れが悪い。どうしてコイツの言いなりに、とかブツブツ不満を零されていた。そんなお相手の様子を見て、予想通りご主人は苛立ちを募らせている。
「グズグズするな、腰抜け。ラディ、先に行くぞ」
はい、ご主人。
まだご不満を漏らしている近衛兵殿を置いて、我々は先に森へと入る。
「ラディ! そっちだ」
狩りならば吾輩の専売特許だ。ご主人が追い込んだ獲物を吾輩が素早く追い詰め、急所を正確に攻撃する。兎も鳥も、食用となる魔物も、見事な連係プレーで次々と仕留めていった。
「流石だな。久し振りの狩りでも、全く腕は衰えていないぞ」
ご主人の温かい手が吾輩の顔を挟み込み、ウリウリと嬉しそうに撫でてくれる。ご主人が誇れる猟犬であれるのが、この上なく嬉しい。大好きなご主人の顔をペロペロと舐めたっぷり愛情表現をし、吾輩達は川へ入り魚も捕獲する。
こんな状況ですが、吾輩はとても楽しいです。
数年前、ご主人やラモラック殿がまだ吾輩よりも小さかった頃は、こうやって三人でよく狩りに行きましたね。森の中で日が暮れてしまって泣きそうなあなた方を、吾輩が護らなければと慰めたり。お二人が初めて兎を仕留めた時は抱き合って喜んだり。そんな時間が、とても愛おしくて懐かしい。
「よし、一晩ならばこれで十分だろう。戻るぞ」
はい、ご主人。
「無事に戻れたら、たまにはひと狩り行くか。あいつも誘って」
そうですね、是非行きましょう。きっとラモラック殿も喜ばれます。
「すっご、大漁! いいなぁ、僕も狩りしたかった」
大量の獲物を抱え戻った我々を見て、ラモラック殿は予想通りの反応をしてくれた。吾輩もご主人を真似て、少々誇らしげに胸を張ってみる。
「フン、足手まといは必要ない」
「あ、言ったね? 兎狩りなら僕の方が上手だからね。負けないよ」
「鹿狩りは俺の方が得意だ」
「捌くのは僕の方が早いし、丁寧だよ?」
「ハン……フライドチキンしか知らなかったお坊ちゃんに捌き方を教えてやったのは、俺だろうが」
「あー、はいはい。ガウェインは昔から野蛮だもんね。さすが野生児」
「なんだと」
ふふ、相変わらず微笑ましいですね。
お二人は手際良く獲物を捌いており、その間に魔物使いの彼女は薪を拾い集めてくれたらしい。火を絶やさぬよう注意しながら獲物を焼いていると、周囲にはじゅうじゅうと肉の焦げる良い香りが漂い始めた。
「ねぇ、知ってる? ガラルドーザの肉って美味しいらしいよ」
「は? あのデカイ魔物のか?」
「うん。あと魔鯛もすんごく美味しいよー、食べた事ある?」
「いや……魔鯛とはあれか? アウギュステの海にいる」
「そうそう! 僕も数えるほどしか食べた事ないんだけどね。じゃあさ、今度ガラルドーザと魔鯛狩りに行こうよ」
「そいつは興味はあるが……」
「うんうん、そうしようそうしよう。夏にでも長めのお休み貰おう」
そうこうしているうちに食事の支度が完了し、まずは一番の功労者にと、吾輩は一番大きい肉をご褒美で貰えたのだ。空はすっかり暗くなっていたが、幸いにも今夜は雪が降らなそうだ。
「いただきまーす! おいしそー」
「相変わらず脳天気な奴だな」
「腹が減っては魔術は使えぬってね。空腹は戦場において、最優先で解決すべき問題だよ?」
「チッ……まあ、異論はないが……ほら、あんたもさっさと食え」
ぶっきらぼうな仕草で、ご主人は魔物使いの彼女へも肉を渡す。だが彼女は、何を戸惑っているのか。渡された肉を手にしたまま固まっている。
「どうしたの? 美味しいよ。あ、もしかしてベジタリアンとか?」
彼女はふるふると首を横へ振ると、本当にすみませんと小さく呟いた。すると、彼女はなにか覚悟を決めたのだろう。スルリと目深に被っていたフードを脱ぎ、その美しい顔を露わにした。
「……お?」
「ん? 耳……って。君もしかして、エルーンだったの?」
そう、艶々な黒髪の間から、特徴的な獣耳が生えていたのだ。
「へー! 珍しいね」
「ああ、そうだな。もしかして他の島の出身なのか?」
ご主人の問い掛けに彼女はコクリと頷き、静かに身の上を語ってくれた。
彼女はいわゆる戦災孤児で、まだ自我もあやふやな頃に近衛兵殿の家へ引き取られたらしい。それは養子としてではなく、表向きは御子息の遊び相手として。
「……表向き?」
そう、彼女の本当の役目は、近衛兵殿の相棒となる魔導師として。
英雄ロットと賢女モルゴース。ダルモアを堅牢な国とした二人は、国民からの信頼と名声を一身に集めた。だが、それを快く思わない者もいるのが現実だ。
「あいつの父親は、うちの父とかなり因縁が深いそうだからな」
「なるほどねぇ……。それで近衛兵くんのお父さんは、英雄になる夢を息子に託そうとした訳だ」
ロットの活躍は、賢女モルゴースによる鶏鳴の助けが大きい。そう考えた近衛兵の父は、才ある子供を他の島から迎え入れた訳だ。まだ自我も薄い頃から徹底的に、家の為、息子の為だけに魔力を提供しろと、彼女は叩き込まれ続けていた。
「……あのさぁ。悪いけど、それって余計なお世話じゃない?」
「貴様が一番嫌いそうな展開だな」
「あったりまえじゃん。誰の為にどう魔力を使うのかなんて、自分で決めるべきだよ」
誰の為にどう魔力を使うのかは、自分次第。ラモラック殿が零したその言葉は、真理である。
結論から言えば、彼女と近衛兵殿の力の相性は最悪だった。それはどちらが悪い訳ではなく、単純に相性の問題だったのだが。どれだけ試してみても、英雄と賢女が使った力には遠く及ばなかったのだ。
「あー……しかも君、魔物使いだもんね。魔導師の中でも特殊だし」
そうして徐々に、彼女と近衛兵殿の関係は歪んでしまった。自分の力が伸びぬのは彼女のせいだと、彼は日々詰るようになってしまった。彼の父親も同様。せっかく大枚叩いて引き取ったのに期待外れだった、と吐き捨て、今では彼女の存在を空気の様に扱っている。
そうして何処にも逃げ場所がない彼女は、やがて心を閉ざした。だから、魔物を上手く操れず失敗したのも、全て自分のせいなのだと。
本当にすみませんと再び俯いてしまった彼女の頭を、不器用な手が乱雑に撫でる。
「俯くな。下ばかり向いていると、本当に大切な事を見失うぞ」
愚直なその言葉が、渇いてカラカラになった心への雫となったのだろうか。おずおずと顔を上げた彼女の瞳には、少しだけ光が戻り始めていた。
「同情するとは俺は言わん。言える立場でもない」
「…………」
「だが、過ぎてしまった事を悔やむよりも、まずは明日どう生きのびるかを考えろ。いいな?」
大きな手がフードを戻していたが、エルーン耳のせいでどうにも上手くできないらしい。耳へ引っ掛かった雑なフードを見て、ご主人は気まずそうにしている。だが彼女の頬には、少女らしい血の気が戻り始めていた。
そんな微笑ましい光景を、ラモラック殿はニコニコと誇らしげな表情で見守っている。
彼女はフードをかぶり直しつつ「はい」と素直に頷き、スッキリとした表情をしていた。
「よし。では、さっさと飯を終わらせて作戦会議をするぞ」
「あれ? そう言えば手駒くんは?」
「知るか、放っておけ。どこかで悔し泣きでもしているのだろうさ」
「アハハ! ねー、僕もう一個食べていい?」
「は? 食い過ぎだろ。太るぞ」
ご主人とラモラック殿は、お二人でいると本当に最強ですね。
ようやく食事に口を付けた魔物使い殿が、今度はそんなお二人を微笑ましく眺めていた。憧憬に満ちた眼差しを向けつつ、自分たちもああなれたら良かったのに。そう呟かれた言葉は、吾輩の胸に秘めておこうと思う。
(③-3へ続く)