僕は今日もカレー粉を買い忘れる「ねぇ、話があるんだけど」
「は? 後にしろ。いま忙しい」
「えー、やだ。大切な話だからいま聞いてよ」
「……あのなぁ、今の状況を考えろ! あと上から降りろ!重い」
グギギギ……と、背中にラモラックを乗せつつ、腹筋ローラーをなんとか動かそうとしたが、脇腹をこちょこちょとくすぐられてしまった。そのままべちゃっと床へ倒れ込み、本日の筋トレは中断したのだ。
僕は今日もカレー粉を買い忘れる
「おい! 何のつもりだ 大会が近いんだぞ!」
「ガウェインが話を聞いてくれないからでしょー!」
「ちゃんと聞こえている! 別に気にせず話せば良いだろうが!」
「大切な話だって言ってるじゃん!」
ギャーギャーと、もはや日課となっている言い争いを繰り広げているこの場所は、如何にも高所得世帯と言った風情のラモラックの部屋だ。
三国学園中等部、三年生。そんな青春真っ盛りな自分とラモラックは、いわゆる幼馴染みである。隣に建つあからさまに金持ちな屋敷へ住んでいるラモラックは「小さな家おもしろーい!」と、非常に腹立たしい理由で昔からよく遊びに来ていた。
そんなヤツと、あーだこーだで初めてキスをしたのは、二年前。真夏の蒸し暑いとある日、自分の部屋での出来事だった。そしてとうとう友人の一線を超えてしまったのは、つい昨日。昨夜の話だ。
今日は家族が出掛けて、誰もいないから。そう定番の口説き文句で部屋へ連れ込まれ、ああだこうだと雰囲気に流され、押し倒され、己の欲望に負けて、今へ至る。
──まあ内心では、いつかはこうなると心の何処かで覚悟は決めていたのだが。
「わーかった! 聞いてやるから腹を殴るな!ぐぇっ……!」
「ホントに? 真面目に聞く?」
「ああ、聞く。どうした?」
「うん、あのね……」
「うん?」
「あのさ、妊娠したかも」
瞬間、思わず空気が凍る。何を言っているのか分からないし、心当たりもあったからだ。
だが丁度良いタイミングでメッセージアプリの着信音が鳴り、ハッと現実へ意識を引き戻してくれた。ちなみにメッセージは姉のフロレンスからで「帰りにカレー粉を買って来て下さいな(*^_^*)」と、どうでも良い暢気な内容だった。
ハッと我に戻り、腹の上に跨がるラモラックの襟首をガッと掴む。
「貴様は馬鹿か! そんな訳ないだろうが!」
「ええでもー! なんかフラフラするし、気持ち悪いし、食欲ないし……」
「ハァ? おかしな物でも拾い食いしたんじゃないのか?」
「刺すよ? だってさ、三回戦目の時ゴムしなかったじゃん」
「あ、あれは途中で破けたから止めようとしたのに、お前が続けろと……」
「あれー? もしかして……僕に責任を擦り付けようとしてる?」
「そんなつもりはない! いや、そもそもだな、できるはずが……!」
するとだだっ広い部屋の中に、いつの間にかもう一人居た事に気が付いてしまった。窓際に置かれていたティーテーブルで優雅に紅茶を飲む、その人は──。
「あ、お帰りー。アグ兄」
「ああ、戻ったぞ」
「早かったね。パーシィはー?」
「パーシヴァルならば疲れたのだろう。部屋へ寝かせて来た」
「ふふっ! そっかぁ。久し振りのハローランド、楽しかったんだろうねー」
動けない。だが、時間が止まってしまっているのは自分だけなのだろう。ラモラックの兄、アグロヴァル。いつの間にか部屋の中にいた兄とラモラックは、何事も無かったかのように優雅な会話を交わしている。
「邪魔をしたな。かまわん、続けろ」
「うん、騒がしくてゴメンね。で、聞いてるガウェイン? どーすんの?責任取ってくれるよね?」
「…………おい」
「ん?」
「その、おま……」
「なに? ハッキリ言いなよ」
「貴様の兄は、一体どこから、話を聞い……」
疑問ならば山のようにある。だが一番肝心なのは、一体アグロヴァルはどこからこの話を聞いていたのか、だ。
全て語らずとも、ガウェインの心境を悟っているのだろう。アグロヴァルは優雅に紅茶を飲みつつ、フッとイケメンにしか許されない微笑みを零した。
「妊娠したかも、からだ」
「…………は?」
「久し振りの家族旅行に、ラモラックが留守番をすると言い出した時から予想はしていた。愚弟を宜しく頼むぞ、隣の」
「あー、やっぱり。僕がガウェインを連れ込むって、バレバレだった?」
「そうだな。もう少し手こずるかと思ったが」
「ハハッ! そこはまかせてよー。伊達に虎視眈々とガウェインの体狙ってたわけじゃないよ?」
「ハハハ! そうだったな。晴れて捕獲成功と言う訳か、流石だな」
ワッハッハ~、じゃない!
なんだこの兄弟は。一体どうなっているんだ、この家は。金持ちの思考は理解できない。
姑息な罠に嵌められた生娘の心境でラモラックの下から逃げ出し、そのまま全速力で家へ帰り布団へ潜り込んだ。カレー粉を忘れたでしょと部屋の外でフロレンスが怒っているが、それどころじゃない。明日こそ忘れずに買って来て下さいね。そんな姉の小言に、適当な生返事をしておく。
いつラモラックが乗り込んでくるか、どう撃退するか。そんな事を考えているうちに、いつの間にか寝てしまったらしい。気が付けば日付が変わっており、翌朝になってもラモラックが来る気配は無かった。
◆◆◆
「……カーテンが閉まっているな」
翌朝。ベルサイユ宮殿顔負けの隣家へ行き、薔薇の咲く庭からラモラックの部屋を見上げた。だが窓もカーテンもピッチリと閉ざされており、起きている気配がない。
朝練のない日はラモラックを叩き起こし一緒に登校するのが、いつもの流れだ。そのつもりで今日も迎えに来たのだが、昨日の今日では流石に気まずいか。
「チッ……仕方がない……」
だが、ここで引き返す様な意気地無しにはなりたくない。腹を括り、門番へ声を掛けて家の中へと入る。すると丁度良いタイミングで、気まずさの原因であるアグロヴァルとばったり鉢合わせてしまった。
「……お、おはようゴザイ、マス……」
「ん? ああ、隣の……いや、ガウェインか。良き朝だな」
「俺はあまり良くないけどな……」
「ラモラックを迎えに来たのか?」
「ああ……いや、はい」
「堅苦しい言い方をせずとも良い。自室にいるぞ。顔を見せてやれ」
アグロヴァルは通りすがりにガウェインの肩を叩き、登校の為に待機していた車へ乗り込んでしまった。絶対に怒られるか殺されるかと覚悟していたが、アグロヴァルは意外なほどに好意的であったのだ。
気が抜けたような、ホッとしたような。複雑な心境でラモラックの部屋へ行き、静かに扉を開く。すると、薄暗い部屋の中で小さく咳き込む声が聞こえてきた。
「……おい、ラモラック? 入るぞ」
「んあ……? ガウェイ、ン?」
声に張りが無い。まさか、と思いつつベッドへ近付いてみると、そこには真っ赤な顔で額に熱さまシートを貼ったラモラックの姿があった。かなり熱が高いのだろうか。涙ぐんだ瞳と目が合うと、ニヘラと力の無い笑いを返された。
「ケホ……酷い風邪だってー……あれから熱でちゃってさぁ」
「風邪? ああ、そう言えば……」
確かに、数日前から小さな咳を時々零していた。食欲がないのも気分が悪かったのも、おそらく風邪が悪化していたのだろう。鞄を床へ置きベッドへ腰を下ろして、ラモラックの額の汗を手で拭ってやる。
「熱が高いな。水でも飲むか?」
「ん、さっき飲んだから大丈夫……それよりも学校、へーき? 遅刻しちゃうよ?」
「──いい。気にするな」
「ア、ハハ……優しいじゃん……きもちわる」
「喧しい。病人は大人しく寝ていろ」
「……側に居てくれる?」
「……ああ」
「ありがと……」
すると、安心したのだろうか。目蓋が閉じたかと思うと、そのうちに穏やかな寝息が聞こえ始めた。
風邪が原因であったのは確かだが、体力が落ちている所に初体験を迎えてしまい体に負担が掛かったのもあるだろう。責任取ってよね、と言われてしまうのも仕方が無い。
「……そんなの、とうの昔から腹を括っているさ」
最初はおそらく、自分から。もう記憶にないほど昔から、ずっとこの生意気な幼馴染みの事が好きだった。
酷い夏風邪の原因は、ここ数日ろくな睡眠もとらずにスト6のネット対戦をし続けていたせいなのだが。世の中には知らない方が調子が良い事もある。
その日はけっきょく夕方まで側に居てやったのだが、いつの間にか自分も寝ていたのだろう。床に座ったままベッドに頭を乗せ、シーツにヨダレの染みを作ってしまっていた。
目を覚まし慌てて顔を上げると、何故か笑いを堪え背を震わせたラモラックの顔がすぐ側にあった。どうして笑っているのかは分からないが、良かった。随分と顔色が良い。熱が下がっているのだろう。
「隣で寝ればいーのに……って言いたい所だけど、風邪うつしちゃうもんね」
「フン。俺は風邪程度で寝込むような軟弱者ではないがな」
「去年インフルで死にかけてたの、誰だったかなぁ……あ、アグ兄も帰ってきた」
ラモラックの言葉で窓の外へ視線を向けてみると、朝見たばかりの高級車が停車していた。その中からは、兄のアグロヴァルと弟のパーシヴァルが降りてきている。
「家族が帰ってきたのならば、もう大丈夫だろう。俺は帰るぞ」
「え、うちで夕飯食べてかないの?」
「あのなぁ……昨日の今日で、流石に気まずいだろうが」
それに、今日こそカレー粉を買って帰らねば、フロレンスに本気で切れられてしまう。
「お前も今日はメシを食ったらさっさと寝ろ。明日また様子を見に来る」
「はーい……明日までには治るといいなぁ」
ベッドから立ち上がろうとすると、名残惜しいのだろうか。ふいに手首を掴まれ引き止められた。ジッと熱い視線が注がれて、無言で強請られるままラモラックへ覆い被さり顔を近付ける。
「……なーにをさっきから笑っているんだ? 馬鹿者」
「ぶ、ぶふっ……! ううん、なんでもなーい。ほら、キスしてよ」
「…………」
ちなみに笑いの原因は、先に目を覚ましたラモラックが、ぐーすか寝ていたガウェインの髪を悪戯し、左右の髪をちょんちょんとツインテにしたせいである。
だがそんな悪戯よりも、仲直りのキスの方が最優先事項だ。
「ただいま戻りました、兄上。お身体の調子は如何ですか?」
「戻ったぞ。モーヴェンピックアイスをワゴンごと買ってきた。皆で食べよう」
兄弟思いの家族がニコニコと扉を開いた、数秒後。
キスシーンをばっちり見られ地獄の様に落ち込んだガウェインの姿と、それをゲラゲラと笑うラモラックの姿が、そこにはあったと言う。
そうして今日も、ガウェインくんはカレー粉を買い忘れ姉にしこたま怒られるのだ。
【おわり】