本能は知っている 優劣。生きているなら必ずしも付けられるもの。学歴、体力差、数え切れない程あるが最たるものは性別じゃないかと思う。
そしてこの世には第二の性も関係する。頂点に君臨するアルファ、平々凡々のベータ、最も数が少なく最下層のオメガ。
そんな私はオメガ。ところ構わず発情する卑しい性別と思われることも屡々。発情は己が意思ではコントロール出来る訳では無いし、好きでこうなっている訳では無い。
発情抑制剤を服用してようやっと「平々凡々」と大差なく生活できる。
私は自分の第二の性が大嫌いだ。
運命の番。第二の性について話すと必ず出てくる。アルファとオメガの間のみに発生する強い繋がりがそれに該当し、運命と思しきアルファあるいはオメガのフェロモンを嗅ぎ分け、見つけ出すと聞く。
フィクションやおとぎ話みたいなそんな都合のいいことなどあるのだろうか。 私はないと思う。
だって私の運命だと思った人は別の人と番になってしまったのだから。
ずっと好きだった人が居た。その人は幼なじみで私よりひとつ上で、それから第二の性はアルファ。いつも人の前に立ち、誰も彼も引き付けてやまない。そして赤銅色の綺麗な髪を揺らして、動く様が何よりも素敵だと思っていた。
彼のことを「晋作兄さん」と呼んで慕っていた。兄、と呼ぶ私を実の妹のように可愛がってくれて私を「立香」と名前で呼んでくれたのだ。
小学校高学年になり、検査で自分の第二の性を知った。父母は驚きを隠せない様子だったが、私はその時既に「運命の番」なるものを知っていた。だから。
私が特別だと、彼の運命ではないかと思ったのだ。
でも実際は違った。
そう思った出来事があったのは、中学最後の年だったと記憶している。
晋作兄さんが通う中高一貫の高校を入学試験を受けるため、勉強の最中。
「立香、聞いてほしい。僕に番ができたんだ」
そう告げられてショックだった。泣きわめいてしまいたかった。けれど兄の幸せを壊したくない私は平気なふりをして「そうなんだ、おめでとう」と。
だから、運命の番などは存在しない。そんなのは夢物語だ。
◇
志望していた高校に無事合格し、順調に高校生活を謳歌していたある日。
「是非君に合わせたい人が居るんだ。僕の中学からの恩師だ」
と晋作兄さんは唐突に言った。
中高一貫と言えば、内部進学の生徒と高校から入学した生徒と別れる。晋作兄さんは中学から入学なので、内部進学に該当する。
彼が中学から知っている先生。どんな人だろうか。
「先生の居る所へ連れていくから、僕に付いておいで」
言われた通りに付いて行く。
高等部の校舎しか知らない私にとっては、中等部の校舎は未知の場所。辺りを見渡しつつ、晋作兄さんを見失わないように来たのは、国語の準備室だった。
「あれ?晋作兄さん、ここ職員室じゃないけど」
「職員室には席を置いてないのさ。非常勤の先生だからね」
なるほど。高等部にも非常勤の先生はどの教科であれ、職員室にはおらず各学科の資料室や準備室に机がある。
ガラリと扉を開け「失礼します」とお決まりの挨拶をする。
そして奥から「どうぞ」と低く落ち着いた声がした。
「先生、以前から話していた僕の妹分を連れてきました」
よく通る声が準備室に響き渡る。
「そんなに大声を出さずとも聞こえていますよ、晋作」
「仕方ないじゃないですか。本やら資料やら山積みにしてるから、先生が座ってるか居ないのか分からないんですよ」
堆く積み上げられた本の間から人影が見える。
縮れ気味の黒髪に白髪が所々あり、相当目が悪いのか瓶底並に厚いレンズの眼鏡をかけた男性。大型連休開けの準備室はクーラーがきいているけれど、それでも暑いのか、ネクタイはしておらず水色のワイシャツを袖をまくっていた。それが晋作兄さんの紹介したい人。
そして、晋作兄さんを「晋作」と呼ぶ程間柄が親しい。
その時初めて私は吉田先生と出会った。
吉田先生は晋作兄さんが豪語する通りの面白い先生だった。
放課後になれば先生を訪ねてくる生徒が後を絶えず、勉強を教わりに来たり雑談や相談をしに来る生徒が多い。それも男女関係なく。
ここまで生徒に慕われているのにも関わらず、何故非常勤なのだろう。来ない曜日が不定期にあるのは理由があるに違いない。
「晋作兄さん、吉田先生って何で非常勤か知ってる?」
本人に直接聞かず、親しい間柄の彼に聞いた。
赤銅色の綺麗に切りそろえられた髪が揺れる。
「ああ、知らないのは当然か。先生の実家は学習塾でね。ほら僕が中学受験の時塾通いしてたの君も知っているだろう。そこさ。」
「実家がどうかしたの?」
「中学も高校も受験時期に近づくと生徒数増えるだろ。生徒が多くなる分、教える側が足りなくなるらしい。だから非常勤なのさ」
家業が回らないからという理由か。高等部でも、家の都合で非常勤の先生はちらほらいる。理由は様々だが、吉田先生の場合はあまりにも珍しい。それを聞いて何故だか分からないが、吉田先生を更に知りたくなった。
◇◇
あれから季節は変わり、二学期になった。仲のいい友人もできた。毎日が楽しい。
ただ、アルファである晋作兄さんが何かと私を近くに置きたがるので、上級生からやや冷ややかな目で見られることもあった。
「出来ればクラスの友人と居たいのだけど」
と言って突っぱねた。だが。
「妹分に悪い虫が付いたら嫌だ。それ以前に君はオメガだ。何かあったら君の両親に顔向け出来ない」
そう言った顔がやけに真剣だったのを覚えている。心配されるのは癪に障るが、私がオメガなのは事実。抑制剤は飲んでるとはいえ、いつどこで発情期が来るかは分からない。
そして彼は番がいるアルファ。もし発情期のオメガが居ても、番のいるアルファは翻弄されない。
どこへ行っても迷惑をかけてばかりで嫌になる。第二の性がベータなら、発情期などには左右されず普通に高校生活を送れてたのに。
いつものように吉田先生のいる準備室へ向かう。うちの中高一貫校は中学と高校、制服が違う。中学がセーラー服、高校がブレザー。女子の場合は先程の通りだが、一方男子は中学高校学ランである。
若干の違いは材質や色の違いか。中学が紺、高校が黒。
校舎ですれ違う際、制服に違いがあるため中等部、高等部、どちらの生徒か一目瞭然。
高等部の生徒が中等部へ来ているだけでも、視線が刺さる。大体は憧れの眼差しだから可愛いものだけど。
放課後の吉田先生の準備室は忙しない。次から次へ質問と応答。小テストの採点に、次回の授業に使う資料作成等進めつつ、器用にこなす。
実家が学習塾、と聞くと何故か納得がいく。手際よく採点をこなす様、放課後であっても授業中のように丁寧に教える様子は何時まででも見ていられる。
準備室に居る生徒も疎らになってきた頃。私はとある質問をした。
後味の悪い終わり方をした私の恋に付随し、そして心に未だ燻り続けているものを。
「先生は運命の番って信じますか?」
採点をしていた彼は、顔を上げ見開いた目を私に向ける。
「ああ、アルファとオメガのみに存在するものですね」
何か答えが欲しい訳でもない、でも何故か聞きたいと思ったのだ。
「変な質問してごめんなさい。先生ならなんて思うか聞きたくて」
「謝る必要はありません。疑問を持つことはいい事です。ですがそれに対しては明確な答えは無いでしょう」
「……そうですか」
明確な答えは無い、か。知識を持ってしても辿り着けないのかと私は落胆し、目を伏せた。
準備室が一瞬静まり返る。
「これは僕の持論になりますが、運命の番などは居ないと思っています」
静けさをかき消すように、そうはっきりと言ったのだ。この人は私と同じ考えでいる。それが胸に心地よく響く。
私よりも十以上年齢が上だ、知識量どころか経験値も積んでいて、何処からその持論が来ているのか。もっと知りたい。
「ところで話は逸れますが、君は制汗剤か何かつけていますか?」
「……へ?」
突然のことで変な声が出た。夏服から中間服へ変わったばかりで、未だうだるように暑い。なので汗が滲む。
「汗臭かったですか?」
「ああいえ、そうではなく。ここ数日気になる匂いがしているんです。甘いような爽やかなような」
汗臭い匂いではなく、甘い匂い。
匂い付きの制汗剤をつけているか聞いていたのだ。嫌な匂いをさせていたのかと思って、胸を撫で下ろした。
今思えば気がつけばよかったのだ。彼が匂いに過敏になっていること。そして誘発していたのは己だと言うことに。
◇◇◇
学年が一つ上がった頃。晋作兄さんが私と行動を共にすることが減った。
もちろん、理由は進路。昨年から大学進学に向けて進路指導が本格的になったから。
何かと体調を崩しがちな彼は、出席日数がギリギリで「出席日数はしょうがないじゃないか」とむくれた顔だった。
覚えてる限りだと学校行事で張り切りすぎて体調を崩す、翌日熱を出して休むのはまだいい。肺炎になって入院もあったりしたので、こちらとしては心配になることもあった。
本人の意思ではないにしても、あんまりではないか。晋作兄さんに少し同情してしまう。
ある日の放課後、吉田先生の居る準備室へ向かうと施錠されていた。中等部の先生だから、出勤日がこちらは全くと言っていいほど知らない。それを確かめるには、吉田先生を同様に慕って準備室へ通う中等部の生徒に聞くしかない。
仕方がない、帰ろう。
「どうかしたのかい?」
と声がした。後ろを振り返ると長い黒髪を一つにくくり、上下黒のスーツに中は白いワイシャツ、ネクタイは臙脂色。室内は暖房がきいてるとはいえ寒いのか、ネクタイと同色のカーディガンを着た男性が居た。心配そうにこちらを見ている。資料を抱えていたので、先生なんだと感じ取る。
見たことがない先生だから、中等部の先生だろうか。
「あの、吉田先生は今日居ないんですか?」
「そうだね、今日は来ていないよ。君、高等部の生徒だろう?知らなくて当然さ」
柔らかな笑顔が特徴的な先生だ。
名前を聞くと「僕は坂本龍馬。中等部で社会を受け持っているよ」と言われた。
「吉田先生は、いつ来そうですか?」
「そうだねえ……。この時期だとご実家の学習塾が受験生の追い込み時期と重なるだろうから、不定期に週一回来るかな」
それほどまでに実家の学習塾は手が回らないのか。
「そうなのですね。分かりました、教えてくださってありがとうございました」
私はお礼を告げて、高等部の校舎へ戻ることにした。
ご実家の学習塾は中、高、大学進学の学生を受け入れているが、主に高校受験をする中学生が多いらしい。忙しいのなら致し方ない。
その最中、私は思いもよらない事を耳にする。
準備室に入り浸っている中等部の生徒からこんなことを言われた。
「藤丸先輩、知っていますか?噂なんですけど……」
吉田先生って、もしかしたらオメガじゃないかって。
耳を疑った。私と同じ『運命の番などは居ない』と持論を持った人。気になった人。その人が私と同じオメガ。
第二の性をきちんと聞いたわけではないので、はっきりとは言いきれない。
それを物語るかのように、吉田先生が学校に来ているのを、学生が上がっても私は見ていない。
オメガであれば発情期がある。薬で抑える手段もあるが、確実ではないし体質によっては薬を飲んでいても効かないこともある。私も現に発情期を抑える薬を飲んでいる。
発情期がどれほど辛いかよく分かる。初めて発情した時、燃えるほど身体が暑く、両脚の間が疼いてたまらない。
思い出すと嫌悪感に苛まれる。彼もそうなっているのだろうか。
やはり、運命の番など居ないのだ。
◇◇◇◇
あれから数ヶ月、吉田先生は来ないまま大型連休が過ぎた。
会って間もない頃に聞いたメッセージアプリの連絡先へと「大丈夫ですか」と送った。けれど、既読は付くだけで何も帰ってこない。
晋作兄さんに聞こうにも「今それどころじゃないんだ。悪いがまた今度いいかい?」と口頭でも言われる始末。
やはり、噂の通り吉田先生はオメガかもしれない。晋作兄さんがはぐらかす時は何か隠していることが今までの経験上多々あったし、無理矢理に聞くと余計に話してもらえなかったから聞くのは止めた。
そういうこともあって、中等部へ行かなくなった。私は高校からの入学で、中等部から内部進学組ならよく行くだろう。それか検定対策に中等部の先生が担当していることもあり、担当の先生を訪ねに行くということもない。
出勤していると、中等部で仲良くなった子らから連絡が来ても「ごめんね」と何かと理由をつけてしまう。
何を期待していたのだろう。もうとっくに現実を突きつけられていたのに。
噂は噂でしかない。長期的に吉田先生は休んでいるのは事実。確かめたい、噂を否定したいと言う気持ちが湧いて出る。
なら、聞くしかない。
それまで行く事さえ拒んでいた中等部の校舎へ、不思議と足が向かった。
彼なら知っているかもしれない。
「藤丸さん、久しぶりだね。何かあったのかい?」
坂本先生は、柔らかな声でいつも喋る。
私は意を決して言う。
「お久しぶりです。聞きたいことがあって」
私は知りたいのだ。吉田先生の第二の性を。
吉田先生のこと、何故長期的に休んでいるか、本題の第二の性のこと。
それを話した瞬間、にこやかに話す顔が厳しさを見せた。
「君の聞きたいことは分かった。悪いけれどこれは言えないよ」
「そんな、どうして」
「雇われる際の規約があるんだよ。僕はこの学校に雇われているから、勤めている以上規約は守らなくちゃいけない。その項目のひとつに教員は生徒へ自らの第二の性を証してはいけないってね」
そんな規約があるなんて知らなかった。
私達生徒に何故大事なことを知らせないのだろう。理解が追いつかない。
「もちろん僕ら教員同士は互いの第二の性が何か把握してるし、考慮してるよ。でも、君たちはまだ十代だ。悪い大人に第二の性知られて、悪用されることだってありうる。または、意中の相手に発破をかけるために利用する大人さえいるんだ。それに教師も一人の人間だ。アルファはともかく、オメガは未だ差別がある。知られたらどういう仕打ちを受けるか……」
ぴしゃりと言われ何も反論できない。
気まずくなって、坂本先生のネクタイピンを見つめる。奥さんが選んだと言っていた銀色の蛙がにっこりと笑っていた。
「そうですか、変なこと聞いてすみませんでした」
「いいや、僕の方こそ言いすぎた。藤丸さんの第二の性を知ってるわけではないのに」
生徒のことを第一に考えているだろう、彼の気遣いが逆に後ろめたさを思わせる。
聞くんじゃなかったな、なんて思いながら拳を強く握りこんだ。
◇◇◇◇◇
『返信が遅くなってすみません。体調を崩していたので長期間、休みをもらっていました』
後日、メッセージアプリに返事が吉田先生から届いた。
『長く休まれていて心配しました。体調がよくなったのなら良かったです。また準備室に来ます』
フリック入力でそう返事を返した。すると。
『但し、体調は万全とは言えません』
と返事が返ってくる。
体調を崩していた。
メッセージアプリでそう答えていたが、本当のところはどうなのだろう。
「どうかしたのか?大きなため息をついて。君らしくないぞ、立香」
「晋作兄さん」
いつの間に来ていたのだろうか。気がついた時には目の前に居た。
「今日は進路相談には行かなくていいの?」
彼の両親は町工場を営んでいて、いずれは家業を継ぐ。だが、進学を希望していてまだまだ知見を広げたいと語っていたのを思い出す。
「いいんだ。どこへ進学しても申し分ないが、出席日数を気にしろとしか言われなかった」
「本当にそれだけ?」
いつものように飄々と笑う。
「他にも諸々言われた気がするが、まあいいさ。ところで、誰かと連絡を取っていたんだろ」
私のスマートフォンを覗き込もうとしたので、慌てて隠した。
「別にいいでしょ」
「大体予測はつくぞ。松陰先生だろ。画面を直接見ずとも後ろの窓ガラスに反射して見えたさ」
窓を背にしていたのが仇になり、見えたらしい。
「勝手に見ないでよ」
「はは、すまない。僕も先生に連絡を度々入れてはいたが、既読すらつかない状態でね。立香にだけは返事を返しているんだな」
私にだけ、と意味を含んだ言い方をする。
「何それ」
「体調不良の理由、聞いてないのか?」
晋作兄さんの言葉に息を飲む。
それと同時にスマートフォンから振動音がした。
私のスマートフォンからではない。
「あ、マサから連絡だ。悪いが今日の放課後は都合がつかなくなった」
メッセージアプリに連絡が来たのだろう。晋作兄さんが口にした人の名前は、彼の番。中高一貫の女子校に通っている、としか知らない。
番が出来たばかりで、楽しそうに笑う彼の話を聞くのが嫌いだった。私が先に好きになったのに、と口には出せず無理をして聞いていた。
でも今は最初聞いていた頃と比べるとどうだろう。初恋の痛みは薄れている様であり、それに気になる人ができた。
その人の名前は決して晋作兄さんには言えない。言えるはずもないから。
◇◇◇◇◇◇
「失礼します」
ガラリと扉を開ける。中等部国語の準備室、私が密かに心寄せる先生が机を置く場所。
返事が無かったので、山積みにされている本で埋もれている机を見ると、誰も居なかった。
代わりに灰色のジャケットが古びた椅子にかかっている。
灰色のジャケットの持ち主は今、退席中だろう。今の時期はうだるように暑くなってきているから、余程のことが無い限りジャケットなんて着ないはず。
何かあったのだろうかと少し気になったが、彼が戻ってくるまでここで待とう。
オメガと噂されていようが、私は彼が、吉田先生が好きな事に変わりがない。それが気づけただけでも十分。
未だ誰も居ない部屋の中、積み上げられている本の一つを手に取って読んだり、スマートフォンでらSNSを確認したり誰がやってくるまで過ごしていた。けれど灰色のジャケットが気になってしまう。抱きしめてみたい。
今なら私以外ここには居ない。少しだけ、少しだけなら。
震える手で椅子にかかっているジャケットを手にした。
「うわ……」
思わず声が漏れる。思っていたより大きいジャケットに戸惑うが、ふわりと匂いが鼻を掠める。
爽やかで清潔感を思わす匂い。洗剤の匂いだろうか、ううん違う。もっと心を揺さぶれるような、心惹かれて離れ難いと言えばいいかもしれない。
気づけば、ジャケットを強く抱きしめて首元の匂いを嗅いでいた。傍から見たら変なことしてるように見えるだろうけど、今だけ、今だけなら。
身体の奥底からどくんと、何かが脈打つ音がした。
「えっ、うそ、まって」
私は発情している。発情期はまだ先のはず。抑制剤も今朝飲んできたのに、どうして。
頭の中でぐるぐると考えが巡る。だが身体は熱を上げ、力なくその場に座り込む。
ここに誰かが来てはまずい。
震える手でスマートフォンを握り、メッセージアプリを起動する。
『晋作兄さん、助けて。発情期が来てしまった』
熱い、身体の芯から熱さが込み上げてくる。そういえば初めて発情期が来た時も今の状況に近かった。
叶うはずのない一方通行な恋。運命だと感じ取っていた晋作兄さんのことを思っていたら発情した。あれほど虚しいことは無かっただろう。吉田先生の第二の性がどうであれ、私はまた虚しい思いを抱えたまま発情している。
灰色のジャケットを強く抱き締める。首元の匂いを息を大きく吸い込んで肺に入れ込む。
ああ、なんて馨しい。
がらりと準備室の扉が開く音がした。まずい、誰か来た。
「っ……だれ……?」
熱に浮かされた状態で、声を絞り出すように呼びかける。
「藤丸さん?」
この声は知っている。今呼ばれてより一層の身体が熱くなる気がした。
「よし、だ、せんせ……」
ベータは兎も角、アルファがここに居たら一溜りもないだろう。こんなにもフェロモンを撒き散らして発情しているのだ。
熱を発する身体を抑え込むように床へ床へ身体が近づいてく。座っている事すら辛い。
「こっち……こない、で……くださ……っ」
顔を上げてそう言うのが精一杯。早く、早く私を置いてどこかへ行って。
「この匂い、発情期……!君はオメガだったんですね」
卑しくて大嫌いな性別。 それを知られてしまった。力なく床に伏せるしかなくて、彼の顔を見るのが怖い。先生の顔がどんな顔をしているのかは分からないけど、こんな私を見ないでほしい。
こっちへ来ないでほしい、そう言ったのに。扉が閉まった音がして足音が聞こえる。
抱き締めていた灰色のジャケットと同じ匂いが鼻を掠めた。それと同時に床に伏していた身体を勢いよく起こされる。
「ひっ」
吉田先生の顔が近くにある。そして目が離せない。だってその目があまりにもぎらついていて、私にこう言うのだ。
「僕のことをあまり話してはいませんでしたね。ここへ来る前、退職届を出してきましたからもう規則には縛られない」
「どういう……事ですか……?先生が、オメガと、いうことですか……?」
「何のことでしょう?ああ、半年近く休んでいたからそう思ったんでしょう。いいえ。違いますよ、全く違う」
急な事に発情期の熱も相まって頭が理解していない。追いついていない。
「僕は番の居ないアルファです」
そう言って噛み付くように口を重ねられた。
◆◆◆◆◆◆◆
僕は兄弟の中で唯一、アルファだった。
兄や弟、妹までもがベータなのに関わらず僕だけがそうだった。
母や祖父母が喜ぶ中、父のみが僕がアルファである事を喜んでいない。そう気づいたのは中学に上がる前のこと。
誰しも思春期に近づけば性に過敏になるだろう。第二の性についても知りたいと、その欲を隠さない者も必ず出てくる。
僕はアルファとしては、珍しくラットと呼ばれるアルファ特有の発情期が出やすい体質だった。
その時期の僕は、発情期のオメガ同様周りに被害を出さないために自室に籠りきり。そんな僕を見て可哀想だと言う者も居れば、病的だと言う人もいる。父はそんな僕を見て必ずこう言うのだ。
「アルファもオメガ同様、卑しい性別だ。相手を孕ませることが全てなのだから」
思春期の僕には深く深く突き刺さる言葉だった。
己を律しなければ。異性をなるだけ遠ざけ、性的な物も排除した。でもそれだけではいけない。第二の性を知るためには知識をつけなければ。
それ故に中学高校の頃の僕は本ばかり読んでいたし、周りからは堅物扱いを受けていた。
高校を卒業し、大学へ進学すると交流会と称し宴会の席が設けられる。大体が男女交際へ発展し、サークル、ゼミ、誰かの紹介で交際するものが居た。僕は彼らを傍目に「卑しい」としか認識していなかった。
大学も同様に「堅物」「面白くない奴」としか認識されていなかった僕は、どこに就職するでもなく実家の学習塾を手伝う傍ら、とある少年に出会った。
名前は「高杉晋作」後に僕が就職する私立の中高一貫校での教え子になる。
彼がやって来たのはいつだったか。梅雨が明けて猛暑日が連日続いた頃、そんな夏の日と記憶する。
「先生!松陰先生!」
とあの頃から良く通る声で僕を呼ぶ。
実家の学習塾へ彼が来るようになったのは、中学受験のためだった。小学校こそ公立だったらしいが本人曰く「面白くないからみんなと違う学校へ行ってみたい」と両親へ直談判をして中学受験に挑むことになったと本人が意気揚々に僕へ告げてくれた。
それと晋作の口から出てくる「立香」と言う名前の少女が度々聞く。彼女の聞かない日がない。
「先生、立香が……」
その一言で始まる話が不思議と嫌ではなく、聞き入ってしまう程。
どうも彼女は相当なお転婆らしく、ある時は木から降りれなくなった猫を助けるために登って降ろした、意地悪な上級生に対して気後れせず意見を言う等々。聞けば聞くほど「立香」という少女に惹かれていった。
僕からすれば下の妹と差程年齢の変わらない彼女。今思えばそこで気がつけばよかったのだろう。
数年後、僕は私立の中高一貫校に中等部非常勤教師として採用された。常勤の枠は既に空いておらず、偶然にも国語の非常勤が空席の状態。
実家の学習塾を手伝うことを視野に入れるととても有難い。それから程なくして晋作の中学受験が終わり、彼が入学してきた。
持ち前の人当たり良さと、快活で行動力のある彼は常に人を惹きつけて離さない。
「先生、僕はアルファなんです。内緒ですよ?」
といつか僕に打ち明けてくれたことを思い出す。そう告白されて不思議と腑に落ちた。
高校二年になった晋作が新入生になりたての「藤丸立香」を連れて僕の元へ来た日。
その時に嗅いだ、柑橘の様に爽やかで熟れた果物のように甘やかな匂いがこびりついて離れない。
僕の心を揺さぶるように時折香っては、身体中掻きむしってしまいたくなる衝動が抑えられなくなる。
運命の番などあるはずない。そう思っていたのに。
半年近く体調不良を理由に休んでいた。処方された薬を飲んでいようと、どんなに自分を律していようと効果は無い。
十以上も離れた年齢。今の職業。生徒へ手を出せばどうなるか想像がつく。ならいっそ。
彼女から離れなければ。
「ああ、もしもし吉田です。折り入って話がございまして……」
退職を希望しているのですが。と電話越しに告げた。