えっちな審問官は好きですか? あまりに頭の悪い題目に目眩がする。
フレイムチャーチで秘密裏に取引きされていると噂の書物。一般的な本と比べて随分と頁数の少ないそれは、それでも僕の手の中で充分過ぎる程の存在感を放っていた。
なにしろ秘匿された書物というくらいだ。どれ程までに人道を外れた恐ろしい内容が記されているのかと身構えていたのだが、それはどうやら違うらしい。
その内容はなんというか、例えば子供の情操教育上あまりよろしくないような。題目だけ見ればそうとしか表現できない。
調査のために何とか一冊手に入れたものの、本当にこれがその問題の本なのだろうか。うっかり別物を入手してしまったのではないか。にわかには信じられなくて、僕は部屋で一人首を捻った。
(というか…審問官って、彼の事だよな…)
名前は明記されていない。けれどその役職は間違いなく彼の事を指す。テメノス・ミストラル、何よりも大切な僕の恋人だ。
とてつもなく嫌な予感がする。見てはいけない、そんな予感が。頁を捲ってはいけないと、本能にも似た何かが待ったをかける。
けれど確かめなければならない事があった。それは正にこの本の内容そのものだ。全く関係の無いように見える題目でありながらその実、中身は教会への不満を煽るもので…なんて可能性がまだ捨てきれていない。実際のところ、見つかると都合が悪い本の装丁を偽装するというのはままある話なのだ。だからこれは――――
(これは検閲…なので、どうかお許しください……!)
『えっちな審問官が身体で暴くのは、非童貞を騙る不埒な童貞!
ある時は童貞の自分を恥じる気弱な羊を優しく導き、またある時は経験も無く女を語る卑劣な輩を厳しく暴く――――。
果たして彼は異端達の悪行の全てを明らかにする事ができるのか?涙あり、カタルシスありの痛快オムニバスストーリー!(好評であれば続編を予定しています)』
「ななな…なんだこれ!!!?」
ふざけているにも程がある。頁を捲った所に簡単なあらすじ、というか煽り文のようなものがあるのだが、これは正直どうかしている。どうかしていると思いつつ、なぜだか捲る手を止める事が出来ない。これは検閲の必要性からくる責任感であって、好奇心などでは決して、無い。
(……これは……)
僕の顔面がみるみる湯掻いたオクトリンのようになっていくのが分かる。
これはつまり、猥本。
予想はしていたがやはりそういうことだった。そして明らかにこの登場人物はテメノスさんをモデルにしている。その審問官が物語の中で次々と異端に目をつけ、「審問」をしていくのだが――――
そこから先は、なんというかもう酒池肉林だ。あんな事やこんな事、とても言葉では言い表せないものばかりが手を変え品を変え、よりどりみどりだった。
(…テメノスさんはこんな事しない…!)
彼は確かに色香があって僕を揶揄うようなことばかり言うけれど、あれで一応恥は持ち合わせているし、いざとなると意外と初心なところがあるのだ。こんな色情狂じみた事はしないし言わない…と思う、おそらく。
しかし妙に読ませる文章のせいで、僕の目は導かれるようにするすると先の展開を追っていく。言葉の選び方や一文の長さ、区切り方のどれもが絶妙でかつ巧妙で、悔しいことに読むのが全く苦にならない。ワンパターンになりがちな展開にも関わらず、飽きが来ない工夫が随所に施されているのが伝わってくる。伝わってきてしまう。
これはまずいと思いながらも作者のその手腕に翻弄され、気付いた時には僕はもう止め時を完全に見失っていた。
――読み終えてしまった。
収録されていた短編4本を読み終えるまで、全くあっという間の出来事だった。煽り文がいうところのカタルシスは、確かにあったような気がする。
部屋の中が水を打ったように音を無くした、ように感じた。初めから存在しないはずの喧騒が去り、あとには僕と、熱を失って静まり返った文字だけが残される。
自分を落ち着かせようと大きく息をついた。そうする内に、寒さが思い出したように僕を包む。今更になって顔を覗かせた罪悪感が、色にのぼせた思考にちくりと爪を立てた。
僕はなんてことをしてしまったんだ。というか、なんてものを読んでしまったんだろう。
そこまでしたにも関わらず、悲しい事にこの本の中には教会の権威を失墜させようだとかそういう意図はまるで――内容がそもそも問題ではあるが――見当たらない。
いたって単純に、純粋に、そういった嗜癖を満足させる為の純然たる猥本だったということ。判明したのはただそれだけだった。
(…すみませんテメノスさん……)
次からどんな顔をして彼に会えばいいのか分からない。暫くは彼の顔を見る度にあの恐ろしい文章がちらつきそうで身震いする。そんなのは想像しただけでちょっと、いやかなりまずい。
とにかくこの本の事は忘れてしまおう。忘れて、そしていつも通り平常心で彼と関わるのだ。僕は何も見なかった。何も見ていない。えっちな審問官の事なんて僕は何も知らない。
そうだ、何よりもまずこの本を――――
「それで、処分しちゃったんですか?勿体無い」
いつもと変わらない宿舎の僕の部屋。いつもと違うのは、ベッドに我が物顔で腰掛けている彼が隣にいるという点だけ。それでも僕を揶揄って愉快そうに笑う彼の姿は、いつもと何も変わらない。
読んでみたかったのに…、だなんてとんでもない事を付け加えられたような気がしたが、聞こえなかったふりを貫いた。そういうところですよ、と心の中で悪態をつく。
結論からいうと、彼にはあまりに呆気なくばれてしまった。どうやら僕の態度の端々から後ろめたさが見え隠れしてしまっていたらしい。他人の様子の機微に敏感な彼が相手なのだ。僕がどれだけ平静を装おうと、もとよりこうなる事は決まっていたのだろうと思う。
そうして彼にこってりと暴かれた僕は、あの本に関する事を内容までかいつまんで、洗いざらい全て話すこととなった。てっきり軽蔑されると思って覚悟を決めていたのに、意外にも彼は笑うだけで、その様子にむしろ僕の方が面食らってしまう。
「わ…笑い事じゃありませんよ!」
しっかりと最後まで読み切っておいて、一番の被害者である彼に対してなんて事を言うのだろう。
「いや失礼。子羊君は真面目だなぁ、と思いまして」
「そりゃ真面目にもなりますよ!テメノスさんは異端審問官で仮にも神職なわけですし、あんなのを書く時点で立派な冒涜です!本を処分するのは当たり前ですから!!」
仮にも?と彼が首を傾げる。そんな彼に構わず、そもそも神官にそんな邪な目を向けるだなんて――と続けようとしてそれはやめた。そんな事を言ったら僕も本の作者と一緒に聖堂機関に突き出される羽目になる。
興奮を何とか落ち着かせる為に肩で息をしていると、彼がこちらをじっと見つめて言った。
「……怒っている理由はそれだけなんですか?」
「え、」
「異端審問官の名を冒涜されたから、聖堂騎士として怒っているの?君は」
翠色の慧眼が僕を射抜く。この人は僕の事なんて、結局のところ何でもお見通しだ。それが気まずくて目を逸らす。思わず顔に熱が集まった。
「私もその本の内容は少し不服でしたよ。…でもそれは、君の恋人としてね」
「……」
それから彼は何も言わない。僕からの言葉を促すように目を細めて、沈黙をもって問いかける。
もう、駄目だ。降参だった。全く彼には敵わない。
「……貴方が周りからそう言う目を向けられていると知って、すごく嫌でした。…貴方の、恋人として」
「やっと言ってくれましたねぇ」
彼がなんだかのんびりそう言うものだから、すっかり緊張が解けてしまった。
僕一人で抱え込まなくて、それで案外良かったのかもしれない。そんな事を考えていると、不意に彼の顔が近付いてくる。
「…えっと、テメノスさん?」
「それで、本の中の私はどんな風に審問したんです?」
「へ?」
僕が思わず後ずさろうとすると、逃がさないとでも言うように同じだけ距離を詰められた。
「その本、君が随分と気に入ったようだったので…参考にさせてもらおうかと思いまして」
そう言って彼はにこりと笑う。
…あれ?こんな展開は、ちょっと聞いていない。