子羊とヤギとアルパカと すうすうと、耳をそばだてなければ聞こえないくらいの小さな呼吸音。しんと静まり返ったこの部屋には殊更それがよく響く。今やすっかり耳慣れた彼の寝息だけれど、それをこんな真っ昼間から聞くだなんて珍しい事もあるものだ。
澄み切った青空。小さな窓から差し込む陽光を、机に突っ伏して眠る彼の銀髪が反射してきらきらと光る。聡明さを宿す双眸が瞼に覆い隠されているからか、その顔はいつもより少しばかりの幼さを纏っているようだった。
まるでこの部屋が、彼と僕がいるこの空間だけが、世界から切り取られたかのようだ。そう錯覚させる程にゆっくりと、静かな時間が流れている。
穏やかな彼の寝顔を見ていてふと、幸せだなぁ、なんてそんな事を思った。幸福とは何なのか難しい言葉で説く本は沢山あるけれど、案外こういう簡単なものなのかもしれない。この人と過ごすようになってそう実感する。なんてことのない晴れた日だとか、何もせずにぼんやりと過ごす時間だとか、そういう意味の無いことが貴方といるから幸せになる。幸せという意味を持つようになる。そんな事を貴方に言ったらきっと、青いですね、なんて笑われてしまうんだろうけど。
書類仕事の途中だったのだろうか。机の端に寄せられた用紙の上に、彼の書いた文字が行儀よく並んでいるのが見える。
無防備な姿を滅多に晒そうとしない彼が居眠りだなんて、余程疲れているのかもしれない。出来るなら起こしたくなんてない、このまま寝かせておいてあげたい。それでも以前、彼の肩や首がなにやらぱきぱきと怖い音を立てているのを聞いた事がある身としては、この体勢で眠り続けるのはあまりよろしくないのではとも思う。
うーん、どうしたものか。僕が考えあぐねていると、ふと、書類の中の一枚が目についた。丁寧に綴られた文字の上に、ぽたりと落ちたような大きなインクの染み。中途半端に終わっている文章を見るに、おそらく紙を駄目にしてしまった為に捨てる予定の物なのだろう。それより何より僕の目に留まったのは、その紙の空いたスペースに描かれた絵だった。
「これは…子羊……?」
思わず声が出た。彼を起こしてしまったのではと心配になるも、規則正しい寝息はそのままだ。僕はほっと息をつくと、問題の紙を手に取った。
なんとなく力の抜けたような、簡素なタッチの子羊の絵だ。ゆるゆるとした眠たげな輪郭線がやけに目を惹く。それとは裏腹に妙に力強く描かれた眉毛が、子羊に謎の精悍さを醸し出していた。眉毛だ。なぜ羊に眉毛があるんだろう。この絵は一体なんだろう。何を表しているんだろうか。
優しさと強さの緩急をその身で表現したような子羊の絵を前に、僕は首を捻った。幼い頃、教養のためだなんだと言って色々な絵画を見せられた事があったけれど、これ程までに難解な絵は初めてだ。一見すると無力な存在の内に確かに秘められた強さ。いや、真の強さとは柔和な心根であるということを伝えたいのかもしれない。それかあるいは――
「よく描けているでしょう?」
「うわっ!!」
心臓が飛び出るかと思った。子羊がひしめく迷宮に閉じ込められていた僕の意識は、彼の言葉で一瞬にしてこちら側に引き戻される。いつの間にやら目が覚めていたのか、彼の翠色の双眸と視線がかち合った。
「お、起きていたので!?」
「ええ、少し前に。君があんまり集中しているようだったもんで声をかけられなかったんです」
いつもと逆ですねぇ、なんて彼がくすくす笑う。
「す、すみません!この紙、勝手に見てしまいました…」
「いえ。…ところでクリック君、この絵、よく似ているでしょう」
「はい、とてもよく似てますね、子羊に」
そういえば紙芝居も彼の手作りだと聞く。元から絵心のある人なんだろう。
「真面目で馬鹿正直な感じがよく出ているでしょう」
「はい、とても…ん…?」
ちょっとよく分からない言葉が聞こえた気がした。あれ、この子羊って、もしかして。
「テメノスさん、ちなみにこの絵には一体どのような意味があるので…?」
「意味なんて無いですよ。ただの落書きですから」
「えぇ……」
推理ご苦労様です。そんな事を言われて身体から力が抜ける。そんな僕を見て彼はまた楽しそうに笑った。
「紙が勿体なかったのでなんとなく描いてみただけですよ。君、何かのメッセージでも読み取ろうとしていたの?」
「う……だって、聖職者が子羊なんて描いてたら、普通深読みするじゃないですか」
「あのね、子羊という存在自体に意味なんて無いんですよ、ただの動物なんですから。だから別にここに描くのはヤギさんでも良かったんです。アルパカさんでもね」
「アルパカさん」
アルパカさんは置いておくとしても、神の信徒を表す羊をただの動物と言い切るだなんて、この人はやはりちょっと不敬が過ぎる。
「世の中の大抵のものはただの現象や物体ですからね。そこに人間の意思が入って、それで初めて意味を持つ様になる。天候の変化を『恵みの雨』だなんて言う、あれですよ」
あっけらかんと言ってのける彼に、いやいや貴方だってたまに祈祷師の服で雨乞いしているでしょうとか、またすぐに神官として危うい発言をとか、そんな事を言おうとして僕は思わず口を噤んだ。
描くのは子羊でもヤギでもアルパカでもいい、なんなら犬でも猫でも兎でも。どれもただの動物でしかなくて、そこに初めから意味なんて無い。
あるとすれば、それはきっと子羊を選んだテメノスさんの意思なわけで。どれでもいい中で子羊を選んで、それに意味を見出して、少しばかり僕に似せて描いた彼の意思がここにある…のかもしれない。きっと彼にとってはほとんど無意識で、些細なことなのだろうけれど。それがなんだか嬉しくて、気付けば顔に出てしまっていたようだ。
「…なんですクリック君、顔がにやけてますよ」
「いえ、何だか可愛いなぁ…と」
「そんなにこの絵が気に入ったの?変わってますねぇ」
ならあげますよ、と少しばかり冗談めいて彼が言う。ひらりと差し出された紙を受け取りながら、僕はやっぱり笑みを隠すことが出来なくて。
幸福とは何なのか難しい言葉で説く本は沢山あるけれど、案外こういう簡単なものなのかもしれない。なんてことのない晴れた日だとか、何もせずにぼんやりと過ごす時間だとか、大切な人が何気なく描いた落書きだとか。そういう意味の無いことが、貴方といるから幸せになる。幸せという意味を持つようになる。
もし貴方にとっての幸せがこの子羊の姿をしているのなら、こんなに嬉しい事はない。もし貴方にそう伝えたら、自惚れるな、なんて怒られてしまうだろうか。それとも笑って聞いてくれるだろうか。
――今日はなんだか、とても良い日だなぁ。
澄み渡った青空と同じ色のインクで描かれた子羊を見ながら、のんびりとそんな事を思った。