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    りんごのしずく

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    りんごのしずく

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    『これ以上「E」を与えないで』
    ミルパ開催おめでとうございます🎉
    Eっていうのはえ母音のことを言ってて、懇願のえ母音です。
    ミスラが恋を自覚する話です。自覚せずに済むとでも思ったか? と思ったので……(?)

    これ以上「E」を与えないで「馬鹿」というものを、好きだという人はいるんだろうか。いるかもしれないけど、そんなのいないでしょ、とミスラは思う。そしてここ最近のミスラは、自分が馬鹿みたいなんじゃないかって気がしていて、不快でしょうがなかった。南の兄弟のことで腹の底がむかむかしたらオーエンを殺しに行ったりオズに挑んでみたり北の大地に魔法を打ちまくったりした。忌々しいようなあの人の笑顔を見た日は、街に出て雑貨を物色してみたりしたし、目についた魔法使いをお茶に誘ったりした。朝、目が覚めたその瞬間になにを考えるのが普通かなんてもう忘れてしまったから、賢者様の部屋で目が覚めて柔らかな金色の髪を探すことに、違和感なんて覚えない。
    「……おはようございます、ミスラ」
    「はい。おはようございます」

     さっと魔法で身支度を整えて、朝食を取りに食堂まで向かっていたら、フィガロを見かけて、ルチルを見ましたか、と言いかけたけれど、やめた。
    「おはよう賢者様、ミスラも。てことは、今日は眠れたわけだ」
    「はい、まあ。眠いですけど」
     何が面白いのか、ニヤついているフィガロをもう無視して、足早に食堂へ向かった。探している、金色の髪の男はいなかった。
     ネロがいそいそと作っているスクランブルエッグとベーコンを受け取って、適当な席についてケチャップをかけて口に放り込んだ。いまが何時かなんか知らないが、ミスラより、賢者より遅く起き出してくるのはたぶん珍しいことだ。こういうとき、無性に腹が立った。ルチル、ルチルとかいう弱い弱い魔法使いのことを、なぜ自分が気にかけているのか、約束があるからである、任務のないときの、平和な魔法舎の日々を送るあの男を気にかける理由もどうせ約束のせいのはずだ。そしてミスラは、覚えたことのないこの感情の名前を知っているような気がした。したけれど、見なかったことにした。面倒なことは嫌いだから。

     ✤

    「おはようございます〜」と気の抜けた挨拶が聞こえてきたとき、身体のなかで何か忌々しいような腹立たしいようなものが蠢いた。
    「今日は珍しく遅めだな」
     ネロとルチルがにこやかに談笑しているのを見ていたら、小さめのパンが3つほど入ったカゴを持って、ルチルが近づいてきた。
    「おはようございますミスラさん。聞きましたよ、今日は眠れたんでしょう? 賢者様に感謝しなくちゃいけませんね」
     にこにこ微笑みをたたえて当たり前のように向かいに座るルチルを見据えた。なにか言いたいことがあったような感じがするのに、言いたいことは思いつかなかった。
    「おはようございます。遅いですね」
    「あはは、また言われちゃったな。ここ最近予定が立て込んでたし、今日は特に何もないから自分にご褒美です。ていっても、二時間だけですよ? 遅くしたの」
     ルチルは、ふかふかしたパンをちぎってマーガリンを塗っている。
    「でも、うれしいな。たった二時間遅く起きただけで、私がいない間に私のことを思い浮かべてくれる人が何人もいるんだってわかっちゃった! ミスラさんにも言われるなんて思わなかったなあ」
    「俺が毎日なんの問題もなく眠れていたら、気づかなかったでしょうけどね」
    「まあ、ひどい。せっかくよろこんでたのに」
     そう言いながらも、特に気にした様子のないルチルがぱくぱくとパンを口に運ぶのを見ていた。だんだんパンがあまりに美味そうに見えてきたので、カゴにまだ残っていたパンを奪った。
    「……っふふ」
     パンを咀嚼していたら、ルチルは堪えきれないというふうに笑った。
    「はあ? 何が面白いんです」
    「あはは! すみません。私ミスラさんのほうに向かってるときから絶対パン取られちゃうだろうなって思ってたんです、でもあまりに予想通りだったから」
    「……じゃあなぜこっちに来たんです? いらないんですか、それ。全部もらいますけど」
     ミスラはやっぱりなんとも言えない気持ちになった。この人と話していると、はっきり言葉にできない感情を抱くことがあまりに多いような気がする。
    「それは私がミスラさんとお話したいからですよ。あと、あげません」
     ミスラがあっという間に飲み込んだパンを、ルチルはまだ頬張っていた。噛むために動く顎とか飲み込むために動く喉とかが扇情的に映ってしまって、喉仏のあたりを掴んだ。
    「んぐ、ぅ?! びっくりした……! どうしたんですかミスラさん」
    「さあ。したくなったので」
     傍から見たら危害を加えているようにしか見えない絵面であろうけれど、ミスラの力加減は「痛い」の一歩手間くらいだった。
    「もー、パンを詰めるところだったじゃないですか!」
     ルチルは怒りながらも、水を飲んだらまたパンを食べるのを再開した。ミスラは喉を掴むと叱られることがわかったいまこの瞬間も、もう一度喉仏の感触を味わいたい気がして、自分のに触れてみたけれど、特に感情は動かなかった。
    「そういうのってミスラさん的には、じゃれてるみたいな感覚なんですか?」
    「さあ。じゃれたことがないのでわかりませんね」
    「じゃれるっていうのはこう……かまってほしくてキャーってしたくなるような感覚ですかね?」
    「はあ? 意味がわかりません」
    「うふふ。私も言っててわかんなかったです」
     
     パンを食べ終えると、ルチルが立ち上がって、今日は読みたい本があるので、と言い残して部屋に戻っていった。本当に、好きなように過ごす休日を送ろうとしているのだろう。「それじゃあまた〜!」と言われたし、暇になったからと言ってルチルの部屋を訪れて茶を入れろだのと言う気にもならなかった。
     そしてミスラの問題は、別に暇なこととかじゃなかった。ここ最近ずっと抱えているようななにかがいよいよ肥大化して、吐き出したくてしょうがないのだ。ルチルは面倒な男なのに、いざ自分から離れようとされると感情が激しく揺れ動く。ひとりでいるほうが気楽なのに、ルチルといるときの感覚は嫌いじゃない。ミスラはおしゃべり相手を探すべく、魔法舎を歩いた。

    「はあ? なんの用なの。僕は忙しいの」
    「は? 殺されたいんですか?」
     五階までおしゃべりしに来たことなんかすっかり忘れて、オーエンをいま殺っちゃえば、渦巻くなにかもすっ飛ぶんじゃなかろうか、という気になってきた。魔道具を手のひらに呼び出す。
    「めんどくさ。いま僕、死ぬような気分じゃないんだけど」
    「じゃあ尚更いいです。殺します」
     そうして結局、魔法舎にも傷やら凹みやらを作りまくって、同じ階の双子に小言を言われたし、キッチンで腹ごしらえをしたあとに修理にはげむレノックスに遭遇したので、魔法で直してやった。

     けれどオーエンを殺しても、晴れた気分は長くは続かなかった。殺した直後は気分も高揚していてすっかり面倒なことは忘れていたのに、中庭で本を読むミチルとリケが目に入った途端に、そういえばルチルはまだ本を読んでいるのだろうか、と考えてしまって、もうそこからは元通りだった。また苛々してきて、もう一度キッチンへ向かってよくわからない調味料を口に入れて、飲んだ。調理されていない濃すぎる味がちょうどよかったので飲み干した。

     ❃

     それから数日後、ミスラは北の国へ任務に出た。面倒ではあったけれど、ずっととにかく暴れたくて仕方がない感じが消えないから好都合だった。
    「めずらしいのう、ミスラちゃんがごねずについてくるなんて」
    「そうじゃのう。めずらしいこともあるもんじゃ」
     魔法で空間を繋げて、吹雪く銀世界へ出た。絶滅したはずの獰猛な野生動物が暴れだした、みたいなよくある任務だった。その野生動物の気配を探りながら五人揃って足を進める。
    「ああ、そうだ。あなた、目玉奪ったとき、どういう感情だったんですか?」
     ミスラは、オーエンに聞きたかったことを思い出した。先日はうっかり殺してしまって聞きそびれたのだ。
    「……はあ? もしかして前、それが聞きたくて部屋まで来たの?」
    「はい、そうですけど」
    「どうして気になるの」
     オーエンはあまり答えたくないのかなんなのか、はっきりした答えを言わない。
    「いいから教えてくださいよ。こっちはずっと苛々してるんです」
    「賢者ちゃんも言っておったが、最近のミスラちゃんは確かにちょっと変じゃのう。何がと言われると難しいが」
     先を歩いていたホワイトがこころなしか楽しそうに振り返った。スノウも、うんうんと頷いている。
    「目玉かなんか知らねえが、奪いてえやつがいるのか? お前が躊躇うなんてらしくねえじゃねえか、北のミスラ」
     ブラッドリーもまた会話に乗った。あまりミスラを苛立たせて興奮させては任務どころではなくなってしまうので、好戦的にならないように注意した。
    「奪いたい? あぁ。そうなのかもしれないです」
     ミスラが言った瞬間、北の魔法使いたちはどう出ようかと必死に頭を回した。確実に面倒なのだ。何を奪いたいんだと聞くか、その相手に目星をつけるか、聞かなかったことにして違う話をするか。全員が迷っているあいだ、そんなことは露知らずミスラは喋り出した。
    「でも別に、あなたみたいに交換みたいなことはしたくないですね。あの人があの人じゃなくなるのは嫌だな」
    「……僕がやばいやつみたいに言うのやめてほしいんだけど」
    「十分やべえだろ」
     ブラッドリーは、「あの人って南の兄ちゃんか?」と問うてしまおうか悩んだ。いま喧嘩に発展するのは面倒だが、口を噤めばミスラのご機嫌取りをしているようで気に食わない。
    「ていうか、何? けだものの北のミスラのくせにルチルみたいな弱いのに苦戦してるの? おもしろいなぁ、今度悪戯しちゃおうかなぁ、ふふ」
     心配は儚く、オーエンの挑発によって打ち砕かれた。
    「……誰がルチルって言いましたか」
    「あはは。面白い。おまえだよ、おまえ」
    「これ! 気が散って魔物の気配が感じられんじゃろう。静かにしておれ」
     スノウの仲裁によってなんとか殺し合いに発展せずに済んだが、魔物の気配がしたその瞬間に、ミスラは自身の眼前に呼んで、一瞬で始末した。ブラッドリーは五人で来る必要なんかなかったじゃねえか、と悪態をつきたくなったけれど、暴れ足りなそうなミスラを見て、さっさと魔法舎に戻ることにした。

     ❃

     気の向くままに、特に何も考えずに、ミスラは任務を終えたあと、ルチルの部屋へ向かっていた。扉をノックしようとしたそのときに、後ろから声がした。
    「あ、ミスラ。帰っていたんですね。おかえりなさい」
    「賢者様。どうも」
     適当に挨拶を返してもう一度ノックしようとすると、また声がした。
    「ミスラ、ルチルに用ですか? ルチルなら今日から任務に出てますよ。もしかすると二日くらい帰らないかもって」
    「はあ? そんなこと……ああ」
     そういえば言っていた。そのあいだ俺は何をしていたんだ、と思い出そうとして、やめた。ルチルが話をしてるあいだずっと、食欲のような何かに襲われていたような気がしたからだ。
    「お守りちゃんと持ってかないと! って言ってましたし、きっと大丈夫ですよ」
     別に生死が不安で部屋に訪れたわけではないのに、と思った途端、ああまただ、と思う。奪いたいのに奪いたくない、こっちを見て俺を見て、この時折襲い来る感情を与えないで、離れないでいて、その視線をずっと向けていて、これ以上変えないで、みたいな矛盾たちが洗濯機かっていうくらい高速回転して苦しくなる。ルチルがいる限りずっとこんなのに悩まされ続けるのだろうか。嫌になって、殺してしまいたいのにそうできない。そうしたくもないことに余計腹が立つ。
    「ほんっと……面倒だな……」
     ミスラは小さく零して、賢者に向き直った。
    「あなた、ハーブティーって淹れられます?」

     ❃

     ルチルのいない魔法舎で、ミスラは一度も眠ることができなかった。賢者の力を借りてもだめで、一瞬微睡むことができた程度に終わった。ここ最近の眠れない夜は、拍車をかけて鬱陶しいものだった。馬鹿みたいに同じことしか考えられないのだ。ルチル、という名前を綺麗だと思うから、声に出したくなって、皆の寝静まった音のしない部屋に、音を零してみたりしたし、ねぇって甘えるような声を出したいような気がして三日月を引き寄せた。はあ、とついたためいきが、部屋に浮かんだままうるさく主張していた。

     眠らないまま朝を迎えて、気配に目を開けた。もう帰っているはずのルチルを訪ねようとして、扉をノックしようと手をあげた瞬間、身体いっぱいにルチルの気配が襲いかかって、動けなくなった。はやく会って、声が聞きたくて、微笑むときの目を細めた顔を見たくて、抱きしめて、そのままキスをしたいと思ってしまって、ノックしかけた手を降ろした。思い出してしまったのだ。この現象につけられた名前をはじめて聞いたのは、いつのことだっただろうか。

     込み上げるものがあまりに多くて、ミスラはどうするのがいいのかわからなくなって、二秒か五分かわからないが、そのまま立ちつくしていた。呼吸を整えてからもう一度、扉をノックしようと手を上げる。今度はうまくいった。
    「はーい」
     ドアを勢いよく開けたら、ルチルの微笑みが目に入った。焦がれていたものよりずっと、目が細まっていて、瞳が見えないほどだった。
    「ミスラさん、おはようございます! ちょっとお久しぶりですね。ちょうど食堂に行こうと思ってたんです。一緒に行きましょう!」
     そのまま歩き出そうとするルチルを、通さないように扉の前に立つ。
    「ん? どうしたんですか? あ、私に何か用でしたか」
     不思議そうにこちらを見ているルチルの顔を見て、ああどうしてこうなってしまったんだろうと思う。ため息をついたのと同時に、自分の顔が動き出して、唇がルチルのそれと重なった。というか、重ねた。
    「!?」
     離したら、ルチルは固まっていた。固まっているのはわかっているけど、考えるより先に身体が動くんだから仕様がない。そのまま、倒れ込むみたいにして、ぎゅ、と抱きしめた。
    「ミ……ミスラさん、あの……? 私はルチルなんですけど、わかっていらっしゃいます? その、寝ぼけてたりとか……」
    「は? 馬鹿にしてるんですか。そんなわけないでしょう。ルチル、知ってますよ」
     しっかりと、一音一音痕跡を残すように名前を呼んだら、腕のなかでルチルは小さく震えた。
    「……どうして?」
     ルチルは拘束を解いて、まっすぐミスラを見据えた。浮かぶ表情から感情が読み取れなくて焦るようなはやるような気持ちになって、手を伸ばしたくなった。
    「はい?」
    「どうして私にキスをしたんですか?」
    「嫌でしたか?」
    「……質問に質問で返さないでください」
    「どうして?」
    「……私の質問がまだ解決していないからです」
    「はあ。したくなったからです」
    「どうして?」
    「次は俺の番でしょ。嫌でしたか」
     ルチルは黙った。視線を彷徨わせてから呟くように言った。
    「それは、私の質問に対する、ミスラさんの答えによります」
    「はあ? 面倒な人だな。俺はいま、嫌だったか良かったかを聞いているんですよ」
    「わかりました、考える時間を差し上げます。とりあえず今は食堂へ行きましょう。ミチルが心配してしまいますから」
     扉を開けたあの瞬間以来一度もルチルは笑っていなかった。どうしてこんなことになっているんだろう。笑ってほしくて仕方がない、ような気がしてくる。食堂へ向かう最中、ミチルを見つけたルチルはやっと笑った、花が綻ぶように。

     ❃

     ミスラは、朝食のトーストとコーンスープを噛みながら考えた、柄にもなく。自分がいま、ルチルに抱いている感情を知ってもなお、それから先どうすればいいのかはわからなかった。こんなふうになっているのはいま自分だけで、ルチルはミスラをただのおじさんだと思っているならそれは何だか悔しいことのような気がするし、ルチルがミスラを好きだろうが、それが千年二千年続く保証なんてどこにもないのだ。こんなの、あまりに面倒なのではないか。どうにかしようにも殺す以外に選択肢が思いつかない。当然そんなことはできないし、力の差を見せつけて従わせようとすれば、あの人は舌を噛むとか言うだろう。チレッタもこんな面倒な感情を抱えたのだろうか。ぐるぐる考えていたら唸り声みたいなのをあげていたらしく、ブラッドリーには訝しげな視線を向けられ、離れたところにいるルチルは下を向いていて、顔は見えなかった。

     市場を徘徊して見つけた春色のネイルカラーをいくつか買って持って、ルチルの部屋を訪ねた。夕飯前の時間になっていたから、ちょうどルチル先生の授業も終わった頃だろう。
    「はーい」
     ルチルが言い終えるまえに扉を開けた。
    「こんにちはミスラさん、今日はよく来てくださいますね」
     一見いつも通りで安堵しかけたけれど、どこか違和感があるような気もした。なにかを取り繕おうとしているような、していないような、そんな感じだ。
    「話をしに来ました。あと、手を出してください」
    「……話ってやっぱり、今朝のことでしょうか」
     不安そうな顔をしたルチルは、そうっと両手を出した。手のひらを見せるような形だったので、反対だと伝える。呪文を唱えて、魔法でネイルカラーをルチルの手に塗っていく。自分の爪を黒く染めるときより、ずっと遅い速度にしている理由にも、名前がついているのだろうか。
    「はい。俺がどうしてあなたにキスをしたくなったか、言わなくちゃいけないんでしょう?」
    「……」
    「あなた、恋って、したことあります?」
    「え、」
     ルチルが少し肩を跳ねさせたので、ネイルが少しズレた。魔法で元に戻して、塗るのを再開させる。ルチルの右手の親指から順に、一本一本、春の淡い花の色がついていく。
    「あるんですか、ないんですか」
    「……まあ、昔お付き合いしていたことはありますけど……そう長くは続かなかったですし……」
    「……そうですか」
     この人は存外飽き性なのだ。それを思い出して、急に嫌になった。
    「俺はたぶん、ないんですよ。ああ、セックスとかじゃないですよ。というか、恋ってそういう、肉欲と変わらないんだろうと思ってたんですけど」
     ルチルは緊張した面持ちで、爪先を見つめていた。
    「まあそれで、俺は、あなたに恋をしてるんだと思います」
     ルチルは弾かれたように顔をあげた。じわじわと顔が赤く染っていく。
    「……え? ミスラさん、いま、なんて」
    「は? 二回も言いませんよ」
    「恋? ミスラさんが私に恋してるって、そう言いましたか? ぇ……」
     ルチルはじっとしていられないのか、顔をいろんな方向にむけ、きょろきょろと意味もなく部屋を見渡している。塗られている爪だけは、ズレないように固定しているのが面白かった。
    「それで、聞かせてくれるんでしょう。俺のキスが嫌だったか、そうじゃないか」
    「……ずるい人なんですね。ミスラさんって」
     ルチルは顔をあげた。笑っているから、安心した。
    「私もあなたのことが好きです。ミスラさん」

     ❃

     賢者を部屋に呼び込んで、ああ今日は気持ちよく眠られそうだ、と布団に入り、三日月に頬をあずける。そのとき、ふと、キスが嫌だったかどうかの答えは聞いていないことを思い出した。
    「ミスラ?」
     賢者が、手は繋がないのか、と視線で尋ねてくるので、手を差し出す。春の、淡いピンクや緑に染った爪を見て笑ったルチルの顔を思い出したら、身体の底から何かがせり上がるような感覚になる。苦しみに近いような気がするけれど、これをもう少し味わっていたいような気もして、今日のことを思い出そうとする。キスの感触、頬に触れたルチルの髪の先の感触、けれど、訪れる眠気に思考は遮られていく。顔を見たいと思って、目を閉じたけれど、別に夢でも会えなかった。

     ❃

    「ルチル」
     ルチルが横にいようと、心臓を取り出して引っ掻きたいような、ルチルの身体のどこかを握っていないと落ち着かないような、名前を呼び続けたいような、呼んでほしいような、そういう感じは消えなかった。
    「はーい」
     ルチルは紅茶をティーカップに注ぎながら、目線を動かさずに返事をした。
    「……ミスラさん?」
     ひとつめのティーカップに紅茶を注ぎ終えると、ルチルは顔をあげた。目が合ってからも、何かが足りなかった。立ち上がって、ルチルを腕のなかに包み込むようにした。
    「おおお。どうしたんですか〜。紅茶が冷めちゃいますよ」
     背中をぽんぽんと叩かれて、子ども扱いされたようで嫌だったけど、さっきよりは、何かがマシになった気がした。腕を緩めてルチルを離すと、ルチルはもうひとつのティーカップにまた紅茶を注ぐ。もう一度椅子に掛け直して、紅茶を飲んだ。まだ熱い紅茶は自分の味方のような気がする。ルチルが紅茶を注ぎ終えて向かいに座った。向かいあわせで座るこの距離さえ、自分には不正解のような気がする。
    「ルチル。こっちに来てください」
     ベッドへ腰掛けてから、ルチルを呼び寄せる。たぶんルチルはまだ紅茶をひとくちほどしか飲んでいないけど、そんなことはどうでもよかった。ルチルの、想像よりは固い肩に頬を預ける。
    「ミスラさん、どうしたんですか? ふふ。かわいい」
     ルチルに、恋をしていると伝えてからまだ数日しか経っていないけれど、だからといって、何かが変わったりすることはなかった。というか、変な時間に賢者を捕まえて眠ったりしたせいで、ふたりで何かをするような時間を取っていなかった。なにも変わらずにいるルチルに、視界が狭まったような感覚がする。焦点を、彼の唇に合わせてキスした。自分の内部で暴れ続けているような何かを、相手に移そうとするように、与えるように、何度も角度を変えた。
    「ああ、ほんっと、あなたって俺の腹を立たせる才能がありますよね」
    「……っ、はー。こんなキスをして、最初に言うことがそれですか?」
     ルチルは息を整えながらも笑っていた。
    「ごめんなさい、どうしたんですか? はひどかったですね。ミスラさんが気持ちを伝えてくれてから、はじめてちゃんとふたりでいるのに」
     ぜんぶお見通しですみたいな顔をしているルチルが嫌で、頬をつねった。
    「最近ずっと、変なんですよ。してほしいことと、しないでほしいことがずっと消えなくて、苦しいような甘いような、変な感じがして。しかもぜんぶそれが、あなたなんです」
    「その、してほしいことと、しないでほしいことは、例えばどんなことですか?」
     諭すように話すルチルの髪を引っ張って、恐れるような目をしてほしい衝動に駆られた。それでも、恐れないでほしいとも思った。
    「……はあ、知りません。もう、とにかく、これ以上俺を乱さないでほしいくらいです」
    「ええ? ずっと消えないって言ったのに……」
     言葉にする方法がまるでわからなかったのだ、文句を言われたって、知らないものは知らない。
    「じゃあミスラさん、私にそばにいてほしいですか? ずっと」
    「だからそう言ってるじゃないですか」
    「そんなこと言われてないけどなあ……。でもミスラさん。恋って苦しいものなんですよ」
     腹が立った。腹が立ってばっかりだ。そんなことは知っている。それを、こんなに切迫した苦しみを抱えているのに、もう要らないくらい知ったのに、さも当然のように穏やかな表情をしたルチルに、恋とかいうやつに、なんだか負けているような気がしてくる。声を荒らげて叫んでしまいたい。穏やかな声で、朝が来るまで寄り添っていたい。どうしたら勝てる?
    「……私も、無性に寂しくなってしまうときがあるんです。きっとミスラさん、あなたに会いたいんだなって思うんですけど、私、今も寂しいんです。恋ってはしゃいで、ミスラさんがもう応えてくれなかったらってちょっと怖かったり、どこまでが私のしたいことで、してあげたいことで、されたいことか、わからなくなったりして、もう訳わかんなくなっちゃったりするんですよ」
     指先、つま先、身体の真ん中に、何かが押し寄せた。覚えのある感覚だ。勝つときの興奮によく似ている。
    「ああ、たぶん、そういうの。きっとそういうのがほしいんです、俺は」
    「そういうのって?」
     ルチルは、神経を張り巡らせるように、姿勢を前傾させた。
    「……あなたの内側にある全てが俺のものって、もっと教えてください」
     ルチルは、静かに息を呑んだ。ミスラはなぜだか勝ったと思った。思っていた。
    「ああ、あ! いま俺、負けましたか、もしかして」
    「んん……? ええっと、誰にですか………?」
     ミスラは、心底嫌そうな顔をした。ルチルはここまで不快そうな顔をしているミスラをはじめて見たかもしれないと思ったほどだった。
    「あなたの心が俺のものなら別に、あなたが勝者の側にいたって別にいいかって、俺が負けでもいいかなって、いま一瞬思ってしまったので」
     ルチルはぽかんとした顔を緩めて、頬にキスをしてきた。くすぐったい感覚に身体がほどかれる。
    「……あなたに負けるわけないし、まあいいか」
     そう言ったら、もー! と肩を軽くはたかれて、たぶんいま切なさが生まれたのに、それを手放したくないから、変だった。
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