五番線、冬の霧「五番線、冬の霧」
五番線、準急列車、それが私たちのいつもの帰り道だった。彼の最寄り駅は急行列車も止まるから、急行を待ったほうがはやく帰れるのに、私がいるとき、彼はいつも準急に乗った。
「ミスラさん特急でしょう? また明日会いましょうね」
「準急でも別に帰れますしそんな変わんないですよ。俺も乗ります」
はじめて彼と帰路に着いたときのことだった。俺がいたほうがいいでしょうみたいな雰囲気もなく、ただただ、本気で「そんな変わんない」と思っているんだろうな、という感じで彼は言った。
彼が私と居るときには準急列車に乗る、ということが、うれしいのはもちろんだけれど少し可笑しくもあった。もう少し私といたいってことなのかな、と考えては、そんなことはあまり考えていなさそうな、ただいつも通りの気怠そうな顔が目に入ったから。
私たちは恋人だった。帰りのいつもの準急列車で、いつしか彼はじっと私を見つめるようになった、情や何かを、含んだような目で。彼は人目なんて気にしないから、私が見つめ返してしまえば、なにかが車内で起こってしまうんじゃないかと思って、いつも目を合わせないまま、べらべらと喋ったり、座れたときは、隣に自分よりひと回り大きな肩があることを意識の底に沈めながら、静かに揺られていた。彼はモデルで、私はタレントで漫画家なのだ。妙な噂が立つのは避けたかった。
事態が急変したのは、私が先に降りようとしたときに、彼も一緒に降りてきたときだった。
「俺も降ります」
「え? どうして、ミスラさんは……」
降りる駅はまだ先でしょう。言い終わる前に、ドアが閉まりそうで、言い合っていたってドアは待ってくれないので、とりあえず慌てて一緒に降りた。時々寄り道をして帰るときがあるから、寄り道したかったのかなと思って彼の顔を見たら彼は瞳を細めて、笑った。慌てて電車を降りた私を笑っているような感じだった。今まで見たことがないような、あまりに綺麗な笑い方だったから、鮮明に焼き付いている。
「あなたの顔を、ちゃんと、見たくなったから、ですかね」
「え……?」
口説かれているのかな、と思ったし、実際そうだった。私は、視線を浴びるようになってからずっと、別にどうにかなってしまってもいいと思っていた。ずっと。
「ミスラさんって、私のことが好きなんですか?」
だから、こう聞いてしまうこともできたし、電車を降りて、人もまばらなホームでなら、彼の緑の美しい瞳をじっと、見つめ返すこともできた。
けれど、待っても言葉は返ってこなかった。代わりに、私の唇に、かさついた唇が重なった。季節は冬だった。
恋人になってから私たちは、休日に出かけたり、帰りに人目を盗んでキスをするのを楽しんでいたり、した。バレたらきっと事務所の人には怒られるし、悲しむファンもいるだろう、特に、彼のファンのなかには。だから私たちは、暗い夜まで待ったし、キスをするために、外灯のない場所を探したりした。
そういうふうに、私はミスラさんとの関係がバレないように、でも恋を楽しいものにできるように、工夫していた。実際それは楽しかった。当の本人は、「まああなたが言うなら隠しますけど」というスタンスだったけれど。
だから私はすごく驚いた、準急列車、吊革を持つ手に、彼の少しだけ冷たい手が後ろから伸びてきて、重なって、骨ばった長い指が私の指に絡まったとき。この男も、冬には手が冷えるのだ、ということが少し愛しかった。
「ミ、ミスラさん……!? どうしたんですか」
「これくらいなら別にいいでしょ。平然としていてください、バレたくないんでしょう」
バレたら困るのはどちらかと言うとミスラさんのほうなんですけど、という言葉は飲み込んで、彼の言う通り大人しくしていた。けど、大人しくなれるはずはなかった。爪の端で皮膚をすっと撫でられたり、何度か指を絡め直されたりして、平然としていられるほうがおかしいだろう。彼は私より背が高いから、手を包まれてすぐ後ろに立たれると、抱きしめられているような感じがした。
もしこのあと一緒にタピオカ飲みに行きましょうとか言われたら、困る。私の脳には嫌に温度のある靄がかかって、思考が難しくなりつつあったから、まともに会話できる自信もなければタピオカを味わえる自信もなかった。彼の手は骨ばっていて、指が長い、それを何度も、感じた。
私が降りる停車駅が近づいてくる。彼は手を離さなかった。
「ミスラさん。私と離れたくないですか?」
「は?」
「手。離すか離さないかは、お任せします」
そう言うと、彼は大きなため息をついた。私は少し楽しくなってきたけど、それでも脳にかかった靄は晴れなかった。どんどん思考は奪われていく、もっと彼の手で触れられていたい、身体を這う彼の手を思い出す。今、彼の手は、どんどんあたたかくなっていっていた。
停車駅のアナウンスが聞こえた。手のひらにも、脳にも、嫌になるくらいのあたたかさが纏わっていた。