「犬飼ってんの?」
ジャズバーと言うにはあまりにも明るい店内で沢辺雪祈は言った。
オーナーの好意で昼の間をバンドの練習場所として解放してもらっているが今日はサックスでありバンドメンバーの橋渡しでもある大のバイトが押しているらしく雪祈は2日前からバンドに「仮入部」している玉田と2人きりの時間をすごしていた。
雪祈に教わった「定番のフィルイン」を叩いていた玉田は先程の雪祈の言葉が聞き取れずスティックを動かす手を止める。その手は僅かに震えていて雪祈なりの休憩の合図だと思う事にした。
「い、ぬ。玉田のラインのアイコン。なんか細長い犬じゃなかった?」
「ああ!ペレの事か!」
リズムに集中する凛とした玉田の表情が人懐こく綻ぶ。どうやら休憩を促す話題提供としては悪くないフリだったようだ。
「ペレ?」
「そ。サッカーの王様。俺サッカー好きだから」
ドラムスティックを備え付けの袋に収納し、玉田は本格的に雪祈と会話する姿勢をとった。雪祈もそれに気付きピアノ椅子から立ち上がるとカウンターにあった玉田のペットボトルを取り手渡してやる。その時に指先が少しぶつかったから謝ろうと口を開きかけたが玉田が気にしてなさそうだったのでそのまま黙る事にした。
「ボルゾイってデカイ犬種でよ、ふわふわの長い毛にすっきりした体がお高くとまってそうなのにオモチャ見せたらいぎなりヤンチャになって…」
余程溺愛していた犬なのか玉田が一気に喋り出す。いつもは凛々しく上がっている眉毛も心なし下がってるようにすら見えたが、そこでピタと玉田の言葉が途切れた。
「あ、雪祈に似てるかもな」
「…ハァ?」
犬に似てると言われた事はないと雪祈は片眉を上げ端正な顔を惜しみなく崩す。見た目よりも表情筋が柔らかいのがこいつの憎めないとこだと関係ない事を思いながら玉田は続ける。
「雪祈もでかいし髪の毛ふわふわで長いし…キレーな鼻筋も似てねぇか?ジャズの事になると熱いし!ほら、ペレに似てるべ」
「ぜーんぜん嬉しくないですが」
「話してたらペレの事撫でたくなってきた」
実家の犬を思い出してか玉田はドラムの前に手を出しワシワシと空気を撫で回しているがピタと手を止め熱のこもった目で雪祈を見る。
一瞬だけ妙な沈黙の時間ができ、何を言われるか想像ついていない雪祈は玉田の眼差しを受け疑問符を浮かべる事しかできない。
「俺が寂しくなったら雪祈ン事撫でていい?」
空気を撫でていた手を雪祈に向けいやらしく揉む仕草を見せる。イタズラっぽく目を細めニヤリと笑う玉田に雪祈の口元はヒク、と引き攣った。
新橋の賑わいも少し落ち着いた場所。飲み屋が建ち並ぶそこは夜とは違い昼間は比較的静かだ。人が少ないから猫も昼間は通らない。
そこに一軒だけ、やけに明るいバーがある。
バイトを終えた大が駆け足でその店の前にいくと、雪祈の怒鳴り声と玉田の大きな笑い声が聞こえた。
「仲良くなるの早ぇなぁ」
ホッと笑みを浮かべドアに手をかけると少しだけ2人の笑い声を聞いてから中へと入った。