【ネロレノ】秘密の晩餐会 こつん、こつん。
叩いたのは扉ではなく、自室のそれから向かって左側にある壁だった。
窓際では天井から零れる淡い暖色の光に、白く冷たい光が混ざって溶け込んでいる。こんな夜分に、迷惑だよな、と。早速ネロは自身の行動を後悔しながら。相手がこの物音に気付かなかったことを期待しながら。しかし、壁に押し当てた耳を離せないままでいた。
先ほどまで、隣の部屋から物音がしていたような気もするのだ。それはつまり隣人がまだ起きていることの証明であるかのようにも思える。
ただその音の正体を手繰った時に、彼の飼っている羊たちが好き勝手に動いていただけと分かるかもしれなかったし。物静かな彼ではあるが、その部屋が賑やかであったなら、ネロの立てた音にそもそも気付かない可能性だって十分にあったかもしれなかった。
そもそもレノックスは交友関係が広く、人当りも良いものだから、彼の部屋には多くの魔法使いたちが訪れる。今ももしかしたら、誰かと談笑を交わしている最中であったかもしれない。
それはたとえば南の国の幼い兄弟かもしれないし、今は南の国の魔法使いを名乗っているフィガロであるかもしれない。はたまたネロにとっても親しい相手である、彼の国の先生役の青年であったかもしれないし。賢者や、オズや、シノにカイン。あらゆる候補が浮かび上がる。
それならば自分の取った行動は、やはり、彼の時間に余計な水を差すものだったのだろう。ネロの胸にその思考が強く湧きあがり、そっと壁から耳を離そうとした瞬間だった。
こつん、こつん。
弱い振動が、目の前の壁から返ってきた。
「……羊飼いくん?」
こつん。返事の代わりに音が鳴る。聞こえているからこのまま話していいと、促されているようにネロは感じる。
「あのさ、実は……。明日のサンドイッチに挟もうかと、ローストポークを作ったんだよ。で、それの出来栄えが、信じられないくらい良くってさ。朝まで誰も食わないなんて勿体ないくらいで……」
言葉尻が徐々に萎んでしまったのは、この後に続くのが『良かったら、食べにこないか』だなんて誘いであったせいだ。
夜分に、自分の気分が高揚したからと、相手の都合を省みずに食事に誘うだって?
晩酌ならまだしも、料理を楽しんでもらうことを主体とした誘いだなんて。ネロ自身の欲求のために、本来であれば身体を休めるための時間を奪ってしまうことが、やはり申し訳なく思えてしまった。東の国の精霊たちに愛された男らしい遠慮とも言えるだろう。
「……柄にもなく興奮しちまってさ。落ち着きたくて、話だけひとまず聞いてほしかったんだ。明日の朝、楽しみにしていてくれよ」
ひとまず、伝えたかったことはそれだけだと。浮足立っていた心が目指した地点とは随分と異なる場所へと足を付け、ネロは小さく息を吐く。そのまま壁から離れようとしたところで、もう一度そこから音が聞こえた。
先ほどまでより力強いそれは、離れるな、自分からも言いたいことがあると、姿の見えない相手から訴えられているようにも感じてしまって。
逃げれば良かったのに。ネロの心の声とは裏腹に、彼は気付けば壁へと耳を押し当てていた。
『ネロ』
低くて穏やかな声が、かすかな振動に乗って聞こえてくる。レノックスがそうしてくれたように、ネロもまた「聞こえるよ」という相槌の代わりに壁を弱く小突いていった。
『実は夕食の後に、カインやシノに誘われて、魔法舎の周りを走っていたんだ。……そのせいか、少し小腹が減っていて。ネロの話を聞いたら、余計に、空腹を思い出してしまって』
試食という体で、少し分けて貰えないだろうか。続けられた言葉に、ネロは自身の心が温かなもので満たされていくのを感じていった。肩まで、湯に浸かったような。白湯を、ゆっくりと飲み干したような。求めていた物を、正しく、与えられた。これはそんな充足感だ。
「……いいよ、でも。他の奴らには内緒でな?」
その言葉を契機に、壁の音は一旦途絶える。
それから間もなく、ネロの予想よりは少し遅れて、今度は扉から先ほどと似たような音が響いていった。
ネロが扉を開け放てば、そこには寝間着姿の、長身の男が立っている。彼の腕に抱えられていたのは、西の国を産地とする赤ワインだ。
曰く、フィガロがミチルの目を欺くためにレノックスの部屋へと隠したは良いが、当の本人がその存在を忘れてしまった悲しき一品――とのことだったが。料理との相性は勿論良いものであったし。フィガロのとっておきの酒ということもあり、かなり質も良いものだ。こんな秘密の食事会で振舞うには、勿体ないように思えたけれども。
「ネロが、料理を振舞うのが秘密というから」
だから秘密の酒を持ってきたのだと言われたら、ネロには断る理由もなかった。どうせならばと、グラスにワインが注がれる様を待ちながら、スライスした半熟グランデトマトとエバーチーズを重ね、嵐塩に、胡椒、オリーブオイルを回してかけて、最後に軽くバジルを散らしていく。
即席のカプレーゼを前に、「試食の域を超えているな」と。特に嫌そうな素振りもなく、レノックスはそう呟いた。試食があくまで建前であることなんて、両者とも十二分に理解していただろうから。「しぃ」と、ネロはその点への言及を静かに窘める。そしてそのまま、食堂と比べると随分小さなテーブルで、向かい合って席に就いた。
「パンに挟むために作ったからさ。味付け、ちょっとしょっぱめなんだ」
でもあんたは、しょっぱめのローストポークが好きだろう? という言葉は続けなかった。
しかし代わりに「それは嬉しいな」と語るレノックスの表情や声色が、ネロの心の声を肯定していく。
この魔法舎で、レノックスが隣人となったことは、ネロにとって幸福と言えただろう。彼は物静かで、他者への強い介入を好まない。静かに暮らしたい男を、静かに暮らさせてくれる。それができる、数少ない魔法使いであったからだ。そして同時に、誰かと話をしたいと、傍にいて欲しいと、心が弱ってしまった時に。根気よく寄り添って、付き合ってくれる、やはり稀有な魔法使いでもあった。
ファウストがこの男を随分と気に入っていて、完全に突き放すことが出来ない理由がよく分かる。単純に、彼の与える空気や環境は、居心地が良いのだ。
「悪いね、俺と二人きりでさ」
「むしろ良い思いをさせてもらっているよ。ローストポークは俺の好物だし。カプレーゼも、ワインに合って美味い」
「でもさ、ここにファウストがいた方が、羊飼いくんとしては嬉しかったんじゃない?」
「……いいや、ネロと二人で良かった」
意外な返答に、ネロはその目を軽く見開いた。レノックスの赤い瞳が、少しだけ細められて。彼の人柄を象徴するかのように、優しく、穏やかに、弧を描く。
「ローストポークも、カプレーゼも、ファウスト様はお嫌いだから」
ああ、そういう意味ねと。
上機嫌そうに、珍しい表情を見せるレノックスを前に。柄にもなく跳ねた心臓を、ネロは人知れず嘲笑った。