【フィガレノ】言葉よりも雄弁に。「愛しています、レノさん」
若草色の双眸が、真っ直ぐにこちらを捉えてくる。文字通り幼子であった時からよく見知った瞳は、昔と変わらず無垢で純粋で。そして同時に、短い歳月を経てあっという間に成長を遂げてしまったようだ。その輝きに秘められた感情と、目元を潤ます赤い熱の存在。それらにレノックスはある種の感心すら覚えながら。拳を胸の前で握りしめ、「私はあなたを、ずっと昔から愛していました」と告白する青年と向かい合う。
「……ありがとう、ルチル。俺もおまえが小さい頃から、今も、変わらずに愛しているよ」
大きくなっても、まだ一回り小さい。そんな彼の体躯や両手に感じるのは、やはり保護者としての愛おしさなのかもしれない。彼の手を包み込むように、自分の手を重ねて。レノックスはルチルの瞳を覗き込みながら、そう返した。青年の瞳が見開かれ、細められ。幾度か繰り返し、真っ白の角膜を、健康的な肌の色を、見事な朱色に染めあげる。
「~~っ! ああ、もう、駄目です! 私の負けです!」
ははは、と。周囲からは歓声や笑い声。それから少し甲高い「きゃあ~!」という悲鳴が上がっていった。
愛してるよゲーム、だっただろうか。今よりも前の賢者がこの世界に持ち込んできたという戯れは、魔法舎の若者を中心に時折賑わいをみせている。
愛の言葉を相手に告げて、告げられた相手も同じ言葉を返して、照れた方の負け。
自身の感情に素直な魔法使いたちにとっては、約束に縛られない愛の言葉を気兼ねなく吐き出せる数少ない機会になっているのだろう。そうした理屈抜きに、年若い魔法使いたちが友愛を思い思いに言葉で紡いで、それぞれが感激したり熟れた果実のような顔をして照れる姿を見守ることは、シンプルに楽しいし微笑ましくもある。
一方で人間よりも長い年月を生きた魔法使いたちの大半は、こうした理由で若者の流行を離れた距離で見守ることが多かった。多かったのだが、今のレノックスのように。酒の勢いで手を引かれ、戯れに加わることも、たまにはある。
「やっぱりレノさんには勝てませんね。なんだかこう……思わず『あ、本気かも』って感じちゃうというか」
「うんうん、分かる分かる。レノックスの告白って……本気であってほしいもん」
ルチルの隣で何度も頷く青年は、彼と同い年の友人だ。赤い髪の下には、髪の色を薄めたような朱色の頬の存在があらわになっている。彼の手元に置かれた空っぽのグラスが、酔いの存在を分かりやすく伝えてくれていた。
「理想込みってところもあるけどさ。俺だってきっと、言われたら本気にしちゃうし、照れると思うな。愛しているって言葉は遊びでも、その前の口上は絶対にレノックスの本心だし……」
「じゃあ、実際に言われてみよっか?」
「え?」
「と、いうわけで。レノさ~ん、お願いします~」
そして渦中の大男といえば、艶やかな黒髪の男から勝者のための特別な景品を受け取っている最中で。つまりは場の空気と、喉を焼く一杯に、彼もまた十分酔いしれていていたのだ。
「クロエ……俺はおまえの、裁縫の腕や熱意ももちろんだけれども。友のために奮い立てる勇気を、いつも尊敬して好ましく思っているよ」
「ま……まってまってまって、心の準備、できてない~っ!!」
愛している、とレノックスが告げるよりも前に、クロエが頬の朱色を一層鮮やかに染め上げていった。酔いだけがその理由ではないとは、この場にいる誰の目からみても明らかだ。
本気にしちゃうから、駄目! と、クロエの弾んだ声がバー中に響くと同時に、魔法で取り出された一枚の長い生地がレノックスの口元へと巻き付いていく。
物理的に声を奪い、続きを語らせる術を奪ったのだから当然クロエの反則負けだ。もご、と自由を奪われた唇が動くその下で、鞄に入れられた羊が愛らしく鳴き声を響かせている。なんとも和やかな光景に、この場にいる誰かが穏やかに笑い出して。つられて、クロエたちもまた落ち着いた笑い声をあげた。しゅるりと、布が衣擦れの音と共に緩められてレノックスの首元へと落ちていく。
「ごめんレノックス、びっくりしたよね」
「いいや、クロエこそ。急に参加させられて驚いただろう。ルチルがすまなかったな」
ほら、と。レノックスに促されるまま、ルチルもまたクロエへの謝罪を述べていく。とはいえルチルの口車に乗ったのもレノックスだ。自身のことを棚に上げすぎてはいないかと、すぐさま随分と年下の青年に小突かれてしまう光景もまた、微笑ましい。
「でも、これでよく分かったでしょう」
「分かったって、何が?」
「レノさんがとーっても強いって!」
ふふ、と。この場の誰しもが笑みを零し、この戯れは終焉を迎える――はずであった。たった一つの単語さえ、無ければ。
「この人の、何が、強いですって?」
深いエメラルド色の瞳。燃えさかるガーネット色の髪。レノックスとそれほど違わない長身の男が、ルチルの背後からぬるりと現れる。「愛しているゲームですよ」と朗らかな笑みのままルチルは告げたし、レノックスやクロエも表情を崩すことはなかったが。本来であれば、この突然の来訪者には恐れおののくべきであったのだろう。この青年は暴虐や残酷、あるいはけだものといった言葉と並んで噂される、かの有名な、北のミスラその人であったわけだから。
「はあ。その愛してるゲームがなんなのか分かりませんけど、俺の方が強いですよ」
「ルールは簡単で、相手に対して『愛してる』って愛の言葉を告げればいいんですよ」
「へえ、そうですか。じゃあレノックス。愛してますよ」
「え、ああ。ありがとう」
「ほら、俺の勝ちです。俺が先に愛してると言いましたし。ありがとうと彼はいいました」
「も~、そういうルールじゃないんですってば~」
勝ち誇る北のミスラと、呆れたように苦笑する南のルチル。異なる国の魔法使いたちが、往年からの友人であるかのように交流を深めていく姿。これも魔法舎においてはすっかり馴染んだ光景の一つだ。
バーの奥から、豪快な笑い声が響いてくる。彼らの姿を遠くから眺めていた魔法使いたちの一人、ブラッドリーだ。彼もまた北の生まれではあり、悪名高い囚人ではあったものの、一匹狼としての気質には薄い。北の魔法使いとしては珍しく、集団で何かを為す空気をむしろ好む傾向にあった。そんな彼にとって、若者たちの戯れは良い肴であったのだろう。
「まあ、ミスラは羊飼いに負けねえだろうが。勝ちもしないだろうな」
「は? 喧嘩売ってるんですか」
「聞けって兄弟。これは遊びだ。遊びには、勝ち筋ってもんがある。まあ、羊飼いは強敵だよな。いつもぼーっとした面をして、その下で何を考えてどんな腹持ちでいるのか分からねえ」
「実際何も考えていないんだが……」
「要するに、こいつの考えを奪うだけの、相手を輝かせる言葉と共に愛していると伝えるんだ。こういう男ほどむっつりで、単純で、少しでも浮き足立っちまえばあとは楽だ。なし崩しにどうにでもなる」
「むっつり……?」
ブラッドリーの言葉に、度々不服な点があるのだろうか。言われた当の本人が言葉の一部を反芻し、小首をかしげている。
その間にもブラッドリーは席から立つと、ミスラたちの姿を押しのけてレノックスの前へと進み出た。彼も北の人間であるわけだから、『己よりも強い存在がいる』ことが気に召さなかったのか。それとも単純に、遊びではあってもミスラよりも優位に立とうと目論んでの言動なのだろうか。はたまたレノックスと同じくもっと単純に、酔いの力で気が乗って、戯れに混ざりに来ただけなのかもしれない。
何にせよ、酒の入った面々にとってはブラッドリーの伸ばされた腕がレノックスの腰に回される様も、ロゼの瞳がレノックスの深紅の瞳を真っ直ぐに射止めた様も、思わず声を上げてしまうほどに刺激的な絵面に見えたらしい。ギャラリーの反応を前に益々興が乗ったような顔をして、ブラッドリーは妖しい笑みを浮かべていった。
「なあ羊飼い。てめえのその、血の色が透けた瞳で俺様を見ろ。重たい髪や野暮ったい眼鏡なんざ取っ払って、荒々しくて情けないてめえの感情を丸裸にして曝していい。そんな姿ごと、俺様は愛してやるさ」
荒々しさと情熱的な甘さ。低く掠れた声が告げた言葉は作られた紛い物であったかもしれないが、そうとは思わせないだけの熱量が込められている。眼鏡越しの瞳をレノックスは丸めていって、それから――。
「……どうも」
たった一言、そうとだけ告げて会釈をした。
「それだけかよ!!」
「驚いた。やっぱりおまえは、本当にお喋りが得意なんだな。俺はそこまで口も回らないし、言葉も出ない」
「はあ?! てめえ、俺様に口説かれておいてそんなことしか言えねえのか?!」
「大口叩いたわりに勝てていないじゃないですか、あなた」
「てめえはなんで勝敗の区別がつくようになってんだよ!」
表出ろ、とブラッドリーが野次馬のミスラに向かって大きく叫んだのは、渾身の言葉が相手に一ミリも響かなかったことの悔しさや羞恥を隠すためかもしれないが。特にミスラはそれを指摘することもなく、ブラッドリーと共にバーを抜けだした。
そう時を待たずして大きな破壊音と振動がどこからか響き渡ってくる。これもまた、魔法舎においてはすっかり馴染んだ光景だ。
「ああ、おかしい。笑っちゃった。ブラッドリーたらあんなに自信満々だったのに、そりゃあ空振りしたら恥ずかしいよね」
「フィガロ先生……」
次にレノックスのそばに近づいてきたのは、目尻にうっすらと涙のあとを残したままのフィガロだ。言葉の通り、すっかり酔いの回った彼にとっても、これまでの光景は非常に良い肴になっていたのだろう。実に満足げに、空に近づいたグラスを携えていた。
「だいたい、みんなレノを照れさせるために躍起になっているけどさ。結局は上っ面の言葉じゃなくて、真心が大事になるんだよ」
「先生がそれを言うんですか」
「黙って。ほら、俺が子どもたちにお手本をみせてあげる」
言うなり、フィガロの指先がレノックスの頬に添えられた。唇同士を近づけるような仕草を前に、ルチルとクロエが「きゃあ」と期待と興奮の入れ混じった悲鳴をあげていく。
「愛している。俺にはきみだけだよ、きみしかいないんだ、レノ」
声色にはたっぷりの愛情を。視線にも彼へと溺れる自身の熱を。周囲に見せつけるかのように、ありったけのものを込めてフィガロは伝えた――はずであったが。
「はあ」
――と。レノックスからはとんでもなく、冷めた反応が返るだけであった。
「……あのさ。一応確認するけど。これ、照れ隠しの反応?」
「いいえ、違います」
「え、ええ……」
きずつく、と。フィガロは肩を落とすことが精一杯であるかのように、力なく呟いた。
それもそのはず。実はこの二人、周囲に公表こそはしていないものの――恋人同士、であったはずなのだから。だというのにこの仕打ちだ。羞恥はもちろんのこと、自信の喪失までもが彼の心身に付きまとう。
さて、一方で何も響いてなさげな男はというと。
ルチルやクロエには聞こえないくらいの声量で。「でも俺も、あなたやあなたとの日々を心から愛していますよ」と悪戯に笑って囁いてくるのだ。ひどい仕打ちを前にしても、思わず口元が緩んでしまう程度には、フィガロの身にその言葉は沁みてしまって。
「あ、先生。レノさんに負けてる」
というルチルの言葉を背に受けながら。どんな感情で熱を持ったか分からない頬を、フィガロは空っぽのグラスを押し当てながら必死に冷やしていくのであった。
******
「それにしたって、あれはひどくないか」
その翌朝のことだった。
キッチンで用意した朝食をバスケットにつめたレノックスが、寝起きのフィガロの部屋を訪れたので。そのまま二人で、いくらかだらしない姿のままにゆっくりと朝食をとる最中。昨晩の出来事を掘り起こしたのは、恥ずかしい目にあったはずのフィガロが先であった。
「あれって、どれのことでしょう」
「愛しているゲームだよ。お前に俺の愛、全然響いていなかったじゃないか」
「なんか嘘くさかったので……」
「なんか嘘くさかったので?!」
片眉をつり上げ、わざとらしく不機嫌を現す仕草をする。そうするとレノックスは逆に片眉を下げていって、すみませんと、心からではないだろう謝罪を口にする。
別に、残念だという気持ちは否定しないものの。深く根に持つほど気分を害されたわけでもないのだ。己の愛が、そのまま相手に容易く伝わって、同じだけのものが単純に返ってくるようなものであれば。フィガロはここまで“愛”というものに執心していない。
形だけの謝罪を前に、フィガロは特にごねるでも、引きずるでもなく。すぐに許すそぶりを見せれば。レノックスは自身の無礼についてそれ以上反省するでもなく、普段通りの表情と振る舞いに戻っていった。
正直なところ。レノックス以外の相手であれば、フィガロもこうも簡単に許しはしないだろう。
――いいや、ミチルやルチルといった可愛らしい教え子たちであったり、ファウストのように気に入った弟子であれば多少の無礼は許す心持ちではあったのだが。それ以外の、縁の薄い人間たちや魔法使いたちであれば。自身を軽んじた者として、相当の処罰を与えようと腹に決めてもおかしくはなかった。
それがレノックスであれば、不思議と許せてしまうし。彼がこうして、自身との立場や力量の差には目をつむって親しい間柄の存在として接してくれることが、妙に嬉しい。
それをフィガロは自覚して、コーヒーをゆっくりと嗜む一方で、大きな一口でトーストにかじりつき、目玉焼きやウインナーを飲むように消化していく男を見つめながら。「なんか、いいね。この時間」と呟いた。
その瞬間、レノックスの動きがぴたりと止まる。よく見れば、表情こそあまり変わってはいなかったが。健康的な肌の頬と、耳が、濃い朱色に染まっていくではないか。
「ええ……おまえ、照れる場所がおかしくないか?」
今のどこに、照れる要素があったんだよ。
悪態付いたフィガロを前に、レノックスはか細い声で。「ひみつです」、と零すだけだった。