【フィガレノ】知らないよ、そんな感情なんて レノックスは冬の人。
そんな表現を最初に口にしたのは、たしかミチルだっただろうか。
彼らフローレス兄弟が生まれるよりも前に俺が羊飼いとしての仕事を斡旋したものだから。冬を除いて彼は人里に居なかった――という背景を踏まえれば、それはそうなのかもしれないが。彼の生まれは極寒の季節を過ぎて、初夏の気配が近づいてくる、そんな頃合いであったはずだし。そもそも彼は太陽の下で身体を動かし、人々のために尽くすことに幸福を抱くような、北の気配とも程遠い性格をしていたものだから。冬の、厳しい自然が牙をむくような季節が彼に相応しいとは俺には思えなかった。だからその印象を耳にした時に『ああ、固まった表情筋なんかは確かに冬っぽいかも……』だなんて方向性での同意しかできなくて、兄弟からの顰蹙をかったことは記憶に新しい。
だが、言われてみれば。
風が吹けば少しは肌寒くも感じるが、酒で火照った肌を思うと上着を羽織るには少し悩む。そんな外気を感じながら彼と酒を交わす機会は、確かに珍しいものになるのだろう。
革命軍に居た頃は、立場上親しく食事や酒を共にすることなどほとんどなかったし。南の国に彼が定住するようになってからの話であれば、フローレス兄弟と同じで、レノックスのいない春から秋を過ごすことが常であったから。
たまに俺が、あいつは何をしているのかなと気になって。あるいは俺から与えられた役目が、尋ね人探しの足枷となっていることに葛藤し、気が狂ってしまってはいないかと心配して、様子を見に行くことはあったけれども。それだって決して頻繁な出来事とは言えなかった。
「何か考え事ですか」
ハイネックが暑くなってきたのだろう。腕をまくり、瞼を少し重たげに下げて、レノックスがそう呟いた。独り言のような声量は眠たげな音をしていて。ああ、こいつ、酔っているんだなと。すぐに俺に予感させる。
「うん、ちょっとね」
「俺のことですか」
この返しを受けたのは二度目だ。前の時は、見当違いの返答に目を丸くして、この男のつかみどころのなさに困惑さえ覚えたものだけれども。今回は、悔しいことに的を射ている。
だから「大した自惚れじゃないか」と憎まれ口を叩いてやれば、「なら、俺のことなんですね」と口角を上げて微笑んできたこの男を理解できるのは、果たしていつになるのやら。
出会ったのは四百年前として、まともに会話をするようになってからは五十年も経っていない。俺にとっては長くはないが、決して短くもない付き合いをしている。それがこの男、レノックスだ。有象無象であればその内面を把握して、個性というものを輪郭を指でなぞれるように理解し、手のひらに乗せることができるまで、こんなにも時間を必要としないはずなのに。レノックスに関しては、まだできない。これは彼が、型にはまらない特別な男であるということなのだろうか。それとも単に俺が彼を、特別な男にしてしまったということなのだろうか。
ああ、いけない。また彼のことを考えてしまった。
沈黙を帳消しにするように、グラスに手を伸ばして残っていた酒をあおっていく。南の国の酒は、北の国のそれに似ていて俺は好きだ。喉を焼くアルコールの強さは、寒さを忘れるために作られた故郷の酒の味に似ているから。
「どんなことを考えていたか、教えてもらえますか?」
「おまえへの悪口や文句だったらどうするの」
「ええ……。それはちょっと、傷つくかもしれません」
「だろうね。でも安心して、わざわざ考えなかったから」
わざわざという部分に悪意がある、と。レノックスはおかしそうに指摘した。まるで自然と、四六時中、付随しているから意識をする必要が取り立ててないと言われているようじゃないかと。そんな異議の申し立てだ。
――しかしこいつは。俺が素直に言う事を聞いて、望む通りの距離感を取って。その尊厳を尊重しながらも良い関係を築こうと努力をしていたファウスト相手に、全力で我儘をぶつけて。そのまま押し通して、そのくせ済し崩しに俺よりも先に良好な関係を築いていった男だ。さらにはそれを『俺のやり方が正攻法だった』だなんて言いながら居直ってもきた。それを俺に伝えるところまで含めて、たいした度量をしていると思うし。こういった性格面での傲慢さには、文句の一つや二つどころか、百も二百も出てしまったって、別に過剰ではないだろう。
だから俺は『考えすぎだよ』とは言わないで、苦笑いで適当にその場を濁していった。
くらりと、頭が揺れていく。思考に霞がかかっていく。自分と他人、思考に言葉、善や不義。そういったものの境界線を見失う。
寒い時期に彼と酒を交わせば、必ず彼は途中で「空気を入れ替えましょう」と窓を開けて、肺が痛みを訴えそうになるくらいの冷たい風を、酔い覚ましのようにして俺に与えてくれたけど。今は、まどろみに誘うような生温い空気しか俺を包んでくれやしない。
ああ、この時期にレノと酒を飲むのは、あまりよろしくないのかもしれない。
これも新しい発見だ。
俺の視界に映るレノックスは、眼鏡越しの瞳を丸く見開いていた。それから、可笑しそうに笑っていく。なんで笑っているんだろうと考えてから、俺ははたと気が付いた。喉が、乾いている。アルコールではなく、水を身体が欲している。どうやら自分は、何かを無意識に語ってしまっていたらしい。
レノックスの瞳は外の空気と同じ温度をしていて、こちらを微笑ましく見守る雰囲気さえあった。神としての俺が不敬で不快だと機嫌を損ねる一方で。愛を知りたい一個人としての俺は、それに甘えてしまいたいと腑抜けた欲を訴える。果たして俺は、何を口走ったのだろう。きっと、さっきまでの思考の一部なのだろうけれども。
「嫉妬されていたんですね。フィガロ先生はたまに、不思議なところで俗っぽい感情を露わにされている気がします」
俗っぽい、という単語の選択にレノックスからの棘を感じる。俺の視線の訴えに、表情をぴくりとも変えずに「嫌みではありませんよ」と彼は続けた。「だからと、蔑みでもありませんから」とも。
「俺は、嬉しくなるんです。あなたが天上の存在ではなくて、俺と同じ生き物だと実感できる瞬間に思えますから」
「俺は、嬉しくなれないよ。おまえみたいな若造と同じにされるだなんて、複雑だ」
「いいじゃないですか。嫉妬をするくらい、好きなんでしょう」
真っ直ぐな瞳に、俺は言葉を失っていく。こいつのいう嫉妬は、俺が開けなかったファウストの心の扉をいとも容易く開いてきたレノ自身に向けたもの、という意味なのだろう。嫉妬を向けられて、喜ぶだなんて。その人間性もどうかと思うし。そもそもファウストはこれ以上ないくらいの素晴らしい弟子だとして、俺は大事に思っているわけだけれども。それ以上でも、以下でもない。好きだなんて。そんな短い言葉に、俺の感情を託して良いわけがない。
「ファウストほど崇高な存在を、それこそ俗な感情や欲求なんかで貶めてなるものか。二度とそんなことを言うのはやめなさい」
「え?」
「は?」
俺の叱責に、こいつは目を丸めて呆けた言葉を吐き出した。
なんなんだと、一方で俺の困惑は深まるばかりだ。訝しみながら細めた瞳に、徐々に重力を感じていく。頭もがんがんと、痛んできた。酔いが、思考の邪魔をしている。彼がそのまま続けた言葉の理解が追い付かない。
「あなたが嫉妬されていたのは俺ではなくて、ファウスト様に、だと思ってました」
「はぁ、なんで?」
どうして、俺がファウストに嫉妬しなければならないのか。何を理由に、そんな感情を抱かなければならないのか。
たとえば。おまえにまっすぐに愛されて、求められる。そんな対象である彼が羨ましいと、俺が嫉みを抱いているとでも言うつもりなのか?
「言ったでしょう、そうだったら嬉しいって」
そう照れながら笑うレノの顔は、相変わらず春の陽気のように温かくって、甘ったるくて。溶けて、俺の心の隙間に入り込んできそうな温度をしていて。
『そうかもしれないな』、って。思わず零れそうになった言葉の代わりにため息を一つ吐き出して。酒で、喉に栓をした。
(知らないよ、そんな感情なんて)