【ブラレノ】美味い酒があればいい カラン、コロン。店の扉に備え付けられたベルが、心地の良い音を奏でていく。
目付け役のスノウとホワイトなら、ミスラとオーエンを引き連れてどこかの任務に旅立ってしまったし。フィガロは気に入りの生徒たちを連れて二泊三日だかの課外学習中。オズも日中は中央の魔法使いたちと一緒に魔法舎を開けていた上に、今日の食事はネロが担当していたものであったから。目立った監視もなくのびのびと一日を過ごし、更には美味い飯までもが待っている開放感といえば、筆舌に尽くしがたいものであったと語るべくもない。
この自由の象徴のような一日を、さらに最高なものに仕立てるにはどうしたらいいか。ブラッドリーの問いの答えは単純だ。美味い酒と、それを分かち合える相手が必要だった。
「よぉ、邪魔するぜ」
この時間に水を差すような、厄介な魔法使いの気配がないことを確認し、開いたのはバーに繋がる扉だった。
わざとらしい足音を立てて、乱雑に店に入る姿も。コートの裾を翻しながら、どっかりと椅子に座る所作も。粗暴で、品がなくて、却って人を小さく見せかねない動きではあったが。それがどうにもブラッドリーのものとなると、大物の舞台役者の振る舞いのようで、様になって人目を惹くようだ。
「ブラッドリー」
見惚れるように視線を向け続けていた男が、ようやく我に返ったように来訪者の名前を呼んだ。感じる魔力の質が悪いとは思っていたが、どうやら店主も不在らしい。この店の中で、ブラッドリーは自分よりも背丈のある大男の姿しか見つけることができなかった。
「隣、良かったか」
「それはもう、もちろん」
「ところで、西のパイプ飲みはどこだ? あいつ、ここの店主だろ」
「シャイロックなら、外出しているよ。俺なら店を荒らさないだろうと、番を頼まれた」
なら誰がこのバーで給仕をすると言うのか。せっかく店に来たと言うのに、望んだ酒は飲めないのか。オーバーリアクション気味に顔に張り付けた不満や疑問は、他者へと読み取らせるためにとった、態となものだ。
先客の大男もといレノックスはというと、手元のグラスワインを傾けて、残っていた液体を一気に喉へと流し込んだ。そうして空になったグラスをカウンターへと黙って乗せていく。
途端に、グラスは意志をもって踊るように宙を舞いはじめたものだから。ブラッドリーの視線は思わずその動きに奪われてしまう。いつの間にか流れ出した水と泡を立てた洗剤とがその全身を洗い流し、最後には自ずとグラスハンガーへと戻る様は、率直に物申せば便利な生活魔法と言えるのだろう。
「いまは、前払い制なんだ」
一連の動きを見届けた後に、レノックスは財布から数枚の硬貨を取り出すと、それらをカウンターに備え付けられたトレイへと乗せた。
「すまないが、さっきと同じものを」
トレイがカタカタと震え出したと思えば、そのまま姿をくらまして――間もなくして、鮮やかな赤ともピンクとも紫ともいえるような、ブラッドリーにとってどこかで見覚えのあるようなロゼ色の液体に満たされたグラスが現れる。
「給仕の魔法か、パイプ飲みにしては珍しい」
「一応、これといったリクエストがなければ、その時の客の気分や好みに合わせた飲み物が提供されるようになっているらしい。おまえも一杯どうだ?」
「羊飼い、おまえの奢りか?」
「えぇ……」
でも、前に、賭けに負けたしな……、と。律儀な文句と共に、レノックスの財布から再びエンが取り出された。
しかし今回顔を覗かせたのは、硬貨ではなく紙幣だ。より高額なそれを見て「景気がいいな」とブラッドリーが笑えば「北の国の大魔法使いに、安酒なんて飲ませられない」とレノックスは肩を竦ませる。
とはいえ大方、真相はというと、『さっきので小銭が無くなった』程度の話であるのだろう。仮にブラッドリーの代わりにフィガロがここに座っていたとして、同じ言葉がレノックスの唇から零れてくることは想像付きそうにもない。
そしてこれは完全に余談ではあるが、給仕魔法はこれからも改善の余地があるのだろう。まずは釣銭への対応が急務といったところだろうか。
「これで、彼に一杯を」
不在の店主へ申し出るようにレノックスが声をかければ、ほどなくして新しいグラスが姿を現す。注がれたのはレノックスのものとどこか似ていて、しかし全く異なる、まるで鮮血のような激しい赤の色合いをしたカクテルだ。
「スパイスの香りがするな」
そう零して、一口。ブラッドリーは喉仏をゆっくりと動かし、与えられた液を嚥下していく。
「味はどうだ」
「悪くねえ。アルコールも強いしな」
そうか、と。相槌を打ったレノックスの表情は穏やかだ。
ぐっと、容器の半分程度まで飲み進めてからブラッドリーはグラスを置いた。「折角の高い酒だ、一気に飲み干すのは勿体ねぇ」と語る唇には、この空間に入ってきた時と変わらない明るい表情が残り続けている。
「奢った身としても、味わってもらえた方がずっと嬉しい」
「おまえの小遣いも、さぞ誇らしいことだろう。このブラッドリー様を満足させる酒になっているんだから」
「はは、そうだな、違いない」
レノックスもブラッドリーも、魔法舎の内外問わずに外見で言えば大人の男性らしい表情や所作を評価されることが多かったけれども。この時ばかりは二人揃って、どこか子どもらしさも残した無邪気さを混ぜ込んだ笑みを浮かべている。
お互いに、自然と、視線がかちあって。「乾杯」と今更ながらに声をあげた。静寂の溢れる落ち着いた空間に盃を捧げて、一口、二口。酒の肴は、隣の男と交わす言葉だ。
「ところで、今日は一人で呑む気だったのか? だとしたら邪魔して悪かったな」
「いや、別にそういうわけではなかったし、気にしなくていい。……誰かと話すつもりでバーに来たわけでもなかったから、こうしておまえと話しているのは不思議な気分だ」
「へぇ、喧騒を肴にする気だったのか? だとしたら随分と当てが外れたな」
レノックスが首を横に振る。ブラッドリーのそれよりもずっと短くて重たい前髪が僅かに揺れて、波打った。「むしろ逆だよ」と、静寂によく溶けこむ声が、その意思をゆっくりと紡いでいく。
「今日は魔法舎を出払っている人も多くて、寂しいくらいに静かだったから。だからこそ、行ってみようと思ったんだ」
「ふぅん。おまえは人好きの気質で、賑やかな場所にいる方が落ち着く性質だと思っていたんだが」
「たしかにブラッドリーの言う通りでもあるが。俺は、静かなバーの空気も好きだよ。……でも今日は俺の好みというより、こういう静けさを好む相手がここに来てくれるかもしれないなと、期待を込めて足を運んだんだ」
そう語るレノックスの横顔が、眩しいものに恋焦がれる子どものような姿をしていたものだから。ブラッドリーは思わず唇を尖らせ、「悪かったな」と頭を掻いた。レノックスの思い描いていただろう相手とは別の男が、そのために用意していた席を独占してしまっていたことに、どうにもばつの悪さを覚えたのだ。
だからと今更遠慮をして、この場を離れるのも妙な話だ。殊勝な態度は一瞬で形を潜め、好奇心へと変わっていく。当然、ブラッドリーの脳裏に浮かんだ〝相手〟といえば、陰気な呪い屋の男であったのだが。そういえばこの男については、フィガロや南の兄弟と一緒に明後日までは帰らないような噂話を聞いていた。
その情報源とは、つまみ食いの途中でブラッドリーを捕まえた東の飯屋だ。信ぴょう性の観点で言えば、かなり高いはずだろう。
「待っていた相手、まさかネロか?」
「ネロ? どうして、そう思ったんだ」
「おまえら、案外仲良いだろ。隣人同士の好っていうか……」
お互いに気配りが得意なことと、保護対象である子どもたちの仲が良いことも起因しているのだろう。ブラッドリーの記憶の上ではそれなりの親交が深められていたはずだが、彼の反応を見るに違うようだ。「やっぱ、今の無し」と早々に意見を切り上げる。
「じゃあ、フィガロ」
「先生なら明後日まで帰ってこないよ」
「そういやそうだった、南の兄弟と東の呪い屋たちとどこかに行ってたな……。なら、まさかオズとは言わねえよな?!」
その次にブラッドリーの脳裏に思い浮かんだのは、世界最強とも称される一人の魔法使いの姿だった。
忌々しさと象徴である宵闇の黒髪と、冷徹な赤い瞳。密かに遠い星空と同じくらいに焦がれて憧れていたそれらが、魔法舎の暮らしの中でどうにもふぬけた姿に形を変えてしまったことで、ブラッドリーが一方的に苛立たしさを覚えている相手でもある。
そんな彼が、魔力だけでいえば最弱とも言えるようなレノックスと二人で酒を飲みかわす姿というのは度々信じられない光景として北の魔法使いたちの目に留まっていたわけであるが。それを指摘しても、レノックスは薄く瞳を細めて「どうだろう」と曖昧な言葉を返すのみだ。
「信じられねぇ。オズと二人でサシ呑みなんざ、美味い酒も不味くなる」
「そうかな。俺は毎回、美味い酒をご一緒させていただいているんだが……」
「どうなってんだよ、おまえのその無駄にすわった肝ってやつは」
「そんなにおかしいだろうか」と、レノックスは不思議そうに首を傾げていく。「おかしいだろ」と笑い飛ばして背中を叩けば、困ったように眉尻が下がっていった。
その姿を肴に、ブラッドリーも笑みを零すと酒を口に運んでいく。未だに正解の分からない疑問について、肘で小突いて揶揄う様に、その答えを催促したのだが。
「内緒だ」
レノックスはそう語り、ロゼ色の酒をもう一度呷る。グラスの側面に映り込む自分の瞳の色こそが、この酒に抱いた既視感だと。ブラッドリーが気付いたのも、丁度このタイミングの話であった。