色取り何の前兆もなく、部屋に間抜けな音が響いた。
その発生源は自分のお腹からだ。
時計を見ると、13時半を過ぎたところだった。
このまま続けても何も差し支えはないが、一応ひと段落はしている。
少し逡巡し、椅子から立ち上がった。
その拍子にパラパラと砂が零れ落ちる。
後で掃除機もかけないと。
ビニール袋に入れたまま放置していたカップ麺を一つ手に取り、階段を降りる。
ハウスの中には人気がなかった。
それにホッと息を吐いてケトルに水を入れる。
特にすることもないので、ボンヤリとキッチンを見渡した。
1番目を引くのは、賑やかに装飾冷蔵庫。
いおくんが貼ったであろうゴミ収集のスケジュール表に、テラさんの写真、何だかよく分からないキャラクターのシール等々。
雑多なはずのそれらがとても楽しそうに見える。
まるで、このハウスそのものを投影しているみたいだ。
ボコボコと沸騰するお湯の音だけが、この空間を支配する。
ふと、まだカップ麺のフィルムを剥がしていないことに気がついた。
爪で底をカリカリ引っ掻き、薄いフィルムを適当に引き剥がす。
両手で丸め、ゴミ箱に捨てたのと同時にケトルからカチッという音が響いた。
点線まで蓋を開け、お湯を注ぐ。
熱湯3分、と書かれた蓋の上に箸を乗せて重石にした。
正直、お腹に入れば一緒だと思っているのでいつもその時間を守らず食べてしまっている。
今回もとてやはり適当な時間待って、軽く蓋を開け箸でかき混ぜてみてそれなりの柔らかさになっていたら蓋を全て剥がしてから麺をズルズル啜った。
たまに食べれば美味しいのだろうが、ほぼ主食としている自分にとってはいつも通りの味だ。
無感動に、無感情に、程々に冷ました麺を啜り続ける。
たまに気まぐれに汁を飲んだりしながら食べ進めて、半分まできたところで玄関の鍵が開く音がした。
今まで続けていた動きが止まる。
嫌な汗が背中にダラダラ流れていた。
まさか、まさか……?
「あぁ〜、腹減ったぁ」
いつぞや聞いたセリフを言いながら、ピンク色の頭をいかつくセットさせた、反発のカリスマこと、猿川慧がリビングへ入ってきた。
このカップ麺を見捨てて今すぐに部屋へ戻りたい。
しかし猿川慧は、バッチリこのクソ吉をその目に捉えていた。
終わった……。
「あ?またテメェかよ」
その普通にしてても険しい顔を、更に顰めて見せた。
確かにお腹を空かせて帰って来たところに、こんなクソゴミクソ吉がカップ麺を啜っていたら気分が害される何てレベルの話ではないだろう。
何てクソ人間だ、湊大瀬。
早く死ね。
「すみません、今すぐに首を掻っ切って血飛沫を上げながら死にますのでお許しください……」
愛用しているナイフを取り出し実行しようとすると、焦った様子で止めにかかられてしまう。
「止めろ止めろ!んなのただのホラーじゃねぇか!!」
「ホラーではなく、どちらかというとスプラッターかと……」
「どっちも変わんねぇよ!!止めろって!!」
力づくでナイフを奪い取られてしまった。
あぁ、自分のナイフが…と心の中で嘆くと、猿川さんは息を整えながらギッとこちらを睨みつけてくる。
「いきなり死のうとすんじゃねぇ!あの絵、まだ描き終わってないんだろ!?」
あの絵、とは多分自分がこの家を出て行こうとした時に残していったものだろう。
まさかこの人の口からそれが出てくると思わず、ついその顔を凝視してしまった。
「ったく……油断も隙もあったもんじゃねえな」
ドカリと、当然のように自分の隣に腰を下ろした。
え、何で?
席は他にもいっぱい空いている。
なのになぜわざわざこんなクソ吉の隣に座る?
……頭、疲れてるのか?
「何食ってんだ?」
一瞬いつものアレが出そうになったが、それを言ったら許さんと顔にしっかり書かれていた。
口をモゴモゴさせながら事実を伝える。
「……カップ麺、です」
「ふーん」
心底興味のなさそうな返事をされた。
ならなぜ聞くのか。
「お前それ好きなのかよ」
「え……?」
「カップ麺。いおの飯食わねぇでそれ頻繁に食ってんだろ」
確かにこの頻度で食べていたら好きだと思われてしまうか。
別に好きとかではなく、食に対して興味もないから適度にお腹を満たせられるカップ麺が丁度いいというだけなのだが。
それをどう伝えればいいのか。
「いおくんの美味しいご飯が、自分みたいなクソ吉の栄養となってしまうのが大変申し訳ないので……。あんな素晴らしいものが、自分の生命活動の糧になってしまうと思うと、更に死にたくなります……」
「意味分かんねぇ。作ってんだからつべこべ考えないで食えばいいだろ」
自分の必死の回答も、意味が分からないで一蹴されてしまう。
しかし、あまり気分が悪いとは思わなかった。
彼のはっきりとした言葉は裏表がないので、もしかしてこう言いたいのでは?とよく陥ってしまう言葉の裏読みをしなくていいから。
でも、分かり合うことは難しいのだろう。
自分のようなクソが、こんな出来た方と分かり合おうとする方が烏滸がましいか。
「自分には過ぎたものなので……」
「ふーん」
またあの心底興味のなさそうな返事。
どうするが正しいかと固まっていると、伸びちまうぞと言われて、食べていいのかとビクビクしながら再び麺を啜る。
味がしない。
他人に見られながら食べると、こんなにも緊張するのか。
中世のフランスの王族は、何をするにも全て貴族たちに見られながら生活していたという。
ものすごい胆力だな……と1人で勝手に感心してしまった。
「お前今何考えてんの?」
「え……っと、中世のフランスの王族の生活と、それにより培われたであろう胆力について……です」
「はぁ?」
素直に言うんじゃなかった……。
もっと面白いことを言えたらいいのに。
「お前って本当に意味分かんねぇ」
「す、すみません……」
「別に謝らなくていいけどよ。いおも意味分かんねぇとこかなりあっけど、別のベクトルで意味分かんねぇよな」
この短時間で何回“意味分かんねぇ“を言ってるのだろう。
数えておけば良かった。
まともに面白いことも返せず、ズルズル麺を啜る。
いっそ麺だけを啜り続ける機械になれたらどれほど良いだろう。
あぁでも機械ならばご飯など不要だ。
機械になってしまいたい……。
「あの絵、描いてんの?」
頬杖をついて、何ともなしに聞かれる。
口の中の麺をしっかり飲み込んでから口を開いた。
「いえ、今は違う作品を……」
なぜだか意味もなく後ろめたくなり、カップを持ち上げる。
そのまま残りのカップ麺を必死に掻き込む。
いつもより柔らかくなった麺は、簡単に飲み込むことができた。
「何描いてんだ?」
思いがけない質問の連続に、思い切り麺が詰まりそうになる。
それを必死に誤魔化して、あの答えではない答えを伝えた。
「趣向を変えて、サンドアートに挑戦しています……」
ようやく全部食べ切った。
これで部屋に戻っても問題ないだろう。
「サンドアートぉ?」
「砂の絵です」
カップ麺の容器を片付けようと思い立ち上がった瞬間、猿川さんもガタリと勢いよく立ち上がる。
「砂で絵って描けんの!?」
突然の大声に肩が跳ねてしまった。
でも、そんなこと気にせず猿川さんは詰め寄ってきた。
「どうやって!?」
「え……っと……糊付きボードの剥離紙に絵を描いてから、その絵をカッターとかで切っていって、切った剥離紙を剥がして好きな砂をかけたらできます……」
「全然言ってる意味分かんねぇわ」
あ、また言った。
猿川さんは椅子にドカリと座り直す。
「早くそれ洗えよ」
「え?あ、はい」
それ、とはこのカップ麺の空き容器だろう。
水道水で何度か濯ぎ、ゴミ箱へと捨てた。
呆れられたのだろうか。
もっと自分が分かりやすく説明できたら良かったのに。
これだから人とか関わるべきではないのだ、こんなクソゴミ野郎。
自分もゴミ箱に入った方がいいだろうか…。
「おい、何してんだよ」
ゴミ箱を凝視していると、いつの間にか猿川さんが背後に立っていた。
「ヒェッ」
「早く行くぞ」
「ゴミ箱へですね、分かりました……とりあえず、手足が嵩張るのでどうにかして切り落とします……」
ナイフで、と思ったがさっき没収されてしまったのだった。
一旦部屋に戻らねば。
「ちげぇよ!お前の部屋にだよ!!」
「切り落とすナイフを取りにでしょうか?」
それならさっきのをそのまま返してくれたら良いのに。
猿川さんは目を吊り上げて地団駄を踏んだ。
「砂絵!どうやって描くのか見せろっつってんの!!」
「え……?」
砂絵?と無意識に口から漏れ出た。
猿川さんはガリガリと頭を掻きむしっている。
「普通に考えたら分かるだろバカ」
全然分からない、と思ったがこれを口に出したら怒らせるというのはこんなクソ吉にも想像ができる。
「口で説明されても俺にはイマイチ想像できねぇから。見た方が早いだろ」
口頭では分からないから、見る……?
話の前後が全く理解できず間抜け面を晒しているであろう自分に、猿川さんは顎で2階を指し示した。
「行くぞ」
「へぁ……」
自分の部屋のはずなのに、なぜか猿川さんに先導されている。
部屋の前に着くと、早く開けろとばかりに睨まれた。
いっそ今から飛び降りて死ぬか?
しかし、逃げることなど許さなさそうなその顔を前にしては断念せざるを得ない。
腹を括って自室のドアを開ける。
自分が部屋を出てから何一つ変わっていない、ごちゃごちゃの汚い部屋。
でも猿川さんは気にした素振りも見せず、当たり前のようにズンズンと中に入って行った。
「どれだ、その砂絵」
「こ、これ、です……」
一際雑多な机を指差す。
それを覗き込んで、猿川さんは首を傾げた。
「ふつーの絵じゃねぇか」
「まだ下書きの段階なので……。これからその絵の通りに切っていきます……」
「ふーん。じゃあ早くやれよ」
見られながらやるのはちょっと……何て言っても聞いてはくれないだろう。
流石に立ちっぱなしで待たせるのは心苦しいので、折り畳み椅子を差し出し、机に向かった。
前にみんなで行った海があまりにも綺麗だったので、その時の風景を自分なりに落とし込んだものだ。
特に、帰る間際の夕暮れが。
まずはオレンジ色から。
何種類かを混ぜ合わせ、剥離紙を剥がした粘着部分にサラサラとかける。
地平線の向こうに沈んでゆく夕日と、それを飲み込むような海、そして緩やかな波の形。
せっせと荒い砂、細かい砂と乗せていく。
隙間があると、そこにその後乗せた砂が入ってしまうことがある。
それもそれで綺麗だが、今回はそういうのがないよう丁寧に乗せていく。
「なぁ、何でそんなオレンジ混ぜてんだよ?」
そういえば猿川さんがいたんだった。
いつの間にか椅子を近くに持って来て至近距離で見られていた。
ヒッと声が出そうなるのを必死に飲み込んで、アワアワと答える。
「あっ、えっと……海の夕日と、それを反射する海面、を再現して、みたくて……すみません……」
「別に謝んなよ。ふーん、こんなチマチマやんだな」
もう飽きただろうか。
それなら帰ってもらえるから良いはずなのに、少し寂しく感じてしまう自分がいた。
あぁ、最悪。
お前如きが寂しいだなんてクソな感情で猿川さんの貴重な時間を奪うのか、湊大瀬。
ゴミカス以下の腐れ肉塊の分際で。
「おい、別の色やんねぇのか?」
「え?あ、やります……」
次は濃くなっていく空の色。
濃紺まではいかないが、抜けるような青空とも違った夕方特有の色。
どの色がいいだろう。
不意に、猿川さんが腕を伸ばし砂の入った小瓶を1つ手に取った。
それは生き生きとした葉を彷彿とさせる鮮やかな緑色だ。
「ふーん、そこら辺の砂とは違うんだな」
「それ用に人工的に作られたものなので……」
良かったら、と余った糊付きボードを差し出した。
猿川さんがキョトンとした顔をする。
余計なお世話だっただろうか。
「出していいのか?」
「は、はい。剥離紙を剥がしてその上に好きなように蒔いてください……」
机のスペースを少し広げる。
そこに今渡したボードを置き、恐る恐るといった感じで小瓶のコルクを外し、ワサッと砂を撒いた。
自分がさっきやっていたのを真似するように、指で広げている。
「他の色も良ければ……」
次は先ほどの緑よりワントーン濃い緑を選んでいた。
「緑がお好きなんですか……?」
「あ?ちげぇよ。緑が取りやすいとこにあっからだよ」
そうは言っても、取りやすいところあったのは黄色や赤色だったのに。
緑といえば何となく、国民の奴隷を名乗り、自我などないと自称する自我の塊の彼を彷彿とさせる。
でもそれは言ってはならないのだろうと、こんなクソ吉でも分かった。
その濃い緑も撒いた後、次はオレンジに手を伸ばしていた。
その顔はどことなく楽しそうに見える。
ホッと少し安心してから、自分も続きへと取り掛かった。
どれくらいやっていただろう。
猿川さんは満足したように頷き、大きく伸びをした。
「完成ですか?」
「おう」
そこに広がっていたのは、沢山の色が大胆に撒かれた渦にも見える絵だった。
鮮やかなその色使いはとても楽しそうでありながら、どこか不安定にも見える。
「抽象画みたいですね」
「これ、お前の頭ん中のイメージ」
「へ!?」
猿川さんとその絵を交互に何度も見てしまう。
自分の、頭の中……?
こんなに鮮やかなわけがない。
もっとグチャグチャで、汚らしくて、見るに堪えない造形をしているに決まってる。
こんな、こんな惹き込まれるようなはずがない。
「ゴチャゴチャしてて、何考えてんのか分かんねぇし突飛すぎっけど、まぁ飽きねぇ感じ?そういうの」
猿川さんが悪戯っ子のように笑う。
幸せだと、染み染みと胸いっぱいに広がった。
今死にたい、この瞬間を永遠にしたい。
目の前の、狼のように孤高な人が描いてくれたこの絵。
自分の一部を表現したというこの絵を抱えて死んでしまいたい。
だけど、猿川さんがゴッと頭を小突いてきた。
「お前、またくだらねぇこと考えてんな?」
見透かすようなグレーの瞳。
優しさを隠しきれていないその薄い色が自分を射抜く。
「これ、このまんまだと砂落ちてくんだけど」
「あ……上から更に水で薄めたボンドを貼ると、綺麗に保管できます……」
自分がやって良いですか?と問うと、小さく頷いてくれた。
嬉しくてついニヤけてしまいそうになる。
だが、こんなクソブスがニヤニヤと笑っていたらそれこそホラー意外の何物でもない。
必死に口の裏を噛んで耐えた。
「ん、じゃあ帰る」
「あ……ありがとう、ございます……」
「何でお前がお礼言ってんだよ」
呆れたような顔をされてしまったが、その口元は心なしかいつもより柔らかに見えた。
自惚れの可能性は高いけど、そうでないなら嬉しいだなんて思ってしまう。
「そのボンド貼れたら持ってこい」
「ぎ、御意です……」
入って来た時と同じようにズンズン部屋を出て行った。
バタンと音を立ててドアが閉められた。
すると元の暗く陰湿な部屋へと戻る。
このクソの部屋に、彼の鮮やかで突き刺すようなピンクはあまりにも眩しかった。
でも、心がふわふわして擽ったい。
不思議と嫌ではないと思った。
彼が残していってくれた色彩豊かな砂絵を見つめる。
あの人はこの絵を自分の頭の中だと言ってくれたが、自分には何となくあの人の生き様のように感じた。
一言では到底言い表せない全てが。
自分の絵をどかし、彼の絵を目の前に持ってくる。
皿にボンドを出して水を入れ薄める。
それをハケに浸して慎重に、普段以上に丁寧に塗ってゆく。
元の絵を損なうことなく塗れて、達成感が胸に満ちた。
この絵に、こんなクソ吉が携われたことが誇らしい。
「えへへ……」
今まで感じたことのない幸福感でいっぱいになりながら、乾くまでと心の中で言い訳し絵を横に移動させる。
もう少しだけ一緒にいたかった。
その絵を視界の端に捉え、また自分の絵と向き合う。
この絵ができたら、見てくれるだろうか。
そんな身の程知らずな幻想を抱いて、絵にカッターを走らせた。