廊下に出るといおくんの作る夕飯の匂いが漂っていた。美味しそうな匂いなのは当然違いないのだけど、もしかしてと思ってしまう。
「おい大瀬」
珍しいことに猿川さんが二階にやってきた。寄った眉間の皺が自分の予想の正しいことを伝えてくる。
「今日も……?」
「今日も、だよ。鍋、モツ鍋だって」
ここ最近晩ごはんが頻繁にお鍋なのだ。あのご飯を作ることに命を賭けていると言っても過言ではないいおくんが、だ。聞いたところによると野菜をたくさん食べたいテラさんのリクエストらしい。こんなゴミに優しくしてくださり、自分の作品のことも褒めてくださるテラさんの意見に文句をつける権利はないし、いろいろ工夫して飽きないよう作ってくれるいおくんにいちゃもんをつけるのも嫌だけど、思わず感じてしまう。
お鍋か……と。
「今日はふみやのリクエストだってよ。昨日豆乳鍋だったからって」
「その前は海鮮でしたよね……」
「その更に前は鶏白湯な。飽きるだろ、普通」
いおくんのご飯はとても美味しいけどずっとお鍋なのだ。あぁいったみんなで食べるようなものはどれをどのくらい取っていいのか分からなくて不安になるし、何よりネックな具材の大部分を締める野菜の存在。お腹は空いているけど、今残っている作業に集中して皆さんが寝静まってからカップ麺でも食べようか……。
「お前今から暇か?」
「え……?」
「暇なら反旗を翻すぞ」
「は、反旗……!?」
現実でほぼ聞かない単語が飛び出してきた。猿川さんは一体何をする気なのだろうか。
「そのためにお前呼びにきたんだよ。他の奴らは鍋も歓迎ってスタンスとってやがるからな」
「反旗って、何をされるおつもりで……?」
「これ」
ポケットから出てきた手には二枚のチケット。デカデカと主張の強い太文字で『焼肉サービス券』と書かれている。焼肉という単語に意図せず涎が溢れ出した。
「焼肉……」
「焼肉。これ二人以上じゃねぇと使えないんだよ。暇なら行くぞ、反旗焼肉」
「反旗焼肉……」
まるで店名みたいだ。でもお鍋と聞いてなりを少し潜めていた腹の虫が一気に活動的になった。早くしろとばかりに鳴り出そうとするのを必死に止めようとしたが、格闘虚しく漏れ出てしまう。猿川さんは少しだけ口角を上げた。
「決まりだな。いおがモツの処理してるうちに行くぞ。今なら意識がモツに集中してっから」
「は、はい……!」
いおくんに見つかれば椅子に縛り付けられ食べさせられるところまでセットでついてくるだろう。早く行かないと。
抜き足差し足で階段を降りようとしたのを、猿川さんは堂々と降りて行った。見つかってしまうと顔から血の気が引く。
「ちんたらすんな」
置いて行かれてしまう前に音をなるべく立てないよう駆け降りた。猿川さんは足先だけ靴に入れソッと扉を開ける。自分はサンダルに足を突っ込むだけなので静かに閉めるのを変わった。
「あぁいうのは変に隠そうとする方が見つかんだよ。ある程度はシレッとしとけ」
「な、なるほど……」
一理あるかもしれない。その方が無駄に緊張しないからボロが出なさそうだ。肝に銘じておこう。
「よし! 行くぞ焼肉!」
「は、はい……!」
「返事はおうだつってんだろ、反旗焼肉だぞ」
「ぉ、おぅ……!」
「もっと出そうだけど、まぁ及第点ってとこだな」
猿川さんから褒めていただけて足元がふわふわする。ナイフを取り出そうとした瞬間に襟首を掴まれた。
「お前は! 突拍子もないこと止めろって!」
「ゔぅぅ……」
その状態で引きずって連れて行かれる。首の締まりきらない絶妙な力加減。いっそのこともっと本気で締めてくださってもいいのに。
商店街の手前で襟首が解放された。猿川さんの斜め後ろを歩く。そういえば場所がどこなのか聞いていなかった。猿川さんの迷いない足取りを見るに、どこにあるのか分かっていらっしゃるのだろう。歩きながら無意識のような『腹減った』という言葉が聞こえてきた。独り言であろうそれに、意識せず相槌を打っていた。しまったと思ったが、猿川さんは片眉だけ上げて何でもないように『だよな』と返してくださる。
「大体連続鍋ってむしろ栄養偏るだろ。ガッツリ肉食わねぇと力でないってのによ」
「分かります……」
入っている具材やベースの味も違うのかもしれないけど、やっぱりお鍋はお鍋だ。しめの雑炊やうどんは結構好きだけど、それだけでは自分の気持ちが誤魔化しきれなくなってきていた。
「ひたすら肉だけ食うぞ。野菜なんざ頼んでる場合じゃねぇからな」
「はい!」
商店街の路地に入るとお肉の焼けるいい匂いが漂っている。もくもくと煙の見えるお店が焼肉屋さんだろう。
「二人入れっか?」
「なんだ慧じゃねぇか、久しぶりだな」
横開きのドアを開けながら猿川さんが大きな声で店の奥に声を投げた。その声に負けない大きさで声が返ってくる。出てきたのは、天彦さんよりも背の高そうながっしりとした強面の店主さんだった。何もされていないけど、すくみ上がりそうになる。
「しかも人連れてってか! 珍しいこともあるもんだなぁ!」
「うっせぇな。声でけぇんだよ」
「お前も変わんねーだろうがよ。奥の座敷空いてっからそっち使っていいぞ」
「おー」
こっちだと言いスタスタ歩いて行ってしまう。店主さんに頭を下げてその後を小走りで追った。奥は小上がりで衝立で仕切られていて隣同士が気になりづらい形となっている。とてもありがたい。一番奥の席に猿川さんが靴を脱いで上がる。自分もサンダルを脱ぎ、下スペースに収納する隙間があったのでそこに並べて入れた。
席は掘り炬燵になっていて足も広々伸ばすことができる。早速メニューを広げ猿川さんがものすごい近さで覗き込んでいた。その背後から見てみたが、何が何だかさっぱりだ。見えないとかではなく、肉の名称が書いてあってもいまいちピンとこない。顔を上げた猿川さんと目が合う。
「何か食いてぇやつあるか?」
「い、いえ……! 猿川さんの、食べたいもので……」
「ん」
席に一応喫茶店にあるような銀色のベルがあるのに、猿川さんはそれに目もくれず厨房の方へ叫んだ。
「注文!!」
返事が一向にないのでベルを押した方がいいのではと汗が出そうになったタイミングでメモ帳を持った先程の店主さんがやって来た。呆れ顔で机の上を指さしている。
「そのベルが見えねぇのかよお前には」
「こっちの方が早いだろ。それに耳遠くならないためにも丁度いいだろ」
「お前の声のせいで耳が遠くなりそうだっての」
軽いかけあいの後、猿川さんが呪文のようにお肉を注文してくださった。ほとんど分からなかったが、唯一『タン』という単語だけ聞き取ることができた。
「大瀬、米は?」
「あ……では、一番小さいサイズをいただいても……?」
「小と大の二つ、とりあえず以上で」
「はいよ」
愛想がいいわけではないけれど、テキパキとした方だ。去り際に置かれたお冷を一口含む。
「お一人で切り盛りされてるんですか……?」
「らしいな。ま、こんなわかりづれぇとこにあんだからそう人来ないだろ」
そんな人が来ないと評する焼肉屋さんを猿川さんはなぜ知っているのだろうか。顔に出ていたのか、猿川さんは氷を噛み砕いた後に少しバツの悪そうな表情で教えてくださった。
「前喧嘩して怪我した時に手当てしてやるって引きずって連れてこられたんだよ。別に大した怪我じゃねぇっつってんのに」
「怪我……」
「別にいつものことだよ。いおと理解に言うなよ、面倒くせぇから」
きっといおくんは何で自分に手当てをさせてくれなかったと口で騒ぎつつも猿川さんを心配する姿が思い浮かぶ。理解さんは目と眉を吊り上げ猿川を叱ることだろう。猿川さんの身を案じて。そう考えるとしっかり報告するべきに感じるけど、猿川さんも心配をかけたくない気持ちがあるんだと思う。その証拠に何も感じないならあんなバツの悪そうな表情されないはずだ。信じて、なんていうのは烏滸がましいが、自分は言わないと思って伝えてくださった気持ちを踏み躙るのはどうしたってできないことだった。
「とりあえず、タン塩とハラミと豚トロな。米はこっちで、これはサービスだ」
お肉とご飯と共に置かれたのは瓶に入ったオレンジジュースだった。栓は既に抜かれている。
「どうせなら高い肉でもサービスしろよ。国産黒毛和牛とか」
「本当に減らず口だな。そんな口のお前に味の違い分かると思えねぇよ。あんた、両方飲んじまっていいぞ」
「えっ……!? いえ……そんな、自分なんかに申し訳ないので……! それに猿川さんへでは…………」
「一人でジュース二本も飲むかよ」
片方のジュースをご飯と共に目の前に並べられた。
「ありがとうございます……十倍にしてお支払いします……」
「サービスだよ、残りもうちょい待ってな」
せめて土下座くらいと思ったのにすぐ厨房へ戻ってしまった。呆然と背中を見ていると、横からジュワッと小気味良い音が響く。
「早く焼いてくぞ、腹減ってんだから」
「は、はい……!」
トングを掴み加勢しようとしてはたと気づく。これはどうするのが正解なんだろうかと。各自で焼くスタイルなのか、それともそういった区切りなく食べるのか。猿川さんが不愉快にならないのはどっちだろう。いや、なぜ一緒に食べるという選択肢が当然のようにあるんだ。そんなの、自分がお焼きするのが良いに決まってる。本当に? こんなゴミの焼いた肉なんて猿川さんが食べたいと思うのか? 身の程知らずにも程があるんじゃないか。
「おい、タンすぐ焼けてくんだからどんどん取れって」
「ぇあ!?」
言われたように、薄切りのタンはすぐに火が通って一回り小さくなっていた。これ以上は焦げてしまう。トングで取れば猿川さんはよし、というように頷く。
「テキトーに並べてっから、好きに焼いて食えよ」
「じ、自分がやります……!」
「自分の分くらい自分でできるっての。ほら、そっちの豚トロそろそろひっくり返せよ」
「ああぁぁ……」
テキパキと乗せられたお肉が猿川さんによってひっくり返されていく。手を出す隙もない。タンに塩ダレをたっぷりつけ猿川さんが頬張る。また涎が溢れてきてしまった。
お箸で猿川さんが焼いてくださったタンを掴み、同じようにタレをつけ口に入れる。ご飯も一緒に食べれば夢心地になった。
「うめぇ」
「美味しいです……」
焼けた端からお肉を補充し、ご飯と共に味わう。途中で追加のお肉もやってきていた。店主さんは目尻を緩めお肉の山盛り乗った大皿を置いて去って行った。多分これはお肉までサービスしてくださっている。口の中に食べ物が入っていて喋れないから帰り際にでも絶対お礼を言わねば。
「そうだ」
「どうかされましたか?」
「そのままでいろよ」
そのままと言われたので全身に力を込めて動かないようにする。ちょうどお肉でご飯を巻き食べようとしているところだった。猿川さんはスマホを取り出して突然画面をこちらに向けてくる。混乱しているうちに猿川さん自身も少しこちらに身を寄せ画面に映るボタンを一度押した。軽いシャッター音を響かせて画面の中が切り取られる。冷や汗が出ている自分とは対照的に、猿川さんはなっとくした様子を見せた。
「うっし、いいな」
「な、なんで……」
「何が」
「写真なんか……じ、自分と写真なんか写ったら魂が抜き取られてしまいます……!」
「いつの時代の話だよ。現に抜き取られてねぇだろうが」
おでこをデコピンされた。何やら操作してまたニヤッと笑みを浮かべる。それは、テラさんへの悪戯が成功した時のような無邪気な笑顔だった。
「これで完璧だ」
「えっと……?」
「写真をいおに送りつけたんだよ。また俺たちに外食されたくなけりゃ、明日は鍋じゃないもんにしろって意思表示にな」
「いおくんに!? だ、大丈夫なんでしょうか……」
「知るか、これは反旗焼肉だって言っただろ。反旗を示さねぇでどうすんだよ」
勢いよくご飯とお肉をかき込む。そんな猿川さんを見ていたら、帰ってからのいおくんを気にしてもしょうがないような気になってきた。怒られて詰られるのはほぼ確定なのなら、今は目の前の焼肉に集中した方がお得だろう。
巻いたままだったお肉を頬張る。少し冷めようが美味しくて仕方ない。二人で夢中で焼肉を堪能する。あっという間に最初に頼んだお肉はお皿から全てなくなった。猿川さんがメニューを見えやすいよう机に広げてくださる。
「何か追加で頼むか?」
「いえ、もうお腹いっぱいなので……すみません……」
「別に謝る必要ねぇだろ」
最初よりも熟考していた。猿川さんも大分お腹いっぱいになってきているから厳選しているのだろう。メニューを見るのは楽しいので一緒に眺めていると、目に止まる品があった。
「玉子スープ……」
「あぁ、焼肉屋のってなんか無条件に美味そうに見えるよな」
お肉もご飯ももう入らないけど、スープなら入りそうな気がした。しかもありがたいことにハーフサイズも準備されている。けど、もういらないと言ったのに意見を変えては不愉快にさせてしまうだろうか……。
「俺はクッパにするか。あと肉ちょっと頼んで」
「え?」
「玉子スープ、ハーフでいいんだろ?」
返事をする前にまたベルを押さず大声で店主さんを呼び出した。もう諦めたのか何も言わずに注文を取ってくれる。
「あっあの……!」
「どうかしたか?」
「お肉……を、ありがとう、ございます……」
「うちは焼肉屋なんだから肉出すの当たり前だろ」
それはそうだけどそうじゃない。こういう時自分の伝える力のなさが殺したくなるくらい嫌になる。いつか絶対殺すのだけど。
「それもそうなんですが……量が、多いと思いまして……ありがとう、ございますと…………」
首を傾げ、目尻を下げて微笑んでくれた。
「腹一杯になったか?」
「は、はい……!」
「ならいいんだ、スープちょっと待ってろよ」
優しい声色に身体の芯から温かくなった。猿川さんが汗のかいた瓶を傾けジュースをラッパ飲みしている。これ以上ぬるくなっては勿体ないので自分もコップに移さず飲み干した。
届いたスープはふわふわの玉子が沢山入っていて、一緒にネギと白胡麻も浮いている。猿川さんのクッパはマグマのように真っ赤だった。
「いるか? 一口」
「いえ……! お気持ちだけで……」
一口だって食べられない気がする。そんなマグマクッパを猿川さんは辛い辛いと言いながら美味しそうに完食した。普通のサイズだったのに自分より食べるのが早い。器ごと持ち上げて飲み干そうとすれば、猿川さんに急ぐなと止められた。残りのお肉を焼いて待っていてくださる。その言葉に甘えることしかできない自分のなんてクソなことか。
「食い終わったか?」
「はい……お待たせした時間だけ腹を掻き切りますので……」
「焼肉食った後にそんなもん見せんなバカ」
靴を履いてお会計に向かう。猿川さんが伝票とチケットを出したので自分は財布を取り出した。お会計はあんなに食べて飲んだのにビックリするくらい安かった。採算が取れているのか、自分なんかが気にしてもどうすることもできないけれど心配になってしまう。
「お前端数な」
「ダメです……! 猿川さんのおかげで来られたのでここは自分が……!」
「お前全然食ってねぇだろ、いいから端数。小銭ジャラジャラすんの嫌いなんだよ」
「自分めちゃくちゃ食べました! 牛さん一頭分近く食べました!」
ブッと吹き出す音が二人分聞こえた。隣の猿川さんと、レジ向こうにいる店主さんだ。
「牛一頭は嘘にもほどがあんだろ。いいから端数早く出せって」
「で、でも……」
猿川さんに押し負けて端数だけを出させていただいた。お釣りも渡されそうになったのでそれだけは本当にダメだと全力で辞退する。そこは渋々猿川さんが受け取ってくれたので胸を撫で下ろした。
「また来いよ」
そう言った店主さんは、今しがた出したチケットと同じものを自分たちに二枚ずつくださる。ここで土下座をしたら床掃除のご迷惑をおかけしてしまうので、頭を下げれるギリギリまで下げてお礼を言った。
「ありがとうございます……!」
「こっちこそだよ、ありがとな。またいつでも来いよ」
そしてアイスキャンディーまで戴いてしまった。来た時のように襟首を掴んで引きずられたが、また商店街前で放された。
「アイス溶けるから食いながら帰るぞ」
「はい」
味はりんご味だ。いつ食べたかは鮮明に思い出せないのに懐かしくなる味。焼肉とスープで熱った身体に染み渡る。
「美味かったか?」
「すごく美味しかったです、猿川さんもありがとうございます」
「ん」
外は大分暗くなっているが、理解さんの門限には間に合うだろう。ホッとしながらアイスの先を少し齧った。
「また反旗起こしたくなったら行くか」
「はい、反旗を起こす時はお供します」
反旗なんて早々起こすものではないが、楽しみになっている自分がいる。このアイスの味も、次の反旗焼肉まで忘れることはないはずだ。
「おかえりなさい。猿ちゃん♡ 大瀬さん♡」
この竦み上がる笑顔もきっと。