森の中硬い土を踏む感触と、時折足の裏を刺激する木の枝。
山どころか日頃部屋の外にも出ないこんなクソ吉が役立てるはずもない。
けれど、何もしないわけにもいかないのでひとまず焚き火用の枝探しを買って出た。
湿っておらず、かつ長目のもの。
こんなゴミでもどうにか足を引っ張らないように、と思って出てきたはいいが、後ろからずっと同じ速度でついてくるもう一つの足音。
ちらりと肩越しに振り返れば、威嚇するように周囲を警戒するピンク色の髪の彼がいる。
かれこれずっとこんな感じだ。
どうかしたんだろうか……。
もしかして、ここならばクソを殺しても隠し場所に困らないからここで殺してくれるのか?
そうかもしれない。
もしそうなら嬉しい。
意を決して振り返り、猿川さんに話しかけた。
「あ、あの……どうか、なさいました、か……?」
猿川さんも足を止め警戒に向けていた目を、ちらりと少しだけ僕に向けた。
「あ? 何もねぇよ。俺が歩くところをお前も歩いてるだけだっつーの。自意識過剰かよバカ」
「そ、そうですよね……。大変失礼いたしました……」
何て愚かなことを考えてしまったか!
こんなクソがやっぱりこの世に存在していいはずがない。
皆さんの更なるお荷物となる前に死のう。
「って、おいバカ! ナイフを下ろせ!!」
「ここならば迷惑にならず死ねますので……お世話になりました……」
「この山の所有者が困んだろ! 下ろせって!!」
手首に手刀を入れられてしまい、ポロリと落としてしまった。
すぐさま猿川さんに回収されてしまう。
「こんなとこでお前が死んだら、俺が殺したってことになんだろバカ」
「す、すみません……。遺書とか遺せば良いですかね……?」
「んなもん遺すな。おら、続きしろ続き。遺書なんざよりそっちのが大事だろ」
さっきまで進んでいた方向を指し示す。
逆らうわけにいかないので、言われた通り歩みを進める。
下を向きながら目ぼしい枝を探す。
しゃがんで拾いを繰り返せば、どうにか両腕一杯に集まった。
猿川さんはその間ずっと後ろで警戒していた。
ここまで集まれば大丈夫だろうと来た道を戻ろうとして顔から血の気が引いた。
広がる風景は全て同じに見える。
しかも周囲は少し薄暗くなり、それを増長させていた。
どうしよう……。
自分がここで野垂死ぬ分には構わないが、せめてこの集めた枝だけは届けないと皆さんに迷惑がかかってしまう。
どうしようどうしよう、と頭を悩ませているといるとゴスッと肩を殴られた。
この場でこんなことをする人は一人しかいない。
「迷子みてぇな顔すんな」
「か、帰り道……」
死にたくなるほどみっともない声が出た。
猿川さんはフンと鼻で息を吐き、顎である方向を指す。
「あっちだよ。帰るぞ」
そう言って自分の腕の中の枝を半分奪うように持ってくれた。
申し訳なさでどうにか取り返そうとしたが、騒ぐなと一喝されてしまい泣く泣くその後ろを歩く。
道すがら、猿川さんは追加で枝を拾い集めていた。
足りなかったとまた頭が真っ白になる。
「す、すみません……! 枝、それっぽちじゃ足りないですよね……」
「あ? ちげぇよ」
そう言いながらまた枝を拾い上げた。
「寒ぃのは、嫌だろ」
寒いのは嫌。
とても単純で明快な理由だ。
そう言う猿川さんの後ろ姿は、堂々と高潔なのに少し悲しげに見えてしまった。
僕は寒くても構わない。
むしろそのまま凍死できたら本望だ。
でも、この人は寒いことを嫌っている。
突拍子もなく、感じたことがあった。
理解さんの秩序を守る激情とも、テラさんの己を愛する熱情とも、天彦さんのセクシーを探求する情熱とも、いおくんの奉仕を懇願する狂熱とも、ふみやさんの甘いものに対する熱意とも全てと異なる、しかしそれらに負けない熱いものを猿川さんは抱えている気がする、だなんて身の程知らずにも。
いつの間にか猿川さんの腕の枝は僕が集めた以上にになっていた。
一晩は余裕で越せる量だ。
「何ちんたらしてやがる。そろそろ完全に見えなくなるぞ」
言われてみれば、さっきよりも辺りが暗い。
慌てて距離を詰めた。
「山を舐めんな。特に夜は方向感覚が更に狂うし、木の枝やら溝が見えにくくなるから怪我すんぞ」
「は、はい……」
黙ってその背を追う。
会話はなく、来た時と同じように硬い土を踏みしめる音だけが響いた。
僕には既にここがどこなのか見当もつかない。
しかし猿川さんは何の迷いもない足取りで進んでいる。
本当にすごい人だ。
強くて、優しくて、道にも迷わない。
「すごいなぁ……」
「あ?」
無意識のうちに声が出てしまっていた。
出た言葉は戻すことはできない。
やっちまった……。
今すぐ喉を掻き切りたいが、そうすればこの枝全てを猿川さんに運ばせることになってしまう。
これ以上の迷惑はかけたくない。
「何がだよ」
「あ、う、えっと……」
「ハッキリ喋れ!」
「はいぃ! さ、猿川さんすごいなって、思って……偉そうですよね!? すみません、これ届け終わったら死にますので……!」
走ろうとした瞬間、足元にあった木の根っこに躓き思いきりダイブした。
木の枝は死守しようとしたが、願い叶わず散乱させてしまう。
「おい! 大丈夫か!?」
「き、木の枝が……」
「んなもんどうでもいいだろ! 怪我は!?」
猿川さんは腕の枝を放り投げこんなクソを起こしてくれた。
枝すら守れないこんなゴミを心配してくださるなんて。
自分の不甲斐なさに最早涙が出そうになる。
「す、すみません……ずっとずっと、足を引っ張ってばかりのゴミで……」
散乱させてしまった枝を拾い集める。
すると猿川さんは頭にチョップを落としてきた。
「何も言ってねぇだろバカ。勝手に決めつけんなって前も言ったよな?」
そういえば、家を出ようとして皆さんから連れ戻された時にそんなようなことを言っていた気がする。
気を使って言ってくれた言葉だと思ってたのに。
「俺は別にすごかねぇよ」
「す、すごいです……。喧嘩強いし、こんなゴミにも優しくしてくださる……その上、道にも迷わなくて……」
猿川さんの枝を拾う手が止まった。
どうしたんだろうと顔を上げると、酷く困ったような表情をしている。
気分を害させてしまったとナイフを取り出そうとすれば、猿川さんは首を力なく左右に振った。
「道に迷わねぇやつが強いんじゃねぇよ。俺は、迷えるほど道がなかった、それだけだ。道を選べる奴の方がよっぽど強い」
吐露するように紡ぐ言葉は、こちらの胸も締め付けられるようだった。
色素の薄い瞳が、悲しげに伏せられている。
だから僕も口を開いた。
「……でも、その道を進み続けるのも、強いと思い、ます…………」
猿川さんは驚いたように目を見張り、フッと微笑んだ。
儚く消えそうなその笑顔は、彼の普段のハツラツとしたものからは想像もできない。
まるで、雪のようだ。
また勝手に涙が出そうになる。
今泣いたら迷惑でしかないことなんて分かっているのに。
「何でお前が泣きそうなんだよ、バーカ」
そう言っておでこにデコピンをされた。
反射で痛いと言ったが、本当は全然痛くなかった。
「大瀬がそう言うなら、そうでも良いのかもな」
そう言いながら立ち上がる。
いつの間にか全部集めてくれていた。
神業すぎる。
「行くぞ。ちゃきちゃき歩け。また転ぶんじゃねぇぞ」
持っている枝の比率がおかしい。
三分の二以上猿川さんが持っている。
「あの! もう少し持たせて欲しいです……」
「お前非力だから落とすだろ」
「ひ、非力じゃないです……!」
そうアピールするが、にべもなく断わられてしまった。
「いいからそれ持ってろ」
僕の方が一応は身長も高くて体重だって重いのに……。
けど、力比べで勝てるかと問われれば即答で否だ。
「寒くねぇか?」
「へ……?え、あ、いえ……」
「ん、なら良い」
さっきも寒いのは嫌だろうと言っていた。
寒いのが苦手なんだろうか。
「さ、猿川さんは、寒くないですか……?」
「寒くねぇよ。動いてっしな」
なら良かった。
ホッと胸を撫で下ろすと、猿川さんはポツリと呟いた。
「身体が冷え切ると、心も冷え切るからな」
「心、ですか……?」
「ささくれ立つんだよ。人間って単純な生き物だからな。連動でもしてんだろ」
中々に力任せな解釈だ。
でも、納得できるところもあった。
「だから、寒くすんじゃねぇぞ。夜になれば山ん中は冷え込むからな」
猿川さんが、何でこんなに山について詳しいのか、逃亡することに慣れているのか、敵のかく乱が上手なのか、どんな人生を歩んできたのか、僕には全部分からない。
いおくんに聞けばもしかしたら断片的にでも分かるのかもしれないが、そんなことはしたくなかった。
猿川さんもきっと知られたくないんだろうし、知ってもいい時が来たらこの人なら自分の口で言ってくれる気がする。
だから今はこの背にひたすらついて行く。
前を進み、周囲を警戒しながらも後ろのこんなクソ吉を気にかけてくださる優しい人。
一緒に集めた枝を胸に抱え、硬い土を踏みしめる。