もしも記憶が消せたなら「落ち着いて聞いてね月森くん」
　突然かかった電話の主の声は微かに震えていた。ただならぬことが起きたことを予見する。
「花村くんが事故に遭ったの」
　全身に走る稲妻のような鳥肌が立つ。青天の霹靂とはよく言ったものだ。実際自分の身に予想もしなかったことが起きると、パニックを通り越して冷静になってしまう。自分が取り乱していては何も始まらないからだ。
「でも、大丈夫。奇跡的に打撲や軽い内出血で済んだみたい。しばらく入院はするけど意識はあるし、命に別状はないよ」
　しかしそれならわざわざ都会にいる俺に電話してくることもないだろう。陽介には意識がある。つまり、陽介から俺に電話をすることが出来るはずなのだ。それを天城から電話してきたということは、陽介本人から言えないような何かは起きているのだ。
「ただ……」
　天城は悲しそうに一言だけ呟いた。
「花村くん、ここ一年くらいの記憶がなくなってるみたいなの」
　

◆

「ここ一年、とは具体的にどこまで」
　軽い沈黙を自ら打ち破り、会話を促した。命に別状がないならば、どうにだって出来る。　
「花村くんが八十稲羽にくる前、でも大まかには八十稲羽のこと知ってるみたいだから、引越しが決まってから……かも。私達のことは知らないみたいだから、推測だけど、多分そう」
　私達のことは知らないみたい。その言葉で全てを察した。
　俺たちと出会う前の記憶にリセットされているということか。
「うん、ほら、月森くんが帰ってきたら色々やろうと企画してたのは花村くんが主導だったし、花村くんと一番仲が良いのはクマさんと月森くんだから、一応月森くんにも知らせておこうかと思って」
　天城の口からクマの名前が出てきてふと疑問に思った。クマは陽介と共にジュネスでバイトをしていたはずだ。「センセイが帰ってきたらホームランバーいっぱいプレゼントしちゃうクマ」と時折電話でも言っていた。
「クマはどうしてる？」
「クマさんは花村くんに付き添ってたんだけど、すごくショックだったみたいで……、今は完二くんの家に千枝と一緒に遊びに来てる。ジュネスのバイト以外ではしばらくテレビの中で過ごすっていうからちょっと心配」
「事故があった時にクマも一緒だったのか」
「うん。全部見てたみたい。クマさんからみんなに連絡があって、私達も病室に行ったんだけど……。花村くんに「誰？」って言われてから元気がなくて、なんにも喋ってくれないの。クマさんにも時間が少し必要かもしれない」
　クマは陽介の部屋で一緒に過ごしている分、ショックが大きいのかもしれない。
「その他に記憶喪失になってる部分は？去年一年分の授業内容とか」
「あ、それは大丈夫みたい。私も気になって聞いてみたけど、特に問題なかったよ。少しおぼろげになってる部分はあったけど、元々頭に入ってなかったのかもしれないし。花村くんだし」
　時々天城は容赦がないよなと内心で思いつつ、日常生活には支障がなさそうでひとまず安心する。元々地頭は良い陽介のことだ。天城が大丈夫だと言うのなら九九を忘れるだとかそういった致命的なレベルではないなら心配なさそうだ。
「ごめんね、ゴールデンウィークに帰ってくるっていうのにバタバタしちゃってて……」
「いや、非常事態だし仕方ないよ。陽介が無事ならよかった。俺から電話をかけてもクマのように会話にならなかっただろうし、情報が整理出来ただけでも助かるよ」
「うん。また何かあったら電話するね」
　電話を切り、目を瞑る。今、ここが都会でなければ顔を見に行くのにな、と思いながら窓の向こうに浮かぶ月を見る。
　春の月は雲に隠されて光を鈍らせていく。まるで月を仕舞い込むように。