頼ってもいいんだよ「漸く平穏な日々が戻ってきましたね。此れで暫くは安心ですね!」
喫茶うずまきで昼食を摂りながら、中島敦が笑顔を見せた。こうして落ち着いて社員皆で食事を摂るのも、久しぶりである。
「そうだな。ドストエフスキーの件も此れで一段落だ。漸く通常業務に戻れる」
「えぇ〜、一寸位休暇を満喫してもいいじゃあないか。国木田君は働きすぎなのだよ」
「貴様は今朝も寝坊しおって!少しは働けッ!」
ゴツンと国木田の拳が太宰の頭頂部に墜ちる。
「あいたっ…ッ」
それまで談笑していた太宰が急に顔を強張らせた。注文した咖喱は然程辛くない筈だが、額には玉のような汗を浮かべている。突如黙り込んだ太宰を不審に思ったのか、国木田が太宰の顔を覗き込んだ。
「済まない、足に響いたか」
心配する国木田を揶揄うように、太宰は口許にニヒルな笑みを浮かべた。
「冗談だよ〜、騙されたかい?名演技だろう?心配しすぎると身体に毒だよ」
太宰はアヒャヒャヒャと、奇妙な笑い声を上げながら目には涙を浮かべている。
「今朝も無断遅刻しおって…足が折れているから不便なのだろうと大目に見ていたが、明日から遅刻、無断欠勤したら赦さないからな!」
「否、太宰は暫く休みだ」
国木田が怒りでブルブルと震えている横から、冷静な一声が響いた。
「乱歩さん!?」
驚いた探偵社員一同が乱歩の方を一斉に振り返る。
「太宰も、無理に不調を隠すな。諦めて、与謝野女医に診て貰いなよ」
「あーあ、バレてしまった。乱歩さんには隠せませんね」
先程迄の笑顔とは一変して、胸の辺りを擦る手は震え、顔はすっかり青褪めている。
「おい、だざ、」
「国木田君、少し、肩を借りてもいいかい」
国木田の肩にぐったりと凭れ掛かる太宰は相当具合が悪いらしかった。此処まで巧妙に隠していた事に驚く。吐く息さえ、浅く早い。
「体温、血圧を測らせてもらうよ。胸の音も聞くからね。」
手早く体温計を差し込み血圧計を巻いた与謝野は、軽く橈骨動脈に触れたあと、チェストピースを胸の上に当てた。やや冷たかったのか、太宰の身体がピクリと揺れた。聴診器のイヤーピースを耳から外しながら、与謝野は問診を始めていく。
「胸は痛むかい?」
「えぇ、少し」
「体調が優れなかったのは何時からだい」
太宰は一瞬目を逸らしたが、観念したように打ち明けた。
「ムルソーを出た辺りから…今朝も急に気分が悪くなって、目眩と吐き気が…」
「其れを先に云え!体調が優れぬのなら無理に出社する必要はない」
「ムルソーでの外部との交信手段が負担になったのかもしれない。アンタにも妾の異能が効けば良いンだけどね」
国木田は唇を噛み締めれば、国木田の所為ではないと宥めるように与謝野が云う。
血圧計を外した与謝野は、値を確認し驚きの表情を浮かべた。
「血圧が低すぎる。敦、社から車椅子を持ってきてくれ。直ぐベッドに運ぶ。何、心配せずとも妾が助けてやるから安心しな」
「は、はい!」
「もしかしたら、心臓に負担がかかり過ぎているのかもしれない。一先ず医務室で、心電図モニターをつけて採血をさせてもらうよ」
心電図モニターの電極パッチのひんやりとした感触がする。ずきりと胸が痛むたびにけたたましいアラームの音がした。どうやら心拍数が急上昇しているらしい。心電図の波の感覚が狭まっていた。
車椅子から立ち上がった瞬間、サァーっと血の気が引いていく感覚に思わずふらついた。左足が折れている所為で体勢を立て直すことが出来ず、胸元を抑えて蹲る。全身が怠い。気持ちが悪い。目の前がチカチカし、星が見えた。
「…っ、」
「太宰、大丈夫かい?胸が痛いのかい」
与謝野が太宰を覗き込んだ。
「与謝野、女医、きもちわる、ぇ、ぇ、げほっ、」
心拍数が上がり心拍出量が下がっている中で立ち上がった為、低血圧になったのだろう。
「此れに吐きな、我慢しなくても良いから」
少し前から違和感はあった。ドストエフスキーの遺体をヘリコプターの残骸から引っ張りだしたときに掻いた大量の汗。
『手前ェが汗を流すなんて珍しい』
中原が呟いた言葉を思い出す。足が折れている所為かと思っていたが、ずっと体調が悪かったのだと漸く思い至った。
「…ざい、だざい、太宰!確りしな!」
肩を叩かれるが、視界がぼんやりと歪み焦点が定まらない。グラグラと揺れる視界が徐々に黒く染まっていった。
アラームが鳴る度、何度も起こされた。どうやら心拍数が急上昇し、上手く心臓が動かないために血液を送り出せず、血圧が低下しているらしい。先迄皆と昼食を食べていた筈なのに、目醒めれば夕方だった。そして、其処に居る筈のない茶髪の見慣れた顔があったのだから、驚くのも無理はない。
「え、ちゅう、や…。んで、此処に…ッ、、おえ、」
ガバリと体を起こしたせいで気分が悪くなり、口元を慌てて覆って数度嘔吐いた。再びけたたましいアラームの音が鳴り響いた。
「無理すんな。急に邪魔して悪かった。もう帰る」
ベッドへと躰を押し戻され、図らずも中原を見上げる形になる。決まり悪そうな顔をする中也は、後ろに組んだ手に何やら白い箱を持っていた。
「ねぇ、其れは」
「何でも良いだろ!手前は黙って寝てろ」
有無を云わさぬ勢いで踵を返した中也が扉の前で少し足を止めた。
「また来る」
少しばかり振り返り、ボソリと呟く。
「ん。分かった」
白い箱の中身はケヱキだったそうだ。探偵社の皆で食べてくれと中原が社長に渡したらしい。恐らく其れは、太宰の顔面に投げ付けられるはずだったものだろう。
翌日から中原は足繁く探偵社に通った。必ず林檎、氷菓子、粥など食べやすいものを持って見舞いにやってきた。