食べてしまいたいほど、 ✦ ✦ ✦
そっとくちびるに指を当てる。静かにしていてね。そう言うみたいに。
言葉を封じられてしまったから、上目に相手を見つめるしかできない。頬に影を落とすほどに長い繊細なまつげが、またたく度にぱさぱさと音を立てる。いや、実際には聞こえないんだけど。まるで、そういう音を立てているようだと、オレの脳みそは錯覚した。
くちびるに宛てがわれたままの指先がむにむにとオレのくちびるの肉を押し込んでは遊んでいく。ふふ。相手のつやつやの、薄いくちびるからこぼれた吐息は笑みの形に彩られていた。
楽しそうですねぇ。いまだに言葉にできないまま、こころのなかだけで思う。こっちはなんでこんなことになってんのか、これっぽっちも分かってないっていうのにさぁ。
ベッドヘッドに背中を付けて半身を起こして、だらりと脚を伸べた体勢でスマホをいじっていたら突然これだ。このひとはなんの前触れもなく、まるで自分のものだとばかりにオレのベッドに我が物顔で腰掛けて、この蛮行に及んだ。
ぎしり。ベッドの軋む音がする。このひとがオレを囲むようにベッドヘッドに手を付いて、体重を掛けたからだろう。どんな角度から見ても無駄に整っているご尊顔がそっと近寄ってくる。オレのくちびるに当てた指はそのまま。ふわふわのやわらかい髪が降り注ぐ近さにまで距離を詰めてきて、視線が絡んだ。息が詰まってしまいそうなほど、あまく絡まり合うから。オレは蜜をたっぷり湛えた花の色の目から視線が外せなかった。長いまつげがぱさぱさ羽ばたいて、それからやんわりと目が細まる。
あ、キス、すんのかな。
そう思ったからオレもまぶたを落として、ほんの少しだけ顎を上向ける。むに。またくちびるの肉にたおやかな指先が沈んで、目の前のひと──おひいさんの呼気が微笑んだ。
指が離れたかと思えば、間を置かずにくちびるがやわらかな肉に触れる。おひいさんの、くちびる。しっとりとしていてやわらかいくちびるがオレのくちびるを食むように擦り合わされて、吸われて。オレもおひいさんのくちびるを同じように吸えば、くちびるに触れていた指があまくオレの喉元を掻いた。
いたずらを仕掛けてくる子どもみたいな、そんな仕草が堪らない。脳みそのなかがおひいさんのあまったるい蜜でとろとろに溶かされちまいそうだ、と思った辺りで、おひいさんのくちびるが表面が触れ合うくらいの距離にだけ、ほんのわずかに離れた。
「……なんすか」
閉じていたまぶたを持ち上げてみれば、おひいさんがじっとオレを見ていることにいやでも気付く。突然キスされたってのにぽやっとしてしまった自分を見られるのが恥ずかしくてぶっきらぼうに問い掛けると、おひいさんは溶け落ちそうにあまくあまく笑った。
「ん? ふふ、なぁんでもないよ。ただね、」
「ん、」
「いとおしいなあって」
それだけだね。
そう言って、もう一度くちびるにキスが降る。ちゅ。粘膜が触れ合って、ほんの少しだけ離れるときのかすかな音でさえ。いつも騒がしいオレたちがバカみたいに静かだから、やたらと耳に残った。
すべすべな薄い肌の下の、やわらかい肉の感触が気持ちいい。おひいさんはオレを食べるみたいなキスをするのがすきだ。食まれるようにしてくちびるが重なると、じんと腰から背中に重たくて甘い痺れが走る。繰り返される度にそれはどんどん積み重なっていって、なにひとつエロいことなんかしてないかわいいキスだったのにオレの脳みそはもうどろどろだった。
離れていくくちびるがさみしい。もっとしてほしい。もっと食べて。あんたいつもお行儀ってオレのこと叱り飛ばすじゃないですか。じゃあさ、残すなんて行儀の悪いことしないで。きちんと、味見だけじゃなくてぜんぶ。余さず食べてよ。
空いた隙間を埋めたくて、ぞわぞわする腰を浮かせてくちびるを押し付ける。どうぞ召し上がってください。言葉にしなくても分かるように、やわらかいくちびるをほんの少しだけ開いたくちびるの間から熱く熟れた舌先で舐めた。
それだけでこのひとは聡いから、分かってくれる。仕方ないねって目元をゆるめて、浮かせた腰に存外大きな手のひらを添えて引き寄せてくれて。ベッドヘッドに預けていた背中がずるりと滑って、マットレスに沈んだ。
シーツの海に溺れないように、オレを追ってマットレスに付かせたおひいさんの腕に手を這わせて、縋るみたいな力で手首の辺りを掴む。組み敷かれた体勢で見上げる、このひとの顔がオレはすきだ。あちこちにたくさんの抱えきれない愛を持つこのひとが。いまだけはオレしか見えてねえって顔で、どこにも逃さないように自分の身体で囲ってくるこのときの、表情が。たまらなくすき。
ああ、キスがしたい。たっぷりの愛でもってオレのぜんぶをとろとろにとろかせるみたいな、おひいさんのキスが。たくさん、たくさんほしい。
勝手に期待して勝手に焦れたオレがおひいさんの細い手首にあまく歯を立てるのを。おひいさんは、あつくてどろりとしたたるまなざしで見つめていた。