マリアヴェールの約束 ✦ ✦ ✦
おひいさんの機嫌が死ぬほど悪い。
そりゃあもう、オレがなにをしたってレベルで悪い。地を這っている。
いつも大きくまぁるくて、品良く細められている紫の花束の色のひとみは不機嫌の形に歪んでいたし、受け答えする声もまた、同じくらいに拗ねた声色に沈んでいた。
──まあ、大体なんとなくの原因は分かってるんすけど。オレがなにをしたわけでもなく、なんというか、純粋にタイミングが悪かった。この一言に尽きる。
一度は撮影の終わったPVがお蔵入りになってしまったから、企画ごとなんとかするためにオレと流星隊の守沢先輩で向かうことになった「ブライダル修学旅行」。このなかなかにどうかと思うネーミングの旅路に自分がついていけないから、おひいさんはずっと、ずーっと機嫌が悪い。
オレと守沢先輩の他にも協力してくれる方たちとともに、花婿修行? を掲げて行われるその旅行に、おひいさんは当然だよねといった顔をしてついてくる気満々だった。でも日程を確認してみれば、どうしてもスケジュールをずらせない仕事がおひいさんには詰まっていて。
一時期コズプロの一角でマシンガントーク交渉という名の、おひいさんのものすごい駄々が繰り広げられていたわけなんだけど。もちろん茨から許可が下りることはなく、(茨いわく、下ろせるものなら殿下の機嫌を損ねる前に下ろしている、とのことだった。お疲れ様です。)おひいさんの久しぶりの毒蛇呼びを聞く羽目になったのは記憶に新しい。
たぶん、行くのがオレだけだったらおひいさんだってここまで機嫌を損ねなかったんだろう。だいすきなナギ先輩がオレについてきてくれることになっているから、しばらく会えないのが嫌で堪らないんだと思う。悪い日和って何度も言っていたし。
だからオレは、なんとか精一杯にめちゃくちゃ猫なで声で「いい子で待っていてくださいねぇ」だとか、「すぐに帰ってきますから」だとか言ってみたり、あとはおひいさんの好物をどっさり用意して冷蔵庫に詰め込んだりだとか、ありとあらゆる手段を講じておひいさんを宥めたのだった。
結局出立の直前、というかいまのいままで。おひいさんの機嫌は悪いままなんすけど。わるいひより。なんて。
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色とりどりの花の入れられたバケツたちを前に、オレはひそやかに溜め息を落とした。
おひいさんの機嫌が全然これっぽっちも良くならねえ。時折隙を見て送られてくるメッセージの隅から隅まで、不機嫌もしくは拗ねているね! を主張してくる文面で彩られているから堪ったもんじゃない。
あんた、わりと自分で自分の機嫌取るの上手い方じゃなかったでしたっけ。内心呟いてみた言葉はこころのなかだけでわだかまって、溜め息として吐き出されるのみだ。
修学旅行も大詰め。なぜか爆風に追い掛けられたり、泊まった旅館で特に誰も大した話題は持っていなかった恋バナに花を咲かせようと試みてみたり、ナギ先輩のお土産選びを手伝ってみたりした過程を経て、最後の撮影に臨んでいる。
夢ノ咲出身の敏腕プロデューサーの彼女が一枚噛んでいるという衣装に身を包んだオレたちは、撮影に使う小道具として花を選んでいる。色んな種類の、色んな色彩の花々。花婿さんがお相手に花を贈るイメージ、で選んでみてね、とのことらしいけど、正直ピンとこない。
渡したい相手の顔もろくに浮かばないのに、花を選べって言われても。いや、相手の顔が浮かばないのは色恋沙汰のスキャンダル厳禁なアイドルにとって正しいことなのかもしれないけど。
花にはまったく詳しくないし、どうすっかなあ。おひいさんなら、華道部とか所属していたぐらいだし詳しいんだろうけどさあ。
そう思ってバケツに目を落としていたら、不意に視界に飛び込んできた花に一瞬目を奪われる。そのままふらふらと指を伸ばして、そっと一本、花をバケツから抜き取った。
詳しくないオレでも名前くらい知っている。百合の花。眩しいくらい鮮烈に白く色衝くその花を手に取って、なんとはなしに、おひいさんみたいだなと思った。百合の大ぶりな花は豪奢で、目に付くのに品があってどこか清楚だ。真っ白な花びらは無垢すら感じる。きれいだな、と純粋に思った。
でもオレには似合わない。同じ白い花でも百合が似合うのはおひいさんで、オレはカスミソウとかの花のが相応しい気がする。
バケツに花を戻そうとしていたオレに、やわらかく降る声があった。大地に長い時抱きしめられて、飴色に輝く琥珀みたいな。なんとなくそんなゆったりとして落ち着く声。ナギ先輩だ。
ナギ先輩のやわらかな声がオレを呼ぶ。ジュン。ナギ先輩の声はいつだって耳にやさしい。
「……ジュンは、その花にするの?」
「あー、っと。きれいだなとは思うんすけどねぇ。でもあんまオレっぽくないし、やめとこうかな〜って」
「……そう? とても似合っていると思うよ。百合の花言葉は純粋や純潔と言ってね、ジュンにぴったりじゃないかな」
それ、褒めてるんですか?
聞くまでもなく、ナギ先輩は無意味にひとを貶したりなんかしないから、純粋に言っているんだと気付いて思わず閉口した。そんなに純粋でも純潔でもないと思うんすけどねぇ、とは言い返せない。だって、このひとめちゃくちゃやさしく笑ってるから。おひいさんみたいに一言余計だったらオレも軽口のひとつやふたつ叩けるんだけどな。
百合の花に目を落として手持ち無沙汰にくるくると回していると、ナギ先輩がそれから、と言葉を継いだ。琥珀色のひとみが、やんわりと細まる。大切なものを見ているときのまなざしだった。
「百合は、日和くんの誕生花でもあるよ」
「誕生花……?」
「そう。生まれた日にちなんだ草花のこと。誕生花は諸説あって、同じ日付けであっても何種類もの草花が誕生花に当てられていたりするけれど……日和くんの誕生花が百合だというのは、わりとよく聞く話だね」
「へえー……」
さすがナギ先輩。相変わらず博識ですねぇ。へぇ、そっか。おひいさんの。ふぅん。豪華に花開いている百合と目線を合わせるみたいに向き合う。
特に深い意味は、ないんだけど。あのひと、特別扱いとかわりとすきだろうし。いやでも、いま撮影したのがおひいさんにすぐ届くわけでもないし、そもそもオレにこんなことされてもおひいさんだって困るかもしんねぇし。
必死に言い訳を募るオレに、ナギ先輩が追い打ちをかけてきた。
「大丈夫。百合は結婚式のブーケで使われることも多い花だから。……ふふ、恥ずかしがることないよ」
「…………はい」
あとで日和くんに、写真を撮って送ってあげようね。
私はダリアにしようかな、と赤い花をバケツから引き抜いて微笑むナギ先輩の顔が見返せずに、うつむく。恥ずかしい。耳まで真っ赤になってる気がする。オレが一生懸命になって押し隠してきた気持ちは、ナギ先輩には筒抜けだったらしい。
かわいいね、ジュン。
あんまりにもやさしい声でナギ先輩が言うから、ますます耳が赤くなって顔なんて火を吹きそうだった。うぅ、オレカッコ悪ぃ。
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面白くない。
スマホの画面とにらめっこをしながら、ぼくは絶賛ふてくされていた。
コズプロの事務所にある茨のデスク周りにはミーティング用のソファが備えられていて、ぼくはそこに横になってひたすらに画面とにらめっこを続けている。なんでって、ジュンくんの返信がなかなかこないからだ。
今日は忌まわしいジュンくんのお仕事の、最後の撮影の日だっていうから。はやく終わらないかな、という期待を込めてスマホをずーっと握りしめている。「これから撮影です」だけの、簡素な連絡のあとメッセージが増えることもない。ぼくの「がんばってね」には既読が付いているから、目を通してはいるんだろうけれど。
はあ。溜め息を吐き出せば茨の視線が一瞬だけこちらを向いて、次の瞬間にはPCに戻っていった。触らぬ神に祟りなし。そう言いたげな態度にカチンとこなくもないけれど、騒ぎ立てるほどでもない。
はやく帰ってこないかな。ジュンくんと凪砂くんが旅立ってから、ぼくはずっとそう思っている。
第一に、花婿修行ってなに。ジュンくんも凪砂くんもまだそういうのは早いね。時期尚早にも程があるね。
凪砂くんはまだしも、ジュンくんはなんというか、変な子を引っ掛けてきそうな感しかない。ジュンくんは根が善良すぎるから、そしてやさしい子だから、強く出られたら押し負けそうな気がする。そのままなし崩しに〜なんてことになったら、ぼくはなにをするか分からないね。
……ジュンくんのことになると、ぼくは心が狭くなる。本当は自由に飛び回らせてあげたい。すきなだけ、広がった世界を見て色んなものに触れて、愛して、愛されておいでと送り出してあげたい。実際にジュンくんが色んな子に囲まれて楽しそうにしているところを見るのが、ぼくはとってもすき。なのに、同じくらい、どこにも行かないでと抱きしめたまま離してあげたくない気持ちがある。ジュンくんは、ぼくのものなのに。貸してあげるのはまあ許してあげるけれど、持っていかれるのはいや。
ああ、いやだな。心の狭い男は嫌われちゃうよね。ジュンくんがぼくから離れていくなんてことはないと分かっているのに、気分が沈んでしまう。
目を閉じて、スマホを一度ソファの座面に置く。そうしたら、素直じゃないジュンくんみたいに、ぼくが見ている間は知らんぷりだったのに途端に通知が鳴った。
ジュンくんだ!
スマホを片手にさっと体を起こして、スマホのロックを外す。新着のメッセージを知らせる画面をタップして、目に飛び込んできた画像に笑顔のまま思考が止まってしまった。
『スタッフさんに許可もらえたんで、写真送ります。今回の衣装です。どうですか? あんまり着ないタイプの衣装なんで、ちょっと自信ないんですけど』
画像とは別に文章が添えられているのに気付くことすら、動きの止まった脳みそでは難しかった。
白を基調にした、ところどころにレースの施された衣装。首元には赤くて大きな輪を結んだリボンに、錠が掛けられていて。大ぶりな百合を抱えてはにかむジュンくんの小指には、運命の赤い糸が結ばれていた。
なんてきれいなんだろう。真っ先に帰ってきた思考がいちばんに抱いたのは、そんな感想だった。ジュンくんはどちらかというとスポーティーな格好をすることが多いから、あまりこういったかっちりしたものは身に着けない。少し前までのジュンくんであれば「着られている」感で溢れかえっていたことだろう。
でもいまは、こんなにも着こなしてすてきな男の子になっている。
こんなにきれいですてきな男の子なんて、みんなみんな恋してしまう。ああ、ぼくのジュンくんなのに。一瞬だけそう思ってしまって、首を振ってお返事! と指を動かした。
花婿さんの衣装なのかな。自信ないなんて言うことはないね、とっても似合っているよ。かわいい。このおひいさんが太鼓判を押してあげるね!
文字を打ち込んでいる間に、ぽこん、と新しく通知が届く。既読を付けてからしばらく返事を待たせてしまったから、拗ねちゃったのかな。
打ち込んでいた文字列はそのままに、ジュンくんからの新しいメッセージに目を通す。通したら通したで、本日二度目の思考停止に陥ってしまうなんて知らないで。
『百合って、おひいさんの誕生花なんですって。ナギ先輩に教えてもらいました』
『ごめんなさいわすれてください』
二度目のメッセージは、ひとつ前のものが届いてから即届いた。二段階に分けて頭を鈍器で殴られた気分。
……え? なに? どういうこと?
困惑しきりのぼくに、また新しく通知が届く。今度は凪砂くんだった。状況打開のため、もとい助けて凪砂くんぼくちょっと理解及んでないねの気持ちでそちらの通知に指を伸ばした。
『やっほう日和くん。ジュンは控室の机に突っ伏してしまったから、私が補足しておくね』
『撮影に使う小道具として自分たちで花を選ぶことになって。選びあぐねていたジュンに、日和くんの誕生花なんだよって教えたら、ジュンが自分から百合を選んだんだ。いじらしくてかわいいね』
うん、とってもかわいいね。嘘でしょう。そんな、そんなことってあるの?
口元をスマホを握りしめていない片手で覆って、なんとか「ありがとう」と凪砂くんに返す。ジュンくんには「帰ってきたら直接伝えたいことがあるから、寄り道しないで、まっすぐ、ぼくのところに帰ってきてね」と先程までの文字列に追加して送って、そこまでやってとうとうぼくはスマホを投げ出して天を仰いでしまった。
かわいい。いとおしい。どうにかなりそう。語彙力の溶けきった感想しか出てこない。だって、本当にどうにかなりそうなんだもの、仕方ないでしょう。
ああ、いっつもかわいくないことばっかり言って、全然素直じゃなくて、それなのにぼくのことがだいすきでだいすきで堪らないジュンくん! なんてかわいいんだろう!
「本番」はもっともっとたくさんの、こぼれおちんばかりの大輪の百合でブーケを作ってもらって、きみに持たせてあげる。純粋できれいなきみによく似合う、まっしろな百合がいい。
お洋服だってオートクチュールで、きみにだけしか着こなせないタキシードを用意してあげて。マリアヴェールも被ってくれたら嬉しいな。とってもとってもきれいなジュンくん。そのヴェールを払ってきみにキスできるのは、ぼくだけ。世界が恋してしまうすてきなこの子はぼくだけのものなんだって、宣言できる権利をぼくにちょうだい。
胸にぶわりと込み上げる気持ちで身体がぽかぽかと火照ってしまう。だいすき、すき、いとしい。ああ、愛しているって、こういうこと!
天を仰いだまま止まってしまったぼくに茨がおそるおそる声を掛ける。あの、殿下。その声に、そうだよね、茨ばっかり仲間はずれはさすがにかわいそうだもんねと、やさしいぼくは体勢を直してにっこりと笑い掛けてあげた。
「ぼくとジュンくんの結婚式のジュンくん友人代表スピーチは、茨に任せてあげるね」
「はい 自分の与り知らぬところでおふたりは交際されておりましたか」
「え? そんなわけないでしょ? まだだね」
「はっはっは! それはそれは! 突然の度肝を抜かれる発言恐れ入ります! ジュンと交際されてからもう一度言っていただいても」