オクタヴィネル前寮長一 オクタヴィネル寮長 リヴィ・カポドリオ
あと必要なのは、彼の信頼だけだった。
談話室の窓から見える海は、水槽のように作り物めいていた。
陸の人間がわざわざ金銭を払って水族館に行きたがる、という話は陸の訓練学校で聞いた有益な情報の一つだ。水中環境を整えるのには莫大な費用と維持費が掛かる。それがタダで目の前にあるというのに、活かさない手はなかった。
「窓から見える海のメンテは寮の維持費から出てる。考えたな」
オクタヴィネル寮長、三年生のリヴィ・カポドリオは笑みを浮かべ、ゆったりと脚を組み替えた。
「ありがとうございます」
否定も謙遜もせず、笑みを返す。一年生だろうが入学してまだ二ヶ月だろうが、彼はやる気のある者を好む。周囲で固唾を飲んで動向をうかがっていた寮生たちが、寮長の言葉を盛り上げるように囃し立て口笛を吹いた。
リヴィ・カポドリオは『寮内経営カフェラウンジ計画』と銘打った提案書をもう一度ぱらぱらと流し読み、傍らに立つ二年生の副寮長へと手渡した。副寮長はそれを端から端まで読み込み始めた。顔に出ないようにしているようだが、必死に破綻を探しているのだろう。何せ彼は順当にいけば次期寮長候補の筆頭だ。
「作ればいいってもんじゃないだろう。前例がない以上これは計画じゃなくて想像だ」
あくまで理性的に、夢見がちで無謀な後輩をたしなめるように副寮長が言う。逆にそれが他に何も言えることがない十分な計画書である証明になっている。本人もそれに気付いているのだろう。「経営が破綻した時のリスクがデカすぎる。お前個人の問題じゃなく、寮を巻き込んでるんだぞ」と言葉を重ねた。
何も理解していない副寮長派の生徒が、まるで優しい先輩の顔をして「ちょっと気が早すぎたな」と慰めるように気安く肩に手を置いてくるのが癪に障る。
その手を丁寧に下ろさせ「もちろん、」と口を開きかけたところで、カポドリオが組んだ脚を解く。絨毯張りの床に、トン、と足を付いた音が重く鳴る。
談話室の空気がぴたりと停滞した。
この男の一挙一動にオクタヴィネル寮生はイワシの群れのように統率されていた。
「それがわからない夢見がち野郎じゃないって事は、俺はよく知ってる」
カポドリオがぎしりと音を立て背中をソファから離し、かがむように背中を曲げる。肘を膝の上に乗せ、顔の前で両手を組んだ。マッシュボブの黒髪が揺れる。耳の軟骨に開けられたいくつものピアスが覗いた。その中でも黒髪に映えるようにして、外耳から外側に棘のように並んだ乳白色のピアスが目に付く。マッコウクジラの歯だ。
「つまりお前も、寮長候補に名乗り出るってことか。アズール」
切り揃え垂れた前髪の隙間から真っ黒い目が、にぃっと弧を描く。深海よりも暗い、光の届かない海淵のようだった。
――ぞっ、と背筋を撫で上げられる。恐怖だ。重い気圧で肺がつぶされるような心地で、荒くなりそうな息を抑える。
「あなたの信頼に、僕ならお応えできるかと」
「ふっ」とカポドリオが下を向き吹き出す。組んだ両手の甲に額を押しつけ、大きな肩が小刻みに揺れ、徐々にそれは大きくなる。
「はっ、はーっははははは!」
カポドリオは笑い上げながら身体を起こし、その勢いでぐっと立ち上がった。
影がかかる。全ての灯かりが遮られ、巨大な何かに飲み込まれるような、本能的な恐怖。見透かされないように微笑みを作って見上げた。彼が立つと、真上を向くほど顎を上げる必要がった。なにせ、彼の身長はフロイドの頭頂部に顎が乗る。
広い肩に見合った筋肉のついた胸。引き締まった腰から伸びるしなやかに長い脚。大きな両手をスラックスのポケットにひっかけ、背中を丸めるようにして人を見下ろす。
リヴィ・カポドリオはマッコウクジラの獣人属だ。
「学園の許可は?」
「すでに下準備は終えています」
「トレインも黙ってないだろ」
「耳に届く前に学園長を抑えれば問題ないかと」
「すぐ動けるな?」
「もちろんです」
さっきまでの息苦しさが嘘のようだ。テンポのいい会話が心地いいほどだった。言った言葉をそのまま理解し、それが実行できるという実力を認めてもらえている。
「計画書の仕入れ先が不十分に見えたが?」
「それこそ――、」
ゆっくりと、言葉を区切って小首を傾げながら、顎に指先をあてる。より効果的に、より特別に、あなたのために用意したと意識させるように。
「寮長の信頼をいただければ」
「流石だ。アズール」
これが自分の言葉で動いたという優越感で、吊り上がりそうになる口をこらえる。
カポドリオがポケットから手を出し、両腕を広げる。そして胸の前で両手の指先だけ合わせ、にぃっと笑った。
「いいぜ、成果を楽しみにしてる」
――勝った!
そう思っていた。この時は。
いや、実際に僕は勝った。学園長を脅し、モストロラウンジを年明けには開店させ、売上も好調。他の寮長候補は副寮長の他にまだ二名ほどいたが、成績の優秀さのみで競うには候補の二年生同士で優劣を食い合うことになる。部活動では他の寮生も比較対象に含まれてしまう、寮長として指名されるほどの成果を上げるのはさらに難しくなる。
目下ライバルになりえるのは、寮長を支えてきたという唯一無二の実績がある副寮長だけだ。
だがそれも問題じゃない。モストロラウンジという成果だけでなく、リヴィ・カポドリオ本人の利益となる契約も上手く動いていた。
モストロラウンジの肉類の仕入れ先のほとんどを彼の会社と契約した。
大きな国の海岸沿いには昔から海獣系獣人がよく住まう。シャチにイルカ、セイウチ、そしてマッコウクジラ。彼らは人魚の世界も陸の人間の世界も両方を行き来し、家族という一族ごとの群れで行動し、結束力が強かった。そして世間知らずな人魚にはない陸の知識と、獣人属特有の力の強さ。
戦争が盛んにあった時代、彼らは海の傭兵としてあちこちの国の船で雇われた。
陸に逃げれば追ってこれる人魚などいないし、海に引きずり込めば死なない人間などいないからだ。マッコウクジラの獣人は船すら沈めたという。
その時代の流れを汲み、カポドリオ一族は海運業を席巻する大企業だ。
カポドリオ・グループは分かりやすい一族経営で、枝葉のように分かれた子会社にはそれぞれ血族がCEOに就いている。
だが彼が学生ながら一族の長から任されたのは、片田舎の畜産業。リヴィ・カポドリオは末端の分家だった。業績を上げるために手を広げるのは学生では限度がある。
陸の伝手も実績もない、ただの学生である僕と契約する仕入れ先は少ない。その点、リヴィ・カポドリオの経営する畜産農場との取引はお互い良い契約だった。
そのはずだ。
正直、気味が悪かった。
彼と実際契約を取り交わした時の事だ。
「アズール、お前が寮長になれなかったとして。モストロラウンジを放り投げるとは思ってないよ」
先に差し出した契約書をカポドリオは笑って破り捨てた。
勿論、カポドリオ・ファームとの契約書は別にあった。僕はもう一枚契約書を用意していた。個人的なものを。要約すると、『アズール・アーシェングロットが寮長に指名されるされないに関わらず、モストロラウンジの経営を継続すること』が書いてある。これは僕に不利はないが、彼を安心させるために用意したものだ。
「口約束でいいんですか?」
「口約束じゃない。信頼だ。俺は誰にでもチャンスを与えられるべきだと思ってる」
ビジネスにおいて、信用は過去の実績を元に得られる評価で、客観的な判断だ。一方で、信頼は主観的な、相手への今後への期待を求める。寮長がその言葉を好むのは知っていて、意図的に使用した覚えはある。
「金がない、時間がない、人脈がない、どんなアイデアがあっても人は何か一つ足りないだけで諦め、道を外れ、溺れる。酒だったり、薬だったり、ギャンブルだったりな」
カポドリオはそこで、深く深呼吸するようにため息をついて、ソファに背中をあずけて腹の上で手を組んだ。
「努力できるのは、努力できる環境があるやつだけだ。その環境をちょっとばかし与えてやる。それが慈悲ってもんだろう?」
「本当に慈悲深くていらっしゃる。さすが海の魔女をの慈悲の精神を掲げるオクタヴィネル寮長だ。僕にはまだ、とてもとても……」
よくこれで寮長が勤まってるな。足を掬われずいるにいられるのが不思議なほどだ。
信頼してチャンスを与える? 利益の回収を確実なものにしないやり方は、僕からすればむしろ経営者として信頼に値しない。
だが、リヴィ・カポドリオに寮生たちが憧憬ともいえる恐怖を抱えて、彼への信頼を口にしているのは確かだ。
「もし、……成果を上げられない者がいたらどうするんですか?」
「成果を上げられなかったら?」
きょとん、と死を理解できない少女のような顔で、カポドリオは首を傾げた。
「できなかったら、なんて信頼関係の間には無い。アズール」
〝信頼と成果〟の本当の意味を理解する機会はすぐに訪れた。
寮の談話室は窓から海面の揺らぎが光と共に床を彩る。床一面に張られた紫がかったグレーの絨毯にはその静謐がよく映える。
膝をついて頭を床にこすりつけてもきっと痛みはないだろう。
「……もう一度っ! もう一度だけチャンスを! 慈悲を下さい!」
土下座をする男の、荒い呼吸で上下する寮服の背中に、ゆら、と海面の光が長閑に降り注ぐ。
寮生たちは各々、離れたソファでくつろぐ者、男の背後を囲む者、様々だったが全員が事の成り行きを注視していた。特に僕を含め、一年生は。入学して半年と少し。僕らはまだ、寮長が信頼を裏切られた時、どんな判断を下すのかを見たことがない。
リヴィ・カポドリオはいつも通り、ソファにゆったりと腰かけ、足を組んでいた。右腕は背もたれに肘を掛け、ペンを弄ぶように節張った指先が揺れる。左手にはノートを持ち、組んだ脚を机のようにして、彼は、テスト勉強をしていた。
床に這いつくばる男は、カポドリオのつま先ににじり寄り、今にも額を直接こすり付けんばかりだったが、決してその頭を上げることはなかった。何も応えないカポドリオにより一層、呼吸が荒くなる。海で溺れる人間が必死に水面に向かって顔を突き出すように、床に向かって。
誰もがその温度差を気味悪く思っているのは確かだった。
「俺は貴方の信頼に足る男です!」
カポドリオは大きく両腕を上に突き上げ、ゆっくりと伸びをすると、「ん」と声を漏らし、首筋に手を添えて、コキっと鳴らす。
「そうか」
と、それだけ呟いた。集中から徐々にリラックスしていくように、目を瞑って穏やかな波に揺られるように首を左右にゆったりと揺らした。サラ、と流れるマッシュボブの黒髪から、動きに合わせて耳のピアスが見え隠れする。
「アズール。どうしてやるのがいいと思う?」
急に水を向けられて、ぎゅっと全身の筋肉が強張る。寮生の視線がぎょっと集まった。
どう答えるのが正解なのか、前例がない。
寮長に慈悲を乞う男に視線を向ける。
三年生の、名前はラッセル・リーバー特にこれと言って特出すべき能力が何もない生徒。恐らく、進級後の実習先を探すのも苦労するだろう。そんな彼が信頼によって何を融資されたのかは知らない。
突然動き出した状況に、彼の喉からは息を吸うたびに苦しそうな引きつった声が漏れる。開きっぱなしの口からは、唾液が糸を引き、ぽたぽたと、絨毯に染みを作っていく。過呼吸でも起こしそうだった。
「モストロラウンジの手が足りなくなるって言ってたな」
カポドリオの中で答えは決まっていたのか、黙っていて正解だったようだ。確かにその話はした。三年生がそろそろ進級に向け、ごっそりシフトを抜けるだろう。新学期の九月には新入生が入るが、使い物になるまで新二、三年生で回すしかない。大量にイソギンチャクを他寮から入れる予定も、期末テストが終わるまでの期間が厳しい。
自由に使える駒が欲しいのは事実だった。
「ええ、ですが、」
遠慮し言いよどむようにしてラッセル・リーバーを見下ろす。彼は三年生だ。一番人手が欲しい新学期には学外実習ですでにいない。中途半端な駒だ。
「それもそうだな。いい方法が見つかったら俺も助かる」
それだけだった。何事もなかったかのように、リヴィ・カポドリオは席を立ち、一年の寮生たちは拍子抜けしたように散って行く。
床に這いつくばっていたラッセル・リーバーも、しばらくするとふらりと立ち上がり、じっと、足元を見つめてから談話室から去っていった。
残されたのは、彼が絨毯に作ったシミと、数名の上級生たちだけだ。
「誰か、〝ジョン〟呼んでやったか?」
上級生の一人が、ふっと呼んだ名前がやけに耳に着いた。特に気にかかる名前じゃない、どこにでもいる無難な名前だ。他の上級生が「さっき連絡しといた」とスマホを軽く上げて答えた。
談話室の扉がそっと開き、生徒が一人静かに入ってきた。あまり見かけたことがない。以前寮長に見せてもらった寮生の名簿の中に、この顔があったのは覚えている。
――確か名前は、
「そこだ、〝ジョン〟」
「え?」
ヘンリー・ハドック。三年生だ。ジョンとはかすりもしない。
思わずこぼれた疑問に、上級生が「ああ、」とこちらに気付いた。
「特殊清掃係だよ」
ジョンと呼ばれたヘンリー・ハドックは、そこ、と顎で指された、先ほどまで男が這いつくばっていた場所にまっすぐ歩いていく。そしてしゃがみ込むと、マジカルペンを取り出し、黙々と呪文を唱え絨毯のシミを取る魔法をかけ始める。
「お名前が、確か、ジョンではなかったかと思ったのですが」
「別に、そう呼べ、って言われた事はないよ」
ヘンリー・ハドックに、ではなく、寮長リヴィ・カポドリオに、だろう。
〝ジョン〟は何度も、何度も、魔法をかけ続ける。遠目から見たところ、もうシミは無いように見えた。それでも彼は魔法をかけることをやめない。慎重に、入念に、神経質に、まるでまだそこにシミが広がっているかのように。
「行こうぜ、アズール。食堂が混む前に」
この上級生と食事の約束はしていない。何か強制的に追い立てられている空気を感じて、大人しく後について行く。
ぶつぶつと、唱え続ける声がすれ違いざま耳に入った。
掃除の魔法じゃない。
「成果をみせろ成果をみせろ成果を寮長に成果を成果を成果を……」
――ばたん、と扉が閉まると、どっと冷や汗が出た。
思わず一緒に廊下に出た上級生を見ると、「はあ、」とため息をつき「最近は特別病んでんな」とちょっと困ったように言った。
「あいつは信頼に対して成果を出せなかった。だから得意な実践魔法を活かされて、成果を出せる場を与えてもらってる。ずっとな」
リヴィ・カポドリオの信頼と、それに対する成果の意味を知った。
「いや、ほらやっぱ四年進級前に全部清算しときたいじゃん? 焦ってんだよあいつ。だからああしてちょっとでも成果を出せる機会があると呼んでやろう、って話になってんだよ俺らの間で。できたらアズールも協力してやってくれよ。無理にとは言わないけど。次期寮長候補としての慈悲をさ」
言い切ると彼は学食のデミグラスハンバーグを前に、ナイフとフォークを持った。
「……つまり、成果に終わりはあるんですね」
「そりゃあそうだよ。寮長は慈悲深いし、誠実な男だ。信頼を裏切った相手にもな」
だが、契約書はない。成果とは、つまり誠意だ。見えない契約。借りに対しての返済が成果とするなら、誠意は利子だ。明確にされていない利率に終わりがあるものか。
彼らは結局のところ、リヴィ・カポドリオが納得するまで、という曖昧な脅迫概念に突き動かされている。
「だから〝ジョン・ドゥ〟はみんな頑張れる」
「〝ジョン・ドゥ〟?」
「死体のこと」
ハンバーグにナイフが入る。じゅわり、と肉汁があふれ出る。
「身元不明遺体に付けられる仮名。誰がそう呼び出したのかはわかんねぇけど」
フォークに刺さったハンバーグを口に運び、彼は味わうように咀嚼し、嚥下する。
「寮長の信頼を裏切った奴らはさ、死んだのと同じことだよ。実際」
またハンバーグにナイフをあて、しかし一度ぴたりととまる。
「願掛けなんだよ」
じぃ、っとナイフの先を当てられたハンバーグを見つめる目は瞬きもしない。
そしてゆっくりと顔を上げる。
「本物の〝ジョン・ドゥ〟にはなりたくないだろ?」
成果を出せなかった男。ラッセル・リーバー。
あの後、彼は積極的にモストロラウンジへのシフトを入れる事を希望した。元々は小銭稼ぎ程度に来る程度だった。それが、誰よりも早く来て、誰よりも働き、誰よりも掃除を隅々まで行い最後に返った。
そして彼は留年した。
僕が寮長になった今も、モストロラウンジで働いている。ずっと。献身的に。誠実に。
彼もまた、三年生の間ではジョン、と呼ばれている。